部活が終わる時間になると、窓の外はもう暗い。気温以外でも、ふと秋を感じる瞬間だ。
「明日と明後日は、部活できないなぁ」
 コートのモップがけをしながら、朝桐先輩がボヤいた。
「さすがに、学校行事には敵わないですよね」
「まぁな。文化祭は初めてだから、楽しみっちゃ楽しみなんだけどさ」
「去年って、体育祭だったんでしたっけ」
 稲穂台高校は、文化祭と体育祭を隔年で交互に開催するのだと吉成から聞いた。今年は文化祭の年だということも。
「そう。部活対抗リレーでアンカーやった。大健闘の二位よ」
「へぇ、すごいっすね。ちなみに一位は?」
「陸上部。短距離のエースがズルいくらい速くってさ、勝ち目がなかった。ところで、文化祭では何すんの? 夏樹のクラス」
「うちはモザイクアートの展示っす。ちなみに、作ったのは吉成の顔」
「何それ、面白すぎんだろ」
 朝桐先輩の声に、俺もつられて笑う。
「俺も休み時間に作るの参加しましたけど、結構楽しかったっす。よく見ると、俺と佐倉も写ってますよ」
「え、じゃあ空き時間に行くわ」
「朝桐先輩のクラスは何するんですか?」
「俺んとこはクレープ屋。俺と梅原、同じ時間に店番するから、良かったらおいで」
「行きます。佐倉も行くよな?」
 体育館倉庫の前でボールの数を数えていた佐倉に問う。顔を上げた佐倉は、大きな目をさらにまぁるくして小首をかしげる。
「行くって、どこに?」
「朝桐先輩たちのクラスの模擬店。クレープ屋だって。先輩たちの店番の時間に行こうよ」
「え、一緒に行ってくれるの?」
「うん。佐倉が嫌じゃなければ」
 友だちとの先約があれば、もちろんそっちが優先だ。そう考えての言葉だったが、佐倉は少しだけ眉を寄せた。
「なんでよ。全然嫌じゃないし、誘ってくれて嬉しい。ありがとね、椎名」
「ん。どういたしまして」
 モップがけも終わり、部室へ戻った。明日は校内発表のみで、明後日は模擬店を含めた一般公開がおこなわれる。どちらも体育館を使うため、明日からの二日間は部活ができない。でも、模擬店が出るような大規模な文化祭は初めてで、少しだけわくわくしている自分がいる。


 文化祭二日目の校内は、生徒だけでなく一般客で賑わっていた。モザイクアートの展示のみで特に予定もなかった俺たちは、教室や部室で時間をつぶしてから朝桐先輩たちのクラスへ向かう。
 模擬店を出している二、三年生の教室前は、俺たちのクラスとは比べ物にならない混雑具合だった。
「わ、混んでるね」
「だな。あ、先輩たちいる」
 教室の中を覗けば、仲良く並んだよく知る顔。でも、エプロンと三角巾をしている姿が見慣れない。
 クラスメイトが作ったクレープを渡す係なのだろう。列に並んでいた小さな女の子に、朝桐先輩が腰をかがめてクレープを渡した。優しい眼差しが、ふとこちらを捉える。一気に笑顔が深まった刹那、隣に立っていた梅原先輩のエプロンを引っ張って俺たちの存在を伝えた。
「いらっしゃい、夏樹」
「奈子ちゃんもね~」
 名指しされた俺と佐倉に、その場にいた全員の視線が集まった。このクラスの先輩たちが、「夏樹くんだ」と俺の名前を口にする。どうして知っているのだろう。多分、朝桐先輩たちの所為だ。
「朝桐先輩がちゃんと働いてるか、見に来ました」
「わたしは先輩たちを応援しにきました!」
 列の最後尾に並びながら言うと、朝桐先輩は「真面目に働いてるから!」と声を弾ませた。俺と佐倉を構うのは程々に、二人は並んでいた客にクレープを渡していく。ずっとここにいたら、身体から甘い香りがしそうだ。
 あっという間に列ははけ、俺たちの順番になった。ホイップとミカンがちょっぴりはみ出したクレープ二つ。しっかりと受け取った俺に、朝桐先輩が耳打ちをした。
「俺ら、そろそろ休憩だから。ちょっとだけ待てる? 四人で一緒に回ろうぜ」
「っす」
 教室の隅っこで五分ほど待たせてもらい、シフトを終えた先輩たちと合流する。先輩たちのクレープは、と聞いたが、味見で食べすぎて口の中が甘ったるいので、もう十分らしい。
 人混みを抜けて向かうは部室。耳の奥に喧騒の余韻だけを残して、久しぶりの静寂が訪れた。
