俺たちのウインターカップは、県予選決勝で幕を閉じた。準優勝。またもや最高成績だけど、本戦には進めない。三年生はここで引退だ。
 手が届く位置までくると、悔しさは倍増する。喜ぶに喜べない一年と二年生を前に、引退が決まった三年生は笑ってくれた。それだけで少し、心が軽くなった。
 試合後、このメンバーで最後のミーティングで、新チームのキャプテンとして朝桐先輩が指名された。元々三人しかいない二年生で、レギュラーは二人。朝桐先輩か梅原先輩だろうとは思っていた。梅原先輩はやさしいけれど、掴みどころがなくてかなりのマイペース。キャプテンという感じではないのもあって、誰も異議を唱えなかった。
「夏樹、ちょっといいかな」
「……高根沢先輩」
 大会会場の最寄り駅で電車を待っていると、高根沢先輩が隣にやってきた。
「お疲れ様。すごいよ、準優勝だ」
「でも、最後の最後で勝ちきれなかったです。俺はもっと、三年生とバスケがしたかったのに」
「そう言ってもらえる俺たちは、幸せ者だな」
 柔らかな響きを持った声をしていた。高根沢先輩の横顔は、涙の跡はあれど清々しい。最後までコートに立っていたのは俺だ。試合に負けたことと同じくらい、高根沢先輩をコートに立たせてあげられなかったのが心残りだった。優勝すればまだ先がある。だからこそ、勝ちたかった。
「夏樹。俺はな、夏樹と同じポジションでよかったと思うんだ」
「……どうしてですか?」
「このチームの誰よりも、お前のすごさを分かってやれる。同じポジションだから、簡単そうにこなすプレーの難しさを、俺が一番知っているから。夏樹は違うかもしれないけど、俺は半年間、切磋琢磨してきたつもりだ」
「俺も、高根沢先輩に負けないように頑張ってきました。先輩は忘れているかもしれないですけど、練習試合で初めてスタメンになった時、遠慮しなくていい、思いっきりやってこいって言ってくれたの、すげぇ心強かったんですよ」
「そうだったの?」
「はい。覚えてます?」
「もちろん。でも、夏樹はクールだからさ。いつも通り冷静なのかと思ってた」
「いや、今日の試合前より緊張してましたよ。余裕で」
「そっか……あーあ。もう少し、バスケ部の一員でいたかったなぁ」
「いつでも遊びにきてください。待ってるんで」
 警笛が聞こえた。電車が速度を落としてホームに滑り込んでくる。
「受験勉強の息抜きにでも顔を出すよ。本当に、半年間ありがとうな、夏樹」
「こちらこそ、ありがとうございました。あと、お疲れ様でした」
 学校へ戻り、一足先に帰った三年生を見送って、俺たちは新チームとして始動する。吉成は赤い目をして、「朝桐も梅原も夏樹も残ってる。この代で全国へ行こう。先輩にカッコイイところ見せてやろうな」と意気込んだ。やっぱり今どき流行らない熱血系って感じで暑苦しいけど、まあ、うん。そうだな。先輩たちだけではなくて、この人のことも、全国の舞台へ連れていきたいと思った。


 新チームになって、今までと少しだけ変わったことがある。練習試合が増えた。それも、地区外や県外の強豪との試合が、だ。
 遠征が増えると交通費の問題が出てきて困るのだが、そのほとんどが稲穂台高校で催された。佐倉の話では、どうにかうちへ来てくれないかと吉成が毎回交渉してくれているらしい。電車代を工面するのに苦労する俺のことを考えて――だなんて自惚れた考えには気づかないフリをした。
「佐倉、手伝う」
「え、冷たいよ?」
「分かってる。でも手があいたから」
 試合後のモップがけを終え、俺は体育館の横にある水道へ向かった。佐倉がドリンクボトルやウォータージャグを洗っている最中だった。
「うわ、マジで冷たい」
「だから言ったじゃん」
 泡だらけのボトルを一つ手に取って水道の水で流すと、キンとした冷たさが指先から伝わってきた。試合中は走り回っているから気にならないが、夕方の屋外は、もうすっかり冬の空気に満ちている。
