「芽衣姉さんにはお付き合い。もしくはかなり親しい関係にある男性がいたようです。その男性が、姉さんが身を投げた理由に大きく関わっているのではと私は考えています」
「何者だ?」
「残念ながら日記上では存在が示唆されながらも、個人の特定に至る情報はありませんでした。その頃から芽衣姉さんの日記は不定期かつ、支離滅裂な内容も目立つようになっていました……姉さんが飛び降りた時期にも近いですし、色々と思い悩んでいたのでしょうね。それこそが、私が芽衣姉さんの死に異性の存在が関わっていると考えている理由でもあります」
「日記を見せてもらうことは?」
「藍沢先輩とはいえ、直接見せるのは流石に。要約して伝えてはいますが、筆圧の乱れた芽衣姉さんの日記はショッキングでもありますし」
「そうだな……それは橘先輩も望むところではないだろう」

 この件については俊平は素直に引き下がった。仮に許されたとしても、俊平の側も直視する勇気が持てなかったかもしれない。

「その異性とやらの正体さえ分かればな」
「実は独自の調査で疑わしき人物が一人、この学校の男子生徒の中に見つかりました」
「うちの生徒なのか?」
「はい。その男子生徒は三年生の藤枝燿一。芽衣姉さんとは当時の同級生で、中学も同じだったようです」
「……藤枝さんが?」

 昔からよく知る身近な名前の登場に、俊平は動揺を隠せなかった。まったく見ず知らずの名前なら、もっと冷静でいられたはずなのに。

「お知り合いですか?」
「良く知ってる先輩だ。中学時代は一緒に生徒会をやってた」
「私の調べでは、藤枝燿一には女性関係の悪評が多いです。いわゆる遊び人という奴ですね」
「信じられないな、藤枝さんに限って――」

 言いきろうとする俊平を、繭加が人差し指を立てて制した。

「断言出来るんですか? 藍沢先輩は、藤枝燿一の全てを知っているんですか?」

 繭加の言葉に俊平の心は揺らいだ。藤枝燿一が俊平にとっては親しみやすい良き先輩であることは事実だが、それはあくまでも俊平の主観でしかない。学年が違い、一昨年に関しては、それぞれ中学三年と高校一年だったため、在籍する学校さえも違っていた。共有していた時間など一部に過ぎない。

「よく思い出してください。藤枝に対して何か違和感を覚えたことはありませんか?」

 繭加はこれまでに収集、検証した、藤枝燿一に関する情報に自信を持っている様子だ。彼女の真意は俊平に藤枝に関する疑念を思い起こさせ、自身の持つ人物像に齟齬があると自覚させることにある。

「一つ気になっていたことがある」
「よろしければ、お聞かせください」

 親しい人物への疑念を口にすることを、繭加は可憐な笑顔で俊平に求めた。その笑顔は天使のようにも、狡賢い小悪魔のようにも見える。

「藤枝さんは優しくてユーモアがあって、人望も厚い人だった。それは間違いないが……」

 そこで俊平は言葉に詰まる。この一言を自らが発することは、藤枝に疑いを持つことに等しい。

「……去年、俺が高校に入学してからのことだ。中学時代は男女を問わずに慕われていた藤枝さんの周囲からの評判が、高校では少し違っているような印象を受けた。男子からは相変わらず慕われていたが、一部の女子は藤枝さんに良い感情を抱いてはいなかった。藤枝さんはモテるから、ただの当てつけだと思っていたけど……もしかしたら、御影の言うようなことがあったのかも……しれない」

 疑問形で終わらせることが、せめてもの抵抗だった。口には出さなかったが、昨年たまたま学校外で、女子生徒が藤枝に詰め寄っている場面を遠目に目撃したこともあった。仲の良い先輩というフィルターがかかり、当時は詰め寄る女子生徒側に非があるのではと漠然と考えていたが、客観的に考えればその場面だけを見て、どちら側に非があるのかなど判断することは出来ない。

