「幽閉されていた人間に、登山ができるわけないだろ……」
「屋敷の外に出たことがないだけで、部屋の外には出たことがあります……」
外灯の明かりが必要なほど夜が深まった頃。
月明かりが作り出す木々の影が生き物のように揺れ動き、見る者の心に不安を呼び起こす。
吹き抜ける風は昼間よりも冷たさを増し、木の葉がざわめく音が耳を塞ぎたくなってしまう。
「山登りは、相当な体力を必要とする。結葵には、まだ早い」
「私は、蝶と言葉を交わせる唯一です」
「君は、とことん自分の立場を利用するな」
「悠真様に教わったことです」
遠くで鳥らしき鳴き声が響き渡り、静寂が破られるたびに心臓が跳ね上がりそうになる。
それでも紫純琥珀蝶と言葉を交わせる力を利用して、私は悠真様との距離が遠ざからないように図々しく迫る。
「遭難者を出さないためだ」
「帰り道が分からなくなったら、蝶に尋ねます」
「嘘を教えられる可能性はないのか、嘘を」
「そのときは、蝶に騙された女だと哀れんでください」
高い木々がそびえ立つように視界を覆い尽くし、立ち込め始めた霧は視界を遮ろうとしてくる。
前方が見えなくなると、その不安は更に広がっていく。
でも、その不安を悟られないようにしないと、私は狩り人の中に混ぜてはもらえない。
「無理はするな」
「はい」
世界を救う人というのは、力がある人というのは、こんな風に優しい人ばかりなのか。
誰かを救う、誰かを守る、そんな想いを抱えながら戦うことができる。
それはやはり、心から尊敬すべきところなのだと改めて思う。
「これは君を見くびっているとか、そういう意味の言葉ではないからな」
「承知しております」
研究室と呼ばれている場所で飼い慣らされている紫純琥珀蝶たちから、私が生まれ育った朱色村を狙っているという話を聞いた。
「っていうか、なんで俺が結葵と行動できないんだ」
「身内で何かあったら、混乱するでしょ」
もちろん罠という可能性もあると伝えた上で、悠真様は私の話を信じてくれた。
そして狩り人のみなさんは今夜、朱色村の警戒を特に重点的に行うことになった。
「悠真くんが心配しなくても、俺がちゃんと結葵様を守りますから」
悠真様の婚約者になって間もないばかりの私を信頼してくれる周囲を見て、それだけ悠真様の地位の高さを感じ取ることができた。
「初、略奪……?」
略奪という言葉を呟いたのは、初めてお会いする狩り人の来栖和奏さん。
人を外見で決めつけるのは良くないと言われていても、私よりもだいぶ年下に見える女の子が紫純琥珀蝶との戦いに臨んでいることに驚かされた。
「和奏、悠真くんを怒らせるようなこと言わないで……」
来栖さんは西洋人形のような長くて美しい金色の髪色をしていて、どんなに西洋人形を持ち寄ったとしても来栖さんの美しさを表現することはできない。
それだけ珍しい金色の髪は、私のことを魅了していく。
「浮気が心配なら、私が初と代わってもいい」
「そうしてくれ」
「えー、俺、そんなに都合のいい人間ではないんですけど」
狩り人のみなさんは二人一組で行動するらしいけど、私の護衛に就いてくれるのは来栖さん一人ということに話がまとまったらしい。
「来栖さん、よろしくお願いいたします」
「狩り人が一人足りないけど、心配しないで」
「頼りにしています」
人は外見で決めつけることができないという言葉の通り、来栖さんは狩り人としてとてもたくましく見えた。
「朱色村の地形を把握したかったから、結葵様との行動の方が自由で快適」
「地形ですか?」
悠真様と初さんが、私たちとは反対側の方角へと向かって行くのを見送る。
そうして私と来栖さんは、朱色村にそびえ立つ山へと歩を進めていく。
「初めての土地ではないけど、こう……木ばっかりが覆い茂っている場所での戦闘は自分を不利な状況に追い込むだけだから」
「なるほど……」
「自分がどこを歩いているかもわからなくなったら、おしまい」
「勉強になります」
辺りは、すっかり深い闇色に包まれる時刻となっていた。
闇色に包まれるなんて言い方をしたけれど、私たちにとってはおぞましい時間帯でしかない。
世界から陽が失われる時刻になってから、記憶を奪う紫純琥珀蝶は活動を始めていく。
「土地勘を自分で養うということなんですね」
「そんな感じ」
筒路森家に嫁ぐ人間ではなくなった瞬間から、私は北白川の屋敷の外へと出ることを禁じられた。
人前に晒すことのできない私には知らないことが多すぎて、来栖さんに教えてもらうことひとつひとつが勉強になる。
「悠真くんは許してくれないかもしれないけど」
私は山奥に独り取り残されたところで、一人で下山するだけの知識も経験もない。
どこを見ても同じ景色と感じる私とは違って、来栖さんは何かしらの特徴があることを感じ取っていく。
「結葵様も、紫純琥珀蝶と戦う道を選んでもいい」
女性は守られるべき存在という教えが根強く残っている時代で、来栖さんは自身の考えを堂々と述べてきた。
来栖和奏という日本らしい名を背負いながらも、日本という国に囚われない強い心を来栖さんはお持ちだった。
「この国は、女性が戦うことは許していないかもしれない。でも、結葵様が蝶と戦うことを望むのなら、その気持ちを尊重したい」
年下の少女の勇気に深く感銘し、自身の気の持ちようが何よりも大切だと学ぶ。
「……来栖さんと出会うまでは、考えたことがありませんでした」
来栖さんが言う《《『戦う』》》とは、紫純琥珀蝶を殺すということ。
狩り人の悠真様に協力するかたちで、蝶と人間の言葉を繋ぐ役割を担うのとは意味が違う。
だからこそ、自分の気持ちがどこにあるかを定めておかなければいけないということ。
「もちろん、女性は守られるべき存在って考えも間違いじゃない」
「……ありがとうございます」
朱色村に、紫純琥珀蝶が飛ばなくなる。
そんな時代が来るのか来ないのか、考えたこともない未来に想いを馳せる
「むしろ悠真くんや初は、女性は守るべき存在だと思っている側の人間」
けれど、ほんの少しでも胸に希望を抱いてもらえるような存在に、私もなることができる。
来栖さんは、希望のある言葉を私に与えてくれる。
「でも、戦うことを選んだとしても、それも悪じゃない」
