「繭加ちゃん。大事な話って何?」
決戦の日に選ばれたのは、橘芽衣の命日から三週間後の五月二十八日だった。
放課後を利用して、繭加は藤枝を校舎の屋上へと呼び出した。藤枝の表情にはまるで警戒心がない。それどころか、これまでは身持ちの固かった繭加からの始めての呼び出した。藤枝はむしろ機嫌が良かった。これから自らのダークサイドを暴かれることになるとは夢にも思っていない。
「それは全員が揃ってからです」
「全員ってどういうこと? 一対一じゃないのか」
予想外の展開に藤枝が眉をしかめたが、質問を投げかける間もなく、残る役者が舞台に姿を現した。
「俺も同席させてもらいます」
俊平は屋上の扉を閉めると、逃がすつもりはないと言わんばかりに、両腕を組んで扉へと背中を預けた。
「どうして俊平がここに。二人は知り合いだったのか?」
困惑しながらも、藤枝はまだそこまで危機感は抱いていないようだった。気心知れた後輩である俊平の存在が大きいのだろう。藤枝の俊平に対する信頼はそれだけ強い。そしてこれから、その最も信頼している人間から敵意を向けられようとしている。信頼も今となっては皮肉なものだ。
「私と藍沢先輩は同盟関係ですから。こうして共に真実を究明することは当然の流れです」
「同盟関係? 真実を究明? 繭加ちゃん。一体何を言っているんだ」
不愉快そうに藤枝が眦を上げた。これまで何でも思い通りにしてきた。その高慢さから、話に置いていかれるのは不愉快だった。
「私達はずっとあなたのことを調べてていました。あなたのダークサイド、心の闇を覗き見るためにね」
「何だって……」
寝耳に水。今この瞬間まで、藤枝はその可能性はまったく疑っていなかった。
「一体、僕の何を調べるというんだ」
「橘芽衣の死の真相ですよ」
「橘芽衣……だと」
藤枝は緊張から瞬きの回数が増え、ゴクリと生唾を飲み込んだ。装っていた平静が剥がれだしている。桜木志保や高見賢勇がその名を口にした時もそうだったように、藤枝は橘芽衣の名前に敏感だ。
「繭加ちゃん。君は何者なんだ?」
「私は橘芽衣の従妹ですよ」
「き、君が……橘くんの……身内」
初対面時に俊平に対して言ったのと同じ台詞とトーンで繭加は微笑む。その言葉と表情は、受け止める側によって捉え方は大きく変わってくる。俊平にとっては驚き以上に興味の対象でもあったその告白は、藤枝にとってはただただ恐怖でしかないようだ。呼吸が乱れ、動揺は汗の形を借りて体の外へ逃げ出そうとする。
「俊平! これはどういうことだ?」
繭加を直視することを恐れ、藤枝の視線は関係の深い俊平へと向けられる。先輩後輩として、中学時代からずっと仲良くやってきた。彼ならばきっと、自分を無碍に扱うような真似はしないはずだ。
「御影の言った通りです。俺達は橘先輩の死の真相を明らかにすべく、あなたを探っていた」
「俊平……そんな」
「断言しておきます。俺はあなたの味方じゃない」
凍てつく眼光と共に放たれた、突き放すかのような「あなた」という言葉。いつだって年長者への敬意を忘れず、「藤枝さん」と呼んでくれた俊平から放たれたその音葉は、事の深刻さを藤枝へと痛感させた。この場に味方など一人もいない。頼れる後輩が敵に回った以上、それは最も警戒すべき脅威の誕生に他ならない。
「ホストは私です。目を逸らされるのは、いささか不愉快ですね」
俊平を見つめる藤枝の視界へと割って入り、繭加は藤枝を見据える。口元に浮か微笑みは妖艶だ。黒髪と色白な肌の印象も相まって、魔女の誘惑のようにも映る。
「何が聞きたい?」
この眼差しからは決して逃げられない。追求を逃れることを諦めた藤枝は、観念してその場へと座り込んだ。強いストレスを感じているのだろう。苛立ちを表すかのように、右手で無造作に髪をかき乱している。
「芽衣姉さんが亡くなる直前まで、あなたと芽衣姉さんが交際していたという情報を掴んでいます。芽衣姉さんの自殺の動機は、あなたにあるのではありませんか?」
「確かに僕は橘さんと交際していたが、だからといって彼女の死の原因が僕にあるというのは、いささか早計じゃないか?」
「何もタイミングだけであなたを疑っているわけではありません。あなたの人格込みで、芽衣姉さんの心を傷つけた可能性があると言っているのです」
「人格否定はあまりにも失礼じゃないか? 僕を侮辱するなよ!」
この状況で今更優等生の仮面は不要だと判断したのだろう。普段の穏やかな印象からは想像もつかぬ、荒々しい口調で藤枝は反論する。客観的に見れば確かに、人格に問題があると指摘する繭加の態度は不遜ではあるが、藤枝の悪行の裏付けを取っている以上、藤枝の豹変は正当な反論というよりも、本性の一端が垣間見えたという印象が強い。
「裏付けは取れています。あなたの女癖の悪さも、関係を持った女性を隠し撮りし、別れた後に自分の悪評が広まらないように工作していたことも、私たちは全て知っています」
「証拠でもあるのか?」
「御影。俺が代わる」
見苦しいと心の中で呆れつつ、俊平が返答を名乗り出た。その方がきっと、藤枝が受けるダメージも大きい。
「確固たる証拠はありませんが、何か問題がありますか? 俺達は警察でも裁判官でもない。重要なのは証拠の有無ではなく、俺達が納得しているかどうかです。どんなに否定しようとも、俺達は確信を持って、こうやってあなたに仕掛けている」