「私の入手した情報とも合致します。藤枝が複数の女子生徒との間にトラブルを抱えていたことは間違いないでしょう」
「今になって思えば確かに引っ掛かりは覚えるが、当時の俺を含め、親しい人間は誰も藤枝さんを怪しまなかったぞ?」
「気づかれないからこそのダークサイドですよ。普段からあからさまに心の闇を垂れ流していたらただのヤバイ奴です。周囲から浮いていますよ」
「それは確かに」

 面識はないとはいえ、たった今、普段の白木真菜と彼女のダークサイドとのギャップに驚かされたばかりだ。人間は状況に応じてペルソナを使い分ける。

「藤枝の女癖の悪さは私の調査で確定しています。二年前、藤枝と親しい関係にあった芽衣姉さんが心に傷を負い、精神的に追い詰められた可能性も十分考えられます。芽衣姉さんは、純粋な人でしたから」
「気持ちを裏切られての悲観か……」
「気になる点が?」
「いや。何でもない」

 俊平の言動に多少の引っ掛かりを覚えながらも、繭加は詮索はせずに話を続けた。

「藤枝が芽衣姉さんの死に関わっている線は私の中では濃厚ですが、残念ながら決定的な証拠はありません。私はまだ入学して間もないですし、調査をするにも限界があります。そこで一つ、藍沢先輩に提案があるのですが?」
「内容によるが」
「私の調査に協力してください。芽衣姉さんの死の真相を、一緒に明らかにしましょう」

 繭加は俊平に合意の握手を求めたが、俊平はそれには応じず、代わりにある疑問を投げかける。

「どうして俺なんだ?」

 俊平は二年生であり顔も広いため、繭加の求める協力者の条件には確かに当てはまるかもしれない。しかし俊平はどちらかといえば繭加のやり方に懐疑的であり、藤枝燿一とも親しい間柄にある。それだけで協力者の条件としては大きなマイナスだ。にも関わらず協力を求める繭加の真意を、俊平は計りかねていた。

「藍沢先輩は芽衣姉さんの命日に、姉さんの最期の場所を訪れてくれました。理由はそれだけで十分です」
「俺を信じてくれるのは嬉しいが、それは感情論じゃないのか?」
「感情論で十分です。私にとって重要なのは、藍沢先輩と一緒に芽衣姉さんの事件を調査することです」
「もしも俺が、藤枝さんに肩入れするようなことになってもか?」
「恨んだりはしません。その時はその時です」

 冗談めかしているようでも、俊平を試している様子もない。この瞬間の繭加はただただ純粋だった。

「分かった。協力する」

 繭加の言葉に心を動かされたのは事実だが、何よりも自分自身の目で真実を確かめたいという気持ちが強かった。もし本当に、藤枝に繭加の言うような一面があるのなら放ってはおけないし、全てが繭加の思い過ごしであるのなら、藤枝に対する誤解を解かねばならない。

「共同戦線成立ですね」
「一時的だがな」
「それで十分です」

 繭加は再び握手を求め、今度は俊平もそれに応じた。

「しかし協力とはいうが、俺はいったい何をすればいいんだ?」
「大丈夫です。藍沢先輩は自分なりのやり方で、情報を集めてください」
「いやいや。答えになってないって」
「大丈夫です。私は藍沢先輩の情報収集能力の高さを信頼しています」
「いや、俺らまだ会って二日目だから。無条件に能力を信頼される程の付き合いじゃないから」

 必死に訴えかける俊平だが願いは届かず、問答無用で会話が続けられる。

「藍沢先輩、明日も部室に来られますか?」
「それは別に構わないが」
「放課後に作戦会議をしましょう。闇雲に動くよりは効率がいいはずです」
「確かに。何事も指針は必要か」
「それでは具体的なお話はまた明日にして、今日の活動はお開きにしましょう」
「賛成だ。色々なことが起こり過ぎて、俺も一度頭を整理したい」
「私は用事があるのでもうしばらく学校に残りますが、藍沢先輩はこの後は?」
「真っ直ぐ家に帰るよ。サブスクで見たい映画があるんだ」
「セクシーな内容ですか?」
「そうだと答えたらどうするんだ?」
「赤面して可愛らしい悲鳴を上げます」
「はーい。お疲れ」