いつか変わってしまう変化に耐えられるように。
自分を見失わないで強くいられるように。
たくさんの夢や希望を抱いて生きる力を来栖さんは私に分けてくれる。
「悠真くんは、結葵様のことをずっと心配してた」
私と悠真様が、出会って間もない関係というのは違えることのない事実。
紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができるだけで、こんなにも優しくしてもらってもいいのかと思ってしまうほど悠真様は優しい。
「結葵様が、希望ある生き方をできるかどうか」
来栖さんはそう言って、優しい笑みを向けてくれた。
一気に空気が優しいものへと変化を遂げたような気がして、別れたばかりの悠真様に会いたいと心臓の高鳴りがうるさくなる。
「蝶に縛られる人生になったら、意味がないって」
少女らしい声で語りかけてくる来栖さんだけれど、彼女の口から発せられる言葉のひとつひとつには重みがある。
「悠真くんは、とても良い人。でも、過保護」
「ふふっ、かもしれませんね」
私の傍にいてくれる人たちは、どうしてこんなにも優しい人が多いのか。
みなさんの人生は優しさの塊でできているのかもしれない。
「人が他人に優しくできるのは、多くの傷を刻まれてきたからだと何かの書物で読んだことがあります」
傷ついたことがあるから、人に優しくすることができる。
私が紫純琥珀蝶と言葉を交わし始める前に、出会った言葉を思い出す。
いつ、誰が、どこで、という記憶は残っていない。
でも、この言葉は、紫純琥珀蝶と共存する時代を生きる相応しいのではないかと思う。
「結葵様が夢を抱けなかったら、外に出る意味がない」
「……ありがとうございます」
「でも、大丈夫そう」
短い言葉の中に、来栖さんは私に安堵の気持ちを込めてくれる。
「お気遣い……ありがとうございます」
なるべく他人に心配をかけない人生を歩みたいとは思うけど、こうして自分を心配してくれる人が傍にいてくれるのはとても心強い。
「……悠真様が喜ぶこと、たくさんしてあげたいです」
「いいと思う」
「できたら……平和な世界を歩んでもらいたいです」
「うん」
たかが、そんな夢。
でも、いいなと思う。
未来に希望を抱くのは素敵なことだってことを、来栖さんは教えてくれる。
「蝶を滅ぼすのか、蝶が飛ばなくなる日が来るのはわからないから」
「先は遠そうですね」
「でも、いいの。生きている限り、可能性は無限大だから。何歳になっても、悠真くんとの時間は続く。結葵様は夢を叶えることができる」
来栖さんと話をしているだけなのに、どうしてこんなにも明るい気持ちになれるのか。
ずんと気持ちが沈んでしまいそうな先の見えない未来の話をしているのに、どうしてこんなにも希望溢れる未来を描くことができるようになるのか。
出会ったばかりの来栖さんの魅力に、私は引きつけられていく。
「……不謹慎な言い方かもしれませんが」
「結葵様?」
「私は、来栖さんたちと出会えて良かったと思います」
紫純琥珀蝶を通して、結ばれた縁。
それを素直に喜んでいいのか分からなかったから、こんな言葉の紡ぎ方になってしまった。
狩り人の人たちとの出会いは、私の人生を彩ってくれるくらい素敵なもの。
その自覚はあるのに、出会えたことを祝福する勇気と自信はとても小さなものだった。
「出会ってくれて、ありがとうございます」
「結葵様と出会うことができて、悠真くんも心が救われていると思う」
来栖さんは私よりもだいぶ年下に見えるのに、こんなにも人を気遣うのがお上手で羨ましい。
「救われているなんて、大袈裟です」
「悠真くんの瞳も、生きて見えるようになったから」
都会のような夜の闇を照らすための電灯が、朱色村にはまだ存在しない。
月明かりと星明かりだけが頼りの村は薄気味悪いはずなのに、どこか幻想的にさえ見えてくる村に心を奪われずにはいられなかった。
「朱色村は、ほんの少し平和な場所」
足元に注意を払いながら、木々の向こう側に見える朱色村に視線を向けていたとき。
来栖さんは、ここが美しい場所と言わんばかりの声色でぽつりと呟いた。
「蝶たちの話を聞く限り、朱色村は蝶の数が少ないと伺っています」
「朱色村は蝶の数が少ないから、狩り人が訪れることは滅多にない」
人々の記憶を奪う紫純琥珀蝶が飛び交う世界というのなら、蝶の数が少ない朱色村にこそ需要があると考える人がいても可笑しくはない。それなのに、朱色村の富が潤うような話を聞いたことは一切ない。
「……まるで、蝶に守られた村みたいですね」
「……結葵様がいるからかもしれない」
来栖さんの言葉を受けて、あながち間違いではないのかもしれないとおとぎ話のような話を妄想する。
「私は蝶にとって、どういう存在なのでしょうか」
人の記憶を奪わない蝶が活動するのは、太陽が光を注ぐ時間帯。
月の明かりを浴びるために活動を始めた蝶たちは、紫純琥珀蝶だと判断する材料となる。
空を見上げると、月光を受けた薄紫の羽が星の輝きにも負けぬ美しさで夜空に彩を加えていた。
「あの蝶たちは、何をしに向かうの……?」
さすがに手の届かない場所に美しさを残していく蝶たちを撃ち殺すことはできないらしく、来栖さんは冷静な声色で、蝶と言葉を交わすことのできる私に声をかけてきた。
「西の方角に向かうと言っています」
「……ありがとう、結葵様」
そっと風が吹き、異国の風を運んできたことを印象づける来栖さんの美しい金色の髪が揺れた。
来栖さんは落ち着いて携帯端末を取り出し、その先にいる誰かに蝶の行方を報告した。
「私が嘘を言っているとは、疑わないのですか」
「悠真くんが認めた人を、私たちが疑うわけにはいかない」
整備もされていない登山道のような場所を、年下の少女は革製の靴に足を痛めることなく先へと進む。
(ということは、私が裏切るようなことが起きたら……それはすべて悠真様の責任になる)
来栖さんと多くの言葉を交わしているわけではないけど、察することはできるようになってきたと思う。
(気をつけなきゃ……)
自分の失態は、悠真様の失態と同義であることを知った。
