運転手の居眠りが原因で起きた死亡事故は、全国的なニュースとなった。しばらくの間、記者と思しき人間が朝桐先輩の家や高校の周りをうろついていたが、時間の経過とともに見なくなっていった。
 被害を耳にして心を痛めるふりをしても、所詮は他人事だ。日本のどこかで起きた事故は、一ヶ月もしないうちに過去の出来事となって忘れられる。残酷な現実だ。
 吉成は、事故関連の話で絶対に俺の名前が出ないように手回しをしてくれたらしい。直接聞いたわけではなく、朝桐先輩のお母さんが教えてくれた。吉成への感謝よりも、矢面に立ってくれた朝桐先輩のご両親に対する罪悪感よりも先に、心底ホッとしてしまった俺は、やっぱり薄情なのかもしれない。
 今日は通院の日だった。膝の怪我が思った以上に深かったのと、栄養状態の悪さが相まって、完治までにずいぶんと時間を要した。精神的な問題もあったと思う。漠然とした不安や恐怖がずっと付きまとっていて、なかなか部活には復帰できなかった。
 こんな不甲斐ない俺を、バスケ部のみんなは認めてくれるだろうか。朝桐先輩に庇われてのうのうと生きているくせに、いつまでも前を向けない俺を。
 病院から、直接学校へ向かう。今日は午後練だから、経過がよければ少し顔を出していくことになっていた。
 横断歩道の縞模様が怖くて、上を向いた。心臓が早鐘を打つ。落ち着こうと深呼吸をすると、学校へ向かう並木道の桜の蕾が、ほんの少しだけふくらんでいることに気がついた。足元ばかり見ていたら気がつかなかった事実に、時の流れを感じずにはいられない。

 部室はすでにもぬけの殻だった。ひとつひとつ思い出すように練習着に着替え、真っ赤なシューズを抱えて部室を飛び出す。涙が溢れて視界を歪ませたが、とっくに練習が始まっていたおかげで、誰にも見られずに済んだ。
 体育館から、ボールをつく音や元気な声が聞こえる。たった一ヶ月程度離れていただけなのに、ひどく懐かしく感じた。
 重い鉄扉を身体で押し開けながら、中を覗く。タイミング悪く、すぐそこに吉成が立っていた。
「……はよっす」
「おお、おはよう。病院はどうだった?」
「あ、えっと、もう完治ってことで、練習も復帰して大丈夫みたい、です」
「そうか、よかったな。軽くアップして、今日は様子見だな。佐倉と動いてくれ」
「っす」
 もっと大げさに騒がれるかと思っていたから、吉成のいつも通りの反応に拍子抜けしてしまった。後ろ手に扉を閉め、シューズを履いて靴ひもを縛り直す。
「くれぐれも無理はするなよ。疲れたら休んでもいいからな」
「でも、これ以上置いていかれたら、居場所なくなるんで」
 たくさん迷惑をかけたのだ。無理をしなければ、受け入れてもらえないと思った。
「バスケ部の仲間が、そんな薄情だと思うか?」
「……いや、思わないけど」
「ならいい。よし、みんな集合だ」
 吉成が声を張り上げる。集合、と梅原先輩の声が続いた。俺もゆっくりと立ち上がり、つま先でとんとんと床を叩いた。シューズは不思議なくらい足に馴染んでいる。最初から、俺の為にあったかのように。
 チームメイト顔をちゃんと見るのは、事故にあって以来初めてだった。変わらない顔ぶれ。ホッとすると同時に、朝桐先輩がいないことを再確認してしまう。
「今日から夏樹が復帰する。初めは上手くいかないこともあるだろうから、みんなでフォローしてやってくれ……夏樹からも、何かあるか?」
「……えっと、迷惑かけると思うんですけど、頑張るので、よろしくお願いします」
 深く頭を下げる。温かな拍手が、春の雨のように降りそそいだ。迎え入れてもらえるなんて思ってもみなかったから、戸惑った。
「なっちゃん」
「はい」
 朝桐先輩に代わってキャプテンになった梅原先輩が、一歩前に出た。あまり見ない真剣な表情に、つられて背すじを伸ばす。
「おかえり。待ってたよ」
「え……」
「やっぱり、バスケ部はなっちゃんがいないと。ね、みんな?」
 梅原先輩の言葉に、その後方に立っていたみんながうなずいた。
「みんなでフォローする。だから、難しいかもしれないけど、自分のペースで取り戻していこう」
「ど、どうして」
「ん?」
「みんなは、その……」