「佐倉の指先、真っ赤だ」
「冷たいからね。この時期は仕方ないでしょ」
「……なんかごめん。俺たちのために」
「みんなを支えるの、すごく楽しいよ。真剣な顔も、楽しそうな顔も、キラキラしてて眩しいし。その一端を担えるのは嬉しいし、わたしが好きでやってることだから。謝ってほしくはないかな」
「でも、何も返せない」
「いい試合をしてくれることじゃない? あ、あと、「ありがとう」って言ってくれると嬉しいかも」
「ありがとう。いつも助かってる」
 俺の中にあるたくさんの感謝を集めて伝えたつもりだったが、佐倉は丸い目をさらに真ん丸にして、それからふいっと視線をそらした。
 ボトルをゆすぎ終えて、逆さまにして並べる。もう一本手に取って同じように流していく。家庭科の調理実習をしている時みたいだ。
「椎名はあまり口数が多くないから、ひと言ひと言の威力がすごい」
「へ?」
「ありがとうって、言われるためにマネージャーをしているわけじゃないけれど……なんか、頑張ってきてよかったって思えた」
「今?」
「うん、今」
 夕焼けが、横顔を赤く染めている。もう一度顔を上げてこっちをみた佐倉は、くすぐったそうに目を細めた。
「全国に行けるように、支えるから。椎名がみんなを引っ張ってあげて」
「俺に、できるかな」
 今まで、先輩や吉成、それから佐倉に助けられてばかりだった俺に。
「できるよ。バスケ素人のわたしでも、椎名が上手なの分かるよ?」
「……マジ? 嬉しい」
「だから、素人の一意見として聞き流してほしいんだけど」
「うん」
「もっと、思ったことを言ってもいいと思う」
 佐倉は手を止めずに、静かな声で言った。
「試合形式でも、パスしようとした先にチームメイトがいなかったって場面、ない?」
「……よく見てるな」
「まぁね。きっと、椎名の頭の中で思い描いていたプレーがあるんだろうなって思って」
「まあ、そうだな。でも、チームメイトあってのバスケだしなぁって、思うことにはしてる」
「そこを声にしてみんなに伝えたら、さらによくなりそうじゃない?」
「……図々しくねぇ?」
「何言ってんの。みんながいい試合をするために、必要なことでしょ。それに、それを図々しいって言ったら、素人のわたしはどうなるのよ」
 軽やかな笑い声が、水の音に負けずに響き渡る。
「わたしの意見、図々しいなコイツって思った?」
「いや、全然。むしろありがたかった」
「じゃあ、先輩たちもそう思うんじゃない?」
「……そっか。うん。今度、言ってみるよ」
 最後の一本をゆすぎ終え、カゴに入れていく。体育館の中から、朝桐先輩のよく通る声が聞こえた。
「なーつきー? どこだぁ?」
「ここっす! 水道!」
 開きっぱなしの鉄扉から、朝桐先輩がひょこりと顔を出した。
「おっ、いた……って、もしかして俺、邪魔しちゃった」
「何言ってんすか」
「ドリンクボトルの片付け、手伝ってもらってたんです」
「そっか。水冷たいのに、いつもありがとうな、奈子ちゃん」
「いえ。みんなの力になれて光栄です」
 朝桐先輩は、言われなくても正解を導き出す。誇らしげな佐倉の表情を見て思った。
「夏樹。さっきの試合のフォーメーションの確認、したいんだけど」
「分かりました。すぐ行きます」
「あと、ずっと言おうと思ってたことがあって」
 朝桐先輩が、ほんの少しだけ神妙な面持ちになる。俺もつられて背筋を伸ばした。
「梅原とも話してたんだけどさ。練習中とか試合中、もっと思ったことどんどん言ってほしいんだよ。夏樹は視野が広くてめちゃくちゃ上手いけど、後輩だから遠慮してるよなって」
 たった今、佐倉と交わしていた会話の内容と同じことを言われて、俺は思わず振り向いた。佐倉も驚きに目を丸くしていたが、すぐに満面の笑みを浮かべて俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「よかったじゃん、椎名」
