俊平は生徒玄関から一度外に出て、校舎の裏手へとやって来た。
昼休みに校庭でスポーツをしたり、中庭やテラスで昼食を摂る生徒は多いが、この辺りには生徒の気配がまるで無い。ベンチも設置してあり、二年前まではこの周辺で食事をしたり、キャッチボールをする生徒もいたというが、橘芽衣の転落死を境に、この場所を利用する生徒はほとんどいなくなってしまった。死亡者の出た場所だ。そこを避けるのは心理としては当然だろう。二年が経った今でも暗黙の了解のようなものがあり、詳しい事情を知らない在校生や新入生でも、この場所を使う者はほとんどいない。
「半年振りか」
俊平の手には、販売機で買ってきた紙パックのヨーグルト飲料が握られている。お供え物くらいはあってもいいかなと考えて急遽用意したものだ。流石に学校の敷地内に置いたまま帰るわけにはいかないので、最後は自分で飲み切ってしまうつもりだ。
そのまま進むと校舎を囲むフェンスが見えてきた。その少し手前が橘芽衣が発見された場所だが。
「えっ!」
俊平の目に、思いもよらぬ光景が飛び込んできた。橘芽衣が発見された場所に、一人の小柄な少女が目を閉じて横たわっていたのだ。制服を見る限り、同じ高校の生徒であることは間違いない。
「おいおい。どういう状況だよ」
二年前に女子生徒が死亡した現場を訪れたら、当時の再現のように生身の人間が横たわっていた。驚かないほうがどうかしている。
「大丈夫か?」
俊平は少女に駆け寄り声をかける。内心で大いに混乱中だが、優先するべきは目の前の少女の安否だ。一見すると目立った外傷は無いようだが、場所が場所だけに不安を感じずにはいられない。
「そんなに焦らなくても大丈夫ですよ。私は健康そのものです。虫歯一つありません」
少女は横たわったまま目を開け、抑揚の無い声でそう告げた。ちょうど少女の顔を覗きこむ形で声をかけていたため、二人の目と目がしっかりと合う。俊平は少女の顔から、直ぐには目を逸らすことが出来なかった。少女はとても美しい容姿をしていた。セミロングの美しい黒髪と陶器のように色白な肌。全てを見透かすかのような深い瞳。見るものの視線を強烈に惹き付ける存在感を持っている。
「そんなに見つめられると、流石に戸惑います」
「ごめん。動揺してて」
俊平は飛び退くように少女から顔を離した。体感的には、身惚れていたのはほんの数秒のつもりだったが、ひょっとしたらそれ以上の時間が経っていたのかもしれない。少女をと窓らせるには十分な時間だ。
少女はその場で上体を起こし、そのまま膝を折って座り込む。地面はアスファルトなので固そうだが、少女は気に留めている様子は無い。
「それで、あなたは誰なんですか?」
少女から質問が飛び出す。歓迎するでも警戒するでもなく、淡々と事実確認をしていた。
「それはこっちの台詞だって言いたいとこだけど、君が先客みたいだし、この場合は俺から名乗るのが筋なのかな」
少女は無言で頷く。名乗る順番は確定のようだ。
「二年の藍沢俊平だ」
「つまらないです。趣味とか女性の好みとか、もっと個人的なプロフィールも交えてください」
「自己紹介でつまらないと言われたのは初めてだよ」
思わぬ注文を突き付けられて俊平は困惑する。初対面の挨拶なんて、普通は名前や所属程度の簡単なものではないのだろうか? 面接やお見合いじゃあるまいし、そこまでの情報量を求められるというのは完全に想定外だ。
「なら聞きたいことを教えてくれ。俺はそれに可能な限り答えるから」
「ではお言葉に甘えて、現在お付き合いしている女性はいますか?」
「それが初対面の人間への質問か? 別に隠すことでもないから言うけど、今現在、付き合ってる子はいないよ」
「そうですか」
自分から質問をしてきたというのに、少女の反応は淡泊だ。質問を聞いた瞬間はナンパされているのかとも疑ったが、この反応を見る限りそれは己惚れだったようだ。