 朝桐先輩がいなくなった原因を追及してこないのだろうか。言葉は喉につっかえて音にならず、時間ばかりが過ぎていく。
 赤いシューズのつま先をすり合わせ、うつむいた。心臓が鼓動のテンポを上げ、口から飛び出しそうになる。嫌な汗が、手のひらをびっしょりと濡らした。
「なっちゃん。顔を上げて」
 頬に触れた手は大きく、少しだけ冷たかった。微かに滲んだ視界の中で、梅原先輩は少しだけ悲しそうに笑っている。
「よく、戻ってきてくれたね。ありがとう」
 そっと抱き寄せられて、俺は梅原先輩の肩に顔をうずめた。涙がじわじわとあふれて止まらない。ひ、としゃくり上げても、責められたりはしなかった。
「朝桐がいなくなって、なっちゃんまでいなくなっちやったらさ……俺、どうしていいか分からなかったよ。だから、本当に、生きてくれてありがとうね」
「俺は、っ、生きてて、いいんですか……」
「当たり前だろ。生きなくちゃダメだ。なっちゃんにもしものことがあったら、何やってんだって俺が朝桐に怒られちゃう」
「でも、俺だけ助かって、バスケ部に戻るの、こわかった」
「怖い?」
「受け入れて、もらえないんじゃないかって」
 梅原先輩の温もりに溶かされた心が、必死で堪えていた本音を吐露してしまう。俺を抱きとめる腕の力が強くなる。
 自分以外のすすり泣く声が聞こえた。ぐしゃぐしゃの泣き顔を晒しながら視線を向けると、長谷部が顔をしわくちゃにして泣いていた。
「バカ夏樹! 俺たちは、お前が戻ってくるのをずっと待ってたんだ。そんな悲しいこと、考えてんじゃねぇよ……お前は、俺たちの自慢の司令塔だ。悪く言うやつがいたら、俺がぶっ飛ばしてやる」
「長谷部……」
「おかえり。今日からまた一緒に頑張ろうな、夏樹」
 長谷部が梅原先輩ごと俺を抱きしめる。それを皮切りに、みんなにもみくちゃにされた。
 練習が再開して、佐倉とともにボール広いやタイムキーパーとしての仕事をした。自分では元気なつもりでいたのに、どん底の日々は元々多くなかった体力を根こそぎ持っていったらしい。途中でフラフラし始めた俺に、佐倉はすぐに気づいてくれた。
 監督のイスの隣に座らされて、練習を眺める。せめて声出しくらいはしようと大声を出したら目の前に星が飛んだので、今日の俺は正真正銘のポンコツ。足手まといだ。
「たまには外から、俯瞰的に見るのもいいんじゃないか?」
「俺としては、早くコートに立ちたいんすけど」
「徐々にな。慌てなくても、みんな待っててくれるだろう」
 吉成の穏やかな声は、ずっと速かった俺の鼓動を落ち着かせた。凪いだ心で眺めるコートは、バスケを始めた幼い頃と同じくらい眩しく見えた。
「……吉成先生」
「なんだ」
「俺、幸せ者っすね」
「どうした、急に」
「稲穂台に入学してから、みんなが俺を一人にしてくれない」
「ああ、そうだな。それが仲間ってものだ」
「正直、まだすげぇしんどくて、これから先、不安しかないけど……またみんなと横並びで、朝桐先輩が背中押してくれてるって、生きててよかったって思える日が、いつかくるのかな……」
「絶対にくる、なんて無責任なことは言えないが。夏樹がそう思えるように、支えていきたいと思っている。それが稲穂台バスケットボール部の総意だってことは、忘れないでほしい」
「……はい」
 俺が朝桐先輩の後輩だった事実は、未来永劫変わらない。
 稲穂台バスケットボール部は、俺のかけがえのない居場所となった。そこで受け取った言葉たちは、いつまでも消えない宝物になる。
 少しくらい、迷惑をかけたっていい。立ち止まったっていい。だって俺の周りには、こんなにも頼もしい仲間がいるのだから。


 教室の窓から見える空は、今日も憎たらしいくらいに青かった。世界から誰かがいなくなったとしても、家に帰ったら知らない男の靴があったとしても、時間は等しく過ぎていく。
 進級して、俺は先輩と同じ学年になった。
 残念なことに、俺の担任は昨年に引き続き吉成だった。胸を張って教室に入ってきた瞬間の落胆は、筆舌に尽くし難い。せっかく進級できたというのに、また暑苦しさを浴びながら一年を過ごさなければいけないだなんて辟易する。まあ、担任が他の先生になるというのも、想像できないけれど。