「暴論だ。藍沢俊平らしくない」
「先輩に一切の疑念や反感を抱かない、従順な後輩であることが俺らしさですか? そんな役割は御免ですよ」
「僕に対してそんな台詞を吐くとは、随分と変わったね。それとも、僕が気付いていなかっただけで、昔からそういう一面があったのかな?」
「俺だって出来ることなら、あなたとこういう形で相対したくはなかった。少なくとも俺は、あの頃と何も変わっていませんよ。変わったというのなら、それはあなたの方だ」
「何も知らないくせに!」
「だったら教えてくださいよ! あなたという人間を、あなたの心の闇を」
「……心の闇なんて」
俊平は静かに藤枝へとにじみよっていく。気まずさから、藤枝は視線を逸らそうとしたが。
「目を逸らすなよ。どうせ逃げ道なんて無いんだ。先輩らしく、せめてどっしり構えていてください」
そう言って、俊平は藤枝の目線に合わせてしゃがみ込む。
後輩からの厳しい言葉に思うところあったのか、藤枝もゆっくりと視線を目線を上げ、無表情の俊平を真っ直ぐ見据えた。
「俺達の掴んだ情報によると、あなたの女性関係が荒れ始めたのは二年前の夏休み頃からだ。少なくとも橘先輩と付き合っている頃のあなたは、俺もよく知る藤枝耀一だったと思うんです」
いつの間にか主導権を握っていた俊平の発言に、藤枝はもちろんのこと、繭加も呆気に取られて目を見開いている。立ち会わせてくれとは言っていたが、ここまで俊平が積極的だとは思っていなかった。
「あなたを変えるきっかけは、橘先輩との交際にあったんじゃないですか?」
「……それは」
「正直に話してください。あなたの悪行を軽蔑するが、だからといってこれまでの思い出が全て消えてなくなるわけじゃない。先輩を尊敬していた俺の気持ちは本物だ。これ以上、思い出を汚さないでください。後輩の俺に真実を話してください」
熱意の乗った俊平の訴えは、かつて共に笑いあった先輩の心を確かに射抜いた。やさぐれたていた藤枝の表情が微かに緩み、かつての先輩のような、少しだけ穏やかな表情を浮かべている。
「……橘さんは僕の初恋の相手だった。中学の頃から、女の子から告白される機会は何度もあったけど、好きな人がいるからと、誠意を持って全て断ってきた。今の僕が言っても説得力はないと思うけど、僕は橘さんに一途だったんだ」
「信じますよ。俺のよく知る藤枝耀一はそういう人です」
中学生時代。藤枝が後輩の女子生徒に告白されている場面をたまたま目撃したことがあったが、その際の誠意ある対応は、一人の男として尊敬できるものであった。今がどうであれ、当時の藤枝が一人の女子生徒に対し、一途な思いを抱く正純な人物であったことを否定するつもりはない。
「高校進学を機に覚悟を決めて、橘さんへの思いを打ち明けることにした。考える時間が欲しいと言われて、一週間後にOKの返事を貰えた。あの日は僕にとって人生最良の一日だった……それなのに」
「長くは続かなかった?」
俊平の言葉に、藤枝は沈痛な面持ちで頷きを返す。もう戻れないあの日々。どうしてあのまま、平和な日常は続いてくれなかったのだろう。そんな後悔が滲んでいるのかもしれない。
「今になって思えば、彼女には最初から笑顔は無かった。二週間後、ゴールデンウイークの最中に、突然彼女の方から別れを切り出してきた。交際して最初の大型連休だ。有頂天だった僕にとっては、まさしく急転直下の出来事だったよ」
「理由は何だったんですか?」
問い掛けたのは繭加だった。ホストに主導権を返そうと、俊平は一歩身を引いて成り行きを見守る。
「……ただ別れたいと言うばかりで、彼女はその理由を一切口にしなかった。もちろん僕の方は納得なんて出来ない。必死に理由を問い詰めたさ。僕に何か悪い所があるなら矯正する。君の理想の男性になれるよう、努力するからって……だけど彼女は結局、僕に別れの理由を告げてはくれなかった」
「その後、どうなったんですか?」
「彼女に何度も酷い言葉を浴びせてしまった。だって理不尽だろう? 少なくとも当時の僕には自分の非に思い当たる節はない。理由を聞いても答えてもらえない。僕は感情を爆発させて捲し立てるしかことしか出来なかった。確証も無いのに浮気を疑って、普段なら絶対に口にしないような暴言を吐いた……流石に手を上げるような真似はしなかったけど、僕は自制が利かずに言葉で暴力を振るい続けた……正直なところ、暴言の全てを僕自身も覚えてはいない。一つだけ確かなのは……最後に一際感情的に、『君なんて死んでしまえ』と叫んだことだ……」
藤枝は懺悔するようにその場に崩れ落ち、息も絶え絶えに声を絞り出す。改めて当時の自分の攻撃性を省みたことで、内心では己に対する恐怖と自己嫌悪とが入り乱れていた。発言や振る舞いについて、藤枝なりに強い自責の念を感じていた。