 部室の中から一年生が昼食とる際に使用するレジャーシートを敷いて、四人で並んで座った。俺の右には朝桐先輩。左には佐倉、その向こうに梅原先輩が腰を下ろした。やわらかく吹く秋の風が、人の熱気で火照った頬を冷やしてくれる。
「いただきます」
「召しあがれ」
 缶詰めのミカンがはみ出したてっぺんの部分を頬張れば、口の中いっぱいに甘さが広がった。右隣から「おいしい?」と聞かれ、首肯する。
「甘いっす」
「そりゃあ、ホイップとかフルーツだからな」
「奈子ちゃんはどう? おいしい?」
 梅原先輩の声もやさしい。
「すっごくおいしいです」
 佐倉が満面の笑みを浮かべて頷いた。
「あ、夏樹、ほっぺにクリームついてる」
「え、どこすか」
「右」
 朝桐先輩の指摘に、慌てて手の甲で右頬を拭った。
「取れました?」
「取れた取れた。はは、わんぱくかよ」
「口小さいんすよ、俺」
 照れくささにそっぽを向く。視界の隅で、朝桐先輩はまだ肩を震わせていた。
「笑いすぎっすよ、朝桐先輩」
「悪い悪い」
「ほんとに悪いと思ってます? というか、俺これ全部は食い切れないんで、ちょっと手伝ってください」
 弧を描く口元にクレープを差し出すと、朝桐先輩は大きな口でぱくりとそれを頬張った。
「ふふ、あっまい」
「ホイップとフルーツだからって言ったの、先輩っすよ」
「だな」
「あ、朝桐となっちゃん、イチャイチャしてる」
「イチャイチャじゃないです。完食するの手伝ってもらってただけで」
「えー、そうなの?」
「わたしから見ても、二人は仲良しに見えるなぁ。初めは中学校が一緒なのかと思ってたくらい」
 そう言った佐倉は、すでにクレープを半分くらい食べ進めていた。梅原先輩も、佐倉の言葉に何度も首肯している。俺としては、特筆するほど仲がいいという感覚はなかった。家の方向が一緒で、同じバスケ部で、何かと目をかけてもらっている。ああでも、文化祭でこうして一緒にクレープを食べる程度には、良好な関係を築けているということか。
 心がほかほかと温かくなるのを感じた。秋の青く高い空を見上げ、続ける。
「朝桐先輩はもちろんですけど、梅原先輩も、他の先輩も優しくて好きです」
「え、朝桐だけじゃなくて俺も? 嬉しいなぁ」
 梅原先輩がくすぐったそうに呟いた。
「そういえば、夏樹の中学って、上下関係どうだったんだ?」
「悪くはなかったですけど、こうしてわざわざ一緒にクレープ食べたりはしませんでした。ドライな関係って感じでしたね」
 だからこそ、今こうして先輩や佐倉と一緒にいるのが不思議な気分だった。先輩たちとの関係はもちろんだが、チームメイトが私立に進学することを決め、勝手に孤独を感じていた去年の今頃。あの頃はまさか、今日のような楽しい時間が待っているだなんて思ってもみなかった。
 最後のひと口を食べ終えて、ゆっくりと立ち上がる。
「このあと、どこ行きます?」
「とりあえず、三年生のクラスは全部回りたいよな」
 どうせ今日は部活ができない。ならば、存分に楽しんでやろうと思った。



 チームメイトが、練習中にポツポツと抜けては戻ってくる。顧問の吉成は忙しく、最近は全然部活に顔を出さない。教室や部室でちらほら聞こえてくる大学の名前に、俺はいたたまれなくなって下を向いた。
 三者面談のプリントをカバンの一番奥で眠らせていても、吉成は怒らなかった。こられなさそうか? と、いつもだったら裏があるんじゃないかと勘ぐってしまいそうなやさしい声に、俺は心底ホッとしながら頷いた。
 噂で聞いた話だが、就職希望者は毎年学年で一人か二人程度しかいないらしい。稲穂台に入ったら、ランクの差はあれど皆進学するのだと。すごく、肩身が狭かった。
 家に帰っても、空気もしくは邪魔者扱い。学校ではマイノリティ。バスケ部に入ってなかったら、家には帰らず学校にも行かず、その辺で野垂れ死んでいたかもしれない。
 テストで赤点を取ったら補習に参加しなければならず、その分部活に行くのが遅れてしまうので、勉強だってそれなりに頑張っていた。見た目のチャラさとは裏腹に意外と勉強ができる朝桐先輩や、学年トップクラスの成績だという梅原先輩と比べたら、出来損ないかもしれないけれど。
「はぁ、やりたくねぇな……」
「大丈夫よ。吉成先生、すごく親身になって聞いてくれるよ」
「それは、分かってるんだけど……」