「進路調査票配るぞぉ」
 吉成の声は今日も大きい。うるせぇし。そんなに張り上げなくても聞こえるっての。そんなことを考えながら、頬杖をついてぼんやりと空を眺める。気持ちよさそうに浮かぶ綿あめみたいな雲につられて、あくびが零れた。
「提出期限は金曜日。忘れるなよぉ」
 輪郭がハッキリしていて聞き取りやすい声が、何故か俺に向けられているような気がした。視線を前方へ向ける。思ったとおり、吉成はムカつく薄ら笑いを浮かべてこちらを見ていた。
 また少し太っただろうか。まだ春先だというのに、ジャージの袖をまくっている。腹の周りの布地も何だか苦しそうだ。放課後、シャトルランに巻き込んでやろう。机の下で、こっそり梅原先輩宛にメッセージを送った。
「ねぇ、椎名」
「なに?」
「吉成先生、なんか大きくなった?」
「だな。梅原先輩に、シャトルラン巻き込むってメッセージ送っといた」
「いいね、それ」
 佐倉も昨年に引き続きクラスメイトになった。プリントを受け取り、後ろに回す。去年書いたのと同じ書式の進路調査票に、教室内が浮き足立ったように騒がしくなる。
「椎名は進路、決まってんの?」
 隣の席の奴が話しかけてきた。名前は、何だっけ。田中……いや、中田だった気がする。
「いや、別に。なんも決まってない」
「バスケ部強いんだし、スポーツ推薦で大学行けんじゃね? 一年からレギュラーだろ?」
 無責任に理想を押し付けられても、前ほど腹は立たなかった。深く息を吸い込んで、吐き出す。もやもやした灰色の感情が、窒素と少しの二酸化炭素と共に霧散した。
「まあ、そういうのは、これからゆっくり考える」
「そっか。俺も、家でのんびり考えよ」
 中田が見せる人懐こさや図々しさは、どこか朝桐先輩を思い出させた。鼻の奥がツンと痛んだが、気が付かないふりをして天井を見上げる。
 悲しみってやつは、そう簡単には癒えないらしい。ふとあの日のことを思い出しては涙が出そうになるし、トラックに追い越されると心臓がバクバクして息が苦しくなる。それでも、俺は生きていかなくちゃいけない。見ていてくれるチームメイトや、朝桐先輩の為にも。
「夏樹ぃ」
「うわっ、なんだよ」
 頭に置かれた手のひらの大きさに、俺は思い切り顔をしかめた。押しやるように振り向くと、吉成が鋭い目をして見下ろしている。
「お前、去年と同じこと書いたらまた呼び出しだからな」
「別にいいじゃん」
「よくない。俺が嫌だ」
「なんだその理由。それでも教師かよ」
 これだから嫌だったんだ。担任で部活の顧問なんて、ろくなことがない。去年からクラスが同じ奴らが、俺と吉成のやり取りを見て笑っている。この俺が、クラス替え直後の教室に笑い声をもたらす要因になるだなんて、誰が予想出来ただろう。
「佐倉まで笑うなよ」
「だって、なんか安心しちゃって」
 身体ごと振り返り、大口を開けて笑う佐倉の顔は、前よりも少し大人びた気がする。吹き込んだ風が、肩まで伸びた髪をさらさらと揺らした。
 俺は佐倉やチームのみんなに軽蔑されていないって事実に安心したよ。朝桐先輩が死んで、俺が生き残って。どうしてお前じゃなかったんだって、結局まだ誰からも言われていない。
 こんな俺を見て、先輩はなんと言うだろうか。俺は神さまとか幽霊とか成仏とか、そういうのは信じないタイプだけれど。あの人だったらきっと見ているに違いない。なんなら取り憑かれてたりして。それでも構わない。だってあの人は、俺の青春そのものだった。
 俺の頭を撫でくりまわして満足したのか、再び教卓へ戻っていく広い背中は、間違いなく大人のものだった。認めたくないし、何だか悔しい。でも、心配してくれているって理解している。
 明日のことも分からないのに、その先のことなんてもっと分からない。ペンケースから取り出したシャープペンシルのノックボタンを額に押し付けながら、進路調査票の記入欄をじっと見つめる。母親に相談する意味もないし、今ここで書いてしまおう。
 朝桐先輩。
 あなたがくれた赤い翼で、俺は空を飛びます。自由、そして未来という名の空を。
 脳裏に浮かんだ屈託のない笑顔に宣言しながら、くるりとペンを回した。