「その声、芽衣さんですか?」

 振り替え休日だったゴールデンウイーク最終日の5月6日の夕方。
 俊平はボウリング場で瑛介と遊んだ帰り道で、瑛介と別れてすぐに芽衣から電話を受けた。どういうわけか発信元は公衆電話からになっており、電話の相手が芽衣だと分かったのは、電話に出て直接声を聞いてからだ。普段は知らない番号からの電話には出ないが、たまたま今回は反射的に電話に出てしまった。今になって思えば、何か直感のようなものが働いていたのかもしれない。
 芽衣とはこれまでに何度もスマホでやり取りをしている。それなのにどうして今回は態々、公衆電話から連絡してきたのだろう? そんな疑問が湧いたが、俊平はすぐさまその理由を問いかけることはしなかった。芽衣とこうして話すのは実に一週間振りだったからだ。もちろん俊平の方から何度か連絡はしていたが、芽衣は一度もそれに応えてくれていなかった。

『……俊平くん。これから会えないかな?』
「もちろん良いですけど、大丈夫ですか? 何だか元気がないですよ」

 公衆電話から連絡してことも不思議だし、電話越しでも分かるぐらいに芽衣の声は沈んでいる。俊平でもそれぐらいは察していた。
 
『……うん。正直、元気はないかな。君に慰めて欲しい』
「すぐに飛んでいきます! 場所は?」
『高校の近くの公園』

 今よりもずっと真っ直ぐだったからこそ、俊平は何も考えずに迷わず即答した。
 意気消沈した恋人が助けを求めている。今すぐ抱きしめてあげたい。大丈夫だよと言って安心させてあげたい。公園は真逆の方向だったが、俊平はすぐさま引き返してバスを探した。

「遅くなってすみません」
「ううん。こっちこそ突然呼び出しちゃってごめんね……」

 俊平が公園に到着した頃にはすでに日が落ちて、外灯が点いていた。
 ベンチに腰掛ける芽衣の姿は、俊平のよく知る橘芽衣とは印象が異なっていた。酷くやつれた印象で、目元には隈と、泣き腫らしたような赤みが目立つ。

「どうしたんですか? 電話も公衆電話からだったし」
「……イライラしてて。スマホを投げつけたら壊れちゃって」

 いつも笑顔で、それでいて凛としていた芽衣の、こんなにも弱りきった姿は今まで見たことがない。イライラして物に当たる姿というのも、普段の芽衣からはまるで想像がつかなかった。

「最近会えてなかったし。連絡も返してくれないし。俺心配してたんですよ」
「ごめんね。色々あって、ずっと考え事をしてたの」

 俊平は芽衣の隣へ座り、震える芽衣の右手を握る。芽衣の方も握り返そうとしたが、一瞬悩み、結局は手を握り返してはくれなかった。

「私ってば最低だね。自分が辛いからって、突然俊平くんを呼びつけるなんて。俊平くんも迷惑だったでしょう」
「迷惑なんて思うわけないじゃないですか。芽衣さんに言わたら俺、いつでもどこにでも、すぐに駆けつけますから」
「……俊平くんは優しくて真っ直ぐだね。そういう君だから、こうして甘えちゃう」
「俺で良ければ話を聞きますよ。何でも話してください」

 頼られたい一心で発した純粋な一言だった。年齢や心境を思えば、誰もこの時の俊平の発言を責めたりはしないだろう。だけどこれこそが崩壊の初動となってしまったことも紛れもない事実だ。俊平が少しでも足踏みしていたなら、芽衣が言葉を紡ぐことはなかったかもしれない。

「……仮面を被り続けるのに、疲れちゃった」
「どういう意味ですか?」
「私ね。本当はみんなが思っているような真面目な優等生じゃないの。勉強なんて大嫌いだし、どちらかというと人見知りだし、頼られるよりは誰かを頼っていたいし。だけど現実問題、そんな私なんて誰も好きになってくれないでしょう? だからね、私はみんなの理想とする橘芽衣の仮面を被り続けてきたの」
「誰だってそういうのはありますよ。俺だって家族の前とかだとだらしないし」