 そもそも親がこないし、俺の進路になんて興味がないのだ。それを突きつけられるのが苦しかった。
「じゃあ、先に行くから」
「ん。もう言ってあるけど、一応渡瀬先輩に遅れるって言っておいて」
「分かった。頑張ってね」
 机の中の教科書をカバンに移動させながら、佐倉の背中を見送った。中庭の芝生はじっとりと色濃く湿って、空は今にも雨を降らせそうな雲で覆い尽くされている。まるで俺の心を反映したみたいだと、溜め息が零れた。
 いつかのように、吉成は母親に連絡してくれた。でも、想像どおり忙しいから無理だと切られてしまったらしい。あの親でこの息子だと思われたら、嫌だな。
「よし、準備できてるか?」
「っす」
 分厚いリングファイルとプリントが入ったクリアファイルを抱えた吉成が、職員室から戻ってきた。教師のくせに走ってきたのか、わずかに息が上擦っている。
 親がこようがこなかろうが、面談はマストだ。とうとう俺の順番がやってきただけ。ふう、と息を吐いて、教卓の前で向かい合う席の出入り口側に座った。
「なあ。廊下、走っちゃダメだろ」
「早歩きだ。決して走ってはいない」
「じゃあ運動不足か」
「だなぁ。先生、最近腹の肉が気になってきて」
「俺らと一緒に走ればいいじゃん」
 体育教師のくせにダセェ。言葉には出さずに笑うと、雑に頭を撫でられた。髪、ぐしゃぐしゃになるんだけど。
「よし、じゃあさっさとやるか」
「っす。早く部活行きたいんで」
「だな。一応、第一希望は就職で話をしてある。が、正直あまり就職先はないのが実情だ……あと、就職担当の小山内先生は、正直あまり頼りにならん」
「教師がそういうこと言っていいのかよ」
「進学校あるあるだ。だから、何かあったら俺に聞けばいい。ちなみにこれが、去年の一覧だ」
 吉成が机に広げたのは、去年の募集先一覧だった。厩舎の掃除や土木業者、工場が数件。
「この他に市役所もある。倍率は高いがな」
 地方公務員。安定を求めるなら、一番無難だろうか。
「親があんなんだから、落とされるとかあんのかな」
「それは大丈夫だろう。どこで何をしているかまで、根掘り葉掘り聞かれることはないと思うぞ」
 俺の為に用意してくれたらしい。募集要項に蛍光ペンで線を引いたプリントを受け取った。
 どうしてこんなに悩むことがたくさんあるのだろう。夢も希望もないのに。大人になって、毎日目標もなくただ働いて、死んだように生きるくらいなら、いっそ消えてしまったほうが楽じゃないのか。
「……めんどくせぇなあ」
「まあそう言うな。ここだけの話、先生にだって面倒なことはよくある」
「例えば?」
「……校長先生の話、長ぇー的な」
「うわ、チクりたい」
「やめてくれ、ここにいられなくなる」
 笑いながら、それは困るなと思った。バスケ部の誰か一人でも欠けた高校生活は、ちょっと想像がつかない。
「社会人バスケチームも、あるにはあるらしいぞ。調べてみたら、この辺にも数チーム」
「そういう所って、本気でやったら浮かねぇ……?」
「それが不安要素なんだよな。夏樹のレベルになると余計に」
 そして吉成は、クリアファイルから別の紙を数枚取り出した。二つ折のパンフレットのようだ。
「なにこれ」
「前に村越さんが言ってこと、覚えてるか?」
「……大学の話っすか」
「そうだ。先日も連絡があったんだ。やっぱり夏樹は大学へ行ってバスケを続けるべきだと」
「え、いつ」
「一年生大会を見たんだろう。助っ人部員を入れての八強は、やっぱり椎名くんの力が大きいって」
「……あざす」
「礼を言うのはこっちだ。稲穂台にきてくれてありがとうな、夏樹」
「えー……槍でも降るのかよ」
 面と向かってそんなことを言われるのは初めてだった。照れくささを誤魔化すように、指先で大学の資料を引き寄せる。ひんやりと冷たい感触。俺にとっては手の届かない、尊い宝物のように思えた。
「ここは強豪だから、レギュラーを取るのも一苦労だと思う。でも、先生は夏樹ならやれるって信じてる」
「無理すよ」
「どうして」
「バスケはできても、進学はできない」
 気持ちは嬉しい。俺のことを本気で考えてくれて、ありがたいと思っている。でも、浮かれてしまいそうな心に蓋をして、俺は事実を述べた。自分のことじゃないのに、吉成は傷ついた顔をする。