「はは、そうだな」
「え、なになに? どしたの?」
「いや、何でもないっす!」
 朝桐先輩が、珍しく困惑している。でも、教えてあげないのだ。この気持ちは、俺たちだけの秘密だから。

 季節は慌ただしく過ぎていく。秋の残滓が完全に消えれば、あっという間に年が明けた。地獄の冬休みトレーニングをなんとか乗り越え、約二ヶ月前までより三人少ない七人とマネージャー一人のチームに、ようやく少しだけ慣れた頃。
 部活を終えて、いつも通り二人並んで帰路につく。月明かりだけが頼りの道中で、朝桐先輩がふと足を止めた。
「先輩?」
 置いていきますよ、と視線に込めて振り返る。揃わない二つの足音が止むと、辺りはひどく静かだ。
「これ、やるよ」
 イタズラを思いついた子どもみたいな笑みを湛える朝桐先輩がエナメルバッグの中から取り出したのは、シューズ袋くらいの大きさの包みだった。差し出されたので、素直に受け取る。
「え? なんすか、これ」
 言葉と共に吐き出した息が白く染まった。その向こう側で、鼻先を赤くした朝桐先輩は笑みを深くする。
「誕プレ。前に言ったろ。楽しみにしてろって」
「マジすか、本当にもらえるとは思ってなかったっす」
 今日、部室で皆がおめでとうって声をかけてくれたから、それで終わった話だと思っていた。親にだってもらえない物を、赤の他人からもらえるはずがない。
「改めて、誕生日おめでとう、夏樹」
「ありがとうございます……」
「そんな驚いた顔してどうした」
「俺の中では、誕生日はもう終わってました」
「終わらすなよ。日付け変わるまで祝ってやるし」
「いや、もう帰りますけどね」
「そういや、夏樹のほうが誕生日が遅いから、いつまで経っても俺に追いつけないな」
「ああ、たしかに。でも、ずっと先輩の後輩でいられるから、俺はむしろ追いつけなくていいです」
 たとえ同い年だったとしても、俺はこの人と同じような振る舞いは出来ない。きっと、後輩として甘えてしまうのだろう。
「あと三ヶ月ちょっとで、今の朝桐先輩と同じ学年とか、想像もできないっすね」
「そうだな……俺も、渡瀬先輩たちみたいになれるのかなぁ」
 朝桐先輩も、そういうことを考えるのか。と、勝手に勇気づけられた。
 今にも雪が降り出しそうなくらい、濃灰色の雲は低い位置に立ちこめていた。腕の中でひんやりと冷えた包みは、しっかりとした重さがある。
「これ、開けていっすか」
「おう」
 家までなんて、待っちゃいられなかった。可愛らしいリボンをほどき、中を覗く。月明かりの下でも鮮やかな赤が、そこにはあった。
「え、先輩、これ」
「俺と同じバッシュ。前、カッコイイって言ってくれただろ」
「言ったけど、え、いいんすか、こんな高価なもの……」
 恐縮する俺に、朝桐先輩がからりと笑う。
「お年玉で買ったんだよ。うち、親戚多くてそこそこもらえっから気にすんな」
 ふわりと空を飛ぶようなジャンプが、好きだった。憧れた赤が、翼が、腕の中にある。喜びと驚きが同時に喉でつっかえて、すぐには言葉が見つからなかった。
「あ、さすがにお揃いは嫌だったか……?」
「いや、違います。嫌じゃないです。びっくりして……」
「足のサイズ、一緒って言ってたもんな」
「っす。嬉しいのに、なんて言えばいいか分かんねっすけど、本当にありがとうございます」
 勢いよく頭を下げると、朝桐先輩が頭上で慌てる気配がした。かしこまらないでくれ、と。むしろこれっぽっちじゃ足りないくらいだ。感謝の土下座をしてやろうか。
 顔を上げると、自分でも頬が紅潮しているのが分かった。込み上げる笑みが、抑えきれない。
「……やべぇ、嬉しい」
「喜んでくれてよかったよ」
「明日から、これ履いてバスケします」
「履いてみて、合わなかったら言ってな」
「っす」
 このシューズが俺の足に合わないはずがないという、確証のない自信があった。だって、先輩が俺の為に買ってくれたものだから。