 多少は驚いたが、俊平から見れば決して背を向けるような告白ではなかった。誰だって本性を隠す仮面の一つや二つ持っているものだ。もちろん俊平にだってそういう一面はある。芽衣が想像以上にナイーブになっていることを察しきれず、よくある話だと、この時の俊平はまだ楽観的に状況を捉えていた。
 
「私の優等生の仮面の始まりはね、かっこいい、理想のお姉ちゃんになることだったの。二歳年下の従妹がいてね。お互いに一人っ子だから、姉妹同然の関係なんだ。大好きな妹のためにかっこいいお姉ちゃんで有り続けようって。そんな私を妹も好いてくれるし」
「素敵なことじゃないですか」

 悪気なんてない。だけど軽率だった。本人は仮面を被り続けることに疲れたと言っている。その原点たる話を「素敵」などという素敵な言葉で肯定するべきではなかった。最適解など存在しないが、せめて当たり障りなく、相槌を打つ程度に留めておくべきだったのかもしれない。

「妹のために始めた優等生の仮面を、周りの人達も評価してくれるようになった。期待に応えたい一心で、皆の理想とする橘芽衣として今日まで頑張ってきた。だけどもう限界だよ。本当の私が日に日に分からなくなる。もう優等生でいたくない……幻滅だよね。こんなこと言われて」
「そんなことないですよ。芽衣さんは俺に秘密を、抱え込んでいた思いを打ち明けてくれた。不謹慎かもしれないけど、そのことが嬉しかったです。俺のことを信頼してくれたってことだから」
「俊平くんは優しいね。そういうところが大好きだよ」
「芽衣さん……」

 狡い人だなと、俊平は無意識に身震いを覚えた。優等生像が仮面だと告白され、内心はまだ混乱している。色々と聞きたいこともある。だけど、一言大好きなどと言われてしまえば、そんな感情は一瞬でどうでもよくなってしまう。

 橘芽衣が大好きだという気持ちは変わらない。それに、全部が全部仮面だったとも思えない。仮面は掘られた笑みしか浮かべない。だけど、芽衣の笑顔はいつだって感情的で血が通っていた。あれは紛れもなく、芽衣の素直な気持ちを表していたはずだ。
橘芽衣が橘芽衣であることに変わりはない。仮面を外すことでもしかしたら少し雰囲気が変わるかもしれないけど、そういう素の部分も含めて芽衣をもっと好きなっていけばいい。新たな一面を知っていくことで、絆がもっと深まるはずだ。

「もっと芽衣さんと一緒にいたいです」

 進学先を芽衣と同じ緋花高校にしよう。そうすれば、来年からは毎日芽衣と一緒に過ごすことが出来る。来年までは少し寂しい思いをさせてしまうかもしれないけど、この一年間もなるべく時間を作って、芽衣と一緒に過ごそう。
芽衣は本心を打ち明けてくれた。本当の意味での恋愛はここから始まっていく。俊平は芽衣とのこれからを、とても前向きに考えていた。この時までは。
 
「……俊平くんに謝らないと。私は君を騙してた」
「騙すだなんて大袈裟ですよ。秘密を打ち明けてくれて嬉しかったです」
「……違うの。私の裏切りはそれだけじゃないの」
「裏切りって?」