「食べ物の好き嫌いは?」
「一転して今度はベタな質問だな。それくらいの方が答えるほうとしては気楽だけどさ。好きな食べ物は魚料理全般、特に鮭。飲み物ならお茶が好きかな。苦手な食べ物は少ないけど、乳製品はあまり得意じゃない。俺の好き嫌いはこんなところからな」
「なるほど」
少女の反応は先程とあまり変わらない。そもそも質問の答えに興味を持っているのかさえも怪しいレベルだ。
「俺への質問もいいけど、そろそろそっちも名乗ってくれないか? 君は俺の名前も、恋人の有無も、食べ物の好き嫌いの情報も得たわけだけど、俺からしたら君はまだ謎の女子生徒Xのままだ」
俊平は少女の隣に腰を下ろした。相手の名前すら分からない状況というのは正直やりづらい。最低限の自己紹介は終えたのだし、そろそろターンが回ってきてもいいだろう。昼休みだって無限ではない。
「私の名前は御影繭加。先月入学した一年生です」
御影繭加の顔に俊平は見覚えがなかったが、彼女が一年生だというのならそれも納得だ。
俊平の顔は広い。そんな彼に見覚えの無い生徒ということは転校生か、もしくは入学間もない新入生ということになる。今回は後者だったようだ。
「何も質問してこないんですか?」
少しの沈黙の後、繭加が小首を傾げた。
「初対面の相手にいきなり質問なんて思いつかないよ。強いて言うなら、君を何と呼べばいい?」
自己紹介を終えたとはいえ、呼び方をどうするかはまた別問題だ。名字だったり名前だったり、あだ名だったりと、呼び方にも色々ある。
「好きな呼び方で構いませんよ。御影でも繭加でも、御影様でも繭ちゃんでも」
「後半の選択肢は置いておくとして、それじゃあ御影と呼ばせてもらうぞ。初対面で名前呼びは流石に図々しいしと思うし、あだ名をつける程の付き合いでもないしな」
「シンプルですね。承知しました」
本人も同意したところで、ひとまず繭加の呼び名が決定した。
「俺のことも、好きに呼んでくれて構わない」
周囲の俊平に対する呼び名は様々だ。名前や名字、あだ名に至るまでバリエーションは豊富だ。その経験上、余程おかしなネーミングでない限りは、その呼び名を受け入れるつもりだったのだが。
「では、お兄ちゃんとお呼びしても?」
「……斜め上を行くのがきちゃったよ」
オリジナリティのあるあだ名ぐらいまでは覚悟していたが、流石にお兄ちゃんと呼ばれる可能性までは考慮していなかった。ちなみに俊平は一人っ子のため、そう呼ばれる機会は日常ではまず無い。
「冗談だとは思うけど、流石にお兄ちゃんはないだろ?」
「だったら、お兄様にしておきます」
「言い方の問題じゃないって」
「では、兄上?」
「古風にすれば良いってもんでもないって。確かに俺の方が年上だけど、親戚でもない初対面の人間をいきなり兄呼びはおかしいだろう」
「軽いジョークです。何を真に受けているんですか?」
「気づいてたよ! 最初から!」
「距離を縮めるための軽快なトークです」
「自分で軽快なトークと言った時点で台無しだよ。むしろ警戒するって」
怒涛のツッコミラッシュに俊平は息を切らす。まだ五月上旬だが、去年一年分に相当する量のツッコミを入れたような気分だ。
「藍沢先輩と呼ばせていただきますね」
「だったら最初からそうしてくれ。リアクションするのも結構疲れる」
俊平は溜息交じりに肩を竦めた。口では文句を言いながらも、毎回律儀にリアクションをする俊平も大概である。何はともあれお互いの呼び方は決定した。
「御影。大事なことを聞くぞ
「何でしょうか?」
俊平はこの場所を訪れた時から抱いていた疑問を口にした。
「俺が来た時、お前は地面に寝そべってたよな。どうしてそんなことをしていた?」
「ここが、橘芽衣の最期の場所だからです」
「知っていてあんなことを?