「才能があるって言ってくれんのは嬉しい。でも、諦めきれなくなるからやめてほしい」
「そんな、諦める必要なんて……」
「中学の頃、私立の強豪に行って、バスケやらなきゃもったいないって何回も言われた。じゃあ、そう言うあんたらが、どうにかしてくれんのかよって。無理だろ。他人の人生まで背負えねぇだろって。それと同じじゃん、こんなの」
 父さんは二度と戻ってこないのだ。邪魔者扱いされようが、死ぬまで血の繋がりを切れない母親背負って、まだ見ぬ大海へ踏み出す勇気なんてない。
「夏樹」
「んだよ」
「一から十までは無理だが、どうにかしてやれる」
「は?」
「先生は教師だ。奨学金制度の相談にものってやれる。できる限り、お前に協力する。お母さんにも、そう伝えてくれ」
「……なんで、そんなに必死になってくれんの」
 先生なんて、所詮赤の他人だろう。実の親ですら、俺という人間に無関心なのだ。ずっと、死ぬまで、一人でどうにかしていかなくちゃいけないと思っていたのに。
 俺の言いたいことなど、全てお見通しなのかもしれない。吉成は俺の質問には答えずに、ニカッと豪快に相好を崩して再び俺の頭を撫でた。


 強制はしないという言葉をお守りがわりに、大学のパンフレットを受け取った。吉成は口うるさいが、嘘をつく人ではない。半年も関わっていれば、それくらいは分かる。
 俺の「普通」は、他人のそれとは違う。大人はみんな、俺の家庭事情を知ったら一歩引いてしまうものだと思っていた。俺だったら関わりたくない。だって、あまりにも特殊だ。
 いつもと同じ帰り道。肩にかけたエナメルバッグは、朝よりほんの少しだけ重い。吉成が渡してきたパンフレットや奨学金制度に関する資料は厳選されていて、大した量ではなかったけれど、俺にとっては希望の重さだ。そっと肩紐に触れると、隣を歩く朝桐先輩が不思議そうな顔をする。
「夏樹、なんか機嫌いい?」
「そっすか?」
「うん。何となくだけど、そう見える」
「涼しくなってきたからじゃないっすか?」
「お前、本当に暑いの苦手だなぁ」
「寒ければ着込めば暖かいけど、暑いと全裸でも暑いんで」
「あはは、極端だ」
 軽やかな笑声が、ポコポコと俺に当たって落ちた。
「……今日、部活遅れたじゃないですか」
「うん。三者面談だろ?」
「そうです。うちの母親がくるわけなかったんで、二者面談ですけど」
 どんよりと曇った空は、雨が降りそうで降らないギリギリのラインを保っていた。湿度は高いが涼しくていい。
 一度言葉を切った俺の横顔に、遠慮のない視線が刺さる。おしゃべりな朝桐先輩が、俺の話の続きを待っている。俺の心を蝕んでいく密かな優越感に、足取りが軽くなる。
「吉成が、大学のパンフレットとか奨学金制度の資料とか、色々くれて……バスケ、卒業後も続けられるかもしれないなって」
「おお、よかったじゃん!」
 朝桐先輩はまるで自分のことみたいに破顔した。わしゃわしゃと頭を撫でられると、胸がきゅーっと締め付けられる。吉成とは違った安心感があった。
「もし大学に行けなくても、社会人もあるからなって。本気で考えてくれてて、嬉しかったっす」
「そうか。良い先生だよな、吉成先生は」
 認めるのは悔しかったが、小さくうなずいた。
「朝桐先輩は、もう進路決まってるんですか」
「確定じゃないけどな。いくつか候補がある」
「将来、何になるんですか」
「吉成先生みたいに、教師になってバスケを教えたい」
「チャラい先生だ」
「やっぱり? 吉成先生にも言われたんだよ。ピアスで茶髪の教師かぁ……って」
「でもあの人、否定はしないっすよ」
「だな。教師向きの性格だって言ってくれたよ」
 教師として教壇に立つ姿を想像してみる。声が大きくて、ニコニコしていて、年中ジャージで過ごしてそうだ。そこにいるだけで、周囲の雰囲気を明るくできる稀有な存在。この人に教わることができる未来の子どもたちが、羨ましい。
「とりあえず、親やチビたちに迷惑かけないように、なるべく学費の安いところ目指して頑張らなきゃな」
「俺も、できるなら大学でバスケして……実業団とかプロチームとか、入れたら嬉しいっす」
「いいなぁ! 夏樹なら本当に叶えられそうだ。今からサインもらっておこうかな」