 橘芽衣という女性を何ら疑うことなく、反射的に聞き返してしまう。すでに運命の歯車は狂い始めていた。自戒の痛みに悲鳴を上げながら自壊を始めていく。

「……二週間前からね。俊平くん以外の男の子ともお付き合いしていたの」

 救いのために伸ばした手を、手首ごと切り落とされたような衝撃だった。ずっと憧れてきた橘芽衣。意を決しての告白して、受け入れてもらえた。両想いとだと分かり、幸せの絶頂だった。芽衣の高校入学を境に会える時間が減ってしまったけど、それでも俊平は一途に芽衣を思い続けた。芽衣のことしか考えられなかった。
 連絡が取りにくい時期も、学業などで大変なのだろうとしか思っていなかった。二人の絆は強固で揺るぎないと信じていたから。橘芽衣という女性を信じていたから。それがまさか、その時期に別の男性と交際してただなんて夢にも思っていなかった。交際を始めてからまだ一カ月しか経っていないのに。しかも二週間も前から。俊平が芽衣のことを心配している間、彼女の隣にいるのは別の男性だった。

 ――何だよそれ。意味わかんねえよ……。

 芽衣が別の男性と交際していた事実は変わらない。だったらせめて秘密のままにしておいてほしかった。何も知らない馬鹿な男のままで良かった。そうすれば少なくとも、真っ直ぐなままでいられた。だけど芽衣が言葉にしてしまったら、何も知らない馬鹿のままではいられない。

 優等生の仮面を外したっていい。有りのままの芽衣を受け入れていく。芽衣のことを本気で愛しているから、芽衣も自分のことを愛してくれたから、これからも二人で一緒に歩いていける。何もそう決心した矢先に、裏切りを告白しなくてもいいじゃないか。
残酷な現実を受け止めることは、成熟した人間であっても耐えがたいものだ。ましてや俊平は当時十四歳の中学生だ。多感な思春期に受けた衝撃は計り知れない。少なくともそれは、未熟な心を粉砕するには十分な破壊力であった。

「……高校で一人で頑張るのが辛くて。誰かに支えてもらいたくて。彼の好意に甘んじて、告白を受け入れたの」

 ――俺がいたじゃないですか。俺じゃ頼りなかったですか?

「……だけどね。直ぐに罪悪感に打ちのめされた……だってそれは、俊平くんに対する酷い裏切りだもの」

 ――当り前じゃないですか。どうして告白された時に、私には恋人がいるからと断ってくれなかったんですか!

 言葉を失っている俊平の前で、芽衣は罪悪感に泣きじゃくりながら、一言一言を必死に絞り出していく。俊平にとっては、耳を塞ぎたくなるような苦痛だ。だけど芽衣の言葉だから聞き逃さずにはいられない。一秒が永遠のように感じられる、地獄のような時間だった。

「……彼とはお別れした。別れ際に酷い言葉を浴びせられたけど、彼を責めることは出来ない。俊平くんのことも、彼のことも酷く傷つけた。私は最低な女だと思う……君を裏切ったことを心から後悔してる」

 ――俺に何て言って欲しいんですか。それでも俺はあなたを愛しますと、笑顔でそう言えばいいのか?

 それで全てが丸く収まるなれそれでいい。自分にそう言い聞かせて頑張って笑おうとするが、どんなに意識しても表情筋が思うように動かない。むしろ歪に歪んでいく。感情が笑顔を拒否している。

「……君を愛した私の気持ちは本物だよ。だから君にはもう、隠し事をしてはいけないと思った」

 ――隠していてほしかった。こんな思いをするくらいなら、あなたに怒りを覚えてしまうくらいなら、ずっとずっと、隠していてほしかった。

「私を許して。私をもう一度、君の恋人にさせて」

 ――芽衣さんは俺の恋人だ。俺はそれを疑ったことはなかった。勝手に離れていったのは芽衣さんの方じゃないか。意味が分からない。意味が分からない。意味が分からない。俺はどうすればいい……俺はどうすれば。

