「……今まで言い出せずにいたけど、ずっと橘先輩のことが好きでした!」
橘芽衣が中学校を卒業する日。思いを告げたのは俊平の方からであった。
告白に選んだ場所は、二人にとって最も馴染み深い場所である生徒会室。卒業式が終わった後で、生徒会室に来てほしいと俊平は事前に連絡していた。
これは一方的な片想いだ。先輩が来なかったならそれも仕方がない。だけど、温情でも気まぐれでも何でもいい。先輩が指定通りに生徒会室に来てくれたなら、男らしく素直な気持ちを伝えようと、俊平は覚悟を決めていた。
そして卒業式の後、人気者で大勢の同級生や後輩に囲まれていた芽衣だったが、時間の合間を縫って俊平に会いにきてくれた。
玉砕覚悟だった。緊張で思わず、俯きがちに目も瞑ってしまったけど、俊平は確かに自分の思いを芽衣へと告げた。返事を聞くのが怖い。目だけではく、耳まで塞いでしまいたかったけど、それではあまりに情けない。俊平は静かに芽衣の返事を待った。これまでの十四年の人生の中で、一番の緊張感だった。一番長い時間のように感じられた。
「それだけ?」
そこまで言われたわけではないのに、「そんなくだらないことで呼び出したの?」と、心がネガティブな方向に介錯してしまう。冷たく突き放された。振られてしまったのだと、俊平は早くも傷心気味だったが。
「ずっと好きでしたじゃ、何だか過去形みたいだよ。もっと踏み込んできて」
力強くも緊張に震えたその言葉に、俊平はハッとして顔を上げた。
芽衣の表情は微かに赤みを帯びながらも、とても穏やかだった。冷淡さなど微塵も感じられない。その表情は勇者を励ます聖女のようでもあり、それでいて年齢相応の初々しさが感じられた。
呼び出しておいて、これ以上芽衣に言わせるのはあまりにも情けない。そんなことは当時中学二年生の俊平にだって分かっていた。一度深呼吸をして、呼吸と気持ちを整える。
昨日連絡をした時点で、覚悟は決めていた。今日こうして生徒会室に足を運んだ時点で、覚悟は決めていた。いつにも増して魅力的に見える、紅潮した芽衣の表情を直視した時点で、覚悟は決めていた。何度も何度も、覚悟は何重にも重ねてきた。
憧れの橘先輩が優しく背中を押してくれた。最後にもう一度、勇気を出そう。
「橘先輩のことが大好きです。俺と付き合ってください!」
面と向かってそう告げた。男らしくありたいと思った。見つめ合ったまま流れる沈黙は、決して胸を刺すような鋭利なものじゃない。橘芽衣は、大好きな先輩は、紅潮した顔で微笑みを浮かべていた。共有してきた時間の中で、芽衣の笑顔をたくさん見てきた。だからこそそれが作り笑顔でなく、本心から笑顔であることを俊平は知っている。
「こちらこそよろしくお願いします。藍沢俊平くん!」
「せ、先輩」
返答と同時に、芽衣は勢いよく俊平へと抱き付いてきた。熱く抱擁されるなんてまったく想定していなかった。嬉しさと驚きのあまり脳がオーバヒートを起こし、俊平は目を丸くして硬直してしまった。
「私もね。君のことがずっと好きだったんだよ」
力強い抱擁が、芽衣の言葉以上に物語っている。好意を寄せる相手でなければ、咄嗟に抱きしめたりなんかしない。
「俊平くんてば面白い。自分から告白しておいて、どうしたらいいのか分からなくなってる」
「すみません。玉砕覚悟だったんで、現在進行形で混乱していて」
「もっと自信を持って。君は君自身が思っているよりも、ずっと素敵な男の子だよ」
「そう、なんですかね?」
「疑問形で返しちゃダメだよ。そうじゃないと私に男の子を見る目がないみたいじゃない」
「すみません!」
「謝るところじゃないでしょう。まったく、そういうところが可愛いんだけどさ」
そう言って芽衣は、緊張で瞬きの回数が増えている俊平の頭を優しく撫でた。当時の俊平はまだ身長が伸びている最中で、芽衣よりも背丈が低かった。芽衣の包容力を相まって、その姿は弟を宥める姉のようでもある。芽衣は一人っ子だが、仲の良い年下の従姉妹がいるため、お姉ちゃんらしさが板についていた。