俊平は鋭い眼光で繭加を見据える。作馬との一件を経て少しだけ冷静になれているが、それでも内に感じる不快感を隠しきれない。事情を知ったうえで橘芽衣が亡くなった場所で横たわるなんて真似をしていたのなら、不謹慎を通り越して悪趣味だ。繭加の返答如何によっては、俊平の彼女に対する認識は大きく変わることになる。
「常識的に考えれば、不謹慎極まりない行為ですよね。だけど私はそれが許される数少ない人間だと自負しています」
「どういう意味だ?」
繭加の表情は真剣そのものだ。己を正当化したり、まして茶化してるようには見えない。
「私は橘芽衣の従姉妹です」
「何だって……」
繭加から告げられた衝撃的な事実に、俊平は思わず息をのんだ。
「びっくりしましたか?」
驚きを隠せず瞬きの回数が増えている俊平の顔を観察するように、繭加がジッと見つめてくる。黒目がちな瞳に搦め取られそうで、俊平はたまらず目を逸らした。
「……かなり驚いた。正直、まだ動揺してる」
「これで、私の行為は許していただけますか?」
「確かに身内だというのなら、よっぽどのことでもないと不謹慎とまでは言えないな。それにしても地面に寝そべったりして、一体何をしていたんだ?」
許容することと理解することはまた別問題だ。従姉の命日にその死亡現場を訪れたところまでは理解できるが、あの行為の意味するところは何なのか? 俊平の中に疑問は残る。
「芽衣姉さんを知りたいからです」
「知るとは?」
「芽衣姉さんの最期の場所を、最期に見た景色を、自分の体で感じてみたかったんです。ある種の疑似体験と言ったところでしょうか」
繭加は太陽光に目を細めながら屋上へと視線を挙げる。橘芽衣が身を投げた屋上が、この場所からどう見えるのかを確かめるように。
「分かるなんて安易に言ってはいけないと思うけど……俺にもその気持ちは少し分かる木がする」
俊平は繭加に対する警戒心を解きつつあった。死者の言葉を聞くことは誰にも出来ない。墓石に問い掛けても答えは返ってこないし、生前の時間に戻る術も現代には存在しない。だったらせめて、大切な人が最期の瞬間を迎えた場所の雰囲気を感じ取りたい。そういった感情は俊平にも理解出来た。
「この場所はどうだった?」
何とも曖昧な質問であることは自覚しながらも、俊平は繭加に問い掛ける。身内として橘芽衣をよく知る繭加は、彼女の最期の場所をどう感じとったのだろう。
「ここの地面は固いです」
「そうだな……」
俯き、アスファルトの地面を右手でなぞった繭加を見て、俊平は静かに頷いた。橘芽衣は四階建ての校舎の屋上から身を投げ、アスファルトの地面に叩きつけられた。今でこそ当時の痕跡は残されていないが、二年前この場所には、彼女の体から溢れだした鮮血が赤い絨毯のように広がっていた。例え死に場所が柔らかいベッドの上だったとしても、死という現実が残酷であることに変わりはない。それでもアスファルトの地面は、最期の場所としてはあまりにも固く、冷たすぎる。
「藍沢先輩は芽衣姉さんと親しかったんですか? これまでの口振りから察するに、少なくても無関係ではないですよね。この場所を訪れる生徒も珍しいですし」
「俺は橘先輩と同じ中学の出身だ。学年は違ったけど、俺も先輩と同じで生徒会だったから、顔を合わせる機会は多かったよ」
「芽衣姉さんも喜んでいると思います。命日の今日は、授業以外のほとんどの時間をこの場所で過ごしていましたが、私以外にこの場所を訪れたのは藍沢先輩だけでした」
「……ただの思いつきだよ。来年も来るかは分からない」
「でも、お供えまで持ってきてくれてるじゃないですか」
俊平の手に握られているヨーグルト飲料の存在を、繭加は見逃さなかった。
「それこそ思いつきだよ。お供えした後に自分で飲もうかと思ってな」
直前の作馬や藤枝とのやり取りには触れず、曖昧に話を流す。わざわざ説明するほどのことではないだろう。
「芽衣姉さんの死は、悲しかったですか?」