「それはさすがに気が早くないですか」
 奥底に押し込んで見ないふりをしていた夢の欠片が、太陽の光を受けて誇らしげに輝いている。


 朝桐先輩と別れて家に着くと、玄関に靴が一足しかなかった。この時間に一人でいるのは珍しいと、冷たい汗が背中を伝う。そっとリビングの扉を開け、途端に押し寄せたうっと息が詰まりそうな酒の匂いに眉を寄せた。
 ローテーブルの上に散乱する、ひしゃげた缶や蓋のない瓶。ソファ寝転がり、四肢を投げ出し、死んだように眠る母親。どうしてこんな奴にひっきりなしに男ができるのかと疑問を抱くような、だらしなくて醜い姿だった。
「……どんだけ飲んだんだよ」
 見なかったことにしたいが、自分も使う部屋だ。この匂いが染み付いてしまう前にと、キッチンから持ってきたゴミ袋へ缶と瓶を分けて入れていく。この様子では、夕飯は自分で用意する必要がありそうだ。大方、男との関係が切れたのだろう。しかも、手酷い振られ方をしたパターンだ。自暴自棄になって泥酔する母親の代わりに、こうして片付けをするのももう慣れた。
 換気をしようと窓を開ければ、湿っぽい風が土の匂いをのせて吹き込んできた。外へ手を伸ばしてみる。霧のような細かな雨が、しっとりと肌を濡らした。降られる前に、朝桐先輩は家に帰れただろうか。
 テーブルに溢れた液体を台拭きで拭っていると、背後で身じろぐ気配がした。手を止めて振り返る。気怠げな伸びをして、母親が上体を起こした。曖昧な瞳が俺を映す。
「……ああ、かえってたの」
「飲みすぎだろ。身体壊すぞ」
「あんたには関係ないでしょ」
 くたりと再び横になって、母親は忌々しそうに俺を見上げた。関係ないだなんて白々しい。どうせ面倒を見させるくせに。
「ねぇ」
「なんだよ」
 会話をする気はなかったが、話しかけられれば無視するわけにもいかなかった。片付ける手は止めずに、目だけを向ける。
「勉強はしてるの?」
「してるよ。赤点取ったら補習で部活できないから」
 セックスの相手がいなくて暇なのだろう。母親から投げられた質問に、抑揚をつけずに答える。顔を合わせて言葉を交わすこと自体、随分と久しく思えた。
「あんたはまた部活部活って……さっさと安定したいい所に就職して、家にお金を入れなさいよね」
 たった今片付けが終わったばかりなのに、母親は新しい缶チューハイのステイオンタブに指をかけて引いた。カシュッと小気味良い音が、あまりにも場違いだった。
「……その件だけど、うちは進学校だから、あまり就職口ないっぽい」
「そんなの、自分で探すのよ」
 缶をかたむけてチューハイをあおり、水没していなかったアーモンドを一粒食べ、母親は呆れたように口唇を歪めた。俺も笑うと、こんな顔してんのかな。
 ふと、吉成の豪快な笑顔を思い出した。あれとは全然違うな。体育教師なのに腹出てるし。頭を撫でてくるところも全然違う。俺は目の前の母親に触れられた記憶がない。
 ああ、そういえば、親にも話しておけって言われたっけ。奨学金制度、担任が相談にのってくれるってこと。
「……なあ」
「なぁに?」
「あのさ、ちょっと、見てほしいのがあって」
「は?」
 入り口に置き去りにしていたエナメルバッグから、今日渡されたクリアファイルを取り出した。大学のパンフレットは今はいいか。奨学金制度について記載されたプリントの束を、そっと母親に差し出した。
「……これは?」
 換気の為に開けていた窓を閉める。背中に、怪訝そうな声をぶつかった。
「奨学金制度の案内。色々あるから、たとえば、片親の人が使えるやつとか、条件厳しいけど給付型のやつとか……よく分かんなくても、先生が相談にのってくれるみたいで、その」
「これを使って、大学へ行くってこと?」
「そう。バスケが強い学校に行けるように、繋げてくれるって声をかけてくれた人もいる。大学でも頑張ってバスケでいい成績残して、実業団とかプロとか、目指してみたい」
「……」
 母親は、俺を一瞥もしなかった。切れ長の目が紙面を滑る。俯いた顔からは、何の感情も読み取れない。白く細い指がつい、とプリントをつまみ上げ、そして。
 空気を切り裂く乾いた音が、リビングに響いた。
「っ、ちょ、何すんだよ!」
「話にならないわ」
