「大丈夫か」
筒路森のご当主様の優しい声が耳元に届く。
床に体を打ちつけることに慣れてしまっていた私は、自分の体が痛みを感じなかったことに涙を浮かべながら、彼の胸に顔を埋めた。
「ありがとう、ございます……」
震える声で呟いた言葉が、彼に伝わったどうかは分からない。
何も言葉を返してもらえなかったけれど、彼は私をしっかりと抱き締めてくれた。
「災いを招き寄せる者には、容赦なく手を上げるおつもりですか」
「当然です! その娘がいるから、我々は蝶の脅威にさらされているのですぞ!」
娘の名前を忘れてしまったのか。
娘の名前を始めから知らなかったのか。
父が、私の名前を呼んでくれることはなかった。
「美怜、美怜! 立ちなさい!」
「なんで、この人が私のお姉ちゃんなの……」
妹は、蝶と言葉を交わす姉を恥じた。
「あの子は、あなたの姉でもなんでもないわ!」
母は、化け物染みた力を持つ私を娘ではないと言葉にした。
「酷い有様だな」
筒路森様は、北白川家を見放す言葉を口にする。
私の身体を支えてくれた手は優しいのに、筒路森様は北白川に対して軽蔑的な眼差しを向ける。
「筒路森様……」
「腫れが引いていないんだ。おとなしく……」
「お願いがあります」
どうか、北白川家を見捨てないでください。
そう言葉を続けたかったけれど、それは引き取ってもらう側が言葉にしてはいけないことだと理解している。
「蝶と、話す時間をください」
筒路森様の信頼を取り戻すには、祝言の場の空気を変えた数匹の蝶を追い払わなければいけない。
この場を上手く収めることができたら、妹は筒路森家に嫁ぐことができる。
「私に、家族を助けるための時間をください」
頬に下された痛みなんて、忘れてしまった。
我慢することには、慣れているから。
頬に痛みが残っても、頬に痕が残っても、それらは私の未来に影響を与えることはない。
(ありがとうございます)
私はとうの昔に、人として生きることを許されなかった子だから。
(初めてお会いする、筒路森悠真様)
私が歩んでいく未来に愛する人がいないことは、とうの昔に決まっていたことだから。
「紫純琥珀蝶様っ」
蝶に、様という敬称を付けることを愚かと言えるのかもしれない。
「聞いてください」
そんな奇妙な私を、悠真様は自由にしてくれた。
蝶と言葉を交わすことができるという、人とは違った存在の私を解放してくれた。
「お願いします。この場を、これ以上、乱さないでください」
拙い言葉。
もっと威厳ある言葉で蝶と言葉を交わせばいいのに、どちらが偉い立場にいるのか分からないから困ってしまう。
「お仲間を殺してしまった私たちに非があることは承知しております」
蝶を従わせることができればいいのに、私にできることは蝶と言葉を交わすのみ。
どちらかが絶対的な強さを持っているわけではなく、私と紫純琥珀蝶は幼い頃からずっと平行線の関係を保っている。
「ですが、今日はハレの日という……」
人の記憶を喰らい尽くすときのように、殺気立った空気をまといながら人々へと襲いかかっていた蝶が私の言葉に注目してくれる。
「大変おめでたく、特別な日です」
その場へととどまり、人間に襲いかかることをやめる蝶々。
これでは、私が蝶を従わせていると思われても仕方がない。
家族の外へ追いやられて、私は当然の行いをしている。
私は、やっぱり人の子ではないのかもしれない。
「どうか、どうか荒ぶる気持ちをお収めください」
おとなしく蝶が、私の言葉に耳を傾けてくれている。
こんなにも蝶から慕ってもらっているのに、私は蝶以外から愛情を受け取ったことがない。だからこそ、ときどき考えてしまう。
「私に差し出せるものがあるのなら、なんなりとお申しつけください」
紫純琥珀蝶が飛び交う世界においで。
人間が生きる世界に、おまえの居場所はないよって。
紫純琥珀蝶が、私を蝶の世界に手招いているのではないかということを。
「あ……」
紫純琥珀蝶は、私の願いを聞き届けてくれた。
けれど、私の言葉が通じたということは、それだけ私が異質な存在だということを大勢の前で証明することになってしまった。
「ありがとうございました」
開きっぱなしの扉から、ゆっくりとした振る舞いながら紫純琥珀蝶がお帰りになる。
感謝の気持ちを込めて、蝶へと礼を送る。
でも、そんな私の振る舞いを許さない人がいるということを知っている。
「なんなの……」
妹の声が、鋭く響き渡った。
たった一言しか発していないのに、彼女の声から痛みを感じた。
「お姉ちゃんはっ! 私に幸せになってほしくないの!?」
「なってほしいから……幸せになってほしいから……」
「昔っから、そうだよね! お姉ちゃんは、私の幸せを奪ってばかり!」
妹は拳を握りしめ、震える声で叫んだ。
姉が紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができるばかりに、妹も同類とばかりに奇異的な目を向けられてきたのかもしれない。
一畳間に閉じ込められていた私の知らないところで、妹は多くの涙を零していたのかもしれない。