紫純琥珀蝶と言葉を交わすことのできる私を信じ、碌な人生経験のない私に優しさを与えてくれる悠真様を守りたい。
一畳間の外に幸せがあることを教えてくれた悠真様の役に立つことが、私の存在意義だと自身に言い聞かせる。
「必ず、悠真様のお役に立ってみせます」
心の乱れを整えるのは、自身しかいない。
この場に悠真様がいらっしゃらないからこそ、未来の筒路森の姓を背負うものとしての顔を見せなければいけないと気を込めた。
「……悠真くんは、結葵様のおかげで呼吸がしやすくなったと思う」
「そうだといいのですが」
私たちは言葉を交わし合いながら、静まり返った夜の朱色村を見下ろしていた。
蝶が活動的になる夜の刻、人々が外に出ることはない。
地面に人影ができることもなく、答えの出ない問いかけには心が重たくなる一方で、私たち二人は夜の闇に飲まれてしまうのではないかと心が荒んでいく。
「待つだけというのも辛いと思っていましたが……」
一畳間から見渡せる世界には限界があって、目に映る光景だけが私のすべてだった。でも、外の世界は、想像していたよりも広く美しく輝いていた。
不思議と、人々の記憶を奪うような危険な蝶が飛び交う世界だとは思えなくなってくる。ほんの少し平和な場所へと錯覚させられる。
「会えない時間というのも寂しくなるものですね」
「それ、悠真くんに伝えると、喜ぶと思う」
「そうでしょうか」
「うん、絶対」
悠真様と最後に言葉を交わしたのが、随分と遠い昔のことのような気がしてしまう。
自分にもたらされている記憶は、確かなもののはず。
私が北白川の家を出てから言葉を交わしてきたのは間違いなく悠真様のはずなのに、悠真様の声を忘れてしまいそうな感覚。
それだけ多くの蝶の声が、私の脳裏に想いを訴えかけているのかもしれない。
(蝶の声に、酔いそうになる……)
それでも、悠真様の声を聴きたい。
それでも、悠真様に会いたいと思ってしまうのは何故なのか。
「私は正直、恋や愛もよくわかりません」
幼い頃に、華族に嫁ぐことが決まったと話があった。
それ以降は華族に嫁ぐに相応しい教育を受けてきたけれど、私の婚約者様は妹に差し出されることになった。だから、彼の名前だけは幼い頃から存じ上げていた。
けれど、実際にお会いしたのは、つい最近のこと。
私たちは一度もお会いすることなく、婚約者という関係性を結んだ。
「でも、悠真様を好きだと想う気持ちは確かに存在します」
私は筒路盛悠真様を存じ上げていたけれど、悠真様が北白川の娘を認識していたかどうかは分からない。
(私は幼い頃から、一方的な片想いをしていたのかもしれない)
でも、その一方通行の慕う気持ちも決して悪いものではなかった。
「直接、自分の目で悠真様の生き方を知っていきたいと思います」
家の利益や社会的地位の向上を目的として、政略結婚が行われることが多いとは聞いている。
そのごく当たり前に行われている政略結婚に乗っかった私たちに、絆というものが生まれるかどうかも、正直、よく分からない。
「ここから始まる絆があると信じて」
紫純琥珀蝶を狩る側でもあり、利用する側でもあるのが、筒路森悠真様に与えられた役割。
それなのに、紫純琥珀蝶と話すことができる私のことを利用しようとしない優しいあの人を支えたい。
彼からの信頼がないならないなりに、これから時間をかけて信頼を築き上げていかなければいけない。
「身内で行動すると、何かあったときに大変なことになると思ってたけど……」
ぼんやりとした月明かりが私たちを見守る中、来栖さんは悔しそうな表情を見せてくれた。
「結葵様と悠真くんは、一緒でも良かったかも……」
「そこは任務ですから、お気遣いいただかなくても……」
ここで来栖さんの年相応なところを見ることができるとは思ってもいなくて、なんて平和な時間なのだろうと思ってしまう。
「結葵様の目で、悠真くんの無事を確認するのは大切なこと」
蝶たちは、朱色村で何かが起きると教えてくれた。
そのために私たちは朱色朱色村を見回っているはずなのに、来栖さんは私の精神的な面を気遣って声をかけてくれた。
「悠真様の仕事の邪魔はしたくないので」
「……結葵様は、強い」
山中で頼りになるのは月明かりくらいなのに、月を覆うほどの暗い雲が月の明かりを遮ってしまう。
「でも、もっとわがままになるべき」
「私は自分のわがままよりも、悠真様が幸せになることを優先したい……」
「紫純琥珀蝶が飛ぶ世界は、いつ誰が記憶を失っても可笑しくない」
一瞬、頬の横を鋭い風が駆け抜けた。
「来栖、さ……」
何が起こったのか確認する暇もなくて、私は呆然と立ち尽くしてしまった。
視界に映るのは、片手で持てる大きさの拳銃を私に向けている来栖さんの姿。
「ごめんなさい! 結葵様に当てない自信はあったけど、驚かせた……」
落ち着いて後ろを振り返ると、来栖さんが撃った銃弾に体を裂かれた紫純琥珀蝶の姿があった。即死だったようで、蝶の薄紫の羽は地面に力なく伏せられていた。
「私の方こそ……あ、ごめんなさい……私、気づかなくて……」
「謝らなくていい。声もかけずに銃を使った私が悪い」
「でも、来栖さんがいなかったら、私は記憶を失っていた……」
紫純琥珀蝶が、自分に近づいてきた気配をまったく感じなかった。
狩り人に協力した私を嫌ったのか、私に言葉をかけることなく蝶は私の背後へと忍び寄ったということらしい。
「結葵様、大丈夫?」
不自然なほど静かにしている私を気遣って、来栖さんは声を与えてくれた。
「狩り人でも、蝶の気配を感じ取れないときがあるから気にしなくていい」
「でも……」
いつもと、何かが違う。
狩り人と協力関係を結ぼうとしたことが、私の勘を鈍らせてしまったのかもしれない。
「化け物みたいな大きさの蝶が飛んでいるならともかく、紫純琥珀蝶はそこらへんを飛んでいる蝶々たちと変わりのない大きさ」
「そう……ですが、それは言い訳にしかなりません」
研究室に慣らされた蝶が、私に嘘を教えた可能性も否定はできなかった。
罠にはめられた可能性も考えながら、私は悠真様に蝶からの情報を伝えた。
「そんなに気にしなくても大丈夫」
「すみません、もっと……もっとしっかりします……」
でも、私たちは本当に罠にはめられてしまったのかもしれない。