「いつから私のことが好きだったの?」
「一目惚れです。俺が初めてこの生徒会室にやってきて、初めて先輩と面と向かって話したあの時。それからはずっと先輩のことを意識していて。最初は一目ぼれだったけど、生徒会で一緒に活動していく中で、優しいところか、いつも笑顔を絶やさないところとか先輩を知れば知るほど好きになっていくのを感じて。もう頭の中が先輩でいっぱいです!」
「後輩くんを一目惚れさせちゃったか。私も罪な女だね」
「自分で言います?」
「これが自信ってやつだよ」
芽衣が言うのと同時に、二人一緒に思わず大笑いした。最初に感じていた緊張感は笑う度にどこかへと消えていく。だんだんと、日常に近い空気感で会話が出来るようになってきた。だけど今は関係性が違う。先輩後輩であると同時に恋人同士となった。日常の空気感だけど、これまでとは世界の見え方がまるで違うように感じられた。大袈裟かもしれない。だけど十四歳の少年の初恋が実ったのだ。それは決して大袈裟なことではない。
「自信をつけるためにも教えてください。先輩はその……俺のどこを好きになってくれたんですか?」
早速カッコ悪いことを言ってしまっている自覚はあったが、自信がいきなりどこからともなく湧いてくるわけではない。
目を泳がせる俊平の初々しさが愛おしく感じられて、芽衣は今度は意地悪なことを言わず、素直に質問に答えてあげた。
「頑張り屋で、誰かを笑顔にするのが大好きで、自分自身もよく笑って。いつの間にか、そんな俊平くんに自然と目がいくようになっていたよ。君はきっと私を理解してくれる人だと、そう思えたの」
「嬉しいです。俺のこと、見ていてくれたんですね。藤枝さんみたいな凄い人が近くにいるから、俺いつも藤枝さんと自分を比べちゃって」
「藤枝くんは藤枝くん。俊平くんは俊平くんだよ。私が認めた男の子なんだから、これからはもっと自信を持ちなさい。私の恋人なんだから」
「そうですよね。先輩と付き合うことになったんだ。うじうじしてたら、先輩にも失礼ですよね」
「これからは先輩呼びも禁止。恋人同士なのに、堅苦しいにも程があるでしょう」
「えっと、何てお呼びすれば?」
「何でも好きな風に呼んで、愛しのメイメイでも何でも」
「何ですか、それ」
「ただの一例。真面目にツッコまないの。それじゃあ、無難に名前でどう? これからは私のことは芽衣って呼んで」
「分かりました。芽衣さん」
「えー、そこは呼び捨てじゃないの?」
「すみません。突然のことで俺にはまだハードルが高いです。呼び捨ては慣れてからということで」
芽衣と呼び捨てにするのは、告白とはまた違った勇気が必要だった。一歳しか年齢は変わらないが、学生なのでどうしても先輩後輩の意識が働いてしまう。春から芽衣が高校生になるのでなおさらだ。こればかりは交際を続ける中で、少しずつ慣れていくしかない。
「少し残念だけど、無理強いはよくないか。俊平くんに呼び捨てされるのは後のお楽しみにとっておくよ」
満面の笑みでそういうと、芽衣は俊平の両手を取ってぶんぶんと上下に動かした。
「改めまして、俊平くんの恋人になりました。橘芽衣です。これからよろしくね」
「芽衣さんの恋人になりました、藍沢俊平です。まだまだ未熟者ではありますが、こちらこそよろしくお願いいたします」
この日から、二人の交際は始まった。
※※※
「初々しいお話ですね」
繭加は時折頷きを交えながら、俊平の独白に真剣に聞き入っていた。自分の知らない芽衣と俊平の一面を垣間見たが、話そのものは学生カップルの甘酸っぱい馴れ初めで、平和な内容だ。今はまだ驚きよりも好奇心の方が勝っている。
「あの頃は毎日が本当に輝いていて、言葉にすると少し恥ずかしけど、人生最良の日々だったと自信を持って言えるよ」
「デートをしたりもしたんですか?」