あまりにもストレートな質問が繭加から発せられ、俊平は思わず面くらってしまう。
「……悲しくて、最初は現実味がなかった。俺だけじゃない。彼女を知る人はみんなそうだったと思う
「芽衣姉さんは、人気者だったんですね」
「大丈夫か? 御影」
言葉とは裏腹に繭加の表情は優れない。生前の橘芽衣の姿を思い出し、感情が刺激されていてもおかしくはない。
「藍沢先輩。芽衣姉さんが何故自ら命を絶ったのか、その理由を御存じですか?」
「……噂では、自殺するような理由は見当たらなかったって聞いてるけど」
一度言い淀み、俊平の声は小さくなる。橘芽衣について語る以上、この話題に行きつくことは必然だが、覚悟していても気の重さは誤魔化せない。
「それはあくまでも表面上の話です。芽衣姉さんは確かに悩んでいました。それを知る人間は少ないですが」
「御影は何か知っているのか?」
橘芽衣は確かに悩んでいた。その言葉に俊平は強く引き寄せられた。親族である繭加なら、信憑性の高い情報を持っている可能性がある。
「芽衣姉さんとはよく連絡を取り合ってはいましたが、いつも明るく振る舞っていたので、悩み事を相談されたことはありません。ですが、芽衣姉さんの葬儀の後、姉さんの部屋で、ある物を見つけたんです」
「何を見つけたんだ?」
「芽衣姉さんのつけていた日記帳です」
「日記帳か。人に見せるような物ではないし、本音が書き連ねてあってもおかしくはないな」
日記帳というのはある意味で究極のプライベートスペースだ。余程のことでもない限り、他人の目に触れる機会などない。だからこそ内容に遠慮はいらないし、普段の自身のキャラクターや建前を気にする必要も無い。自分を映し出す鏡と言い換えることも出来るだろう。
「内容を知りたいですか?」
繭加は立ち上がり、俊平を見下ろす形で正面に立つ。俊平からは逆光のため繭加の表情をはっきりと捉えることは出来なかったが、口角が僅かに上がっていることだけは分かった。真意は不明だが、繭加は間違いなく笑みを浮かべている。
「この流れで知りたくないと言う奴はいないだろ」
繭加の表情に多少の疑念を抱きながらも、俊平は表情を変えずにそう言ってのけた。
「残念ですが時間切れです。今日はここまでにしましょう」
「はい?」
呆気に取られた俊平は、思わず頓狂な声を上げる。
「もうすぐ昼休みが終わります。私のクラスは次の時間は移動教室なので、そろそろ行かないと遅刻してしまいます」
「待ってくれ。ここまできてそれはないだろう」
この場を立ち去ろうと背を向けた繭加を俊平は慌てて呼び止める。意味深な流れのオチがこれでは、気になって夜も眠れない。
「安心してください。また近いうちに会えますから。私、藍沢先輩のことが気に入りました」
これまでのイメージを翻すかのような、屈託のない笑みで繭加は言う。これまで表情の変化に乏しかった分、ギャップが眩しい。
「……分かったよ。先輩が後輩を授業に遅刻させるわけにはいかないしな」
もしも繭加が笑顔を見せなかったら、もう少し食い下がっていたかもしれない。目の前の笑顔の女の子を困らせたくない。咄嗟にそう思ってしまうくらいには、繭加の笑顔は魅力的だった。
「それでは私はこれで。藍沢先輩こそ遅刻したら駄目ですよ」
「分かってるよ。大丈夫、これでも優等生代表だ」
一礼をして去っていく繭加に手を振り、俊平はその背中を見送った。
繭加が校舎の角を曲がって姿が完全に見えなくなると、俊平はスマホで時間を確認した。昼休みが終わるまで、まだ少しだけ時間がある。
「まだ大丈夫だな」
俊平はこの場所にやってきた本来の目的を果たすことにした。橘芽衣が発見された場所に、持参してきたヨーグルト飲料を置くと、その場で合掌して静かに目を閉じる。繭加と出会い予定よりも遅れてしまったが、本来の目的は橘芽衣の命日に彼女を悼むことだ。
「……俺もそろそろ戻ろう」
数秒間の祈りの後、俊平は静かに合掌を解き、目を開けた。供えたヨーグルト飲料を手に取り付属のストローを穴に通す。口に運ぶ直前に一瞬だけ考え込むように硬直すると、そのまま勢い良く中身を流し込んだ。