蝶が私に話しかけてくれなかったことが、裏切り者への制裁なのかもしれない。
「さっきの来栖さんのお話に繋がりますね……」
何を優先して生きていくのか。
すべての時間を悠真様に費やすことができないからこそ、優先したい感情に順番をつけなければいけない。
「私は、悠真様の傍にいたいです」
悠真様のことは、もちろん信頼している。
狩り人のみなさんがいてくれれば、朱色村のことを絶対に守ってくれると思う。
それなのに、胸騒ぎがする。
何かが起こるような、既に何かが起きているような、そんな予感が脳裏をかすめていく。
だから、私は悠真様と再会することを優先させたい。
「戻ろう、結葵様」
「こんな自分勝手なことをしても大丈夫ですか」
私の失態で、大勢の人に迷惑をかけてしまったかもしれない。
「狩り人がいる限り、村の平和は維持できる」
「……はい」
「だから、持ち場を離れても問題はない」
これ以上、狩り人の人たちに迷惑をかけないためにも、私は来栖さんに確認をとる。
「朱色村の蝶は、ほかの村に比べたら数が少ないから」
「…………」
「まるで、この人数でなんとかできるように蝶が配慮してくれているみたいに……ね」
そんなこと、考えたことがなかった。
どんなに両親の血を引く美しい容姿をしていても、紫純琥珀蝶と言葉を交わす私を貰ってくれるような華族は現れなかった。
外の世界を知らずに育った私にとっては、来栖さんを始めとする外の世界を生きた人たちの情報は貴重だった。
「ちゃんと悠真くんに会って、不安定な心をちゃんと取り戻そう」
「はい」
世界は蝶の恐怖に怯えているのに、こんな私的な感情を優先する。
それでは駄目だと分かっていても、心を走り抜ける奇妙な勘は止まることを知らない。
「悠真くんたちが見回っているのは……」
「こちらの方角だと思います」
「ありがとう、結葵様」
「案内なら、お任せください」
元々、山の頂上まで向かう予定ではなかった。
私がこんな不安定な状態なのだから、山頂まで向かわなかったのはある意味正解だったのかもしれない。
「身内で行動すると、何かあったときに大変なことになると思ってたけど……」
ぼんやりとした月明かりが私たちを見守る中、来栖さんは悔しそうな表情を見せてくれた。
「結葵様と悠真くんは、一緒でも良かったかも……」
「そこは任務ですから、お気遣いいただかなくても……」
ここで来栖さんの年相応なところを見ることができるとは思ってもいなくて、なんて平和な時間なのだろうと思ってしまう。
「外に出たことがない私でも、紫純琥珀蝶が導いてくれるので」
都合のいい考え方かもしれないけれど、まるで誰かが山を登るべきじゃないって導いているような気がした。
私たちが早く村に戻ってこられるように、誰かが仕組んでいるような気がする。
(悠真様、どうかご無事で……)
外灯の光もなく、月明かりだけが頼りの朱色村。
私たちの静かな足音しか響かない中、村の小道を進んでいくことの心細さといったら言葉で表現できないほど。
(この村には、何か秘密が隠されているかもしれないから……)
紫純琥珀蝶と言葉を交わせる人間が存在するから、蝶たちは朱色村を紫に染めることがないのかもしれない。
その考えはある意味では正しいのかもしれないけど、私の出世に特別な秘密など隠されていないのなら、そこには隠された理由があると考えるのが普通。
「え……」
視界に映り込むはずのない、その人が私の中に入り込んでくる。
「人のことを化け物みたいな目で見るな」
「悠真様……」
古びた民家を背景にして佇む悠真様。
風に揺れる竹林の音がやけに耳をざわつかせるけど、そこに存在するのは間違いなく筒路森のご当主様。
「どうして、ここにいらっしゃるのですか……」
「心配になって、登山道を目指そうと思っただけの話だ」
初さんと一緒に行動しているはずの悠真様が一人で現れたことへの答えを得る方が先だと分かっていても、その答えを得る前に彼は跪いて私の足元へと視線を向ける。
「結葵、足は痛くないか」
「…………」
私と来栖さんの会話を悠真様が盗み聞いていたわけがないのに、なぜか自分が言葉にしてきたすべてが彼に筒抜けなのではないかと気まずい雰囲気が生まれてきてしまう。
(でも、無事で良かった……)
それと同時に安心感のようなものまで芽生えてきてしまうのは、悠真様が私に改めて優しさを注いでくださるからかもしれない。
「結葵? 大丈夫か?」
「…………はい」
なんで、かな。
なんで、なのか。
悠真様は私に会いたくなかったとしても、私は悠真様に会いたかったのだと自覚する。
「悠真様、お気遣いありがとうございます」
どうして。
どうして、か。
私が不安にしているときに会いに来てくれるのは、たとえ偽りだとしても私たちが恋仲という関係にあるからかもしれない。
「初は?」
「はぐれた」
来栖さんの投げかけに驚いたような表情を見せた悠真様だけど、すぐに申し訳なさそうな顔を浮かべて私たちを見た。
「朱色村には来たことあっても、その程度では駄目だな。どこを歩いてるのかわからなくなる」
「ご無事で何よりですよ」
「結葵も無事で良かった」
悠真様が与えてくれる優しさと温かさに浸っていたい。
そんな甘えた考えが浮かんでくるけれど、自分の心が整ったのなら次に向かって動かなければいけない。
「初さん、迷われていないといいのですが……」
普通の、ごく普通の、蝶が飛び交わない世界での生活を送ってみたい。
そう願う人たちがいることも、話には伺っている。
そんな方々の願いを叶えるためにも、狩り人のみなさんが国のあちこちを見回っている。
悠真様にとって村の見回りは日常の一環らしくて、初さんが欠けた世界でもお二人は冷静に見えた。
「結葵様のことも休ませてあげたい」
「結葵? 結葵、具合でも悪いのか?」
悠真様が心配そうな顔で、私のことを見てくる。
向けられる悠真様の真っすぐな視線から逃げ出したくなって、瞳を逸らしたくなる。
(ここは、大丈夫って返さなければいけない……)
悠真様の負担になる行動は取らない。
悠真様の迷惑になるような感情を、押しつけてはいけない。