「春休みを利用して何度か。遠出する時は俺がお弁当を作って、芽衣さんは手作りのお菓子を持ってきてくれた。本当は甘い物は苦手だったんだけど、芽衣さんの作るお菓子は本当に美味しくて。毎回感触してたよ。勧められて飲んだ、芽衣さんの好きなヨーグルト飲料の味だけは最後まで慣れなかったけど」
美味しいから飲んでみてと芽衣に飲みかけを渡されて、苦手とも言えずに頑張って少し飲んだ。自分ではやりきったつもりでいたけど、表情は隠しきれなくて、全てを察して苦笑していた芽衣の表情と、「苦手なら言ってくれればいいのに」という言葉が、俊平は今でも忘れられない。
「ヨーグルトの酸味も含めて、本当に楽しかったな」
照れ臭そうに俊平は頬を掻くが、口元はまったく笑えてない。思い出を掘り返せば掘り返すほど、記憶の中の芽衣が死期へと近づいていく。記憶の中の芽衣を自分が殺しているようで、胸が締め付けられた。
「春休み中に俺がもっと芽衣さんと向き合っていれば、もしかしたら悲劇を止めることが出来たのかもしない」
「何があったんですか?」
「俺は芽衣さんを、とても強い大人っぽい女性だと思っていた。だけどそれは大きな誤りだった。彼女は本当は誰よりも繊細な人だったんだ。中学時代も、俺と付き合ってからも、芽衣さんは繊細な自分を押し込めて、周囲が理想とする橘芽衣を演じ続けていた。そのことに、当時の俺はまったく気づいていなかった。言い訳になんかならないけど、当時の俺は今よりももっと子供だった。憧れの先輩と付き合えたことが嬉しくて嬉しくて。目の前の楽しさに夢中で、深いところなんてまるで見えていなかった」
「最近まで中学生だった私が言えたことではありませんが、当時の藍沢先輩は中学二年生でしょう? 恥じることなんてない、当然の感情だと思います。憧れの人と付き合えることになったら、舞い上がってしまうのも無理ないですよ」
「御影は優しいな……それでも、後悔せずにはいられないよ。人は過去には戻れないから」
「……そうですね。私も何度もイフを想像しましたから、その気持ちは痛いほど分かります」
恋人。身内。関係性は違えと、大切な人を喪った痛みを二人を共有している。これまでで最も、お互いの心に触れた瞬間だったかもしれない。
「春休みが明けて、状況が大きく変化し始めた。交際は続いていたけど、通う学校も別々になって、特に芽衣さんの方は、高校という新たな環境でのスタートだ。忙しさもあって、顔を合わせる機会が激減した」
「緋花高校と先輩の通っていた中学校は距離も離れていますし、なおさらですね」
「変わらず連絡は取り続けていたけど、入学から程なくして、芽衣さんの様子がおかしくなってきた。愚痴が増えてきたんだ。想像することしか出来ないけど、中学時代から被って来た、理想的な優等生としての橘芽衣の仮面を、高校でも被り続けることが、想像以上にストレスだったのかもしれない。知り合いの少ない環境なら、もしかしたら高校デビューではっちゃけるなんて選択肢もあったかもしれないけど、藤枝を始め、同じ中学から進学した生徒も少なくない。真面目な性格も災いして、仮面を外すという選択肢は持てなかったんだろうな……我ながら情けないが、当時の俺は月並みな言葉で励ますことしか出来なかった。そういう意味では、俺も理想の仮面を強いていた一人なんだろうな」
全ての事情を知り、当時よりも少しだけ成長した今の自分の姿で当時に戻れたら良いのに。そう考えずにはいられない。あの頃の俊平は今よりも未熟で、対する芽衣は悪い意味で大人びていた。芽衣が大人ぶらずに、もっと素直に弱さを曝け出せていたなら、未来はまた違うものになっていたかもしれない。
「四月の半ば、芽衣さんにまた一つ大きな変化が起こった」
「藤枝との交際ですね」
「俺もつい最近までは、相手が藤枝とは知らなかったけどな……芽衣さんは俺以外の男と関係を持つようになったようだった」
