「お話は聞いているよ。君が期待の二年生くんだね」
「藍沢俊平です。よろしくお願いします!」
俊平は懐かしい夢を見ていた。それは橘芽衣と出会った中学二年生の春の記憶。新たに生徒会役員となった俊平が、初めて生徒会室を訪れた日の出来事だ。
「元気がよくてよろしい。生徒会をやっていると、何かと声を張る機会も多いしね」
やや緊張した面持ちの俊平を優しく出迎えてくれたのが当時三年生で、生徒会長だった橘芽衣だった。知的な美人だが決して気取らず、親しみやすい印象の生徒会長。校内の有名人である橘芽衣の存在は当然知っていたが、これまでは接点もなく会話を交わした機会もない。そういう意味ではこの日がほぼ初対面であった。
芽衣とお近づきになりたいという、不純な動機で生徒会入りする者もいる中、俊平は担任教師から推薦され生徒会所属になったという経緯がある。下心など皆無のはずだったのだが。
綺麗な人だ。
それが、俊平が橘芽衣へ抱いた第一印象だった。一つしか年齢の変わらぬ同年代の女子に、可愛いではなく綺麗という印象を抱いたのは、これが初めての経験であった。決して容姿に限った話ではない。身に纏う雰囲気や、細やかな仕草一つ一つが美しく、とても印象深いのだ。
「先生からの推薦だそうだけど、君自身のモチベーションはどうなの?」
成績優秀かつ、気配り上手で周りがよく見えている俊平は教師陣からの評判も上々だ。そういった事情から生徒会役員へ推薦されたわけだが、必ずしも本人が乗り気であるとは限らない。教師からの提案を断り切れず、仕方がなく言う通りにしたという可能性も考えられる。
「いきなりモチベーションの話とは、攻めますね」
「これから一緒に活動していく仲間だからね。モチベーションの確認は大切だよ」
「だったら安心してください。元々生徒会には興味がありましたし、推薦は良いきっかけだと思います。綺麗ごとかもしれないけど、誰かのために何かをするのって嫌いじゃないんですよね」
「それはとても心強いね」
芽衣は素の表情はとても大人っぽいのに、笑顔を見せた瞬間は幼子のような愛嬌に溢れていた。ギャップも相まって、年頃の男子が鼓動の高まりを感じぬはずがない。
「ちなみに俺が、渋々生徒会を引き受けたモチベーションの低い人間だったらどうするつもりだったんですか?」
「その時は、君に生徒会の活動を楽しく思ってもらえるように、全力を尽くすつもりだった。何事も楽しまなければ損だもの」
「何事も楽しまなければ損か」
「あ、あれ。今の私、もしかして暑苦しかった?」
一転して芽衣はあたふたとする。綺麗な先輩は、小動物的な可愛さも併せ持っているようだ。短時間で様々な表情を覗かせる芽衣の姿は見ていて飽きがこない。
「全然。そういう考え方、俺も好きです」
「よかった、引かれちゃったかっと思ったよ」
「ある意味、惹かれたかも」
「どういうこと?」
「すみません。こっちの話でうs」
まだ恋心と呼べるほどの大きな感情ではなかったかもしれない。だけどこれが間違いなく、俊平が初めて橘芽衣の存在を強く意識した瞬間であった。
「橘さん。遅れてすまない」
慌てた様子で、一人の長身の男子生徒が生徒会室へと飛び込んできた。
「藤枝くんが遅刻だなんて珍しいね」
「後輩の相談に乗っていたら、時間を忘れてしまってね」
「人望があるのは良いことだけど、時間の管理はしっかりしないとね。副会長」
「面目ないです。会長殿」
鋭い指摘を受け、藤枝耀一は苦笑交じりに頬を掻いた。面倒見のいい藤枝は友人や後輩から相談事を持ち掛けられる機会が多い。生徒会と部活動、塾通いまで掛け持ちしながらも、決して後輩からの相談事も蔑ろにはしない。一つ一つの相談に真摯に向き合っている。そんな姿が好感を呼び、藤枝の人望は厚い。
「藤枝くん。彼が新しい役員よ。挨拶してあげて」
「驚かせてすまないね。副会長を務める三年の藤枝耀一です。どうぞよろしく」
「二年の藍沢俊平です。よろしくお願いします」
どちらからでもなく、自然と握手を交わしていた。お互いに気さくな者同士、打ち解け合うまでにそれ程時間はかからなかった。表情豊かで話し上手で、纏う雰囲気はいつだって柔らかくて、陽だまりのように温かい人。
藤枝に対する俊平のそんな印象は、ごく最近までは覆されることはなかった。