「明日、朝から部活でよかったっす。長い時間、これでバスケができるんで」
「お、めちゃくちゃ喜んでくれるじゃん。俺も嬉しいよ」
「これ履いて、絶対全国行きましょうね」
「ん、そうだな」
 シューズを袋に入れてリボンを結び直し、大切に大切に抱える。
 たった今決定した。今日からこれが、俺の宝物だ。


 目覚ましよりも早くに目が覚めた。冬は布団から出るのが辛くなるが、今日の俺は一味違う。新しい翼を手に入れたからだ。
 ベッドの上でシューズを履き、靴ひもを丁寧に通した。行儀の悪さは気にしない。穴に紐の先を通し、引っ張る音が心地良い。レースカーテンを透かして差し込む生まれたての光が、艶やかな赤を照らして輝いている。
「……へへ」
 昨日からずっと、心の底面を猫じゃらしでくすぐられているような、ふわふわした感覚が抜けない。初めての感覚だったが、微かに残った冷静な自分が、その現象に幸福という名前をつけた。
 エナメルバッグに新品のシューズを詰めて家を出る。俺を殴った男とは長続きしなかったらしく、女物の靴だけが寂しそうに玄関に並んでいた。いってきますと言おうか悩んで、止めた。
 玄関を出ると、静謐な世界が広がっていた。田んぼ一面が粉砂糖を振りかけたように白く染まっている。真っ白な空からはらりはらりと舞い落ちる雪。一粒が鼻先に触れて、一瞬で溶けてなくなった。
 夏のうだるような暑さよりはよっぽどマシだが、寒いものは寒い。肩を竦めてマフラーに顔を埋めながら、朝桐先輩と落ち合う交差点へと急ぐ。足を止めたら一気に体温を奪われそうで、太ももを大げさにあげる。少しかっこ悪いが、この辺りは人通りも車通りも少ないから、人に見られる心配はないだろう。
 新シューズのデビュー日。皆の反応が楽しみだった。いいだろって見せびらかしたあと、部活が始まる前に踏んでもらわねぇと。佐倉はその儀式を知らないだろうから、説明してやろう。
 これ履いたら、朝桐先輩のように俺も自由に飛べるだろうか。想像しただけで、足が軽い。
「夏樹ぃ!」
「はよっす」
「バッシュ、忘れずに持ってきた?」
「っす」
 迷いなく頷いた俺に、先輩は満足そうに目を細めた。身軽に自転車を降りて、横に並ぶ。
「先輩、一番に踏んでくださいね」
「任せろ。俺の健康運分けてやる」
「やった。俺、毎年風邪ひいてますもん」
 季節の変わり目は、とくに苦手だ。
「夏樹、ひょろっこいからなぁ。俺たちと同じ筋トレしてるのに」
「昔から、なかなか筋肉つかないっす」
 よほど浮かれていたのだろう。先輩より一歩先を行きながら、細いと言われる上腕二頭筋を摩る。落ちてくる雪の粒がさっきよりも大きい。これから、本格的に積もるのかもしれない。
「寒いなぁ」
「暑いよりはいいっす」
「冬生まれだもんな」
「あ、先輩の誕生日教えてください。俺も誕プレあげます」
「俺、八月三日」
「うわ、先輩っぽい」
 真夏の太陽みたいな笑顔は、冬でも健在だ。スマホのメモ帳に「八月三日・朝桐先輩の誕生日」と打ち込み、ポケットにしまう。
「でも俺の名前、涼介なんだよな。涼しくないだろってな」
「言われてみればそうっすね。俺と真逆だ」
 通学路で最も大きな交差点に差し掛かった。初めて先輩たちと買い食いをしたコンビニが、横断歩道の向こうにある。前方の歩行者用信号が青になったのを確認して、俺は白線を踏んだ。

「先輩は、夏のほうが好き?」
「そうだなぁ……やっぱり寒いよりはな。夏樹と正反対、っ」
「……先輩?」
「夏樹、あぶな、っ」
 急に話を切った朝桐先輩を振り返るよりも先に、背中に強い衝撃を受けた。殴られたのか突き飛ばされたのか。それとも体当たりされたのかも分からない。あまりに突然のことだったから簡単に体勢を崩して、薄らと白くなったアスファルトを転がる。思い切り膝が擦れて痛かったが、混乱していてそれどころではなかった。