一途に恋慕していたからこそ、橘芽衣から交際解消を申し入れられたことは、藤枝にとっては酷い裏切りに思えた。なまじ周囲に愛され、誰からも慕われて生きてきた藤枝だからこそ、必要とされない、距離を置かれるという行為に対する耐性がまるでなかったことも事態を悪化させた。藤枝は周囲から、年齢の割に成熟した大人びた人間だと思われていた。橘芽衣もその一人だっただろう。少なくとも、感情的に暴言を吐いてくる幼稚な人間だとは思っていなかった。だけど、周囲かの印象と当人の心境との差異は大きい。十代の少年相応に、あるいはそれ以上に、藤枝の心は繊細だった。橘芽衣は本気で恋した相手だ。決して傷つけることは本意ではなかっただろう。それでも、予期せぬ感情の決壊は止められない。刹那か永劫か、その瞬間を本人がどう感じていたかは定かでないが、藤枝が我に返った時には、あらかた暴言を吐き尽した後であった。
「言うだけ言って、僕は彼女の前を立ち去った。彼女が屋上から身を投げたのは、その二日後のことだ……僕が橘さんを追い詰めた。彼女の自殺の原因は僕だ」
「……そうですか」
平静を装ってきた繭加もこの時ばかりは辛そうに目を伏せ、声と体を微かに震わせていた。繭加の体を支えるように、俊平は優しくその肩へと触れる。
人のダークサイドを探求する繭加も、身内の話となれば平常心でいることは難しい。気丈にも平常心を保とうと踏ん張っている。繭加のこういう人間臭いところが見られて、俊平はどことなくホッとしている部分もあった。
「それから、あなたはどうされたんですか?」
「……橘さんの死の直後に、僕が学校を休みがちにでもなったらあからさまだろう? 必死に平静を装って、何とか日常をやり過ごしたよ。忙しさで気持ちを紛らわようと、無理やり予定を詰め込んだ。橘さんが自殺した原因は不明のままだったけど、高校入学という環境の変化が、彼女に強いストレスを与えたのだろうということで周囲は納得し、橘さんの話題が出る機会も徐々に減って来た。同じ中学出身だし、橘さんの話題に僕が登場することも少なからずあったけっど、自殺との関連性を疑う声は一つもなかった……だけど」
「当事者であるあなた自身が、芽衣姉さんのことを忘れることが出来なかった?」
「繭加ちゃんにはもう分かっているみたいだね。暴言に対する負い目はもちろんのこと、彼女に恋焦がれる気持ちも変わらず僕には存在していた。亡くなった後も、僕は彼女を愛していたんだ……だけど、死者への恋慕など終わることのない呪いのようなものだ。前へ進むためにも、橘さんのことを忘れなければと思った。行動に移したのは夏休みの頃だよ」
二年前の夏休みに起こった藤枝の変化。それは、桜木志保からもたらされた情報とも一致している。橘芽衣は最初の被害者ではない。藤枝のダークサイドが表面化する至ったきっかけだったのだ。
「積極的に女の子と関係を持つようになった。より魅力的な女の子との出会いが、橘さんの存在を忘れさせてくれると思ったんだ」
「……そんなこと、出来るわけないでしょう」
俊平の呟きには静かな怒りが滲んでいる。ポケットに両手を突っ込んだまま、胸糞悪いと言わんばかりに荒々しく床を踏みつけた。
「俊平の言う通りだ。どんなに女の子と関係を持っても、すぐに橘さんの顔が頭に浮かぶ。橘さんと比較して、早々に興味を失ってしまう。正直な話、中には橘さんに負けず劣らず綺麗な子もいたけど、それでも僕の心は満たされなかった……いつかは記憶の中の橘さんに別れを告げられると思っていたけど、今日に至るまで、僕は彼女を忘れることが出来ないでいる」
「多くの女性を傷つけて、自分の評判を守るために被害者を脅すような真似までして。そこまでして続けなければいけないことだったのか?」
「我ながら都合のいい話しさ。強迫観念に駆られるように多くの女性と関係を結びながらも、自己保身に走る程度には僕は理性的だった。普段の僕は自分で言うのもなんだけど、模範的な優等生であり、誰からも慕われる頼れる先輩だ。正直そんな自分に酔っていた。それが崩れ去る様は、恐ろしくて想像出来なかったから……」
「被害者達に申し訳ないとは思わなかったのか? 薄っぺらい謝罪なら止めてください。俺が知りたいのは本心だ」
「……保身に手いっぱいで、捨てた子達の心境を気にかけていなかった。慣れてきてからは、女の子たちの裸を写すことも、脅しの文句も、僕の中ではもはや作業と化していたから」
呆れて物も言えず、俊平はポケットに手を突っ込んだまま藤枝に背を向けた。その背中は、かつて尊敬した先輩に対する決別を表明しているようにも見える。
「これが僕の話せる全てだよ」
消え入るような声でそう言うと、藤枝は意気消沈した様子で自身の膝へと顔を埋めた。自身の暗部を他人に、それも最も信頼していた後輩たちに暴かれた衝撃。己を省みて、その醜悪さを自覚したことに対する衝撃。あと一手、些細な刺激で崩壊してしまいそうなほどに、今の藤枝は大きくひび割れていた。
「あなたのダークサイド。しかと見届けさせて頂きました」
そう言って、繭加はブレザーの内ポケットに手をやった。本人からの自白という、これ以上ないダークサイドの証明を、彼女の武器は今回もしっかりと記録したようだ。
ダークサイドの収集という、最も重要な作業を完了しても、繭加の表情は優れない。実の姉のように慕う人の死の真相に関わる事柄だ。手放しでは喜べないのも当然だろう。
ひょっとしたら、これまでのダークサイドの収集の全てが、今日という日のための予行練習だったのかもしれない。真相を突き止めるための調査能を鍛えることはもちろん、真相を知ることを恐れる気持ちを、趣味という建前を作り上げることで誤魔化そうとしていた。あるいは従姉の死の原因を作った人間に臆せず立ち向かえるよう、多くのダークサイドに触れることで耐性を身に着けようとした。真相は本人のみぞ知るところだが、それこそが繭加がダークサイドの収集を始めたきっかけだったのかもしれない。