覆されることのなんてないまま、平穏に時が流れていくとばかり思っていたのに。
「藤枝くんはとても頼りになるから、分からないことがあれば遠慮なく聞いてね」
「橘さん。そういうのは普通、僕自身が言うべき台詞じゃないかな?」
「誰が口にしようと、藤枝くんが優秀であることに変わりはないでしょう」
やれやれといった様子で藤枝は肩を竦める。いつだって想像の上をいく返しをしてくる芽衣には、舌戦では敵いそうにない。
「改めて僕からも言わせてもらうけど、分からないことがあったら気軽に聞いてね。えっと、君は苗字と名前、どっちで呼ばれた方がやりやすい?」
「どちらかといえば名前の方ですかね。俊平と呼んでください」
「それじゃあ、今から俊平と呼ばせてもらうよ」
「それじゃあ私も、流れに便乗して俊平くんって呼ばせてもらおうかな」
たった三年で状況は激変してしまった。憧れだった橘芽衣は自ら命を絶ち、ずっと尊敬し続けてきた藤枝耀一への信頼は現在進行形で大きな揺らぎを見せている。どうしてこうなった? あの頃はあんなにも平和で楽しい時間をみんなで過ごせていたはずなのに。
※※※
「……ぺい」
――どこで間違えた。俺は一体どこで間違えたんだ?
「しゅんぺい」
――俺は……どうしたらいいんだ?
「俊平ってば!」
小夜の呼び掛けと揺すりで、ようやく俊平の意識は覚醒した。昼食を済ませてから間もなく、そのまま机に突っ伏して眠ってしまっていた。
「小夜か?」
「寝ぼけてるの? もうすぐ昼休みが終わっちゃうよ」
「寝不足でいつの間にか落ちてた。起こしてくれてありがとう」
「何か悪い夢でも見た? 何だか目が赤いよ」
「寝起きだし、ただの充血だよ」
「それならいいけど」
懐かしい夢を見た。懐かしくなってしまった夢というべきか。
当たり前に存在すると思っていたあの日々は、もう二度と帰ってこない。
※※※
「昨日の状況をご説明願おうか?」
翌日。放課後になるなり俊平は駆け足で文芸探求部の部室を訪れ、椅子にゆったりとかけている繭加に詰め寄る。大事な話だからこそ小細工は不要だ。真正面から問い掛ける。
「見たまま。あれは潜入捜査ですよ」
何を不思議がっているのかと、繭加はキョトンとした顔で小首を傾げている。
素なのか演技なのか微妙に分かりづらいのが小憎らしい。あれが潜入捜査であることくらい、事情を承知している人間ならば簡単に分かる。俊平が知りたいのは過程の方だ。
「俺が問題視しているのは、事前にそのことを知らされていなかったことだ」
あの場は繭加に配慮し適当に話を合わせておいたが、よくぞ即興で自然に振る舞えたものだと、俊平は我ながら感心していた。目まぐるしい日々が、次々と自分の新たな一面を掘り起こしていってるようにも感じる。
「事前に報告する程のことでもないだろうと思いまして」
「嘘だな。お前は俺のことを信用していなかっただけだ」
「そんなことは……」
「図星みたいだな」
「藤枝に近づくと藍沢先輩に相談したら、絶対に反対されると思ったので」
「だから黙って実行したと?」
バツの悪そうな表情で、繭加が無言で頷いた。身長差も手伝い、まるで説教を受ける子供のようだ。
「反対されると思ったと言ったな?」
「違うんですか?」
「反対したよ」
相談してもらえなかったことが、決してショックなわけではない。同盟を結んだとはいえ、繭加と俊平はまだ出会ってから日が浅い。全てを相談し合えるだけの信頼関係を築くには、まだ時間が少なすぎる。そのことは俊平だって理解している。
「だけど、考え直して最終的にはお前の提案を受け入れたかもしれない」
「どういう意味ですか?」
「今の俺は、以前ほど藤枝に肩入れしていないということだ。だから、もう少しだけ俺のことを信用してほしい」
流石の繭加も申し訳なさから、この時ばかりは返す言葉が見つからなかった。
自分の独断専行が俊平を傷つける行為であったと始めて自覚した。同盟を結ぶ仲間である以上、反対されることも覚悟の上で、まずは相談して話し合う場を設けるべきだった。
「ごめんなさい」
「いつになく素直じゃないか」
「今回は私に非がありますから」
「分かってくれたならそれでいい。次から何か実行する時には、俺にも一言相談してくれよ」