ヨーグルトの酸味に顔を顰めながらも全て飲み干し、空になった紙パックを握り潰す。近くにゴミ箱は無いので、教室に戻る途中でゴミ箱に捨ててこないといけない。
「また来ます」
記憶の中の橘芽衣にそう告げると、俊平は校舎裏を後にした。
昼休みに校庭でスポーツをしたり、中庭やテラスで昼食を摂る生徒は多いが、この辺りには生徒の気配がまるで無い。ベンチも設置してあり、二年前まではこの周辺で食事をしたり、キャッチボールをする生徒もいたというが、橘芽衣の転落死を境に、この場所を利用する生徒はほとんどいなくなってしまった。死亡者の出た場所だ。そこを避けるのは心理としては当然だろう。二年が経った今でも暗黙の了解のようなものがあり、詳しい事情を知らない在校生や新入生でも、この場所を使う者はほとんどいない。
「半年振りか」
俊平の手には、販売機で買ってきた紙パックのヨーグルト飲料が握られている。お供え物くらいはあってもいいかなと考えて急遽用意したものだ。流石に学校の敷地内に置いたまま帰るわけにはいかないので、最後は自分で飲み切ってしまうつもりだ。
そのまま進むと校舎を囲むフェンスが見えてきた。その少し手前が橘芽衣が発見された場所だが。
「えっ!」
俊平の目に、思いもよらぬ光景が飛び込んできた。橘芽衣が発見された場所に、一人の小柄な少女が目を閉じて横たわっていたのだ。制服を見る限り、同じ高校の生徒であることは間違いない。
「おいおい。どういう状況だよ」
二年前に女子生徒が死亡した現場を訪れたら、当時の再現のように生身の人間が横たわっていた。驚かないほうがどうかしている。
「大丈夫か?」
俊平は少女に駆け寄り声をかける。内心で大いに混乱中だが、優先するべきは目の前の少女の安否だ。一見すると目立った外傷は無いようだが、場所が場所だけに不安を感じずにはいられない。
「そんなに焦らなくても大丈夫ですよ。私は健康そのものです。虫歯一つありません」
少女は横たわったまま目を開け、抑揚の無い声でそう告げた。ちょうど少女の顔を覗きこむ形で声をかけていたため、二人の目と目がしっかりと合う。俊平は少女の顔から、直ぐには目を逸らすことが出来なかった。少女はとても美しい容姿をしていた。セミロングの美しい黒髪と陶器のように色白な肌。全てを見透かすかのような深い瞳。見るものの視線を強烈に惹き付ける存在感を持っている。
「そんなに見つめられると、流石に戸惑います」
「ごめん。動揺してて」
俊平は飛び退くように少女から顔を離した。体感的には、身惚れていたのはほんの数秒のつもりだったが、ひょっとしたらそれ以上の時間が経っていたのかもしれない。少女をと窓らせるには十分な時間だ。
少女はその場で上体を起こし、そのまま膝を折って座り込む。地面はアスファルトなので固そうだが、少女は気に留めている様子は無い。
「それで、あなたは誰なんですか?」
少女から質問が飛び出す。歓迎するでも警戒するでもなく、淡々と事実確認をしていた。
「それはこっちの台詞だって言いたいとこだけど、君が先客みたいだし、この場合は俺から名乗るのが筋なのかな」
少女は無言で頷く。名乗る順番は確定のようだ。
「二年の藍沢俊平だ」
「つまらないです。趣味とか女性の好みとか、もっと個人的なプロフィールも交えてください」
「自己紹介でつまらないと言われたのは初めてだよ」
思わぬ注文を突き付けられて俊平は困惑する。初対面の挨拶なんて、普通は名前や所属程度の簡単なものではないのだろうか? 面接やお見合いじゃあるまいし、そこまでの情報量を求められるというのは完全に想定外だ。
「なら聞きたいことを教えてくれ。俺はそれに可能な限り答えるから」
「ではお言葉に甘えて、現在お付き合いしている女性はいますか?」
「それが初対面の人間への質問か? 別に隠すことでもないから言うけど、今現在、付き合ってる子はいないよ」