「大好きだよ。俊平くん」

 芽衣は許しを求めるように俊平を抱きしめようとする。芽衣が背中に回そうとしてきた手を、俊平は咄嗟に払いのけてしまった。頭で考えるよりも先に、体が拒絶していた。

「俊平くん?」
「……帰ります」

 芽衣の告白を受けて、感情はもうグチャグチャだった。そんな中でようやく絞り出せた言葉はそれだけだった。許すことも断罪することも出来ない。今の状況は俊平にとって、あまりにも要領オーバーであった。これ以上、この場に留まり続ける勇気はない。芽衣のことは愛している。だけど裏切られてグチャグチャになった感情をどう処理していいのか分からない。このままだとおかしくなってしまう。もう何も考えたくない。導き出した結論は逃走であった。

「待って、俊平くん! 置いていかないで……」

 ベンチから立ち上がり、背を向けた俊平の腕を、芽衣は縋るように掴んだ。

「最初に逃げたのは芽衣さんの方じゃないか」

 ようやく絞り出せた俊平の本音だった。それを受けた芽衣は何も言わずに脱力するかのように俊平から手を離した。
 そのまま一度も振り返らずに、俊平は芽衣の元から立ち去った。まさかこれが、今生の別れになるとも知らぬまま。

 ※※※

「芽衣さんが亡くなったのは、その翌日のことだ……」

 語り終えた瞬間、こみ上げてくるものを抑えきれず、俊平は堪らず右手で目を覆った。

「……何が芽衣さんの心を一番傷つけたのか、それは芽衣さんにしか分からない。別れ際の藤枝の言葉が尾を引いたのかもしれないし、己の中の罪悪感が許容できないレベルまで膨れ上がったのかもしれない。色々な理由が複合して生まれた状況なんだとは思う……だけど……ギリギリのところで踏みとどまっていた芽衣さんを、最後に突き放してしまったのは俺だ……あの日俺が芽衣さんを受け入れていたら、彼女の裏切りを許せていたら……きっと芽衣さんは飛び降りたりなんてしなかった……俺のせいなんだ……俺のせいで芽衣さんは……」
「藍沢先輩のせいなんかじゃありません!」

 繭加がこれまでに一度も聞いたことがないような大きな声を張り上げた。カラオケの個室なので周囲には不思議がられていないが、仮に防音されていない場所だったとしても、繭加は大きな声を出すことを躊躇わなかっただろう。辛い過去に打ちのめされている俊平を前に、橘芽衣の身内として黙っていることなんて出来なかった。

「……酷い裏切りにあって、感情的になってしまうのは当然のことです。悪いのは芽衣姉さんの方じゃないですか……それどころか、藍沢先輩の心に大きな傷を残して死んでしまうなんて……」

 繭加の目元にも涙が溜まっていた。姉のように慕っていた、大好きな芽衣が死んでしまったことが悲しい。その気持ちは変わらない。だけど今はそれと同じぐらい、芽衣の身勝手な行動のせいで、俊平がずっと苦しんできたことが悲しくてしかたがない。

「私は芽衣姉さんのことを妄信して、芽衣ねえさんには一切の非はないと思い込んできました。だけど真実は違った。複雑な感情を抱えていたとはいえ、芽衣姉さんは二人の男性と同時に交際し、その気持ちを傷つけた。清廉に思えた芽衣姉さんもまた、ダークサイドを抱えていたんです。だけど芽衣姉さんは根が真面目だから、そんな自分自身を許せなくなってしまった……これが私の辿り着いた結論です。最後に背中を押した人間がいたのなら、それは芽衣姉さん自身ですよ」

 芽衣に対する先入観を取り払った時、繭加の中で全てが繋がった。白木真菜、吉岡舞衣子の時と同じだ。一方だけの視点では本当の意味での真実は見えてこない。芽衣の死についても、藤枝からの証言に芽衣の視点、そして俊平の視点を加えることで真実が見えた。それは決して優しい真実ではなかったけれども。