 相手にせずに横を通り抜ける。俊平もだんだんと繭加のあしらい方に慣れてきた。

「ちなみに、海外のサスペンス映画だ」

 念のためにジャンルを告げて、俊平は文芸探求部の部室を後にした。

 ※※※

「俊平。今帰りかい?」
「藤枝さん」

 下駄箱で靴を履き替えている俊平に、渦中の人物が声を掛けてきた。普段なら元気良く返事をする俊平だが、流石に今は気まずさを感じていた。

「どうかした? 何だか顔色が悪いけど」
「逆光のせいですよ。俺はすこぶる元気です」

 明るい口調でおどけて、平常運転の藍沢俊平を装う。藤枝も自分の気のせいだと思ったのか、それ以上は追及してこなかった。

「この時間まで残っているのは珍しいね」
「ちょっと友達と話し込んじゃって」

 まさか、「二年前の橘芽衣の自殺にあなたが関わっているかもしれないと、彼女の従妹から聞かされていました」などと言うわけにはいかない。口ごもらず、意外にもスラスラと嘘が口をついた。

「藤枝さんこそ珍しいですね。この時間まで残ってるの」

 藤枝は受験生ということもあり、三年生になってからは受験勉強に専念している。塾通いで放課後はすぐ学校を出てしまうため、日が落ちかけている時間帯に校舎で会うのは珍しい。

「ちょっと進路のことで先生とお話があってね。今のままの成績を維持できれば、国立も十分狙えそうだ」
「凄いじゃないですか」
「勉強には力を入れてきたからね。頑張った甲斐があったよ」

 胸の前で拳を握る藤枝は心底嬉しそうだ。誰かに言いたくてたまらなかったに違いない。

「藤枝さん一つ聞いて良いですか?」

 俊平はその場の思いつきで、ある話題を切り出す。それは純粋な好奇心であると同時に核心をつく言葉でもあった。

「藤枝さんには、人には言えない秘密はありますか?」
「藪から棒だね。何かあったのかい?」

 質問に対する藤枝の反応を確かめたかったのだが、目立った動揺は見られない。唐突な質問に疑問を抱くのは自然な反応だ。これだけでは揺さぶりとして不十分かもしれない。

「大した意味は無いんですけど、ゴールデンウイーク中に秘密をテーマにした映画を見たのが印象に残ってて。藤枝さんみたいな立派な人にも何か秘密ってあるのかなって」
「秘密か。突然そんなことを言われてもな」
「何でもいいんですよ? 例えば実は昔誰かと付き合ってましたとか」
「……この場で話せるような、面白い話題は無いかな」

 これまで嫌な顔を一つせずに会話に合わせてくれていた藤枝が、この問いかけに対してだけは一瞬言葉に詰まった。その瞬間を俊平は見逃さない。

「そうですよね。突然すみません。変なことを聞いちゃって」

 俊平は苦笑交じりに頭を下げた。内心動揺してはいたが、それを表に出すことはない。
藤枝に対す俊平の認識の中に、疑念の二文字が浮かび上がっていた。少なくとも、藤枝が何か秘密を持っていることは確信した。

「それじゃあ藤枝さん、俺はこの辺で」

 これ以上平静を装っていられる自信はなかったので、俊平は手早く靴を履き替えた。

「ああ、お疲れ様」

藤枝は笑顔で手を振って俊平を見送る。俊平は軽く会釈をして、生徒玄関の扉に手を掛けた。

「待って。俊平」
「何ですか?」

 扉を押し開ける寸前で呼び止められて、俊平は動きを止めた。

「君にも何か秘密はあるのかい?」
「ありますよ。人間ですから」

 決して表情は見せまいと一度も振り返らず、俊平は校舎を後にした。