「約束します」
神妙な面持ちで繭加は頷く。これでこの話は終わりだ。俊平も置いてけぼりにされた件に関してはこれ以上は何も言わなかった。
「それで、藤枝とはいつから親密に?」
「親密な振りです」
芝居とはいえ、藤枝との間に親密という表現を使われることは嫌なのだろう。
繭加は「振り」であることを強調した。
「ごめん。いつから親密な振りを?」
「桜木さんにお話を伺った翌日からです。藤枝の行動パターンは把握していましたから、塾帰りに純粋無垢な後輩女子という体でアプローチをかけ、その日のうちに連絡先を交換しました。翌日には良い感じのお返事を頂き、初めて一緒に遊びにいった際に」
「偶然にも俺に遭遇したと」
「その通りです」
繭加の行動力もさることながら、その結果は藤枝という男の印象をさらに悪くするものでもあった。手が早いというやつだ。
「あれから大丈夫だったのか? その……変なことをされたりとか」
いきなり肉体関係にまでは発展していないだろうが、軽い接触ぐらいはあったのではないかと、仲間として心配になる。
「ご安心を。流石の藤枝もいきなりそんな真似はしてきませんでした。まだ外面バージョンといった感じですね」
「何もされていないならとりあえずは安心した。だけど次からは俺にも相談しろよ。何かあれば飛んでいくから」
幾分か冷静さを取り戻し、俊平も椅子に腰を落ち着け、繭加と向かい合った。罪悪感が気まずさを生んでいるのか、繭加はどことなく落ち着きがない。
「藤枝と接触してどう感じた?」
「抜群のルックスに加えて、話術巧みで女性を喜ばせる術に長けている。予備知識無く出会っていたなら、普通にときめいていたかもしれません」
「話術巧みってのは何となく分かる。昔からコミュ力の塊みたいな人だったから」
「藤枝との付き合いは、藍沢先輩の方が長いですものね」
「今となってはただの皮肉さ。俺はあの人の外面を無条件で受け入れていただけの、ただの無能だ」
「そうですね。無能です」
「そこは『そんなことありませんよ』とか言うところだろ」
「心にもない言葉で取り繕っても意味はないでしょう」
「もう少し包めよ。オブラートに」
「信頼を取り戻すためです。これも先輩に対する愛ですよ愛」
「さいですか」
意外と体力を使うのでツッコミも程々にしておいた。繭加が調子づいてきたようで何よりだと、今はポジティブに考えておく。
「藤枝について何か他に気づいたことは?」
「それとなく二年前の件の話題を振ってみたのですが、明らかに動揺していて、不自然に話題を切り替えてきました。桜木さんの言うように、藤枝には何か疚しい部分があるということなのでしょうね。まだ決定的な証拠はありませんが、場合によっては強力なカードで揺さぶりをかけ、藤枝自身の口から真実を語らせることも考えています」
「自分が橘先輩の身内だと打ち明け、藤枝の動揺を誘うつもりか?」
「察しがいいですね」
「いかにもお前の取りそうな手段だと思ってな」
「止めますか?」
「止めないよ。その変わり一つ条件がある」
「条件ですか?」
「カードを切る時は、俺もその場に同席させてくれ」
ここまで来て蚊帳の外になる事態だけは絶対に避けたい。関係者の一人として、事の顛末は絶対に己の目で見届けなればいけない。俊平にはその責任がある。
「分かりました。その際は同席をお願いいたします」
「助かるよ」
「私達は同盟ですから、利益は共有しないと」
「利益?」
「動機はどうであれ、私が真実を追い求めていることに変わりはありません。真実こそが私達にとっての利益でしょう?」
「なるほど、確かにその通りだ」
「藤枝に揺さぶりをかけるにしても、情報や証拠は多いに越したことはありません。私と芽衣姉さんの関係はあくまでも切り札ですから。これまで通り情報収集を続けた上で、揺さぶりをかけるタイミングを計りたいと思います」
「俺も独自のルートでもう少し調べてみるよ……たぶんあの人だって、昔から悪い人間だったわけではないだろうから」
懐かしい夢を見た影響もあるのだろうか。とっくに失望しているはずなのに、まだどこかで藤枝という存在への希望を捨てきれない自分がいた。良い面も悪い面も、臆せず両面を見つめる。相手を深く知ろうとすることには、いつだって傷が付きまとう。それを恐れてはいけないのだ。