「……それでも俺は自分を許せないよ。俺には救えた可能性があったんだから」
「だったらその罪悪感は、私も一緒に背負っていきます」

 繭加は俊平の手を優しく握った。目は腫れているがすでに涙は引いて、その目には強い意志が宿っている。

「芽衣姉さんが被り続けてきた仮面。それを最初に被らせてしまったのはたぶん私です。芽衣姉さんを追い詰めてしまった原因は私にもある。だからどうか、一緒に背負わせてください」
「……ごめん。そういうつもりで言ったわけじゃないんだ」

 俊平は記憶の中の、芽衣の言葉を思い出していた。繭加もまた自責の念を感じていないはずがない。ましてや繭加は身内でもあった。どうして自分に相談してくれなかったのだという悔しさも感じているはずだ。そんな繭加の気持ちをまったく考えられていなかった。何も成長していないなと、俊平は己を恥じた。

「……すぐには難しいかもしれないけど、いつかは自分を許せるようになるかな」
「きっとなれますよ」
「ありがとう。御影」

 俊平は不格好ながらも微笑んでみせた。まだほんの少しだけだけど、自分を許せるような気がした。

「せっかくカラオケに来たんです。何か飲みましょうか」
「……そうだな。流石に喉が渇いた」
「藍沢先輩はまだ目が晴れてますね。私は大分落ち着いたので、代わりに飲み物を持ってきてあげますよ」

 そう言って繭加は、ドリンクバーに二人分の飲み物を取りに行った。

「藍沢先輩。せっかくの機会なので質問してもいいですか?」

 冷たいジュースを飲んでいたら、お互いに少しずつ気持ちが落ち着いてきた。繭加の言葉に、俊平は冷えたお茶を飲みながら頷いた。

「藍沢先輩はどうして私の調査に協力してくれたんですか? 先輩からしたら、あまり関わりたくない話だったのでは」
「真実を知りたいという気持ちはもちろんあったが、今になって思えば俺は、自分を正当化したかったのかもしれない。芽衣さんのもう一人の交際相手こそが芽衣さんの死の原因で、俺のせいじゃなかったんだって。もう一人の交際相手が藤枝だとは分かったけど、結局は自分を責める羽目になってしまった」

 藤枝の証言を受けた時は心中穏やかではいられなかった。藤枝が最後に芽衣と会ったのは彼女が亡くなる二日前。一番最後に芽衣に会ったのは俊平だったと判明した。やはり最後に背中を押してしまったのは自分だったのだと絶望感すら覚えた。繭加のおかげで少しだけ救われたけど、もしそれが無かったらいずれ壊れてしまったかもしれない。

「それからもう一つ……」

 言いかけて、俊平は一度言葉を飲み込んだ。

「この期に及んで隠し事は無しですよ」
「少し頭の中を整理したかっただけだよ……もう一つの理由は、芽衣さんを守りたいと思ってたからだ」
「芽衣姉さんを守る?」
「真実を確かめることは、芽衣さんの仮面を暴くことになる。芽衣さんの名誉のために、お前の動向を監視しようと考えていた。一度は調査が終了し、このまま終わるのも悪くないと思ったけど、今になって愚かな考えだったと反省してるよ。だってそれは芽衣さんに、死後も仮面を被り続けることを強いることだから」
「そうですね。芽衣姉さんは仮面を外したがっていたはずですから」

 大勢の人間が橘芽衣という少女を仮面を被った姿で記憶しているに違いない。だからこそ自分たちは、仮面を外した芽衣の姿も覚えていようと二人は誓った。そのどちらもが橘芽衣の生きた証なのだから。

「藍沢先輩。死後も芽衣姉さんのことを思ってくれて、ありがとうございます」

 辛い経験を話してくれたこと。自分の知らない芽衣との思い出をたくさん話してくれたこと。調査に協力してくれたこと。俊平に対するあらゆる感謝を繭加はその言葉に込めた。

「感謝するのは俺の方だ。御影のおかけで俺は、自分自身のダークサイドと向き合えたような気がするよ」

 人のダークサイドを覗き見る行為はやはり悪趣味だと思う。だけど繭加がダークサイドを覗き込んでくれたおかげで、俊平は自分の気持ちに少し整理をつけることが出来た。人は誰しもダークサイドを抱えている。それは仕方のないことだ。大切なのはそれとどう向き合い、付き合っていくのかだ。