「今日は蝶の気配が感じ取りにくくて……でも、もう大丈夫です。残りの仕事も付き添わせてくださ……」
「熱は?」
悠真様の右手が、私の額に触れてくる。
「え、あ……」
ただ、それだけ。
ただそれだけのことなのに、熱い。
体が熱くなってきて、徐々に頭の中まで熱に侵されていく。
高熱なんてないのに、まるで熱があるかのように思考がぼんやりとしていく。
「熱はないな」
「でも、結葵様の体調が悪いのは事実」
「だから、山登りはさせるなとあれほど……」
悠真様と来栖さんのやりとりを見ているだけで、心がほんの少し休まるような気がした。
これが、いつもの日常。
これが、平和な証拠。
「悠真様」
「ん?」
「私なら、大丈夫ですから」
額に当てられた筆の右手を、そっと取り払う。
これで悠真様の熱を感じなくなったはずなのに、私の額には悠真様の熱が残ったまま。逃げていかない。自分の体温に戻りたいのに、悠真様の熱の逃がし方が分からない。
「悠真様」
「結葵?」
「名前を呼ぶことができる幸福を、ありがとうございます」
私が恋仲である男性の名を呼ぶと、悠真様は私を見てくれた。
私を視界に入れてくれた。
これが、いつもの日常。
そう言葉にしなくても、悠真様の瞳がそう言ってくれているかのようで安心する。
「初さんを、探しにいきましょう」
いつもの日常が、繰り返される。
そう思っていた。
どんなに紫純琥珀蝶が飛び交う世界だとしても、私たちの日常は変わらないまま過ぎていくと思っていた。
だけど、変わらないことはないのだと思い知らされる。
同じ毎日は繰り返されない。
同じ日々は、二度と訪れないということを教えられた。
「っ!」
静寂という言葉で覆われた世界に、突如けたたましい音が鳴り響いた。
「ああ、不安にさせて悪い。この音は、初からの連絡だ」
狩り人のみなさんが持ち歩いているという端末が、初さんからの連絡を知らせる。
「初か? どこにいる……」
悠真様は端末を使いながら、初さんとの会話を進めていく。
端末の向こう側にいる初さんの声が私に聞こえないのは当たり前のことなのに、初さんがどうして連絡を寄こしたのかという点が私の不安を益々煽っていく。
「落ち着いて、説明しろ」
私たちは、悠真様の言葉を待った。
ただ言葉を待つだけなのに、心は何かを訴えかけるように窮屈な苦しみを受けていた。
「…………」
「悠真くん?」
悠真様は初さんとの会話を終えると、神妙な顔つきで何か考えごとをしていた。
悠真様の表情からは、普段の明るさというものが消えていた。
「どうか、なさいましたか……」
その問いかけは、とても弱々しい声だったかもしれない。
でも、端末を切った悠真様は私を無視することなく、真っすぐな視線を向けてくれた。
「結葵、落ち着いてくれ」
いつもの日常なんて、繰り返されるわけがない。
平和な日々なんて、いつまでも続かない。
月明かりが優しく照らす夜、心が不安に覆われていったときのことを私は忘れることができないと思う。
「北白川の第二令嬢が、記憶を失って発見された」
どこかの夜空を飛び交っている紫純琥珀蝶が、まるで私たちを嘲笑っているかのような気がした。
私を絶望に落とす残酷な言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
「結葵、しっかりしろ」
「大丈夫です」
人一人通らない夜道を進む。
紫純琥珀蝶が生きる世界では、人々が夜間に出歩くことは滅多にない。
もし外に出ることがあったとしても、その際には狩り人が同行する方が多いと伺っている。
紫純琥珀蝶に、大切な記憶を奪われないためにも。
「戦う力もないのに、同行を許可してくれてありがとうございます」
「力のない人間を守るのが、狩り人の使命だ」
「とても心強いです」
なるべく言葉に強さを込めようと思ってはみるものの、自分の声はなんて弱々しいのだと思う。
村を包み込む夜という色は、人を寂しい気持ちにさせる。
夜の冷たいこの空気も、今は心に突き刺さるかのように私たちを敵視している気さえしてくる。
悠真様と来栖さんに付き添われていたるのに、深い黒が覆う時間帯に出歩くのはあまり好きじゃないということを思う。
「家族が関わっている話だ。酷だと感じたときは、ちゃんと声をかけろ」
「……行きます」
私が紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができる唯一なのだとしたら、しっかりしなくてはいけない。
「いい覚悟だ」
「私は将来、筒路森に嫁ぐ予定の者ですから」
私は、不安を抱きながら生きる人々を守るために手助けがしたい。
たとえ血の繋がりのある妹に何かがあったとしても、心が揺らぐようなことはあってはならない。
さっきから、そんなことを何度も何度も繰り返し自分に言い聞かせていた。
「私は蝶と言葉を交わすことができます。この力を、世を生きる人々のために」
初さんからの連絡に、間違いなんてものがあるはずはない。
私たちが北白川の元に駆けつけたところで、妹の記憶は戻らない。
だったら早く現実を受け入れて、蝶と言葉を交わすべきだと思った。
「妹が、勝手に外に出たということですよね」
「彼女が家の中にいたのは、別の狩り人が確認している」
紫純琥珀蝶が飛び始める時間帯になると、蝶が家の中に入ってこないように戸締りをきちんとすることで人々は安心を取り戻していく。
私は蝶と話す時間に安らぎを得ていたため、一畳間の障子戸は開きっぱなしにしていた。
けれど、世間では蝶の侵入を防ぐことが習わしと言ってもいいほど、自衛の大切さは知れ渡っているはず。
「……つまり、妹は屋敷の中で襲われたということになりますね?」
「なんとも言えないが、誰かが蝶を室内に招き入れた可能性は十分にある」
私たちは、少し足を速める。
そうしたところで、視界に入って来る景色に変わりはない。
田舎道は、田畑と舗装された路が続いていくだけで代わり映えしない。
私たちの足音以外の音が聞こえてくるわけでもなく、何も変わらない。
でも、足を速めれば少しは早く妹の元へと辿り着くことができると期待した。
(美怜ちゃんに、なんらかしらの理由があって……それで蝶を招き入れた?)