「そうですか」
自分から質問をしてきたというのに、少女の反応は淡泊だ。質問を聞いた瞬間はナンパされているのかとも疑ったが、この反応を見る限りそれは己惚れだったようだ。
「食べ物の好き嫌いは?」
「一転して今度はベタな質問だな。それくらいの方が答えるほうとしては気楽だけどさ。好きな食べ物は魚料理全般、特に鮭。飲み物ならお茶が好きかな。苦手な食べ物は少ないけど、乳製品はあまり得意じゃない。俺の好き嫌いはこんなところからな」
「なるほど」
少女の反応は先程とあまり変わらない。そもそも質問の答えに興味を持っているのかさえも怪しいレベルだ。
「俺への質問もいいけど、そろそろそっちも名乗ってくれないか? 君は俺の名前も、恋人の有無も、食べ物の好き嫌いの情報も得たわけだけど、俺からしたら君はまだ謎の女子生徒Xのままだ」
俊平は少女の隣に腰を下ろした。相手の名前すら分からない状況というのは正直やりづらい。最低限の自己紹介は終えたのだし、そろそろターンが回ってきてもいいだろう。昼休みだって無限ではない。
「私の名前は御影繭加。先月入学した一年生です」
御影繭加の顔に俊平は見覚えがなかったが、彼女が一年生だというのならそれも納得だ。
俊平の顔は広い。そんな彼に見覚えの無い生徒ということは転校生か、もしくは入学間もない新入生ということになる。今回は後者だったようだ。
「何も質問してこないんですか?」
少しの沈黙の後、繭加が小首を傾げた。
「初対面の相手にいきなり質問なんて思いつかないよ。強いて言うなら、君を何と呼べばいい?」
自己紹介を終えたとはいえ、呼び方をどうするかはまた別問題だ。名字だったり名前だったり、あだ名だったりと、呼び方にも色々ある。
「好きな呼び方で構いませんよ。御影でも繭加でも、御影様でも繭ちゃんでも」
「後半の選択肢は置いておくとして、それじゃあ御影と呼ばせてもらうぞ。初対面で名前呼びは流石に図々しいしと思うし、あだ名をつける程の付き合いでもないしな」
「シンプルですね。承知しました」
本人も同意したところで、ひとまず繭加の呼び名が決定した。
「俺のことも、好きに呼んでくれて構わない」
周囲の俊平に対する呼び名は様々だ。名前や名字、あだ名に至るまでバリエーションは豊富だ。その経験上、余程おかしなネーミングでない限りは、その呼び名を受け入れるつもりだったのだが。
「では、お兄ちゃんとお呼びしても?」
「……斜め上を行くのがきちゃったよ」
オリジナリティのあるあだ名ぐらいまでは覚悟していたが、流石にお兄ちゃんと呼ばれる可能性までは考慮していなかった。ちなみに俊平は一人っ子のため、そう呼ばれる機会は日常ではまず無い。
「冗談だとは思うけど、流石にお兄ちゃんはないだろ?」
「だったら、お兄様にしておきます」
「言い方の問題じゃないって」
「では、兄上?」
「古風にすれば良いってもんでもないって。確かに俺の方が年上だけど、親戚でもない初対面の人間をいきなり兄呼びはおかしいだろう」
「軽いジョークです。何を真に受けているんですか?」
「気づいてたよ! 最初から!」
「距離を縮めるための軽快なトークです」
「自分で軽快なトークと言った時点で台無しだよ。むしろ警戒するって」
怒涛のツッコミラッシュに俊平は息を切らす。まだ五月上旬だが、去年一年分に相当する量のツッコミを入れたような気分だ。
「藍沢先輩と呼ばせていただきますね」
「だったら最初からそうしてくれ。リアクションするのも結構疲れる」
俊平は溜息交じりに肩を竦めた。口では文句を言いながらも、毎回律儀にリアクションをする俊平も大概である。何はともあれお互いの呼び方は決定した。
「御影。大事なことを聞くぞ
「何でしょうか?」
俊平はこの場所を訪れた時から抱いていた疑問を口にした。
「俺が来た時、お前は地面に寝そべってたよな。どうしてそんなことをしていた?」
「ここが、橘芽衣の最期の場所だからです」
「知っていてあんなことを?