「そろそろ終了時間ですね。延長しますか?」
「話し過ぎて流石に喉が限界だ。今日は帰るよ」
「今度は普通に遊びに来ましょう。その時は付き合ってくださいね。私、友達いないので」
「考えておいてやるよ」

 帰り際、少しだけ普段の距離感に戻れたような気がした。

 ※※※


 翌日の昼休み。早目に教室で昼食を終えた俊平は、用事があると瑛介たちに断りを入れて、橘芽衣が発見された校舎裏を目指していた。一度外履きに履き替えるために生徒玄関に立ち寄ると、一方的に見覚えのある女子生徒二人組が反対側から歩いてきた。

「見たい映画があるんだけど、舞衣子も一緒行かない?」
「うん。行く行く」

 俊平とすれ違ったのは、笑顔で体を寄せ合う、白木真菜と吉岡舞衣子だった。一見すると仲睦まじい友達同士のやり取りにしか見えないが、二人のダークサイドを知る者としては、状況を素直に受け止めていいのか難しいところだった。表面上は笑顔を浮かべたまま、互いに腹の探り合いをしているのかもしれないし、見た目の印象通り、純粋に和やかな会話をしているだけなのかもしれない。本心は当人たちのみが知るところだ。

「一応、買っていくか」

 生徒玄関に設置されている自動販売機で、紙パックのヨーグルト飲料を一つ購入してから、俊平は靴を履き替えた。

「芽衣さん。俺はあの時、どうすればよかったんだろう」

 芽衣の発見現場にヨーグルト飲料を供えて、俊平は返答のない質問を投げかける。

「あなたは意地悪な人だ。年下の俺に辛い思いばかりさせて、今も何も答えてくれない」

 あの時は突然のことに動揺して、感情的に芽衣を突き放してしまった。繭加の言葉で少しだけ救われたが、それでもまだ後悔の念は無くならない。同時に芽衣に怒りを感じる。裏切られたからではない。藍沢俊平を信じて、思い留まってはくれなかったことが悔しかった俊平の芽衣に対する愛は本物だ。酷い裏切りを受けても、愛する人がもうこの世に存在しなくとも、今でも続く愛慕の情こそが、何よりの証明である。

 一日でいい。一日冷静に考える時間を貰えれば、俊平はきっと芽衣の裏切りを許すことが出来た。もう一度、芽衣を受け入れることが出来たはずなのだ。それなのに芽衣は、動揺する年下の男の子に心の整理をさせる時間も与えぬまま、身勝手に跳んでしまった。
 
 たった一日でいい。たった一日思い留まってくれていたなら。未来はきっと違うものになっていたはずだ。過去に戻る方法がない以上、イフなんて想像しても仕方がない。それでも、人間は想像性を有する生き物だ。橘芽衣が生きていたならと、そう思わずにいられない。
 
「……どんなに裏切られても、俺はどうしても芽衣さんのことを嫌いになれません。あなたのことが好きだから、あなたを愛しているから。俺はあなた以上に素敵な人を知らない。俺はきっと、あなた以外の女性を好きになることなんてない。これはきっと呪いだ。あなたは俺に呪いを植え付けて逝ってしまった。それなのに、そんな呪いさえも愛おしく感じてしまう……」