「……橘さんの自殺の原因や、僕の悪行を知って、君達はこれからもどうするつもりなんだ?」
恐ろしさのあまり、顔を上げられぬまま藤枝が声を震わせる。
因果関係の証明が難しい自殺の件はともかく、女性関係に関しては、然るべき措置を取られれば、学生とはいえ社会的制裁を受ける可能性は十分に考えられる。
「私は真相を知ることが出来ただけで満足です。人の心の闇、私はダークサイドと呼んでいますが、それを収集することが私の目的。それ以外の用途に情報を利用する意志は私にはありません。それが私の決めたダークサイド収集のルールです。例え芽衣姉さんに関連した事案であったとしても、例外にはしません。この場で見聞きした情報が公開されることはありませんのでご安心を」
どうしたらいいか分からないというのが、繭加の本音だったのかもしれない。趣味という建前を作り上げたのは、事務的に事態を治める理由作りの意味もあったのかもしれない。
「本当に?」
顔を上げた藤枝が、不安気に繭加と俊平とを見比べる。繭加からの口約束だけでは心配だ。見知った人物からも言質を取りたいのだろう。
「俺の知る限り、御影は入手した情報を広めるような真似をしたことはありません。彼女の言葉を信じてください。御影は決して、藤枝さんの秘密を漏らしたりしませんから」
「……分かった。信じるよ」
所詮は学生同士の口約束だ。信じるか信じないか。最後は感情論でしかない。
繭加の口にしたルールという言葉と、最後にもう一度だけ昔のように藤枝さんと呼んでくれた俊平の思いを、藤枝は信じることにした。元々主導権を持たぬ身だ。言葉を信じる他ない。
「お話は終わりです。もう行ってもけっこうですよ」
藤枝は力なく立ち上がり、重い足取りで屋上の出入り口へと歩いていく。すれ違い様に俊平と藤枝の目が合ったが、何か言いたそうにしながらも、結局お互いに言葉を発することはなかった。
「やっぱり、最後に一つだけ」
去り際の藤枝を、繭加が呼び止めた。
「橘芽衣の身内として、一つだけお願いがあります」
「何だい?」
「いつでもいい。心の整理がついたら、一度芽衣姉さんにしっかりと謝ってください」
「……そうだね。僕は彼女に謝罪しなくてはいけない」
消え入るような声で背中で語ると、藤枝は校舎の中へと戻っていった。
「あれで良かったのか?」
「ルールはルールです。最後のお願いはグレーゾーンですが、芽衣姉さんの身内として、あれぐらいは許されるでしょう」
「お前がそれでいいのなら、俺は別に構わないが」
繭加の目的は真実を知ることにある。橘芽衣の自殺の原因を作ったであろう、藤枝耀一の告白を受けたことで、繭加の目的は達成された、ということなのだろう。言葉では割り切れても、感情がそれに追いついているかはまた別問題だが。
「御影。大丈夫か?」
「何がですか?」
「心にポッカリと穴が空いてないか心配でな」
「確かに、虚無のようなものは感じています。別れを告げた相手に逆上され、酷い暴言を浴びせられたことを苦にして自殺。真実なんて、結局はシンプルなんだなって」
「真相に不満が?」
「当事者である藤枝が語った以上、あれが真実なのでしょう。芽衣姉さんは誰かに恨まれるような人じゃありませんでした。初めて向けられた酷い悪意が、想像以上に心を抉ったということなのだと思います。不謹慎を承知で言いますが、私はもしかしたら、心のどこかで芽衣姉さんの死にドラマを求めていたのかもしれません。憧れの芽衣姉さんが死んでしまった。きっと何か、とんでもない理由があるに違いない。芽衣姉さんが大好きだからこそ、そう思わざるおえなかったのです。ありきたりな理由で死ぬような人じゃないと。だけど、真実はやはりシンプルなもので……虚無の正体は、想像と現実とのギャップだと思います」
「不謹慎なんかじゃないさ。大切な人が死んだ原因に、何か特別な理由を求めたくなる。近しい人間として、そう考えてしまうのも仕方ない」
「……皮肉も言わずに慰めてくれるなんて、優しいですね」
「いつも皮肉を言ってくるのはお前の方だろう。それはそれとして、俺は空気は読める人間のつもりだ。先輩として、傷心の後輩を慰めるくらいの配慮はするさ」
「今の私、傷心しているんですかね」
「傷心だよ。お前の言うギャップって奴が、心の傷なんだと思う。目は口ほどにものを言うとも言うしな」
「どういう意味ですか?」
「今にも泣き出しそうな顔をしてるぞ」
俊平に指摘されて初めて、繭加の左目から涙が零れ落ちそうになっていることに気がついた。趣味。ルール。ギャップ。様々な言葉で取り繕うとも、身内の自殺の真相を知った直後に感情が溢れ出そないはずがない。瞳が濡れるのは自然な反応だった。
「一仕事終えたんだ。ゆっくり休め」
「……そうですね。流石に今日は疲れました」
「帰りに何か食べていくか? 常識の範囲でなら奢る」
「では、回らないお寿司で」
「らしくなってきじゃないか。帰りはハンバーガーな」
「ポテトもつけていいですか?」
「ドリンクとスイーツもつけてやるよ」
出会って三週間ほど。思えば二人で寄り道をするのは初めてだった。