繭加もとっくに察していただろうが、それでも俊平はこの事実を改めて口にすることを少し躊躇った。芽衣は同時期に二人の男性と交際していた。誰からも愛される優等生の橘芽衣の像が、ひび割れていく。身内である繭加がショックを受けないはずがない。
「……二股というやつですね」
繭加も一瞬言い淀むが、あえてはっきりとした表現を用いた。身内だからと芽衣を色眼鏡を見てはいけない。今は真実だけを見つめなければいけないのだ。
「そうだな。事実だけを見れば、芽衣さんは俺と藤枝に二股をかけたことになる。藤枝の告白から芽衣さんの返答まで一週間あったそうだから、悩み抜いた末の決断ではあったんだろうな……そう信じたい」
「どうして藍沢先輩との交際中に、藤枝の告白を受け入れたんでしょうか?」
「想像することしか出来ないが、身近に、心の支えになってくれる人が欲しかったのかもしれない。中学生で学校も違い、普段はなかなか会えない俺。それに対して藤枝は、中学時代からの友人で同じ高校の同級生。加えて当時は正真正銘の優等生だった。どちらが頼りになるかと言われれば、それは後者だろうから」
「……藍沢先輩からしたら、酷い裏切りです」
繭加の声は震えていた。大好きな芽衣を悪く言いたくなんてない。だけど当事者の話を聞けば聞くほど、俊平に感情移入せずにはいられなかった。
「その件については藤枝もな」
「……そうですね。確かに当時の藤枝にとっても酷い裏切りです」
「藤枝のことは軽蔑しているが、それはあくまでも一連の女性関係の悪行に関してだ。二年前の出来事については、確かに別れ際に芽衣さんに吐いたという暴言にはついては心中複雑だけど……俺にはあの人を責める権利はない」
それまで表面上は平静を装ってきた俊平が、初めて目元を覆った。声もこれまでになく震えている。そろそろ核心に触れなければいけない。当事者の一人として、激しい後悔と自己嫌悪を感じずにはいられなかった。
「芽衣さんが自殺する、前日の話をしようと思う。覚悟はいいか?」
「どんなお話でも受け止めます」
繭加は震える俊平の手に自分の手を重ねた。
橘芽衣が中学校を卒業する日。思いを告げたのは俊平の方からであった。
告白に選んだ場所は、二人にとって最も馴染み深い場所である生徒会室。卒業式が終わった後で、生徒会室に来てほしいと俊平は事前に連絡していた。
これは一方的な片想いだ。先輩が来なかったならそれも仕方がない。だけど、温情でも気まぐれでも何でもいい。先輩が指定通りに生徒会室に来てくれたなら、男らしく素直な気持ちを伝えようと、俊平は覚悟を決めていた。
そして卒業式の後、人気者で大勢の同級生や後輩に囲まれていた芽衣だったが、時間の合間を縫って俊平に会いにきてくれた。
玉砕覚悟だった。緊張で思わず、俯きがちに目も瞑ってしまったけど、俊平は確かに自分の思いを芽衣へと告げた。返事を聞くのが怖い。目だけではく、耳まで塞いでしまいたかったけど、それではあまりに情けない。俊平は静かに芽衣の返事を待った。これまでの十四年の人生の中で、一番の緊張感だった。一番長い時間のように感じられた。
「それだけ?」
そこまで言われたわけではないのに、「そんなくだらないことで呼び出したの?」と、心がネガティブな方向に介錯してしまう。冷たく突き放された。振られてしまったのだと、俊平は早くも傷心気味だったが。
「ずっと好きでしたじゃ、何だか過去形みたいだよ。もっと踏み込んできて」
力強くも緊張に震えたその言葉に、俊平はハッとして顔を上げた。
芽衣の表情は微かに赤みを帯びながらも、とても穏やかだった。冷淡さなど微塵も感じられない。その表情は勇者を励ます聖女のようでもあり、それでいて年齢相応の初々しさが感じられた。
呼び出しておいて、これ以上芽衣に言わせるのはあまりにも情けない。そんなことは当時中学二年生の俊平にだって分かっていた。一度深呼吸をして、呼吸と気持ちを整える。