 自然と俊平の頬を涙が伝っていた。

「遅くなってしまったけど、そろそろ名前を呼び捨てさせてください」

 手の甲で涙を拭い去り、記憶の中で微笑む橘芽衣と向かい合う。

「芽衣。今も昔もこれからも、俺はあなたのことが大好きです」

 感情を吐き出すと同時に、俊平は芽衣が身を投げた屋上を見上げるように、アスファルトの地面の上に大の字で寝ころんだ。空から降り注ぐ日差しがとても心地いい。感情をたっぷりと吐き出したせいか、何だか瞼を重く感じる。心地よさに、俊平は次第に微睡んでいく。

「おや、お目覚めですね」

 俊平が重たげな瞼を上げると、微笑みを浮かべた美少女が視界に映り込んだ。完全に寝ぼけており、知り合いにこんな美少女がいたかと思い一瞬、頭が混乱する。

「御影か?」
「疑問形とは、寝ぼけていますね?」
「いつからここに?」
「たった今です。先輩の可愛らしい寝顔を少しだけ眺めさせて頂きました」
「俺の寝顔は高いぞ」

 苦笑交じりに俊平は上体を起こし、覚醒を促すように大きく伸びをした。

「出会った時とは逆ですね」
「そうだな。あの時はお前が横たわっていて、俺はそれを見下ろしてた」
「どうしてここで横に?」
「出会った時のお前の真似をしてみたら、そのまま眠くなった」
「この場所を、どう感じましたか?」

 俊平の隣に腰を下ろすと、繭加はあの時の俊平の台詞をなぞった。

「お前の言う通り、ここの地面は固い。それと」
「それと?」
「空は遠いなって」
「そうですね」

 俊平の言葉に思うところあったのだろう。逆光に目を細めながら、繭加も天空を見上げた。

「ヨーグルトはやっぱり苦手だから、代わりに頼む」
「藍沢先輩もずいぶんと素直になりました。そういうことなら喜んで」

 俊平はヨーグルト飲料を繭加へと手渡す。前は初対面だったから警戒していたけど、今回は遠慮なく繭加に頼めた。芽衣と一緒で繭加もヨーグルト飲料が好きなことを今は知っている。

「御影。お前はこれからどうするんだ?」
「これからというと?」
「ダークサイドの収集。これからも続けるのか?」
「今はまだ分かりませんが、部室は畳んできました」
「文芸探求部の部室。もう使えないのか?」
「実は先日、部員のほとんど幽霊部員で、実質的な部員が私一人だけだということがバレてしまって。継続が難しくなってしまったんです。プライベートスペースが無くなることは寂しいですが、芽衣姉さんの死の真相を突き止めるという目的は果たせましたし、潮時だったのかもしれません」
「そうか。あそこが無くなるのは、確かに少し寂しいな」

 数度訪れただけが、それでも慣れした部室を卒業するような寂しさを感じる。それだけあの部室で過ごし時間は刺激的かつ、印象的だった。

「プライベートスペースが無くなって大丈夫なのか? お前常々、友達がいないって言ってただろう」
「……痛いところを突きますね。ダークサイドばかり追いかけていた弊害です」

 前途多難だと言わんばかりに、繭加は大仰に天を仰いだ。その姿を見て俊平は苦笑を浮かべる。

「御影。まだ少し先の話だけど、夏休みは友達と数人で遊びに行く計画をしてるんだ。もしよかったらお前も来ないか?」
「私が、藍沢先輩のお友達と?」
「放課後にでも紹介するよ。みんな気の良い奴らだから、直ぐに打ち解けられると思う。全員二年生だから少し緊張するかもしれないけど、俺に対してこれだけ遠慮ないんだから大丈夫だろう。そこから新たに広がる交友関係もあると思うし」
「か、考えておきます」
 緊張でやや声が上ずりながらも、繭加の表情は満更でもなさそうだった。この様子なら大丈夫そうだなと、俊平も微笑む。
「やべっ! 予鈴が鳴ってる」
「藍沢先輩が気持ち良さそうに寝てるからですよ」

 このままでは五限に遅刻してしまう。予鈴を聞いた二人は慌てて校舎へと走った。

 
 
 了