その夜、北白川の屋敷へ身を寄せた。
 村で一番の金持ちという仮面を被っているだけあって、北白川の屋敷は狩り人のみなさんが駆けつけるには十分な広さを今も誇っている。

「お医者様、ありがとうございました」
「お医者様なんて、堅苦しいわ」

 以前、筒路森(つつじもり)の屋敷でお会いしたハイカラな衣服を身にまとった女性。

来栖亜子(くるすあこ)和奏(わかな)のお姉ちゃんよ」

 歩むたびにスカートの裾が揺れ、真白のレースが施されたブラウスの優美さに、言葉を紡ぐのを止めてしまうほどの魅力があった。

「二人の命を繋いでくれて、本当にありがとう」
「いえ、私は蝶の助けがなければ、何もできぬ子ですから」
「謙遜は、日本人の奥ゆかしさを体現する文化ね」
「え?」

 まだ女性の医師が珍しい時代で、周囲の偏見や厳しい目に屈することなく、彼女は自身の使命を全うしていた。

「私と和奏は、日本人と西洋人の血が混ざっているの」

 深い青色と、日本人離れした緩やかな金色の髪は、お二人を西洋人と称するには相応しいな容姿だと思っていた。
 でも、彼女たちの名前が日本名の理由には、二つの血が混ざり合っているからだと彼女は教えてくれる。

「誰とでも友好的に接しちゃうところがあるから、嫌なことがあったら怒ってね」

 日本と西洋という混じり合った文化が生んだ魅力を持った亜子さんは、親しみを感じる軽やかな声を発する。

「たとえば……こんな感じにね」

 強くもなく、弱すぎることもない力で、私は彼女に肩を引き寄せられた。
 驚きのあまりに、とても大きく目を見開いてしまったと思う。

「頑張ったわね」

 優しさで包み込むような抱擁は、心の奥に潜んでいた恐怖を溶かしてくれる。

「怖かったでしょう?」

 私が紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)の言葉を理解すると分かると、誰もが私の力を忌み嫌った。
 でも、悠真様と出会ってからは、人と人が交わる瞬間の繊細さと美しさを知っていく。

「平気ですと、強がってもいいですか」

 彼女の心地よい体温に、安心感を覚える。
 もう独りきりで、寒さに震えることはないのだと教えてもらう。

「それが、結葵様が決めた答えなのね」

 ゆっくりと、亜子さんが遠ざかっていく。
 筒路森悠真様を支える覚悟があるからこそ、自分の瞳が揺らいでしまわないように手に力を込める。

「かっこいいわ、結葵様」
「いえ、私は、格好いいなどという言葉は……」
「ふふっ、また謙遜かしら」

 彼女が柔らかく微笑む姿を見て、私も真似をするように口角を上げてみる。

「悠真の目が覚めたら、真っ先に報告するわ」
「ありがとうございます」

 彼女に嫉妬していた頃の自分を恥じながら、私は彼女に深い感謝の気持ちを込めて頭を下げた。

(私も、自分の異能を世の役に……)

 襖絵に描かれた四季折々の景色はかすんでいて、もう過去の北白川の栄光は残されていないのだと気づく。それでも私は、両親の笑顔を見るためにより多くの金を欲した。
 筒路森の地位と権力に魅了され、現当主である彼に嫁ぐことを決めた。

(会いに行っても、いいかな)

 廊下の古びた板は足音とともに軋み、天井に張り巡らされた梁には蜘蛛の巣が見えた。
 筒路森の家から多額の金が送られているはずなのに、使用人を雇う余裕がないほど北白川は没落した。
 一畳間に閉じ込められていたときには感じられなかった寂れ具合に、心がちくりと痛みを訴える。

(ここに、お父様とお母様が……)

 静かに歩を進め、目的の部屋へと辿り着く。
 指先で襖の引手に触れると、その冷たさに思わず手を引っ込めてしまった。
 でも、久しぶりに両親の顔を見たかった私は、意を決して襖を横へと移動させた。

「お父様、お母様……」
「美怜っ!」

 その期待は、すぐに崩れた。
 期待なんてものは、すぐに消え失せると分かっているのに。
 それでも、何度も何度も期待してしまう。
 両親に愛される未来が、どこかにあるのではないかという夢物語を。

「ただいま戻りました……」
「どうして帰ってきたの……」

 私の姿を見た母の笑顔は、すっと消えた。
 そして、すぐに、何か思い出したくないものを見たかのような歪んだ表情を浮かべる。

「何しに戻ってきたのと聞いているでしょ!」

 両親に愛される夢を見続けた自分は、なんて浅はかなんだろうと思った。
 久しぶりに生みの親と再会を果たしたはずなのに、心が重く沈むのを感じた。

「美怜ちゃんが、行方不明になったと聞いて……」

 かつての家族との再会は、喜びではなく恐怖と悲しみを呼び起こす。
 政略結婚で家を出たあとも、両親の冷たい態度は変わらないということ。
 実家には筒路森から送られている多額の財産があるはずなのに、母の態度は昔と何ひとつ変わらないまま。

「でも、安心してください。お母様。筒路森様が、きっと……」

 私が言葉を返すと、母の目に涙が浮かんだ。
 妹を想って胸の奥から込み上げてくる感情からくる涙だということを察して、私は何も言葉を返すことができなくなってしまった。

「私たちの美怜を、どこへやったの……」
「お母様……」
「あなたは、いつもそう! 私たちから、奪ってばかりっ!」

 血が上るように怒りをまき散らすのが辛かったのか、母は頭の痛みを抑えるように手を当てた。

(もう、私のことは視界にすら入れてもらえない)

 母の頭痛を気遣いたくても、それすらも拒まれてしまう。

「あなたは、どれだけ私たちを苦しめたら気が済むの!」

 母の罵声が続く。
 おまえがいなければ、もっと幸せだったのにと言われているような言葉に、心が痛むのを感じる。
 自分がどれだけ努力をしても、自分がどれだけ筒路森(つつじもり)からお金を得たとしても、私が愛されることは決してないのかもしれない。

「美怜が見つかったのか? ああ、良かった」

 一瞬だけ、父の温かみある声が響いた。
 また冷ややかな目を向けられるのだと思って振り向くと、父は私を視界にすら入れてくれなかった。
 私の存在なんて始めからなかったと言わんばかりの態度を受け、冷たさが一気に屋敷の中へ広がるのを感じる。