昨日連絡をした時点で、覚悟は決めていた。今日こうして生徒会室に足を運んだ時点で、覚悟は決めていた。いつにも増して魅力的に見える、紅潮した芽衣の表情を直視した時点で、覚悟は決めていた。何度も何度も、覚悟は何重にも重ねてきた。
憧れの橘先輩が優しく背中を押してくれた。最後にもう一度、勇気を出そう。
「橘先輩のことが大好きです。俺と付き合ってください!」
面と向かってそう告げた。男らしくありたいと思った。見つめ合ったまま流れる沈黙は、決して胸を刺すような鋭利なものじゃない。橘芽衣は、大好きな先輩は、紅潮した顔で微笑みを浮かべていた。共有してきた時間の中で、芽衣の笑顔をたくさん見てきた。だからこそそれが作り笑顔でなく、本心から笑顔であることを俊平は知っている。
「こちらこそよろしくお願いします。藍沢俊平くん!」
「せ、先輩」
返答と同時に、芽衣は勢いよく俊平へと抱き付いてきた。熱く抱擁されるなんてまったく想定していなかった。嬉しさと驚きのあまり脳がオーバヒートを起こし、俊平は目を丸くして硬直してしまった。
「私もね。君のことがずっと好きだったんだよ」
力強い抱擁が、芽衣の言葉以上に物語っている。好意を寄せる相手でなければ、咄嗟に抱きしめたりなんかしない。
「俊平くんてば面白い。自分から告白しておいて、どうしたらいいのか分からなくなってる」
「すみません。玉砕覚悟だったんで、現在進行形で混乱していて」
「もっと自信を持って。君は君自身が思っているよりも、ずっと素敵な男の子だよ」
「そう、なんですかね?」
「疑問形で返しちゃダメだよ。そうじゃないと私に男の子を見る目がないみたいじゃない」
「すみません!」
「謝るところじゃないでしょう。まったく、そういうところが可愛いんだけどさ」
そう言って芽衣は、緊張で瞬きの回数が増えている俊平の頭を優しく撫でた。当時の俊平はまだ身長が伸びている最中で、芽衣よりも背丈が低かった。芽衣の包容力を相まって、その姿は弟を宥める姉のようでもある。芽衣は一人っ子だが、仲の良い年下の従姉妹がいるため、お姉ちゃんらしさが板についていた。
「いつから私のことが好きだったの?」
「一目惚れです。俺が初めてこの生徒会室にやってきて、初めて先輩と面と向かって話したあの時。それからはずっと先輩のことを意識していて。最初は一目ぼれだったけど、生徒会で一緒に活動していく中で、優しいところか、いつも笑顔を絶やさないところとか先輩を知れば知るほど好きになっていくのを感じて。もう頭の中が先輩でいっぱいです!」
「後輩くんを一目惚れさせちゃったか。私も罪な女だね」
「自分で言います?」
「これが自信ってやつだよ」
芽衣が言うのと同時に、二人一緒に思わず大笑いした。最初に感じていた緊張感は笑う度にどこかへと消えていく。だんだんと、日常に近い空気感で会話が出来るようになってきた。だけど今は関係性が違う。先輩後輩であると同時に恋人同士となった。日常の空気感だけど、これまでとは世界の見え方がまるで違うように感じられた。大袈裟かもしれない。だけど十四歳の少年の初恋が実ったのだ。それは決して大袈裟なことではない。
「自信をつけるためにも教えてください。先輩はその……俺のどこを好きになってくれたんですか?」
早速カッコ悪いことを言ってしまっている自覚はあったが、自信がいきなりどこからともなく湧いてくるわけではない。
目を泳がせる俊平の初々しさが愛おしく感じられて、芽衣は今度は意地悪なことを言わず、素直に質問に答えてあげた。
「頑張り屋で、誰かを笑顔にするのが大好きで、自分自身もよく笑って。いつの間にか、そんな俊平くんに自然と目がいくようになっていたよ。君はきっと私を理解してくれる人だと、そう思えたの」
「嬉しいです。俺のこと、見ていてくれたんですね。藤枝さんみたいな凄い人が近くにいるから、俺いつも藤枝さんと自分を比べちゃって」
「藤枝くんは藤枝くん。俊平くんは俊平くんだよ。私が認めた男の子なんだから、これからはもっと自信を持ちなさい。私の恋人なんだから」
