紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)様っ」

 蝶に、様という敬称を付けることを愚かと言えるのかもしれない。

「聞いてください」

 そんな奇妙な私を、悠真様は自由にしてくれた。
 蝶と言葉を交わすことができるという、人とは違った存在の私を解放してくれた。

「お願いします。この場を、これ以上、乱さないでください」

 拙い言葉。
 もっと威厳ある言葉で蝶と言葉を交わせばいいのに、どちらが偉い立場にいるのか分からないから困ってしまう。

「お仲間を殺してしまった私たちに、非があることは承知しております」

 蝶を従わせることができればいいのに、私にできることは蝶と言葉を交わすのみ。
 どちらかが絶対的な強さを持っているわけではなく、私と蝶は三年前から、ずっと平行線の関係を保っている。

「ですが、今日はハレの日という……」

 人の記憶を喰らい尽くすときのように、殺気立った空気をまといながら人々へと襲いかかっていた蝶が私の言葉に注目してくれる。

「大変おめでたく、特別な日です」

 その場へと留まり、人間に襲いかかることをやめる蝶々。
 これでは、私が蝶を従わせていると思われても仕方がない。

「どうか、どうか荒ぶる気持ちをお収めください」

 おとなしく蝶が、私の言葉に耳を傾けてくれている。
 こんなにも蝶から慕ってもらっているのに、私は蝶以外から愛情を受け取ったことがない。だからこそ、ときどき考えてしまう。

「私に差し出せるものがあるのなら、なんなりとお申しつけください」

 紫純琥珀蝶が飛び交う世界においで。
 人間が生きる世界に、おまえの居場所はないよって。
 蝶が、私を蝶の世界に手招いているのではないかということを。

「あ……」

 蝶は、私の願いを聞き届けてくれた。
 けれど、私の言葉が通じたということは、それだけ私が異質な存在だということを大勢の前で証明することになってしまった。

「ありがとうございました」

 開きっぱなしの扉から、ゆっくりとした振る舞いながら紫純琥珀蝶がお帰りになる。
 感謝の気持ちを込めて、蝶へと礼を送る。
 でも、そんな私の振る舞いを許さない人がいるということを知っている。

「なんなの……」

 妹の声が、鋭く響き渡った。
 たった一言しか発していないのに、彼女の声から痛みを感じた。

「気味が悪い! 気味が悪いっ! 気味が悪いっっ!!」

 妹は拳を握りしめ、震える声で叫んだ。

「蝶の言葉がわかる? 何を言っているの? やはり、あなたは人の子ではないわ!」

 姉が紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができるばかりに、妹も同類とばかりに奇異的な目を向けられてきたのかもしれない。
 一畳間に閉じ込められていた私の知らないところで、妹は多くの涙を零していたのかもしれない。

「蝶を追い払って手柄を立てて、お父さまとお母さまに好かれようとしたんでしょう!」
「違う……」
「それ以外に考えられない……!」

 怒りと、憎しみが混ざった声に対して、向ける言葉がない。

「っ、美怜ちゃ……」
「穢れの子が、私の名前を呼ぶなっ!」
「ごめんなさ……」

 自分の手柄を立てるつもりもなかったけれど、結果的に私は妹の祝言を妨げた。
 今更、何を弁明しても信じてもらえない。

「その薄紫の瞳こそ、あんたが化け物である証拠よっ!」
「っ、ごめんなさ……」

 何を言っても信じてもらえないのなら、謝り続けるしかない。
 そう言葉を紡ごうと、口を動かそうとしたときのことだった。

「ふふっ、ははっ」

 この場に、最も相応しくない笑い声が響いた。

「本当に、蝶の言葉が理解できる娘がいたとはな。面白い」

 これ以上、私が言葉を紡がないように。
 私の言葉を塞き止めるために、筒路森家のご当主様の手の甲が唇へと触れる。

「倍の価格をお支払いします」

 彼の言葉に、誰もが信じられないという表情で筒路森家のご当主様を見つめた。

「姉の結葵を、私の嫁にいただきたい」

 筒路盛のご当主様の瞳に、迷いなんてものは何ひとつ存在しない。

「筒路森のご当主様……本当に、穢れの子を選ぶおつもりなのですか……」
「良かったな、厄介払いができて」
「っ、なんのこと……」

 妹が涙を浮かべながら、震える声で婚約者に尋ねる。

「冷酷無情と称されている筒路森に嫁ぐ必要がなくなって、酷く安堵しているんじゃないか?」

 筒路森のご当主様は自分の身にまつわる噂に関して、よくご存じだった。
 筒路森という姓が疎まれる対象ということを、彼はよくご存じだった。
 そんな噂に踊らされることも屈することもなく、当主を務めあげている彼に心が締めつけられるような痛みを感じた。

「車、用意できました」

 筒路森様の側近の方の呑気な声が、部屋を漂う殺伐とした空気を打ち破った。

「って、あれ? まだ話、終わってないんですか」

 事の成り行きを見ていなかった青年は朗らかな喋りで、この場の空気を壊しにかかる。

「いや、もう済んでいる」
「それは良かった」

 筒路森の当主に、手を引かれる。
 私はもう言葉を紡ぐことができるようになったはずなのに、何を言葉にすればいいのか分からない。

「お……お待ちくださいっ! 悠真様!」
「倍では足りませんか? では、更に倍の額をお支払いします」
「その娘は、その娘は……!」

 こんなときになっても、母は私の名前を呼んでくれない。

「穢れの子は名の通り、筒路森(つつじもり)の名を穢しますぞ!」

 父も、とうの昔に()の名前を忘れてしまったのかもしれない。

「……私ならっ! 筒路森に穢れをもたらすことはありませんわ」

 妹は、姉よりも優位であり続けようと必死だった。
 あれほど冷酷と噂される筒路森の家に嫁ぐことを拒んでいたはずなのに、妹は劣位を感じた途端に婚約者を引き留めようとする。

「聞こえませんでしたか」

 私が身を引くことで、この場は丸く収まる。
 筒路森のご当主様の腕から抜け出そうと試みると、彼は私の手をしっかりと握り締めた。

「北白川結葵が欲しい」

 まるで、もう二度と離さないと言われているかのような錯覚。
 心が激しく鼓動を打ち、溢したくないはずの涙が涙腺を揺さぶり始める。

「何度も告げているはずですが」

 彼の温かい手の感触が、まるで安心感を与えるように心へと染みていく。
 心には躊躇いの気持ちがあるはずなのに、彼の真剣な眼差しを自身の瞳に焼きつけたいと願ってしまった。人の子とは違う、薄紫の自分の瞳に願いを抱いてしまった。