 何が起きたか理解できずに地面を這いつくばった俺の耳に届いたのは、キキーッと辺りの空気をつんざいたブレーキ音と、ドン、と何かがぶつかった鈍い音。それから、メキ、とひしゃげるような音。
「……え、せんぱい?」
 顔を上げたらダメだと、脳が警鐘を鳴らす。誰かの悲鳴と怒鳴り声が重なって、不協和音を奏でている。いくつもの足音。飛び交う言葉の意味が全然理解できない中で、救急車、という言葉だけはやけに鮮明に聞こえた。
「え、なに、マジで……」
 おそるおそる、頭を上げた。目の前にはコンビニの薄汚れた壁。振り返った先で、電柱に激突した状態で停まったトラックと、地面に散る真紅。横断歩道上に投げ出されるように横たわる朝桐先輩は、ぴくりとも動かない。
「せ、んぱい……?」
 足に力が入らなくて、立ち上がれなかった。雪で白んだアスファルトを這って先輩の元へ行き、手を伸ばす。
 せんぱい。あさぎりせんぱい。
 俺が何度も呼んでいるのに、朝桐先輩は目を開けない。
「目ぇ、開けてください、ねぇ、せんぱい」
 誰かが俺の肩に触れた。俺は大丈夫。でも、せんぱいが、俺をかばって。
 誰よりも高く跳べる自慢の足が、ありえない方向を向いていた。ひ、と喉が歪な音を立てた。呼吸がまともにできなくなって、周囲の音が遠のいていく。唇がぴりぴりと痺れて、呼吸の仕方が思い出せない。
「っ、せんぱい、起きて、ぶかつ、いきましょ……?」
 コンクリートを侵食するようにじわじわと範囲を広げた赤が、俺の指先をべっとりと濡らした。熱い。ふわりと立ちのぼる湯気に目を見張る。
 普段、事ある毎に死にたいとか消えたいとか言っているくせに、傷口からこぽこぽと溢れる血の温かさを俺は知らなかった。立ちのぼる砂ぼこり。むせ返るほどに濃い鉄の匂い。擦り傷だらけで放り出された、俺より大きな手を、握る。急速に失われていく体温に、震えが止まらなかった。
 遠くから、救急車のサイレンが聞こえた。夏樹、と誰かが俺の名前を呼ぶ。顔を上げると、雪よりも蒼白な顔をした吉成が、俺たちを見下ろしていた。
「よしなり、せんせ」
「夏樹、病院へ行くぞ。動けるか?」
「ちがう、あさぎりせんぱい、が」
「……大丈夫だ。夏樹は、自分の怪我を優先しよう。な?」
 痛みなんて、ちっとも感じなくなっていた。俺はいいから、せんぱいを助けてくれよ。
「血が、とまらなくて」
「夏樹」
「どうしよう、せんぱい、俺を、かばって」
「夏樹、大丈夫、先生がついていくから」
 救急隊の人が、俺とせんぱいの手をほどいた。取り囲まれて、見えなくなる。部活、行かなくちゃいけないのに。
 鮮やかな紅に、雪が飲み込まれて消える。
 運命を目の前に、俺はあまりにも無力だった。
 
 朝桐先輩の葬儀が終わった。
 日曜の朝に部活へ行こうとして、学校近くの横断歩道の所で事故にあって、吉成に付き添われて救急車に乗り込んだことまでは何となく覚えている。でも、その先の記憶がほとんど抜け落ちていた。脳が強制シャットダウンしたのだと思う。自らの心を守る為に。気がついたら、俺は葬儀場にいて、参列者のすすり泣く声が鼓膜を揺らした。朝桐先輩の死を突きつけられて、俺は焼香の直前に貧血を起こして倒れたらしい。
 ふと我に返った時、俺は制服姿で自室のベッドに座っていた。カーテンを締め切って、電気もつけずに。薄暗い部屋が、俺にはふさわしかった。
 身体に染み付いた沈香や白檀の香りが、室内を薄く満たしている。思い出そうとしても曖昧なままで、俺はずっと白昼夢を見ているような心地たまった。
 じっと息をひそめて、膝を抱えた。数日前、ここで新しいシューズの靴ひもを通していたのが、遥か遠い昔のことのように思える。
 血に濡れた手は、すっかり綺麗になっている。それなのに、熱さだけがこびりついたまま、なくならない。
 全部、本当に夢だったらいいのに。どれだけ願ってもこれは現実で、バッグの中には真っ赤なバッシュがあって、朝桐先輩はもういない。誕生日プレゼントが夢でもいいから、帰ってきてくださいよ、先輩。頼むから。