決戦の日に選ばれたのは、橘芽衣の命日から三週間後の五月二十八日だった。
放課後を利用して、繭加は藤枝を校舎の屋上へと呼び出した。藤枝の表情にはまるで警戒心がない。それどころか、これまでは身持ちの固かった繭加からの始めての呼び出した。藤枝はむしろ機嫌が良かった。これから自らのダークサイドを暴かれることになるとは夢にも思っていない。
「それは全員が揃ってからです」
「全員ってどういうこと? 一対一じゃないのか」
予想外の展開に藤枝が眉をしかめたが、質問を投げかける間もなく、残る役者が舞台に姿を現した。
「俺も同席させてもらいます」
俊平は屋上の扉を閉めると、逃がすつもりはないと言わんばかりに、両腕を組んで扉へと背中を預けた。
「どうして俊平がここに。二人は知り合いだったのか?」
困惑しながらも、藤枝はまだそこまで危機感は抱いていないようだった。気心知れた後輩である俊平の存在が大きいのだろう。藤枝の俊平に対する信頼はそれだけ強い。そしてこれから、その最も信頼している人間から敵意を向けられようとしている。信頼も今となっては皮肉なものだ。
「私と藍沢先輩は同盟関係ですから。こうして共に真実を究明することは当然の流れです」
「同盟関係? 真実を究明? 繭加ちゃん。一体何を言っているんだ」
不愉快そうに藤枝が眦を上げた。これまで何でも思い通りにしてきた。その高慢さから、話に置いていかれるのは不愉快だった。
「私達はずっとあなたのことを調べてていました。あなたのダークサイド、心の闇を覗き見るためにね」
「何だって……」
寝耳に水。今この瞬間まで、藤枝はその可能性はまったく疑っていなかった。
「一体、僕の何を調べるというんだ」
「橘芽衣の死の真相ですよ」
「橘芽衣……だと」
藤枝は緊張から瞬きの回数が増え、ゴクリと生唾を飲み込んだ。装っていた平静が剥がれだしている。桜木志保や高見賢勇がその名を口にした時もそうだったように、藤枝は橘芽衣の名前に敏感だ。
「繭加ちゃん。君は何者なんだ?」
「私は橘芽衣の従妹ですよ」
「き、君が……橘くんの……身内」
初対面時に俊平に対して言ったのと同じ台詞とトーンで繭加は微笑む。その言葉と表情は、受け止める側によって捉え方は大きく変わってくる。俊平にとっては驚き以上に興味の対象でもあったその告白は、藤枝にとってはただただ恐怖でしかないようだ。呼吸が乱れ、動揺は汗の形を借りて体の外へ逃げ出そうとする。
「俊平! これはどういうことだ?」
繭加を直視することを恐れ、藤枝の視線は関係の深い俊平へと向けられる。先輩後輩として、中学時代からずっと仲良くやってきた。彼ならばきっと、自分を無碍に扱うような真似はしないはずだ。
「御影の言った通りです。俺達は橘先輩の死の真相を明らかにすべく、あなたを探っていた」
「俊平……そんな」
「断言しておきます。俺はあなたの味方じゃない」
凍てつく眼光と共に放たれた、突き放すかのような「あなた」という言葉。いつだって年長者への敬意を忘れず、「藤枝さん」と呼んでくれた俊平から放たれたその音葉は、事の深刻さを藤枝へと痛感させた。この場に味方など一人もいない。頼れる後輩が敵に回った以上、それは最も警戒すべき脅威の誕生に他ならない。
「ホストは私です。目を逸らされるのは、いささか不愉快ですね」
俊平を見つめる藤枝の視界へと割って入り、繭加は藤枝を見据える。口元に浮か微笑みは妖艶だ。黒髪と色白な肌の印象も相まって、魔女の誘惑のようにも映る。
「何が聞きたい?」
この眼差しからは決して逃げられない。追求を逃れることを諦めた藤枝は、観念してその場へと座り込んだ。強いストレスを感じているのだろう。苛立ちを表すかのように、右手で無造作に髪をかき乱している。
「芽衣姉さんが亡くなる直前まで、あなたと芽衣姉さんが交際していたという情報を掴んでいます。芽衣姉さんの自殺の動機は、あなたにあるのではありませんか?」
「確かに僕は橘さんと交際していたが、だからといって彼女の死の原因が僕にあるというのは、いささか早計じゃないか?」
「何もタイミングだけであなたを疑っているわけではありません。あなたの人格込みで、芽衣姉さんの心を傷つけた可能性があると言っているのです」
「人格否定はあまりにも失礼じゃないか? 僕を侮辱するなよ!」
この状況で今更優等生の仮面は不要だと判断したのだろう。普段の穏やかな印象からは想像もつかぬ、荒々しい口調で藤枝は反論する。客観的に見れば確かに、人格に問題があると指摘する繭加の態度は不遜ではあるが、藤枝の悪行の裏付けを取っている以上、藤枝の豹変は正当な反論というよりも、本性の一端が垣間見えたという印象が強い。
「裏付けは取れています。あなたの女癖の悪さも、関係を持った女性を隠し撮りし、別れた後に自分の悪評が広まらないように工作していたことも、私たちは全て知っています」
「証拠でもあるのか?」
「御影。俺が代わる」
見苦しいと心の中で呆れつつ、俊平が返答を名乗り出た。その方がきっと、藤枝が受けるダメージも大きい。
「確固たる証拠はありませんが、何か問題がありますか? 俺達は警察でも裁判官でもない。重要なのは証拠の有無ではなく、俺達が納得しているかどうかです。どんなに否定しようとも、俺達は確信を持って、こうやってあなたに仕掛けている」