筒路森のご当主様の優しい声が耳元に届く。
床に体を打ちつけることに慣れてしまっていた私は、自分の体が痛みを感じなかったことに涙を浮かべながら、彼の胸に顔を埋めた。
「ありがとう、ございます……」
震える声で呟いた言葉が、彼に伝わったどうかは分からない。
何も言葉を返してもらえなかったけれど、彼は私をしっかりと抱き締めてくれた。
「災いを招き寄せる者には、容赦なく手を上げるおつもりですか」
「当然です! その娘がいるから、我々は蝶の脅威にさらされているのですぞ!」
娘の名前を忘れてしまったのか。
娘の名前を始めから知らなかったのか。
父が、私の名前を呼んでくれることはなかった。
「美怜、美怜! 立ちなさい!」
「なんで、この人が私のお姉ちゃんなの……」
妹は、蝶と言葉を交わす姉を恥じた。
「あの子は、あなたの姉でもなんでもないわ!」
母は、化け物染みた力を持つ私を娘ではないと言葉にした。
「酷い有様だな」
筒路森様は、北白川家を見放す言葉を口にする。
私の身体を支えてくれた手は優しいのに、筒路森様は北白川に対して軽蔑的な眼差しを向ける。
「筒路森様……」
「腫れが引いていないんだ。おとなしく……」
「お願いがあります」
どうか、北白川家を見捨てないでください。
そう言葉を続けたかったけれど、それは引き取ってもらう側が言葉にしてはいけないことだと理解している。
「蝶と、話す時間をください」
筒路森様の信頼を取り戻すには、祝言の場の空気を変えた数匹の蝶を追い払わなければいけない。
この場を上手く収めることができたら、妹は筒路森家に嫁ぐことができる。
「私に、家族を助けるための時間をください」
頬に下された痛みなんて、忘れてしまった。
我慢することには、慣れているから。
頬に痛みが残っても、頬に痕が残っても、それらは私の未来に影響を与えることはない。
(ありがとうございます)
私はとうの昔に、人として生きることを許されなかった子だから。
(初めてお会いする、筒路森悠真様)
私が歩んでいく未来に愛する人がいないことは、とうの昔に決まっていたことだから。
「紫純琥珀蝶様っ」
蝶に、様という敬称を付けることを愚かと言えるのかもしれない。
「聞いてください」
そんな奇妙な私を、悠真様は自由にしてくれた。
蝶と言葉を交わすことができるという、人とは違った存在の私を解放してくれた。
「お願いします。この場を、これ以上、乱さないでください」
拙い言葉。
もっと威厳ある言葉で蝶と言葉を交わせばいいのに、どちらが偉い立場にいるのか分からないから困ってしまう。
「お仲間を殺してしまった私たちに非があることは承知しております」
蝶を従わせることができればいいのに、私にできることは蝶と言葉を交わすのみ。
どちらかが絶対的な強さを持っているわけではなく、私と紫純琥珀蝶は幼い頃からずっと平行線の関係を保っている。
「ですが、今日はハレの日という……」
人の記憶を喰らい尽くすときのように、殺気立った空気をまといながら人々へと襲いかかっていた蝶が私の言葉に注目してくれる。
「大変おめでたく、特別な日です」
その場へととどまり、人間に襲いかかることをやめる蝶々。
これでは、私が蝶を従わせていると思われても仕方がない。
家族の外へ追いやられて、私は当然の行いをしている。
私は、やっぱり人の子ではないのかもしれない。
「どうか、どうか荒ぶる気持ちをお収めください」
おとなしく蝶が、私の言葉に耳を傾けてくれている。
こんなにも蝶から慕ってもらっているのに、私は蝶以外から愛情を受け取ったことがない。だからこそ、ときどき考えてしまう。
「私に差し出せるものがあるのなら、なんなりとお申しつけください」
紫純琥珀蝶が飛び交う世界においで。
人間が生きる世界に、おまえの居場所はないよって。
紫純琥珀蝶が、私を蝶の世界に手招いているのではないかということを。
「あ……」
紫純琥珀蝶は、私の願いを聞き届けてくれた。
けれど、私の言葉が通じたということは、それだけ私が異質な存在だということを大勢の前で証明することになってしまった。
「ありがとうございました」
開きっぱなしの扉から、ゆっくりとした振る舞いながら紫純琥珀蝶がお帰りになる。
感謝の気持ちを込めて、蝶へと礼を送る。
でも、そんな私の振る舞いを許さない人がいるということを知っている。
「なんなの……」
妹の声が、鋭く響き渡った。
たった一言しか発していないのに、彼女の声から痛みを感じた。
「お姉ちゃんはっ! 私に幸せになってほしくないの!?」
「なってほしいから……幸せになってほしいから……」
「昔っから、そうだよね! お姉ちゃんは、私の幸せを奪ってばかり!」
妹は拳を握りしめ、震える声で叫んだ。
姉が紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができるばかりに、妹も同類とばかりに奇異的な目を向けられてきたのかもしれない。
一畳間に閉じ込められていた私の知らないところで、妹は多くの涙を零していたのかもしれない。