 心がちぎれそうなくらいの喪失感に襲われても、涙は出てこない。自分の薄情さに吐き気がした。
「夏樹」
 ノックの音とともに、母親の声がした。のろのろと顔をあげる。
「……なに」
「夕飯できたから、食べなさい」
「……そのうち食べる」
「冷蔵庫、入れておくわよ。足が痛かったら温めて持ってきてあげるから。電話でも何でも寄越しなさいね」
「……うん」
 足音が遠ざかっていく。病院まで迎えにきてくれたのも、一緒に葬儀に参列してくれたのも母親だ。いつもは勝手に食えと冷蔵庫にしまわれている食事に関しても、今だけはやさしかった。それだけ、俺の身の回りに起きた出来事が重大だったってこと。
 俺がもし、母親の言うとおりバスケに夢中になっていなければ、朝桐先輩は死なずに済んだのだろうか。どうして、死んだのが俺じゃなかったのだろう。心が押しつぶされて、ぺしゃんこになりそうだ。
 日が暮れて、眠れないまま夜が明けた。こんな時でも時は流れるのかと絶望しながら、線香の香りをまとって家を出る。
 膝の傷はまだ癒えない。包帯で動かしにくい足を引きずりながら、車通りのない道を、幸せだった記憶を頼りに歩いた。向かう先は、俺の家の倍はありそうな二階建ての一軒家。朝桐先輩の家だ。
 あの人が俺を突き飛ばさなければ、トラックの下敷きになるのは俺だったはずだ。死ぬのは俺だったのに、俺の所為なのに、まだちゃんと謝れていない。インターホンを押す手が、みっともなく震えている。
「はい……ああ、夏樹くん……怪我はもういいの?」
「俺は、大丈夫です……」
 ドアを開けて出迎えてくれたのは、朝桐先輩のお母さんだった。目を真っ赤に充血させて、俺を中へ入れてくれた。
 リビングには、ご家族全員がいた。初めて見るお父さんは、先輩とあまり似ていなかった。リビングはあの日と同じ広さなのに、胸がざわざわするような賑やかさはなく、深い悲しみに満ちていた。きつく唇を噛み締める。ぷち、と音がして、血の味が広がった。そうでもしなければ、頭がおかしくなって叫びだしてしまいそうだったのだ。
「お茶、飲む?」
「え、あ……」
「牛乳とか、オレンジジュースもあるよ。喉乾いてない?」
「すみません、お茶でお願いします……」
 久しぶりにまともに飲んだお茶は、カラカラに乾いた咥内をうるおしてくれた。美味しいです。そう声を振りしぼって伝えると、「ご飯、ちゃんと食べてね」と、先輩のお母さんは俺の頬を親指でそっとなぞりながら言った。ふと、母親が作ってくれた夕食を、冷蔵庫に入れたままにしてしまったことを思い出す。心配をかけてしまったのだと、今さらになって気がついた。
 息子を亡くした悲しみは、ただの後輩でしかなかった俺よりも、ずっと果てしないはずなのに。朝桐先輩のご両親は、俺を中陰壇がある部屋まで案内してくれた。リビングの半分もない広さの和室の奥で、俺より背の高かった朝桐先輩は、腕の中にすっぽりとおさまってしまいそうなくらい小さな骨壷の中にいた。その前に腰を下ろし、今にも笑い声が聞こえてきそうな笑顔の遺影を見上げる。罪悪感が、俺の心をゆっくりと、しかし確実に締めあげていく。
「この遺影は、バスケ部の皆と撮った写真を使わせてもらったの。涼介が、一番いい顔をしているからって」
「そう、ですか」
 周りが切り取られていたから、どの写真か分からなかった。だって、俺の知っている朝桐先輩は、いつもこの顔で笑うから。
「あの」
 引きつった喉から絞り出せた声は小さく、酷く掠れていたが、静かな空間ではよく響いた。真っ赤な目を涙でうるませた朝桐先輩のお母さんが、僅かに首を傾けて続きを促す。
「俺の、所為なんです。先輩、俺を庇って……すみませんでした、すみません、本当に」