俊平は鋭い眼光で繭加を見据える。作馬との一件を経て少しだけ冷静になれているが、それでも内に感じる不快感を隠しきれない。事情を知ったうえで橘芽衣が亡くなった場所で横たわるなんて真似をしていたのなら、不謹慎を通り越して悪趣味だ。繭加の返答如何によっては、俊平の彼女に対する認識は大きく変わることになる。
「常識的に考えれば、不謹慎極まりない行為ですよね。だけど私はそれが許される数少ない人間だと自負しています」
「どういう意味だ?」
繭加の表情は真剣そのものだ。己を正当化したり、まして茶化してるようには見えない。
「私は橘芽衣の従姉妹です」
「何だって……」
繭加から告げられた衝撃的な事実に、俊平は思わず息をのんだ。
「びっくりしましたか?」
驚きを隠せず瞬きの回数が増えている俊平の顔を観察するように、繭加がジッと見つめてくる。黒目がちな瞳に搦め取られそうで、俊平はたまらず目を逸らした。
「……かなり驚いた。正直、まだ動揺してる」
「これで、私の行為は許していただけますか?」
「確かに身内だというのなら、よっぽどのことでもないと不謹慎とまでは言えないな。それにしても地面に寝そべったりして、一体何をしていたんだ?」
許容することと理解することはまた別問題だ。従姉の命日にその死亡現場を訪れたところまでは理解できるが、あの行為の意味するところは何なのか? 俊平の中に疑問は残る。
「芽衣姉さんを知りたいからです」
「知るとは?」
「芽衣姉さんの最期の場所を、最期に見た景色を、自分の体で感じてみたかったんです。ある種の疑似体験と言ったところでしょうか」
繭加は太陽光に目を細めながら屋上へと視線を挙げる。橘芽衣が身を投げた屋上が、この場所からどう見えるのかを確かめるように。
「分かるなんて安易に言ってはいけないと思うけど……俺にもその気持ちは少し分かる木がする」
俊平は繭加に対する警戒心を解きつつあった。死者の言葉を聞くことは誰にも出来ない。墓石に問い掛けても答えは返ってこないし、生前の時間に戻る術も現代には存在しない。だったらせめて、大切な人が最期の瞬間を迎えた場所の雰囲気を感じ取りたい。そういった感情は俊平にも理解出来た。
「この場所はどうだった?」
何とも曖昧な質問であることは自覚しながらも、俊平は繭加に問い掛ける。身内として橘芽衣をよく知る繭加は、彼女の最期の場所をどう感じとったのだろう。
「ここの地面は固いです」
「そうだな……」
俯き、アスファルトの地面を右手でなぞった繭加を見て、俊平は静かに頷いた。橘芽衣は四階建ての校舎の屋上から身を投げ、アスファルトの地面に叩きつけられた。今でこそ当時の痕跡は残されていないが、二年前この場所には、彼女の体から溢れだした鮮血が赤い絨毯のように広がっていた。例え死に場所が柔らかいベッドの上だったとしても、死という現実が残酷であることに変わりはない。それでもアスファルトの地面は、最期の場所としてはあまりにも固く、冷たすぎる。
「藍沢先輩は芽衣姉さんと親しかったんですか? これまでの口振りから察するに、少なくても無関係ではないですよね。この場所を訪れる生徒も珍しいですし」
「俺は橘先輩と同じ中学の出身だ。学年は違ったけど、俺も先輩と同じで生徒会だったから、顔を合わせる機会は多かったよ」
「芽衣姉さんも喜んでいると思います。命日の今日は、授業以外のほとんどの時間をこの場所で過ごしていましたが、私以外にこの場所を訪れたのは藍沢先輩だけでした」
「……ただの思いつきだよ。来年も来るかは分からない」
「でも、お供えまで持ってきてくれてるじゃないですか」
俊平の手に握られているヨーグルト飲料の存在を、繭加は見逃さなかった。
「それこそ思いつきだよ。お供えした後に自分で飲もうかと思ってな」
直前の作馬や藤枝とのやり取りには触れず、曖昧に話を流す。わざわざ説明するほどのことではないだろう。
「芽衣姉さんの死は、悲しかったですか?」
あまりにもストレートな質問が繭加から発せられ、俊平は思わず面くらってしまう。
「……悲しくて、最初は現実味がなかった。俺だけじゃない。彼女を知る人はみんなそうだったと思う