「暴論だ。藍沢俊平らしくない」
「先輩に一切の疑念や反感を抱かない、従順な後輩であることが俺らしさですか? そんな役割は御免ですよ」
「僕に対してそんな台詞を吐くとは、随分と変わったね。それとも、僕が気付いていなかっただけで、昔からそういう一面があったのかな?」
「俺だって出来ることなら、あなたとこういう形で相対したくはなかった。少なくとも俺は、あの頃と何も変わっていませんよ。変わったというのなら、それはあなたの方だ」
「何も知らないくせに!」
「だったら教えてくださいよ! あなたという人間を、あなたの心の闇を」
「……心の闇なんて」
俊平は静かに藤枝へとにじみよっていく。気まずさから、藤枝は視線を逸らそうとしたが。
「目を逸らすなよ。どうせ逃げ道なんて無いんだ。先輩らしく、せめてどっしり構えていてください」
そう言って、俊平は藤枝の目線に合わせてしゃがみ込む。
後輩からの厳しい言葉に思うところあったのか、藤枝もゆっくりと視線を目線を上げ、無表情の俊平を真っ直ぐ見据えた。
「俺達の掴んだ情報によると、あなたの女性関係が荒れ始めたのは二年前の夏休み頃からだ。少なくとも橘先輩と付き合っている頃のあなたは、俺もよく知る藤枝耀一だったと思うんです」
いつの間にか主導権を握っていた俊平の発言に、藤枝はもちろんのこと、繭加も呆気に取られて目を見開いている。立ち会わせてくれとは言っていたが、ここまで俊平が積極的だとは思っていなかった。
「あなたを変えるきっかけは、橘先輩との交際にあったんじゃないですか?」
「……それは」
「正直に話してください。あなたの悪行を軽蔑するが、だからといってこれまでの思い出が全て消えてなくなるわけじゃない。先輩を尊敬していた俺の気持ちは本物だ。これ以上、思い出を汚さないでください。後輩の俺に真実を話してください」
熱意の乗った俊平の訴えは、かつて共に笑いあった先輩の心を確かに射抜いた。やさぐれたていた藤枝の表情が微かに緩み、かつての先輩のような、少しだけ穏やかな表情を浮かべている。
「……橘さんは僕の初恋の相手だった。中学の頃から、女の子から告白される機会は何度もあったけど、好きな人がいるからと、誠意を持って全て断ってきた。今の僕が言っても説得力はないと思うけど、僕は橘さんに一途だったんだ」
「信じますよ。俺のよく知る藤枝耀一はそういう人です」
中学生時代。藤枝が後輩の女子生徒に告白されている場面をたまたま目撃したことがあったが、その際の誠意ある対応は、一人の男として尊敬できるものであった。今がどうであれ、当時の藤枝が一人の女子生徒に対し、一途な思いを抱く正純な人物であったことを否定するつもりはない。
「高校進学を機に覚悟を決めて、橘さんへの思いを打ち明けることにした。考える時間が欲しいと言われて、一週間後にOKの返事を貰えた。あの日は僕にとって人生最良の一日だった……それなのに」
「長くは続かなかった?」
俊平の言葉に、藤枝は沈痛な面持ちで頷きを返す。もう戻れないあの日々。どうしてあのまま、平和な日常は続いてくれなかったのだろう。そんな後悔が滲んでいるのかもしれない。
「今になって思えば、彼女には最初から笑顔は無かった。二週間後、ゴールデンウイークの最中に、突然彼女の方から別れを切り出してきた。交際して最初の大型連休だ。有頂天だった僕にとっては、まさしく急転直下の出来事だったよ」
「理由は何だったんですか?」
問い掛けたのは繭加だった。ホストに主導権を返そうと、俊平は一歩身を引いて成り行きを見守る。
「……ただ別れたいと言うばかりで、彼女はその理由を一切口にしなかった。もちろん僕の方は納得なんて出来ない。必死に理由を問い詰めたさ。僕に何か悪い所があるなら矯正する。君の理想の男性になれるよう、努力するからって……だけど彼女は結局、僕に別れの理由を告げてはくれなかった」
「その後、どうなったんですか?」
「彼女に何度も酷い言葉を浴びせてしまった。だって理不尽だろう? 少なくとも当時の僕には自分の非に思い当たる節はない。理由を聞いても答えてもらえない。僕は感情を爆発させて捲し立てるしかことしか出来なかった。確証も無いのに浮気を疑って、普段なら絶対に口にしないような暴言を吐いた……流石に手を上げるような真似はしなかったけど、僕は自制が利かずに言葉で暴力を振るい続けた……正直なところ、暴言の全てを僕自身も覚えてはいない。一つだけ確かなのは……最後に一際感情的に、『君なんて死んでしまえ』と叫んだことだ……」
藤枝は懺悔するようにその場に崩れ落ち、息も絶え絶えに声を絞り出す。改めて当時の自分の攻撃性を省みたことで、内心では己に対する恐怖と自己嫌悪とが入り乱れていた。発言や振る舞いについて、藤枝なりに強い自責の念を感じていた。
一途に恋慕していたからこそ、橘芽衣から交際解消を申し入れられたことは、藤枝にとっては酷い裏切りに思えた。なまじ周囲に愛され、誰からも慕われて生きてきた藤枝だからこそ、必要とされない、距離を置かれるという行為に対する耐性がまるでなかったことも事態を悪化させた。藤枝は周囲から、年齢の割に成熟した大人びた人間だと思われていた。橘芽衣もその一人だっただろう。少なくとも、感情的に暴言を吐いてくる幼稚な人間だとは思っていなかった。だけど、周囲かの印象と当人の心境との差異は大きい。十代の少年相応に、あるいはそれ以上に、藤枝の心は繊細だった。橘芽衣は本気で恋した相手だ。決して傷つけることは本意ではなかっただろう。それでも、予期せぬ感情の決壊は止められない。刹那か永劫か、その瞬間を本人がどう感じていたかは定かでないが、藤枝が我に返った時には、あらかた暴言を吐き尽した後であった。