 いくら謝罪の言葉を並べても、償えない罪だってことは理解している。それでも謝らずにはいられなかった。畳に額を擦り付けて、息も絶え絶えになりながら嗄れた声で謝り続ける俺の肩を、とんとん、とやさしい手が叩いた。大きな手に、ハッとして顔を上げる。あの日はいなかった朝桐先輩のお父さんが、ぼろぼろと涙を流して俺を見ていた。
「君を守れたなら、立派な最期じゃないか」
「っ、でも」
「あの子らしいわね。お父さん」
「ああ。そうだな」
 立派ってなんだよ。死んだら、全部終わりじゃないか。胸が締め付けられるように痛くて、声が出ない。このまま俺も死んでしまいたいだなんて、間違っても口には出せなかった。
 リビングに戻って、事故直後の状況を詳しく聞かせてもらった。トラックにまともに跳ね飛ばされ、頭を強く打ち、首の骨がイカれて、手の施しようがなかったらしい。その場で死亡が確認されるような状態で、俺だけが救急車に乗って病院へ連れていかれた。思いっきり転んだ所為で、俺の膝は皮がめくれ肉がえぐれて、血まみれになっていたそうだ。今も包帯が巻いてあり、病院へ行って消毒をしてもらう必要があるが、あの時は痛覚が麻痺していて、何も感じなかった。感じる資格すらないだろう。
 これ以上俺がここにいたら、みんなを苦しませるだけだ。帰ります、と席を立った瞬間、何かがどん、と足にぶつかった。丸い頭と可愛らしいお下げ髪。朝桐先輩の最愛の妹であるコトちゃんが、顔を真っ赤にして俺に突進してきたのだった。
「……ねぇ、お兄ちゃんは?」
「……ごめん」
「お兄ちゃんを、かえしてよぉ」
 小さな小さなこぶしが、俺の太ももを叩く。何度も、何度も。
「琴美っ、よしなさい」
「かえして、お兄ちゃん、っ、どこ」
「……コトちゃん、ごめん」
「なんで死んじゃったの、ねぇ……! なんで!」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭おうとして、手を止めた。俺の所為で、大好きなお兄ちゃんが死んでしまったのだ。触られたくもないだろう。
 コトちゃんはすぐに、幸介くんが抱っこして俺から離れた。悲痛な泣き声を背中に浴びながら、玄関を出る。
 青空と太陽が目に入った途端、じわりと目が熱くなった。鼻の奥がズキズキと痛んで、視界が滲む。
「本当に、すみませんでした」
「気をつけて帰ってね。ご飯も、ちゃんと食べるんだよ」
「……はい」
 涙が零れないよう、とっさに上を向いた。俺が泣くのは、卑怯だろう。

 家に戻ると、真っ昼間だというのに知らない男の靴があった。ああ、今日は休日か。曜日の感覚がおかしくなって、永遠に抜け出せない一日を過ごしているような気分だった。心配しているなんて、思い上がりもいいところか。母親にとっては、どうでもいい息子の、顔も知らなかった先輩がいなくなった。それだけだ。
 自室にこもって膝を抱え、床を転がるボロボロのボールを見つめるだけでも、確実に時間は過ぎていった。辺りはすっかり暗くなり、静かな夜がやってくる。聞こえてくるのは、セックスに興じる男女の声だけ。ああ、どうして俺が死ななかったのだろう。俺だったら、親はきっと悲しまない。被害は最小限に抑えられたはずなのに。
 呼吸が、無意識のうちに浅くなる。苦しくて、指先が痺れて、この世界に存在しているのがどうしようもなくしんどくて、床に転がっていたボールを抱えて窓から飛び出した。
 夜になって冷え込んだ所為か、外は雪が降っていた。辺りの音を全部飲み込み、静寂が血液の音さえ大きく響かせる。ボールを一度、地面についた。キィン、と大きく鳴って、俺の孤独を際立たせる。
 なにも考えたくなかった。上手くなりたいとか、バスケが好きとか、そんな気持ちはどうでもよかった。頭の中を空っぽにできる作業が、俺にとってのバスケだった。
 指先で弾き、跳ねて手のひらへ戻ってくる。足の間を通して、相手を欺いて、味方が駆け上がってくるのを気配で感じて。
――ヘイ、パス!
