「悠真様っ! お待ちくださいっ! その子は世界を滅ぼすために産まれてきた子! 筒路森(つつじもり)の品格を失わないためには、美怜との婚約を……」

 手を繋いでいない方の片手を、自分の胸元あたりへと運ぶ。
 早く、良い結末を迎えられるようにと祈りを込める。

「妹を悪名高い筒路森に嫁がせないために、姉を身代わりにした」

 彼と共に歩き出すと、周囲のざわめきや妹の悲痛な叫び声が遠ざかっていくように感じた。

「穢れの子を、筒路森の生贄に差し出した北白川……そんな悪評が広まらないといいですね」
「っ、悠真様っ、お待ちくださいっ!」

 彼の腕の中で、初めて自分が守られていると感じることができた。
 でも、その温かな腕に守られることは、蝶と密談を交わすことのできる子には許されない。
 温かさに守られるのは、真っ当に生きていくことができる人間に与えられた権利。

「その娘は、紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)を操るのですぞ! 忠告しましたからな!」

 父は、自分の声をかき集めて叫ぶ。
 北白川を守るために、なんとしてでも妹の方が筒路森に相応しいと訴える。
 どんなに筒路森が悪名高いとしても、筒路森は誇り高き華族。
 紫純琥珀蝶の脅威から人々を守るために、力を差し伸べてくれているのは覆しようのない事実。
 穢れの子を筒路森に嫁がせるなんて、恩を仇で返すようなものだと誰もが理解をしていた。

「筒路森さ……っ」

 いつだって父は正しい。
 私は父の願いを叶えるために、彼の腕から抜け出そうと抵抗を示す。
 でも、そんな些細な抵抗は見抜かれていたのか、私は更に強い力で抱き寄せられる。

「結葵が、私の妻になる女性です」

 筒路森の様の熱を感じるのは初めてのはずなのに、その温もりに抱かれることが必然だったかのように思えてしまう。
 初めて感じた温もりに、懐かしさを抱いてしまうほど恋焦がれてしまいそうになる自分を恥じた。

「行くぞ、結葵」

 私に与えられた名を呼んでくれるのは、紫純琥珀蝶しかいなかった。
 彼が私の名前を呼んだ瞬間、自分が新しい未来に向かって歩み始めたことを実感した。とうとう堪えきれなかった涙が頬を伝い、私は彼から抵抗することを諦めた。

「屋敷に着くまで、少し休むといい」

 高級な自動車が作動する音が静かに鳴り響く中、私は硬直した体で革張りの座席に腰を下ろした。
 嗅いだこともない車独特の油の匂いが漂い、まるで別世界へと案内されているような感覚だった。

「……私にできることがあれば、何なりとお申しつけください」

 紫純琥珀蝶の言葉を理解する私は、絶対に愛されることのない存在。

「筒路森に嫁ぐ者として、蝶の言葉を理解する者として、誠心誠意尽くしてまいります」

 彼は私を気遣う言葉をくれるのに、車窓を見つめる瞳の冷たさに息が詰まりそうになる。それでも意を決し、顔を上げた。

「堅苦しいな」

 この場を支配する圧倒的な冷たさに、体が震えそうになる。

「蝶の言葉を理解する娘が手に入れば、長きに渡る戦いに勝機が見出せるかもしれない」

 けど、彼の目元は、どこか影を宿しているようにも見えた。

「契約結婚だと思えば、少しは気を緩めることができるか?」

 遥かな遠くを見つめるように曇る瞳に、悲しみのような感情が深く刻まれているのも否めなかった。

「蝶の言葉を理解する娘。そんな、お伽のような話を信じてもらえたのですね」

 挑発的な物言いをした自覚はある。
 でも、ここで言葉を閉ざしてしまったら、彼の心も一緒に閉じられてしまうような気がした。声が震えないように、なるべくはっきりとした物言いを心がける。

「金目当ての異能という可能性を疑っていたが、今日は見事な活躍だった」

 車に設置してある鏡越しに、助手席に座る彼の側近らしき男性が、私たちのやりとりに笑顔を浮かべた。
 その表情を見て、自身の発言が失礼に当たらないのだと気づくことができた。

「狩り人の俺と、蝶と話せる娘が夫婦になるなんて、運命の赤い糸とやらで結ばれているのかもしれないな」
 車窓に向けられていた視線が、私へと向けられる。

「ふっ、いや、運命という言葉で片付けるのは失礼だったな」

 少しだけ笑いを含んだ息を漏らし、彼が微笑む姿というものを初めて視界に映すことができた。

「蝶と話せる北白川の娘を、利用したい」

 その言葉に、唇を固く結んだ。
 やはり私は、絶対に愛されることのない存在。
 自分を戒めるように、手にぎゅっと力を込めたときのことだった。

「だが、結葵に、運命を感じたのも事実だ」

 俯きかけた顔を、上へと向ける。
 彼の言葉に秘められた意味を理解しようとするけど、頭が回らない。

「結葵が、いいと思った」

 それは愛の告白のように聞こえるのに、彼の声はどこか悲しげだった。

「一目惚れ? いや、それこそ陳腐な言葉だな」

 父親以外の男性と話をするのが初めてな私に対して、彼は態度にも言葉にも余裕があった。

「昔、どこかで会ったような」

 世間から恐れられているはずの筒路森の当主は、どこか無防備な笑みをさらす。

「ずっと運命の赤い糸で繋がっていたような、そんな不思議な感覚を受けた」

 少し恥ずかしそうな微笑みを浮かべたのを自覚されたのか、彼は口元を自身の手で覆ってしまった。

「悪い、おかしなこと言った……」

 控えめでありながらも、場の空気を壊さないように言葉を選んでくれた彼の気遣いに心が温かくなる。

「本当に、そうなのかもしれませんね」

 そのお伽話に、何も確信はない。
 けれど、どこか懐かしさを含んだ不思議な物語に、私は笑みを返した。

「私にも、思い出せない過去があって……」

 このまま彼と話を続けていれば、穏やかで心地のよい時間を紡ぐことができると思った。

「っ、結葵っ!」

 だけど、私の体は密かに警告を発していた。
 高まった熱が体全体を侵食し、彼の声が遠のいていくような感覚に包まれていく。
 急に視界が霞み、意識がふわりと浮かび上がるような感覚に飲み込まれ、私は意識を手放した。