「言うだけ言って、僕は彼女の前を立ち去った。彼女が屋上から身を投げたのは、その二日後のことだ……僕が橘さんを追い詰めた。彼女の自殺の原因は僕だ」
「……そうですか」
平静を装ってきた繭加もこの時ばかりは辛そうに目を伏せ、声と体を微かに震わせていた。繭加の体を支えるように、俊平は優しくその肩へと触れる。
人のダークサイドを探求する繭加も、身内の話となれば平常心でいることは難しい。気丈にも平常心を保とうと踏ん張っている。繭加のこういう人間臭いところが見られて、俊平はどことなくホッとしている部分もあった。
「それから、あなたはどうされたんですか?」
「……橘さんの死の直後に、僕が学校を休みがちにでもなったらあからさまだろう? 必死に平静を装って、何とか日常をやり過ごしたよ。忙しさで気持ちを紛らわようと、無理やり予定を詰め込んだ。橘さんが自殺した原因は不明のままだったけど、高校入学という環境の変化が、彼女に強いストレスを与えたのだろうということで周囲は納得し、橘さんの話題が出る機会も徐々に減って来た。同じ中学出身だし、橘さんの話題に僕が登場することも少なからずあったけっど、自殺との関連性を疑う声は一つもなかった……だけど」
「当事者であるあなた自身が、芽衣姉さんのことを忘れることが出来なかった?」
「繭加ちゃんにはもう分かっているみたいだね。暴言に対する負い目はもちろんのこと、彼女に恋焦がれる気持ちも変わらず僕には存在していた。亡くなった後も、僕は彼女を愛していたんだ……だけど、死者への恋慕など終わることのない呪いのようなものだ。前へ進むためにも、橘さんのことを忘れなければと思った。行動に移したのは夏休みの頃だよ」
二年前の夏休みに起こった藤枝の変化。それは、桜木志保からもたらされた情報とも一致している。橘芽衣は最初の被害者ではない。藤枝のダークサイドが表面化する至ったきっかけだったのだ。
「積極的に女の子と関係を持つようになった。より魅力的な女の子との出会いが、橘さんの存在を忘れさせてくれると思ったんだ」
「……そんなこと、出来るわけないでしょう」
俊平の呟きには静かな怒りが滲んでいる。ポケットに両手を突っ込んだまま、胸糞悪いと言わんばかりに荒々しく床を踏みつけた。
「俊平の言う通りだ。どんなに女の子と関係を持っても、すぐに橘さんの顔が頭に浮かぶ。橘さんと比較して、早々に興味を失ってしまう。正直な話、中には橘さんに負けず劣らず綺麗な子もいたけど、それでも僕の心は満たされなかった……いつかは記憶の中の橘さんに別れを告げられると思っていたけど、今日に至るまで、僕は彼女を忘れることが出来ないでいる」
「多くの女性を傷つけて、自分の評判を守るために被害者を脅すような真似までして。そこまでして続けなければいけないことだったのか?」
「我ながら都合のいい話しさ。強迫観念に駆られるように多くの女性と関係を結びながらも、自己保身に走る程度には僕は理性的だった。普段の僕は自分で言うのもなんだけど、模範的な優等生であり、誰からも慕われる頼れる先輩だ。正直そんな自分に酔っていた。それが崩れ去る様は、恐ろしくて想像出来なかったから……」
「被害者達に申し訳ないとは思わなかったのか? 薄っぺらい謝罪なら止めてください。俺が知りたいのは本心だ」
「……保身に手いっぱいで、捨てた子達の心境を気にかけていなかった。慣れてきてからは、女の子たちの裸を写すことも、脅しの文句も、僕の中ではもはや作業と化していたから」
呆れて物も言えず、俊平はポケットに手を突っ込んだまま藤枝に背を向けた。その背中は、かつて尊敬した先輩に対する決別を表明しているようにも見える。
「これが僕の話せる全てだよ」
消え入るような声でそう言うと、藤枝は意気消沈した様子で自身の膝へと顔を埋めた。自身の暗部を他人に、それも最も信頼していた後輩たちに暴かれた衝撃。己を省みて、その醜悪さを自覚したことに対する衝撃。あと一手、些細な刺激で崩壊してしまいそうなほどに、今の藤枝は大きくひび割れていた。
「あなたのダークサイド。しかと見届けさせて頂きました」
そう言って、繭加はブレザーの内ポケットに手をやった。本人からの自白という、これ以上ないダークサイドの証明を、彼女の武器は今回もしっかりと記録したようだ。
ダークサイドの収集という、最も重要な作業を完了しても、繭加の表情は優れない。実の姉のように慕う人の死の真相に関わる事柄だ。手放しでは喜べないのも当然だろう。
ひょっとしたら、これまでのダークサイドの収集の全てが、今日という日のための予行練習だったのかもしれない。真相を突き止めるための調査能を鍛えることはもちろん、真相を知ることを恐れる気持ちを、趣味という建前を作り上げることで誤魔化そうとしていた。あるいは従姉の死の原因を作った人間に臆せず立ち向かえるよう、多くのダークサイドに触れることで耐性を身に着けようとした。真相は本人のみぞ知るところだが、それこそが繭加がダークサイドの収集を始めたきっかけだったのかもしれない。