 真っ二つに破かれた紙が、ひらひらと床に落ちる。大切な、俺の希望の一欠片は、あまりにも儚かった。
 腹の底からふつふつと沸いてきたのは、怒りか、諦念か。それとも、悲しみだったかもしれない。自分でもよく分からなくて、震える手を握りしめて立ち尽くすしかなかった。
 わずかに見えた光が失われていく。何も言えない俺に、母親は畳み掛けるように吠えた。
「大学なんて、本当に行けると思ってるの? せっかくここまで育ててあげたのに、まだ迷惑をかけるつもり?」
「でも、やりたいことが見つかったんだ」
「バスケなんて、今まで散々やってきたでしょう」
「……なんで、俺ばっかり」
「っ、口ごたえなんていいご身分ね! 他の人がどうかなんて知らないわ。いい? あんたは就職。いいかげん、自立しなさい」
 思わず口をついた言葉に、母親の目がつり上がった。バンバンとテーブルを叩いた拍子に溢れ出した缶チューハイの中身は、炭酸の泡をプツプツと弾けさせてせっかく拭った天板に広がる。ヒステリックな金切り声が脳を揺らして、目眩がした。
 息を吸って、細く深く吐き出した。暴れだしそうな感情を、羽交い締めにして押し殺す。そうでもしなくちゃ、喉をかきむしって死んでしまいそうだった。
「……わかった。もういい」
 浮かれていた俺が馬鹿だったのだ。悪いのは、吉成でも母親でもない。少しでも、期待してしまった俺自身だ。
 エナメルバッグを抱えてリビングを飛び出し、自室へ戻って鍵を閉めた。気づかぬうちに、全身にびっしょりと汗をかいていた。もういい。本当に。目標とか、希望とか、馬鹿じゃねぇの。
「……死にてぇ」
 溜め息と共に零れ落ちた小さな叫びを拾ってくれる人なんて、ここにはいない。学校にはいるかもしれない。でも、三年経ったらみんな卒業して離れ離れだ。俺はどこまでいっても椎名夏樹だし、あの人は俺の母親であり続ける。血の繋がりが、今はどうしようもなく憎い。
 虚しくて、涙は一粒も出てこなかった。乾いた頬と早鐘を打つ心臓がバラバラになって、身体が引き裂かれてしまいそうだ。
 バッグを床に投げ捨て、ジャージ姿のまま布団へ潜り込んだ。何も考えたくない。考える意味もない。このまま消えてしまいたい。俺がいなくなって、皆が俺を忘れたって、世界には何の支障もないのだから。
 空腹なんて、どこかへ消え去ってしまった。シャワーも無理。一歩も動きたくなくて、シーツがしわくちゃになるまでキツく握りしめる。
 噛みしめた唇からじわりと広がる鉄の味が、いつまでも消えない。


 三日ぶりの学校は、知らない場所のように思えた。長期休み明けの一日目のような居心地の悪さが俺を支配する。
 熱があったとか、頭痛や腹痛があったとか、そういうのではなかった。心が重くて、布団から起き上がる気力がなかっただけ。人はそれをズル休みと呼ぶのかもしれない。
 朝、教室へ入ってきた吉成は、俺の顔を見て「元気になったか、無理はするなよ」とだけ言って教室を出て行った。詮索されたらボロが出そうだったから、正直助かった。せっかくあんたがくれたプリントを、母親に見てもらえないまま破かれてしまっただなんて、言えるわけがない。
 クラス中が、俺を腫れ物扱いしている気がした。後になって冷静に考えれば、俺の体調を慮った上での距離感だと理解できるが、そこまで考えを巡らせる余裕がなかった。気まずくて、苦しくて、四時限目が始まる前に、入学してこのかた足を踏み入れたことがない保健室へ逃げ込んだ。
「あら、珍しい顔ねぇ」
 ドアを開けてすぐに迎えてくれたのは、母親よりもずっと年上の養護教諭だった。のんびりとした口調。柔和なまなざし。ここへ座ってと手招かれて、固くはないが大して柔らかくもないベンチへ腰を下ろした。
 本当は今日も休んでしまいたかったけれど、家で知らない声が聞こえたからいられなかった。また新しい男ができたらしい。俺には今、どこにも居場所がない。
「これ、記入してくれる?」
「……っす」
 途方に暮れていると、バインダーとボールペンを渡された。来室者カードなるもので、日付けと名前と症状を書く欄があった。
 日付けと名前を書いて、ペン先が止まる。症状は――なんて書くのが正解だろう。教室にいたくない。家にも帰りたくない。高校生にもなって、そんなワガママが通用するとは思えない。