「藍沢俊平です。よろしくお願いします!」
俊平は懐かしい夢を見ていた。それは橘芽衣と出会った中学二年生の春の記憶。新たに生徒会役員となった俊平が、初めて生徒会室を訪れた日の出来事だ。
「元気がよくてよろしい。生徒会をやっていると、何かと声を張る機会も多いしね」
やや緊張した面持ちの俊平を優しく出迎えてくれたのが当時三年生で、生徒会長だった橘芽衣だった。知的な美人だが決して気取らず、親しみやすい印象の生徒会長。校内の有名人である橘芽衣の存在は当然知っていたが、これまでは接点もなく会話を交わした機会もない。そういう意味ではこの日がほぼ初対面であった。
芽衣とお近づきになりたいという、不純な動機で生徒会入りする者もいる中、俊平は担任教師から推薦され生徒会所属になったという経緯がある。下心など皆無のはずだったのだが。
綺麗な人だ。
それが、俊平が橘芽衣へ抱いた第一印象だった。一つしか年齢の変わらぬ同年代の女子に、可愛いではなく綺麗という印象を抱いたのは、これが初めての経験であった。決して容姿に限った話ではない。身に纏う雰囲気や、細やかな仕草一つ一つが美しく、とても印象深いのだ。
「先生からの推薦だそうだけど、君自身のモチベーションはどうなの?」
成績優秀かつ、気配り上手で周りがよく見えている俊平は教師陣からの評判も上々だ。そういった事情から生徒会役員へ推薦されたわけだが、必ずしも本人が乗り気であるとは限らない。教師からの提案を断り切れず、仕方がなく言う通りにしたという可能性も考えられる。
「いきなりモチベーションの話とは、攻めますね」
「これから一緒に活動していく仲間だからね。モチベーションの確認は大切だよ」
「だったら安心してください。元々生徒会には興味がありましたし、推薦は良いきっかけだと思います。綺麗ごとかもしれないけど、誰かのために何かをするのって嫌いじゃないんですよね」
「それはとても心強いね」
芽衣は素の表情はとても大人っぽいのに、笑顔を見せた瞬間は幼子のような愛嬌に溢れていた。ギャップも相まって、年頃の男子が鼓動の高まりを感じぬはずがない。
「ちなみに俺が、渋々生徒会を引き受けたモチベーションの低い人間だったらどうするつもりだったんですか?」
「その時は、君に生徒会の活動を楽しく思ってもらえるように、全力を尽くすつもりだった。何事も楽しまなければ損だもの」
「何事も楽しまなければ損か」
「あ、あれ。今の私、もしかして暑苦しかった?」
一転して芽衣はあたふたとする。綺麗な先輩は、小動物的な可愛さも併せ持っているようだ。短時間で様々な表情を覗かせる芽衣の姿は見ていて飽きがこない。
「全然。そういう考え方、俺も好きです」
「よかった、引かれちゃったかっと思ったよ」
「ある意味、惹かれたかも」
「どういうこと?」
「すみません。こっちの話でうs」
まだ恋心と呼べるほどの大きな感情ではなかったかもしれない。だけどこれが間違いなく、俊平が初めて橘芽衣の存在を強く意識した瞬間であった。
「橘さん。遅れてすまない」
慌てた様子で、一人の長身の男子生徒が生徒会室へと飛び込んできた。
「藤枝くんが遅刻だなんて珍しいね」
「後輩の相談に乗っていたら、時間を忘れてしまってね」
「人望があるのは良いことだけど、時間の管理はしっかりしないとね。副会長」
「面目ないです。会長殿」
鋭い指摘を受け、藤枝耀一は苦笑交じりに頬を掻いた。面倒見のいい藤枝は友人や後輩から相談事を持ち掛けられる機会が多い。生徒会と部活動、塾通いまで掛け持ちしながらも、決して後輩からの相談事も蔑ろにはしない。一つ一つの相談に真摯に向き合っている。そんな姿が好感を呼び、藤枝の人望は厚い。
「藤枝くん。彼が新しい役員よ。挨拶してあげて」
「驚かせてすまないね。副会長を務める三年の藤枝耀一です。どうぞよろしく」
「二年の藍沢俊平です。よろしくお願いします」
どちらからでもなく、自然と握手を交わしていた。お互いに気さくな者同士、打ち解け合うまでにそれ程時間はかからなかった。表情豊かで話し上手で、纏う雰囲気はいつだって柔らかくて、陽だまりのように温かい人。
藤枝に対する俊平のそんな印象は、ごく最近までは覆されることはなかった。