「……橘さんの自殺の原因や、僕の悪行を知って、君達はこれからもどうするつもりなんだ?」
恐ろしさのあまり、顔を上げられぬまま藤枝が声を震わせる。
因果関係の証明が難しい自殺の件はともかく、女性関係に関しては、然るべき措置を取られれば、学生とはいえ社会的制裁を受ける可能性は十分に考えられる。
「私は真相を知ることが出来ただけで満足です。人の心の闇、私はダークサイドと呼んでいますが、それを収集することが私の目的。それ以外の用途に情報を利用する意志は私にはありません。それが私の決めたダークサイド収集のルールです。例え芽衣姉さんに関連した事案であったとしても、例外にはしません。この場で見聞きした情報が公開されることはありませんのでご安心を」
どうしたらいいか分からないというのが、繭加の本音だったのかもしれない。趣味という建前を作り上げたのは、事務的に事態を治める理由作りの意味もあったのかもしれない。
「本当に?」
顔を上げた藤枝が、不安気に繭加と俊平とを見比べる。繭加からの口約束だけでは心配だ。見知った人物からも言質を取りたいのだろう。
「俺の知る限り、御影は入手した情報を広めるような真似をしたことはありません。彼女の言葉を信じてください。御影は決して、藤枝さんの秘密を漏らしたりしませんから」
「……分かった。信じるよ」
所詮は学生同士の口約束だ。信じるか信じないか。最後は感情論でしかない。
繭加の口にしたルールという言葉と、最後にもう一度だけ昔のように藤枝さんと呼んでくれた俊平の思いを、藤枝は信じることにした。元々主導権を持たぬ身だ。言葉を信じる他ない。
「お話は終わりです。もう行ってもけっこうですよ」
藤枝は力なく立ち上がり、重い足取りで屋上の出入り口へと歩いていく。すれ違い様に俊平と藤枝の目が合ったが、何か言いたそうにしながらも、結局お互いに言葉を発することはなかった。
「やっぱり、最後に一つだけ」
去り際の藤枝を、繭加が呼び止めた。
「橘芽衣の身内として、一つだけお願いがあります」
「何だい?」
「いつでもいい。心の整理がついたら、一度芽衣姉さんにしっかりと謝ってください」
「……そうだね。僕は彼女に謝罪しなくてはいけない」
消え入るような声で背中で語ると、藤枝は校舎の中へと戻っていった。
「あれで良かったのか?」
「ルールはルールです。最後のお願いはグレーゾーンですが、芽衣姉さんの身内として、あれぐらいは許されるでしょう」
「お前がそれでいいのなら、俺は別に構わないが」
繭加の目的は真実を知ることにある。橘芽衣の自殺の原因を作ったであろう、藤枝耀一の告白を受けたことで、繭加の目的は達成された、ということなのだろう。言葉では割り切れても、感情がそれに追いついているかはまた別問題だが。
「御影。大丈夫か?」
「何がですか?」
「心にポッカリと穴が空いてないか心配でな」
「確かに、虚無のようなものは感じています。別れを告げた相手に逆上され、酷い暴言を浴びせられたことを苦にして自殺。真実なんて、結局はシンプルなんだなって」
「真相に不満が?」
「当事者である藤枝が語った以上、あれが真実なのでしょう。芽衣姉さんは誰かに恨まれるような人じゃありませんでした。初めて向けられた酷い悪意が、想像以上に心を抉ったということなのだと思います。不謹慎を承知で言いますが、私はもしかしたら、心のどこかで芽衣姉さんの死にドラマを求めていたのかもしれません。憧れの芽衣姉さんが死んでしまった。きっと何か、とんでもない理由があるに違いない。芽衣姉さんが大好きだからこそ、そう思わざるおえなかったのです。ありきたりな理由で死ぬような人じゃないと。だけど、真実はやはりシンプルなもので……虚無の正体は、想像と現実とのギャップだと思います」
「不謹慎なんかじゃないさ。大切な人が死んだ原因に、何か特別な理由を求めたくなる。近しい人間として、そう考えてしまうのも仕方ない」
「……皮肉も言わずに慰めてくれるなんて、優しいですね」
「いつも皮肉を言ってくるのはお前の方だろう。それはそれとして、俺は空気は読める人間のつもりだ。先輩として、傷心の後輩を慰めるくらいの配慮はするさ」
「今の私、傷心しているんですかね」
「傷心だよ。お前の言うギャップって奴が、心の傷なんだと思う。目は口ほどにものを言うとも言うしな」
「どういう意味ですか?」
「今にも泣き出しそうな顔をしてるぞ」
俊平に指摘されて初めて、繭加の左目から涙が零れ落ちそうになっていることに気がついた。趣味。ルール。ギャップ。様々な言葉で取り繕うとも、身内の自殺の真相を知った直後に感情が溢れ出そないはずがない。瞳が濡れるのは自然な反応だった。
「一仕事終えたんだ。ゆっくり休め」
「……そうですね。流石に今日は疲れました」
「帰りに何か食べていくか? 常識の範囲でなら奢る」
「では、回らないお寿司で」
「らしくなってきじゃないか。帰りはハンバーガーな」
「ポテトもつけていいですか?」
「ドリンクとスイーツもつけてやるよ」
出会って三週間ほど。思えば二人で寄り道をするのは初めてだった。