妹が室内にいたことを狩り人が確認したというのなら、彼女が好き勝手に外出したという可能性はなくなる。
記憶を奪う蝶を忌み嫌い、誰よりも妹を愛してやまない両親が戸締りを怠って、自らを危険にさらすとも考えられない。
屋敷内に蝶さえ入ってさえ来なければ、屋内の安全は確実に守られるのだから。
(でも、そうなると、美怜ちゃんが自らを危険に晒したことに……)
妹の記憶が失われたという知らせを受け、心が焦りで満ちていくのを感じる。
けれど、隣には狩り人の悠真様と来栖さんがいてくれる。
そのおかげで、私はなんとか心の平穏を保つことができている。
(私は美怜ちゃんの姉だから……一刻も早く駆けつけたい)
記憶を奪う蝶のように忌み嫌っていた娘が、北白川に戻ることを両親は許してくれないかもしれない。
(でも、もしかしたら……もしかしたら……)
この事件を解決することができたら、家族の輪に戻してもらえるのではないか。
そんな期待を、どうしても捨て去ることができない。
どんなに酷い仕打ちを受けても、私たちの間には血の繋がりがある。
決して切れぬ絆があるという妄想を、どうしても信じてみたいと思ってしまう。
「まるで、悠真様と出会ったときの再現のようですね」
「先に待つものが、祝言ならいいんだけどな」
「とても……とても素敵な夢だと思います」
会ったところで、現実は変わらない。
美怜ちゃんが記憶を失っている現実に、奇跡が起こることなんてあり得ない。
それでも、妹に会いに行きたいと思う。
「どうして帰ってきたの……」
自分の家に、早く辿り着きたかった。
早く妹に会って、心を落ち着かせようと思っていた。
だけど、いざ自分の家に辿り着いて、いざ自分の母に出迎えてもらうと、そんなことを思っていた自分は、なんて浅はかなんだろうと思った。
久しぶりに実家の扉を通り抜けた瞬間、心が重く沈むのを感じた。
「何しに戻ってきたのと聞いているでしょ!」
「美怜ちゃんの記憶が失われたと聞いて……」
かつての家族との再会は、喜びではなく恐怖と悲しみを呼び起こす。
政略結婚で家を出たあとも、両親の冷たい態度は変わらないということ。
実家には筒路森から送られている多額の財産があるはずなのに、母の態度は昔と何ひとつ変わらないまま。
「結葵、下がってろ」
「でも、悠真様……」
私が言葉を返すと、母の目に涙が浮かんだ。
妹を想って胸の奥から込み上げてくる感情からくる涙だということを察して、私は何も言葉を返すことができなくなってしまった。
「筒路森の婚約者の座だけでなく、美怜の記憶まで奪って……あなたはどれだけ私たちを苦しめたら気が済むの!」
血が上るように怒りをまき散らすのが辛かったのか、母は頭の痛みを抑えるように手を当てた。
もう、私のことは視界にすら入れてもらえない。
母の頭痛を気遣いたくても、それすらも拒まれてしまう。
「北白川様、それ以上の言葉は慎んでいただけますか」
「言わせてください! この子は、この子は、呪われた子なのです!」
母の罵声が続く。
お前がいなければ、もっと幸せだったのにと言われているような言葉に、心が痛むのを感じる。
自分がどれだけ努力をしても、自分がどれだけ筒路森からお金を得たとしても、私が愛されることは決してないのかもしれない。
「これはこれは、筒路森様!」
一瞬だけ、父の温かみある声が響いた。
また冷ややかな目を向けられるのだと思って振り向くと、父は私を視界にすら入れてくれなかった。
私の存在なんて始めからなかったと言わんばかりの態度を受け、冷たさが一気に屋敷の中へ広がるのを感じる。
「早く、早く、美怜を見ていただけますか」
悠真様や狩り人のみなさんと過ごす日々から、あまりにも多くの幸福を受け取りすぎた。
紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができるというのは異様であるということを、すっかり忘れてしまいそうになっていた。
(蝶の言葉を聞けば、二人の役に立てるかも……)
悠真様は私を背後に据えてくれていたけど、私は敢えて一歩を踏み出した。
私は悠真様に守ってもらうことなく、両親の怒りを鎮めるために自ら動いた。
「お父様」
「私の娘は美怜だけだ。おまえは育ててやっただけに過ぎない」
無表情で語る父に恐怖を感じて唇をぎゅっと結んだけれど、このまま言葉を閉じ込めてしまったら私たちの関係は何も変わらない。
「聞いてください」
「そのときの恩を仇で返すつもりか!」
やけに、頬を叩く鋭い音が響き渡った。
「結葵っ」
音が響くような環境下ではないのに、耳を割くような不快さの音は異様に響き渡る。
「平気です、痛みには慣れていますから……」
「あなたが仕向けたの……?」
悠真様に手を引かれ、私は再び彼の後ろへと身を隠すようなかたちになる。
自分が出しゃばったせいで父に殴られることになってしまったけれど、私は後悔していないと悠真様にお伝えしたい。
(でも、今は、そのときではない)
伝えたい言葉あるのに伝えることができない、もどかしさを心にしまい込んだ。
「北白川様、これ以上は……」
「この子を躾けるのは、筒路森様のためでもあるのですよ!」
母の顔を窺うと、ああ、妹が記憶を失ってしまったのは現実なのだと察する。
母の絶望に満ちた表情に、心が痛む。