「せ、先生」
「どうしたの?」
「……ここ、なんて書けばいいですか」
 養護教諭は俺の手元を覗き込み、あら、と気の抜けた声をあげた。「顔色が悪いかな。熱を測ろっか」
 熱はないと思っていたのに、体温計には平熱より高い数値が表示されていた。自覚した瞬間、身体が一気に重くなる。視界の隅で、養護教諭が俺の代わりに「発熱」と書き込んだ。
 案内された窓ぎわのベッドに座り、上履きを脱いでそおっと横たわる。制服のままだし、消毒っぽい独特の匂いがして、あまり寝心地はよくないけど、家にいるよりはマシだった。


 いつの間にか眠っていたらしい。どこか遠くに賑やかな声が聞こえて、ふわりと意識が浮上した。見慣れない天井に、一瞬ここがどこだか分からなくなったが、すぐに保健室だと思い出す。
 布団の中で、ポケットに入れたままだったスマホを確認してみる。もう昼休みの時間帯か。
 いつまでもここで寝ているわけにはいかない。ゆっくりと身体を起こして息を吐くのと、ガラガラと扉が開く音がしたのは、ほとんど同時だった。
「失礼します」
「いらっしゃい。あら、どうしたのかしら?」
「えっと、お見舞いです」
 カーテンの向こうから鮮明に聞こえてきたのは、間違いなく佐倉の声だった。
「寝てると思うけれど……ちょっと待ってね」
 足音が近づいてくる。目隠しのカーテンをめくられる前に、起きてますと自ら伝えた。
「椎名、開けても平気?」
「ん」
 控えめに開いたすき間から、声の主がヒョコリと顔を出した。
「心配だったから、様子見にきた」
「ごめん。もう大丈夫」
「どうだか。顔色あんまり良くないよ」
 カーテンの内側へ入ってきた佐倉が、首すじに触れた。小さな手は、ひんやりと冷たくて気持ちがいい。
「ほら、まだ熱いし。しっかり休んで治したほうがいいと思う」
「でも、これ以上迷惑かけらんねぇし」
 三日も休んでしまっている。ただでさえ、先輩を差し置いてスタメンを張っているのだ。失礼なことはできない。
「フラフラのまま、中途半端なプレーされるほうが迷惑なんじゃない?」
「……そんな言い方しなくてもいいだろ」
「そんな言い方しなきゃ、椎名は休めないでしょ」
 佐倉は苦笑まじりにそう言って、俺のこめかみに張り付いた髪を指で払った。
「吉成先生にも渡瀬先輩にも言っておくから、早退したら? 荷物持ってきてあげる」
「家には、帰りたくない」
「え?」
「母親と、あまり、上手くいってなくて、うち、母子家庭で、その……」
「んー、まだ熱っぽい顔してるし、もう少し休ませてもらおっか。うん、そうしよ」
 気持ちを上手く説明できなかったが、伝わっただろうか。肩をそっと押されて、胸まで布団を引き上げられた。ホッとしたのも束の間、再びカーテンの向こうで扉が開いた。
「失礼しまぁす」
「あら、今日はバスケ部がたくさんきてくれるわね」
「さっきの体育で、すっ転びました」
「傷口洗った?」
「洗いました。超痛かったです」
「梅原先輩……!」
 急に声のトーンが上がった佐倉は、カーテンから顔だけを外に出した。まだこっち側にいてくれるらしい。大好きな梅原先輩がきたのだから、俺のことなんて見捨ててくれて構わないのに。
「あれ、奈子ちゃんだ。どしたの、調子悪い?」
「あ、いえ、私じゃなくて……」
「どれどれ、はぇ、なっちゃんか」
 言い当てられて驚いたが、来室者カードに名前を記入したことを思い出した。上履きを引きずる音が近づいてくる。佐倉よりも頭一つ分高い位置から、やさしいかんばせが現れた。
「なっちゃん、調子どう?」
「せ、んぱい」
「あ、起きなくていいよ。まだつらそうだね。目がとろーんとしてる」
 ひょこひょこと足を庇いながらベッドサイドへやってきた梅原先輩が、俺の額に触れる。体育ですっ転ぶほどはしゃいでいたはずなのに、先輩の手のほうが冷たい。
「……うわ、痛そう」
 血の滲んだ膝に、俺は目を眇めた。佐倉も見ないように両手で顔を覆っている。が、指のすき間からチラチラと見ていた。怖いもの見たさってやつか。
「俺は消毒すれば大丈夫だから。なっちゃんはよく休んで、でも、なるべく早く戻ってきてね。朝桐がポンコツ化してるからさ」
「朝桐先輩が?」