「そうですよね。先輩と付き合うことになったんだ。うじうじしてたら、先輩にも失礼ですよね」
「これからは先輩呼びも禁止。恋人同士なのに、堅苦しいにも程があるでしょう」
「えっと、何てお呼びすれば?」
「何でも好きな風に呼んで、愛しのメイメイでも何でも」
「何ですか、それ」
「ただの一例。真面目にツッコまないの。それじゃあ、無難に名前でどう? これからは私のことは芽衣って呼んで」
「分かりました。芽衣さん」
「えー、そこは呼び捨てじゃないの?」
「すみません。突然のことで俺にはまだハードルが高いです。呼び捨ては慣れてからということで」
芽衣と呼び捨てにするのは、告白とはまた違った勇気が必要だった。一歳しか年齢は変わらないが、学生なのでどうしても先輩後輩の意識が働いてしまう。春から芽衣が高校生になるのでなおさらだ。こればかりは交際を続ける中で、少しずつ慣れていくしかない。
「少し残念だけど、無理強いはよくないか。俊平くんに呼び捨てされるのは後のお楽しみにとっておくよ」
満面の笑みでそういうと、芽衣は俊平の両手を取ってぶんぶんと上下に動かした。
「改めまして、俊平くんの恋人になりました。橘芽衣です。これからよろしくね」
「芽衣さんの恋人になりました、藍沢俊平です。まだまだ未熟者ではありますが、こちらこそよろしくお願いいたします」
この日から、二人の交際は始まった。
※※※
「初々しいお話ですね」
繭加は時折頷きを交えながら、俊平の独白に真剣に聞き入っていた。自分の知らない芽衣と俊平の一面を垣間見たが、話そのものは学生カップルの甘酸っぱい馴れ初めで、平和な内容だ。今はまだ驚きよりも好奇心の方が勝っている。
「あの頃は毎日が本当に輝いていて、言葉にすると少し恥ずかしけど、人生最良の日々だったと自信を持って言えるよ」
「デートをしたりもしたんですか?」
「春休みを利用して何度か。遠出する時は俺がお弁当を作って、芽衣さんは手作りのお菓子を持ってきてくれた。本当は甘い物は苦手だったんだけど、芽衣さんの作るお菓子は本当に美味しくて。毎回感触してたよ。勧められて飲んだ、芽衣さんの好きなヨーグルト飲料の味だけは最後まで慣れなかったけど」
美味しいから飲んでみてと芽衣に飲みかけを渡されて、苦手とも言えずに頑張って少し飲んだ。自分ではやりきったつもりでいたけど、表情は隠しきれなくて、全てを察して苦笑していた芽衣の表情と、「苦手なら言ってくれればいいのに」という言葉が、俊平は今でも忘れられない。
「ヨーグルトの酸味も含めて、本当に楽しかったな」
照れ臭そうに俊平は頬を掻くが、口元はまったく笑えてない。思い出を掘り返せば掘り返すほど、記憶の中の芽衣が死期へと近づいていく。記憶の中の芽衣を自分が殺しているようで、胸が締め付けられた。
「春休み中に俺がもっと芽衣さんと向き合っていれば、もしかしたら悲劇を止めることが出来たのかもしない」
「何があったんですか?」
「俺は芽衣さんを、とても強い大人っぽい女性だと思っていた。だけどそれは大きな誤りだった。彼女は本当は誰よりも繊細な人だったんだ。中学時代も、俺と付き合ってからも、芽衣さんは繊細な自分を押し込めて、周囲が理想とする橘芽衣を演じ続けていた。そのことに、当時の俺はまったく気づいていなかった。言い訳になんかならないけど、当時の俺は今よりももっと子供だった。憧れの先輩と付き合えたことが嬉しくて嬉しくて。目の前の楽しさに夢中で、深いところなんてまるで見えていなかった」
「最近まで中学生だった私が言えたことではありませんが、当時の藍沢先輩は中学二年生でしょう? 恥じることなんてない、当然の感情だと思います。憧れの人と付き合えることになったら、舞い上がってしまうのも無理ないですよ」
「御影は優しいな……それでも、後悔せずにはいられないよ。人は過去には戻れないから」
「……そうですね。私も何度もイフを想像しましたから、その気持ちは痛いほど分かります」