「芽衣姉さんは、人気者だったんですね」
「大丈夫か? 御影」
言葉とは裏腹に繭加の表情は優れない。生前の橘芽衣の姿を思い出し、感情が刺激されていてもおかしくはない。
「藍沢先輩。芽衣姉さんが何故自ら命を絶ったのか、その理由を御存じですか?」
「……噂では、自殺するような理由は見当たらなかったって聞いてるけど」
一度言い淀み、俊平の声は小さくなる。橘芽衣について語る以上、この話題に行きつくことは必然だが、覚悟していても気の重さは誤魔化せない。
「それはあくまでも表面上の話です。芽衣姉さんは確かに悩んでいました。それを知る人間は少ないですが」
「御影は何か知っているのか?」
橘芽衣は確かに悩んでいた。その言葉に俊平は強く引き寄せられた。親族である繭加なら、信憑性の高い情報を持っている可能性がある。
「芽衣姉さんとはよく連絡を取り合ってはいましたが、いつも明るく振る舞っていたので、悩み事を相談されたことはありません。ですが、芽衣姉さんの葬儀の後、姉さんの部屋で、ある物を見つけたんです」
「何を見つけたんだ?」
「芽衣姉さんのつけていた日記帳です」
「日記帳か。人に見せるような物ではないし、本音が書き連ねてあってもおかしくはないな」
日記帳というのはある意味で究極のプライベートスペースだ。余程のことでもない限り、他人の目に触れる機会などない。だからこそ内容に遠慮はいらないし、普段の自身のキャラクターや建前を気にする必要も無い。自分を映し出す鏡と言い換えることも出来るだろう。
「内容を知りたいですか?」
繭加は立ち上がり、俊平を見下ろす形で正面に立つ。俊平からは逆光のため繭加の表情をはっきりと捉えることは出来なかったが、口角が僅かに上がっていることだけは分かった。真意は不明だが、繭加は間違いなく笑みを浮かべている。
「この流れで知りたくないと言う奴はいないだろ」
繭加の表情に多少の疑念を抱きながらも、俊平は表情を変えずにそう言ってのけた。
「残念ですが時間切れです。今日はここまでにしましょう」
「はい?」
呆気に取られた俊平は、思わず頓狂な声を上げる。
「もうすぐ昼休みが終わります。私のクラスは次の時間は移動教室なので、そろそろ行かないと遅刻してしまいます」
「待ってくれ。ここまできてそれはないだろう」
この場を立ち去ろうと背を向けた繭加を俊平は慌てて呼び止める。意味深な流れのオチがこれでは、気になって夜も眠れない。
「安心してください。また近いうちに会えますから。私、藍沢先輩のことが気に入りました」
これまでのイメージを翻すかのような、屈託のない笑みで繭加は言う。これまで表情の変化に乏しかった分、ギャップが眩しい。
「……分かったよ。先輩が後輩を授業に遅刻させるわけにはいかないしな」
もしも繭加が笑顔を見せなかったら、もう少し食い下がっていたかもしれない。目の前の笑顔の女の子を困らせたくない。咄嗟にそう思ってしまうくらいには、繭加の笑顔は魅力的だった。
「それでは私はこれで。藍沢先輩こそ遅刻したら駄目ですよ」
「分かってるよ。大丈夫、これでも優等生代表だ」
一礼をして去っていく繭加に手を振り、俊平はその背中を見送った。
繭加が校舎の角を曲がって姿が完全に見えなくなると、俊平はスマホで時間を確認した。昼休みが終わるまで、まだ少しだけ時間がある。
「まだ大丈夫だな」
俊平はこの場所にやってきた本来の目的を果たすことにした。橘芽衣が発見された場所に、持参してきたヨーグルト飲料を置くと、その場で合掌して静かに目を閉じる。繭加と出会い予定よりも遅れてしまったが、本来の目的は橘芽衣の命日に彼女を悼むことだ。
「……俺もそろそろ戻ろう」
数秒間の祈りの後、俊平は静かに合掌を解き、目を開けた。供えたヨーグルト飲料を手に取り付属のストローを穴に通す。口に運ぶ直前に一瞬だけ考え込むように硬直すると、そのまま勢い良く中身を流し込んだ。
ヨーグルトの酸味に顔を顰めながらも全て飲み干し、空になった紙パックを握り潰す。近くにゴミ箱は無いので、教室に戻る途中でゴミ箱に捨ててこないといけない。
「また来ます」
記憶の中の橘芽衣にそう告げると、俊平は校舎裏を後にした。