覆されることのなんてないまま、平穏に時が流れていくとばかり思っていたのに。
「藤枝くんはとても頼りになるから、分からないことがあれば遠慮なく聞いてね」
「橘さん。そういうのは普通、僕自身が言うべき台詞じゃないかな?」
「誰が口にしようと、藤枝くんが優秀であることに変わりはないでしょう」
やれやれといった様子で藤枝は肩を竦める。いつだって想像の上をいく返しをしてくる芽衣には、舌戦では敵いそうにない。
「改めて僕からも言わせてもらうけど、分からないことがあったら気軽に聞いてね。えっと、君は苗字と名前、どっちで呼ばれた方がやりやすい?」
「どちらかといえば名前の方ですかね。俊平と呼んでください」
「それじゃあ、今から俊平と呼ばせてもらうよ」
「それじゃあ私も、流れに便乗して俊平くんって呼ばせてもらおうかな」
たった三年で状況は激変してしまった。憧れだった橘芽衣は自ら命を絶ち、ずっと尊敬し続けてきた藤枝耀一への信頼は現在進行形で大きな揺らぎを見せている。どうしてこうなった? あの頃はあんなにも平和で楽しい時間をみんなで過ごせていたはずなのに。
※※※
「……ぺい」
――どこで間違えた。俺は一体どこで間違えたんだ?
「しゅんぺい」
――俺は……どうしたらいいんだ?
「俊平ってば!」
小夜の呼び掛けと揺すりで、ようやく俊平の意識は覚醒した。昼食を済ませてから間もなく、そのまま机に突っ伏して眠ってしまっていた。
「小夜か?」
「寝ぼけてるの? もうすぐ昼休みが終わっちゃうよ」
「寝不足でいつの間にか落ちてた。起こしてくれてありがとう」
「何か悪い夢でも見た? 何だか目が赤いよ」
「寝起きだし、ただの充血だよ」
「それならいいけど」
懐かしい夢を見た。懐かしくなってしまった夢というべきか。
当たり前に存在すると思っていたあの日々は、もう二度と帰ってこない。
※※※
「昨日の状況をご説明願おうか?」
翌日。放課後になるなり俊平は駆け足で文芸探求部の部室を訪れ、椅子にゆったりとかけている繭加に詰め寄る。大事な話だからこそ小細工は不要だ。真正面から問い掛ける。
「見たまま。あれは潜入捜査ですよ」
何を不思議がっているのかと、繭加はキョトンとした顔で小首を傾げている。
素なのか演技なのか微妙に分かりづらいのが小憎らしい。あれが潜入捜査であることくらい、事情を承知している人間ならば簡単に分かる。俊平が知りたいのは過程の方だ。
「俺が問題視しているのは、事前にそのことを知らされていなかったことだ」
あの場は繭加に配慮し適当に話を合わせておいたが、よくぞ即興で自然に振る舞えたものだと、俊平は我ながら感心していた。目まぐるしい日々が、次々と自分の新たな一面を掘り起こしていってるようにも感じる。
「事前に報告する程のことでもないだろうと思いまして」
「嘘だな。お前は俺のことを信用していなかっただけだ」
「そんなことは……」
「図星みたいだな」
「藤枝に近づくと藍沢先輩に相談したら、絶対に反対されると思ったので」
「だから黙って実行したと?」
バツの悪そうな表情で、繭加が無言で頷いた。身長差も手伝い、まるで説教を受ける子供のようだ。
「反対されると思ったと言ったな?」
「違うんですか?」
「反対したよ」
相談してもらえなかったことが、決してショックなわけではない。同盟を結んだとはいえ、繭加と俊平はまだ出会ってから日が浅い。全てを相談し合えるだけの信頼関係を築くには、まだ時間が少なすぎる。そのことは俊平だって理解している。
「だけど、考え直して最終的にはお前の提案を受け入れたかもしれない」
「どういう意味ですか?」
「今の俺は、以前ほど藤枝に肩入れしていないということだ。だから、もう少しだけ俺のことを信用してほしい」
流石の繭加も申し訳なさから、この時ばかりは返す言葉が見つからなかった。
自分の独断専行が俊平を傷つける行為であったと始めて自覚した。同盟を結ぶ仲間である以上、反対されることも覚悟の上で、まずは相談して話し合う場を設けるべきだった。
「ごめんなさい」
「いつになく素直じゃないか」
「今回は私に非がありますから」
「分かってくれたならそれでいい。次から何か実行する時には、俺にも一言相談してくれよ」
「約束します」