恋人。身内。関係性は違えと、大切な人を喪った痛みを二人を共有している。これまでで最も、お互いの心に触れた瞬間だったかもしれない。
「春休みが明けて、状況が大きく変化し始めた。交際は続いていたけど、通う学校も別々になって、特に芽衣さんの方は、高校という新たな環境でのスタートだ。忙しさもあって、顔を合わせる機会が激減した」
「緋花高校と先輩の通っていた中学校は距離も離れていますし、なおさらですね」
「変わらず連絡は取り続けていたけど、入学から程なくして、芽衣さんの様子がおかしくなってきた。愚痴が増えてきたんだ。想像することしか出来ないけど、中学時代から被って来た、理想的な優等生としての橘芽衣の仮面を、高校でも被り続けることが、想像以上にストレスだったのかもしれない。知り合いの少ない環境なら、もしかしたら高校デビューではっちゃけるなんて選択肢もあったかもしれないけど、藤枝を始め、同じ中学から進学した生徒も少なくない。真面目な性格も災いして、仮面を外すという選択肢は持てなかったんだろうな……我ながら情けないが、当時の俺は月並みな言葉で励ますことしか出来なかった。そういう意味では、俺も理想の仮面を強いていた一人なんだろうな」
全ての事情を知り、当時よりも少しだけ成長した今の自分の姿で当時に戻れたら良いのに。そう考えずにはいられない。あの頃の俊平は今よりも未熟で、対する芽衣は悪い意味で大人びていた。芽衣が大人ぶらずに、もっと素直に弱さを曝け出せていたなら、未来はまた違うものになっていたかもしれない。
「四月の半ば、芽衣さんにまた一つ大きな変化が起こった」
「藤枝との交際ですね」
「俺もつい最近までは、相手が藤枝とは知らなかったけどな……芽衣さんは俺以外の男と関係を持つようになったようだった」
繭加もとっくに察していただろうが、それでも俊平はこの事実を改めて口にすることを少し躊躇った。芽衣は同時期に二人の男性と交際していた。誰からも愛される優等生の橘芽衣の像が、ひび割れていく。身内である繭加がショックを受けないはずがない。
「……二股というやつですね」
繭加も一瞬言い淀むが、あえてはっきりとした表現を用いた。身内だからと芽衣を色眼鏡を見てはいけない。今は真実だけを見つめなければいけないのだ。
「そうだな。事実だけを見れば、芽衣さんは俺と藤枝に二股をかけたことになる。藤枝の告白から芽衣さんの返答まで一週間あったそうだから、悩み抜いた末の決断ではあったんだろうな……そう信じたい」
「どうして藍沢先輩との交際中に、藤枝の告白を受け入れたんでしょうか?」
「想像することしか出来ないが、身近に、心の支えになってくれる人が欲しかったのかもしれない。中学生で学校も違い、普段はなかなか会えない俺。それに対して藤枝は、中学時代からの友人で同じ高校の同級生。加えて当時は正真正銘の優等生だった。どちらが頼りになるかと言われれば、それは後者だろうから」
「……藍沢先輩からしたら、酷い裏切りです」
繭加の声は震えていた。大好きな芽衣を悪く言いたくなんてない。だけど当事者の話を聞けば聞くほど、俊平に感情移入せずにはいられなかった。
「その件については藤枝もな」
「……そうですね。確かに当時の藤枝にとっても酷い裏切りです」
「藤枝のことは軽蔑しているが、それはあくまでも一連の女性関係の悪行に関してだ。二年前の出来事については、確かに別れ際に芽衣さんに吐いたという暴言にはついては心中複雑だけど……俺にはあの人を責める権利はない」
それまで表面上は平静を装ってきた俊平が、初めて目元を覆った。声もこれまでになく震えている。そろそろ核心に触れなければいけない。当事者の一人として、激しい後悔と自己嫌悪を感じずにはいられなかった。
「芽衣さんが自殺する、前日の話をしようと思う。覚悟はいいか?」
「どんなお話でも受け止めます」
繭加は震える俊平の手に自分の手を重ねた。