「この子が仕向けた以外に考えられないのです」
「北白川様、彼女を侮辱するような言い方はやめてもらいたい」
私を守るための言葉を強調するために、悠真様はゆっくりと私の両親に語りかける。
「筒路森様だって、気づいておられるでしょう!? この子がいなくなれば、世界は蝶の脅威に怯えることなく生きていけるのです!」
私が心を痛めている場合ではないと分かっているけれど、両親の悲痛な顔を見ているのは辛い。
「悠真様、私なら平気ですから……」
悠真様に守られてばかりの自分ではいられないと思い、私を庇うのはやめてほしいと伝えようとしたときのことだった。
「第二令嬢は、狩り人の保護下にありました」
妹を守ることができなかった私が罰を受けるのは当然のことなのに、私は悠真様の優しさに守られていく。
「ですが、この娘は蝶と話ができるのですぞ!」
妹の記憶が失われて一番大きな衝撃を受けているのは姉の私ではなく、妹に愛情を注ぎ続けてきた両親だと気づく。
(美怜ちゃんの記憶がなくなって、謝らなければいけないのは私……)
紫純琥珀蝶の代わりを務めるなら今だと思って、私は両親に深く頭を下げる覚悟を決める。
「申し訳ございませんでした」
「結葵!」
私が謝罪する必要はない。
そう言わんばかりに悠真様は私を叱りつける声色で名を呼んでくれるけど、私は両親に向かって深く謝罪の気持ちを示した。
「和奏、結葵の両親を頼む」
「了解」
私が両親と言葉を交わすのを避けるために、悠真様は私の手を引いた。
私と両親との距離を置くために配慮してくれたと理解できても、心が冷たくて冷たくて仕方がない。
「っ、悠真様、私が両親の元にいますから……」
「君は玩具か? 両親の操り人形か何かなのか」
繋がれた手を振り払おうとすると、その手は強く握られた。
「違います……私は、北白川の娘で……」
「だったら、怒りの受け皿になるな」
私を叱りつけるような言葉を投げかけられるけど、悠真様の声はいつだって優しさを含んでいる。私のことが心配で心配で堪らないという感情が痛いほど伝わってきてしまう。
「…………違います、怒りを受け止めるのは、家族の使命です……から……」
悠真様に会いたかった。
悠真様の笑顔は、いつも私に安心感を与えてくれる。
今日も、今も、そうだって思った。
「両親を救えるのは、私しかいない……」
「その言葉を、どうして俺の目を見て伝えることができない」
顔を上げられない。
手を振りほどくこともできない。
「家族を守りたいという気持ちは立派だ。だが、両親の怒りを鎮める方法が間違っていること……本当は君も気づいているんだろ」
声が出ない。
言葉が、迷う。
「暴力行為は、愛情表現とは違う」
「だって……だって……だって…………」
だって、なんて言葉遣いは幼稚かもしれない。
こういうとき、嫌でも悠真様との年齢差を感じさせられて、大人の世界を生きる悠真様に追いつくことのできない自分を情けなく思う。
「こういうやり方でしか……両親は私を見てくれないから……」
真っ先に記憶を失った妹の元に駆けつけなければいけないのに、私の瞳からはとめどなく涙が溢れてきてしまう。
「両親の視界に映るには、暴力を受け続けるしかなくて……」
瞳に触れる熱に驚いて、思わず顔を上げてしまった。
廊下を構成する板と睨めっこをしていたはずの私は、悠真様と視線を交えた。
「平気なわけないだろ」
悠真様の人差し指が、優しく涙を拭い去ってくれる。
「暴力を受けて、痛みを感じない人間がいるわけないだろ」
涙を拭ってくれる人が現れるなんて、夢物語のような展開に驚きすぎたのか。
自分では制御できないほど流れ続けた涙は、泣くのをやめるために落ちる速度を落としていく。
「迎えに行くのが遅くなって、本当にすまないと思ってる」
そして、私は悠真様の腕の中に招き入れられる。
「謝らないでください……悠真様が、謝らないでください……」
悠真様の謝罪を拒否する。
すると、私はより一層、強い力で抱き締められる。
「十数年もの年月、ずっと独りにしてきたこと……謝らせてくれ」
筒路森には、筒路森の事情がある。
二十を超えられたばかりの悠真様が当主になるだけでも大変なことだと察することができるのに、私のことまで気にしていたら悠真様の身が持たないのは容易に想像できる。
「謝らないでください……謝らないで……」
悠真様の熱に包まれた私は、悠真様のお顔を拝見することができない。
それでも、悠真様の腕の中で想うことはひとつ。
私は悠真様に、こんな辛そうな顔をさせるために生まれたんじゃない。
私は悠真様が時折見せてくれる笑顔に心を動かされるからこそ、私は彼が穏やかに生きられるよう努めていきたい。
「遅くなって、悪かった」
私の涙が落ち着きを見せる頃、私は悠真様の熱から解放された。
悠真様と身体を触れ合わせることはできなくなってしまったけれど、悠真様は代わりに手を繋いでくれた。
初さんの前でも手を離さずに、私の手を離さずにいてくれる。
「そんなのはどーでもいいんですけど、結葵様は大丈夫ですか」
妹の傍で待機してくれていた初さんに顔を覗き込まれ、泣き跡を消すことができなかったことを申し訳なく思う。
「初さん、妹の異変に気づいてくれて、ありがとうございました」
「俺は何も……。悠真くんと、はぐれたおかげかもしれませんね」