神妙な面持ちで繭加は頷く。これでこの話は終わりだ。俊平も置いてけぼりにされた件に関してはこれ以上は何も言わなかった。
「それで、藤枝とはいつから親密に?」
「親密な振りです」
芝居とはいえ、藤枝との間に親密という表現を使われることは嫌なのだろう。
繭加は「振り」であることを強調した。
「ごめん。いつから親密な振りを?」
「桜木さんにお話を伺った翌日からです。藤枝の行動パターンは把握していましたから、塾帰りに純粋無垢な後輩女子という体でアプローチをかけ、その日のうちに連絡先を交換しました。翌日には良い感じのお返事を頂き、初めて一緒に遊びにいった際に」
「偶然にも俺に遭遇したと」
「その通りです」
繭加の行動力もさることながら、その結果は藤枝という男の印象をさらに悪くするものでもあった。手が早いというやつだ。
「あれから大丈夫だったのか? その……変なことをされたりとか」
いきなり肉体関係にまでは発展していないだろうが、軽い接触ぐらいはあったのではないかと、仲間として心配になる。
「ご安心を。流石の藤枝もいきなりそんな真似はしてきませんでした。まだ外面バージョンといった感じですね」
「何もされていないならとりあえずは安心した。だけど次からは俺にも相談しろよ。何かあれば飛んでいくから」
幾分か冷静さを取り戻し、俊平も椅子に腰を落ち着け、繭加と向かい合った。罪悪感が気まずさを生んでいるのか、繭加はどことなく落ち着きがない。
「藤枝と接触してどう感じた?」
「抜群のルックスに加えて、話術巧みで女性を喜ばせる術に長けている。予備知識無く出会っていたなら、普通にときめいていたかもしれません」
「話術巧みってのは何となく分かる。昔からコミュ力の塊みたいな人だったから」
「藤枝との付き合いは、藍沢先輩の方が長いですものね」
「今となってはただの皮肉さ。俺はあの人の外面を無条件で受け入れていただけの、ただの無能だ」
「そうですね。無能です」
「そこは『そんなことありませんよ』とか言うところだろ」
「心にもない言葉で取り繕っても意味はないでしょう」
「もう少し包めよ。オブラートに」
「信頼を取り戻すためです。これも先輩に対する愛ですよ愛」
「さいですか」
意外と体力を使うのでツッコミも程々にしておいた。繭加が調子づいてきたようで何よりだと、今はポジティブに考えておく。
「藤枝について何か他に気づいたことは?」
「それとなく二年前の件の話題を振ってみたのですが、明らかに動揺していて、不自然に話題を切り替えてきました。桜木さんの言うように、藤枝には何か疚しい部分があるということなのでしょうね。まだ決定的な証拠はありませんが、場合によっては強力なカードで揺さぶりをかけ、藤枝自身の口から真実を語らせることも考えています」
「自分が橘先輩の身内だと打ち明け、藤枝の動揺を誘うつもりか?」
「察しがいいですね」
「いかにもお前の取りそうな手段だと思ってな」
「止めますか?」
「止めないよ。その変わり一つ条件がある」
「条件ですか?」
「カードを切る時は、俺もその場に同席させてくれ」
ここまで来て蚊帳の外になる事態だけは絶対に避けたい。関係者の一人として、事の顛末は絶対に己の目で見届けなればいけない。俊平にはその責任がある。
「分かりました。その際は同席をお願いいたします」
「助かるよ」
「私達は同盟ですから、利益は共有しないと」
「利益?」
「動機はどうであれ、私が真実を追い求めていることに変わりはありません。真実こそが私達にとっての利益でしょう?」
「なるほど、確かにその通りだ」
「藤枝に揺さぶりをかけるにしても、情報や証拠は多いに越したことはありません。私と芽衣姉さんの関係はあくまでも切り札ですから。これまで通り情報収集を続けた上で、揺さぶりをかけるタイミングを計りたいと思います」
「俺も独自のルートでもう少し調べてみるよ……たぶんあの人だって、昔から悪い人間だったわけではないだろうから」
懐かしい夢を見た影響もあるのだろうか。とっくに失望しているはずなのに、まだどこかで藤枝という存在への希望を捨てきれない自分がいた。良い面も悪い面も、臆せず両面を見つめる。相手を深く知ろうとすることには、いつだって傷が付きまとう。それを恐れてはいけないのだ。