 そんなにアピールしたら、相手にバレバレでしょうが。ボールは俺が持っていくから、朝桐先輩は黙って待っててください。先輩だというのに、そんな話をしたことがある。
 パスを出した先には、誰もいなかった。地面を跳ねていたボールは力を失って転がり、やがて止まる。喪失感ごと拾い上げて、繰り返す。何度も、何度も。俺のパスを受け取ってくれるエースは、もういない。
 俺の命をあげるから、先輩を生き返らせてくれよ。夢があるんだ。学校の先生になるっていう立派な夢が。だから、お願いだよ。あの人の為なら、俺は命だって差し出せる。
「……も、やだ」
 消えてしまいたい。この世界から、あとかたもなく。
 切実なつぶやきは、遠くから聞こえたエンジン音にかき消された。振り返ると、明るすぎるヘッドライトに目がくらんでたたらを踏んだ。車は公園の入り口に横付けする形で停車する。
 ドアが開いて、降りてきたシルエットに目を見開いた。どうして、吉成がここに。
「……んだよ」
「こんな時間に、ここらでバスケしてるのなんて、お前くらいだろ」
 街灯に照らされた吉成の目は、今日会った誰とも違わず真っ赤に充血していた。迷いのない足取りでこちらへ歩いてくる。思わず後ずさると、その分距離を詰められた。
「帰ろう、夏樹」
 涙の余韻が残る声。つられそうになって、顔を背けた。
「どこにだよ」
 帰る場所なんて、俺の居場所なんて、どこにもない。
「自分の家が嫌なら、先生の家でもいい。とにかく、暖かい場所で休もう」
「犯罪者になんぞ。誘拐犯に」
「お前が自分を責めて死ぬよりはいい」
 反論はできなかった。死んでもいいって、本気で思っていたから。
 入学当初より、吉成の目線の高さが近くにあった。でも、そんなのもうどうでもいい。
「あいつが……朝桐が、夏樹を責めると思うか?」
「分かんねぇよ。そうかもしれないじゃん。もう、聞けないんだから」
「一ミリでもそんなことを思ってたら、咄嗟に動けないだろ。朝桐は、お前を守ったんだよ。命かけてさ」
 ヤクザみたいに鋭い双眸から、子どもみたいに溢れ出す涙。頬を伝い、あごの先から滴って、落ちた。ひくひくと喉を引き攣らせる吉成の分厚い手が、俺の両肩を掴んだ。大人の涙は見慣れない。いたたまれなくなって、目をそらした。
「……泣くなよ」
「夏樹が、泣かないからだろ」
「俺だって泣きてぇよ。けど、俺の所為なんだ。俺には泣く資格なんて、ないから……」
「違う。悪いのは、トラックの運転手だ」
「でも! 朝桐先輩は俺を庇ったんだよ!」
「それは、夏樹を助けたかったからだ。責任を感じなくていいんだ」
「っ、意味わかんねぇ……お前の所為だって、誰か、言ってくれよ……やさしくすんなよ、死ねなくなるだろ……」
 頭の中はぐちゃぐちゃだった。自分でも何が言いたいのか分からない。吉成の顔が滲んで歪む。くそ、泣くなって。
「夏樹、よく聞け」
「いやだ、っ、もう死にたい」
「夏樹!」
 強い力で引き寄せられたら、抗うことは許されなかった。吉成は俺を抱きしめ、震える背中を大きく摩る。先輩よりも圧が強くて、太くて、暑苦しい腕だった。
「夏樹の所為じゃない。絶対に」
「……誰がどう考えたって、俺を庇ったせいだろ」
「少なくとも先生は、そう思わない。でも、もしお前がそう思うなら、生きなさい。朝桐の分まで」
「は……?」
 ぼろ、と頬を熱いものが伝う。
「この出来事は一生消えない。夏樹をこの先ずっと雁字搦めにして、苦しめるかもしれない。もがいて、のたうち回ってもいい。それでも、生きてくれ」
「……先生が、生徒に言うの? 苦しめなんて」
 腕の力が強くなる。苦しいけれど、温かい。
「ごめんなぁ……俺は至らない教師だ。生徒を救えなければ、守れもしない」
「んなこと、ねぇだろ」
 俺みたいな育ちの悪い奴を、見放さないでいてくれた。理解しようとしてくれた。生徒を想う気持ちは、ひねくれた俺にもちゃんと伝わっているんだ。
 あごの先から滴り落ちた雫は、真っ暗な地面に吸い込まれて見えなくなる。
「でも、皆見てるから。先生も、梅原たちも、佐倉も。お前のことを一人にしない。だから、生きよう」
 ささくれだった心に、吉成の言葉が染み込んだ。傷はふさがらない。一生消えることのない痛みを抱えて生きろだなんて、ずいぶんと酷いことを言う。
 涙の制御はとっくに効かない。俺は産まれたての赤ん坊みたいにしゃくりあげながら、わんわん声をあげて泣いた。