私を落ち着けるために、初さんはいつもの前向きな声で話しかけてくれた。
ほんの少しの元気のなさが気になったけれど、初さんが私を気遣ってくれるのを感じて私は彼に頭を下げた。
「それでも、ありがとうございます」
何を言葉にすることもなかったけれど、悠真様と視線を交えることで彼は私の気持ちを察してくれた。
ゆっくりと指が解かれ、私は筒路森の婚約者から北白川家の娘としての表情を整えていく。
「俺は、部屋の外で待機してます」
姿勢正しく、何があっても冷静に対応していく初さんは狩り人として立派に職務を全うされている。
一方の私は隣に悠真様がいるはずなのに、心臓の震えが止まらずにどうしたらいいのかと焦りを感じている。
(これが、経験の差……)
一畳の部屋で授かった経験も、十六歳の私が授かった経験も、今の私を支えてはくれない。
襖に手が触れたとき、あまりの冷たさに心臓が一瞬止まったように感じてしまった。
指先に伝わった冷たさにすら恐怖を感じる私の傍に、妹の記憶を奪った蝶の姿は現れない。
「悪いな、蝶の代わりになれなくて」
心の中を読まれたのかと思って、傍にいる悠真様の顔を見上げた。
「……悠真様は、心を読む力が?」
「いや、そんなわけないだろ」
頭を撫でられることを子ども染みているように捉えていたけど、これが悠真様の優しさだと気づいて深呼吸を繰り返す。
「ずっと、蝶と過ごしてきたんだ。思うこともあるだろ」
紫純琥珀蝶と言葉を交わしたい気持ちと、妹の記憶を奪った蝶を殺さなければならないのかと、二つの気持ちが葛藤していた。
揺れ動く気持ちすら悠真様は拾い上げてくれて、こんなにも素晴らしい方の元に嫁げることに感謝の気持ちがやまない。
「付いてきてもらえますか」
決意を固め、ゆっくりと襖を開けた。
「……あなたは?」
薄暗い月明かりが障子越しに差し込み、微かに揺れる影が不安を煽る。
影を作り出していた正体は私の妹。
大切な、私が守らなければいけなかった、大切な妹が虚ろな目で差し込んでくる月明かりの楽しんでいた。
「美怜ちゃん」
「だぁれ……?」
紫純琥珀蝶に記憶を喰われた妹は、私のことを理解できていないみたいだった。
そんなの嘘だよねとか、冗談だよねとか、笑って済むような話じゃないんだってことが、美怜ちゃんをまとっている空気から伝わってくる。
「結葵」
「大丈夫です」
悠真様は、私から離れることなく傍にいてくれる。
それなのに、孤独になった手は冷たさを帯びていく。
自分の体から、温度が抜けていくような感覚に恐怖さえも感じてしまう。
「……誰? あなたは、だぁれ?」
初さんから連絡を受けたときから、何度も何度も言い聞かせている言葉だった。
落ち着いて。
落ち着いてほしいって両親に声をかけなければいけないのは姉である私なのに、今は何を言っても聞く耳すら持ってもらえないことが辛い。
「私は……」
紫純琥珀蝶に襲われたら、記憶を失ってしまう。
そんなのは小さいことから何度も聞かされてきたことなのに、いざ現実に起こるとどうしたらいいのか分からなくなる。
言葉を失うなんて言い方をしてしまうのは簡単で、実際何を言葉にしていいのか本気で分からなくなってしまった。
「私は……」
自分でも、自分の声が掠れているのが分かった。
第一声は……まず始めは、名前を呼びたいと思った。
大切な妹の名前を、はっきり呼びたいって思った。
だけど、私の声も心も情けない。
紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができるはずなのに、私は大切な妹の名前を呼ぶことすらできないくらい心が動揺してしまっている。
「私は、あなたの双子の片割れです」
いつかは、家族の輪に入れてもらえるのではないか。
そんな風に、漠然と思っていた。
そんな明るい未来を想像していたはずなのに、実際に迎えた現実は少しも明るいものではなかった。
「双子……?」
笑わなきゃいけない。
記憶を失って不安なのは、私じゃない。
美怜ちゃんの方が、初めましての私を目にして混乱しているはず。
だから、美怜ちゃんが少しでも安心してくれるように、私はあなたに笑顔を見せたい。
「覚えていない、よね……?」
「……うん」
笑顔で会話を続けるって、こんなにも難しいことだと痛感する。
悠真様は私といつも笑顔で話をしてくれて、いつも私に安心感を与えてくれていた。
私は悠真様が見せてくれるような綺麗に笑顔を見せることはできているのか。
笑顔を装わなきゃいけないのは理解していても、実際に嘘でも笑顔を見せられているかといったら自信がない。
「初めましての人に……こんなこと言われても何って思うかもしれないけど、でも……」
どくん。
心臓が、そんな音を鳴らしたような気がする。何でそんな気がしたのか分からない。
けど、私を鼓舞するために心臓が一生懸命動いたような……そんな感じがした。
頑張れって。
伝えなきゃいけない言葉があるって。
「無事で……良かった……」
紫純琥珀蝶が、人の命を奪うなんて事例は存在しない。
紫純琥珀蝶が狙うのは、あくまで一番大切な人の記憶だけ。でも、私は思った。
「美怜ちゃんが生きていてくれて……本当に良かった」
これは、本当の気持ちだった。
私のことを忘れてしまっても、あなたが生きてくれていて本当に良かった。