「可愛い後輩が心配なんだよ。あいつ、十分に一回は夏樹大丈夫かなって呟いてるよ。あ、でもちゃんと治してから戻っておいでよ? 無理して戻ってきたら、それこそ朝桐が心配して何も手につかなくなるから。というか、付き添いいらねーって言ったけど、着いてきてもらえばよかったな。なっちゃんにも会えたしさ」
「朝桐先輩、椎名が学校休んだって聞いた時、この世の終わりみたいな顔してましたもんね」
 その時の様子を思い出しただろう。佐倉がふにゃりと眉を下げれば、梅原先輩もそれにつられて笑い出す。そんな面白いシーンを見られなかったのは、いささか残念に思う。

 翌日には熱もすっかり下がった俺は、ホームルームが終わった瞬間に部室へダッシュした。夏樹、走るんじゃない! と廊下に響いた吉成の声は追い風となって、俺の背中を押してくれる。
 急いで着替えて体育館へ行き、準備をして、部活が始まるまでの時間をシュート練習にあてた。四日のブランクはかなり大きい。ボールを弾く指先の感覚が消えていないのを確認して、内心腰が抜けそうなほど安堵した。
 この世の終わり顔ってやつををこの目で確認したかったのに、朝桐先輩はいつも通りの朝桐先輩だった。体育館へ入ってくるなり、太陽にも負けない明るい笑顔で俺の名前を呼んでくれた。なつき。たった三文字。俺が俺でよかったと思える、唯一の瞬間。
「先輩、苦しいっす……」
 たったの四日ぶりなのに、数年ぶりの再会のようなハグをされ、思わず笑ってしまった。
「夏樹だぁー……」
「夏樹っすよ。すみません、迷惑かけて」
「もう体調は万全か? すぐ無理するだろ、お前」
「大丈夫っす。スタミナは元々あまりないんで、バテるかもしんないすけど」
「本当に心配したんだからな」
「聞きました。梅原先輩が、朝桐がポンコツ化してるって」
「うわ、言いやがったなあいつ!」
「佐倉も、この世の終わりみたいな顔って言ってました」
「奈子ちゃんまで!」
 一々オーバーリアクションで返してくれるのが楽しくて、朝桐先輩の肩に顔をうずめたまま口角を上げた。先輩の匂いがする。出会ってまだ一年も経っていないのに、ずっと昔から一緒にいたような安心感がある。
「本当に、無理はするなよ?」
「遅れを取り戻す為に多少はします」
「えー……」
「先輩も、付き合ってください。ワンオンワン」
「夏樹ドリブル上手いからなぁ……抜かれまくって自信なくしそう」
「抜かれまくって、俺の練習相手になってください」
「分かったよ。でも、ダメそうだったらちゃんと言えよ? 俺でも、俺じゃなくてもいいから。な?」
「っす。言います、ちゃんと」
 温もりが離れていくと、心までひんやりと涼しくなった気がした。朝桐先輩の茶色い虹彩に映りこんだ俺は、変な顔をしている。なんの感情だよ、それ。
 部活が始まれば、ようやく日常が戻ってきた。ボールが弾む重低音、シューズがかき鳴らすスキール音、コミュニケーションをとる声。ふと、置いていかれそうで怖くなる。
 叶えたい夢を見つけてしまった。でも、あと数センチ届かない。
――なんで、俺ばっかり。
 あの時溢れた本音が、ずっと胸でつかえて取れない。
 俺はこの先、どんな未来を行くのだろう。微かに見えた光は、いとも簡単に塗りつぶされてしまった。母親の、白く細い指によって。
 大人になんかなりたくない。ずっとこのまま、先輩たちの後輩でいたい。俺を侵食しようとする甘ったれた考えに、ゾッとした。
「夏樹!」
「っ、渡瀬先輩」
「ぼんやりしてたら怪我するぞ。まだ調子が悪いのか?」
「すみません、大丈夫っす」
 額に押し付けられた手のひらが熱い。熱はないと分かったのだろう。離れた手が、とん、と胸を叩いた。
「今、夏樹に怪我をされたらうちは詰む。一年生に頼ってしまうのは情けない話だが、これは事実だ」
「……っす」
「俺たちは、少しでもお前らとバスケがしたい。一日でも長く」
「俺も、先輩たちとずっと、バスケしたいっす」
「ずっとは無理だけどな。その気持ちを忘れないでほしい。よし、体調が大丈夫なら集中だ」
「はい!」
 ボールを受け取り、輪の中に戻ってパスを出す。朝桐先輩が夏から練習しているダンクシュートを決めれば、チームメイトだけでなく隣でサーブ練習をしていた女子バレー部からも歓声があがった。
 俺がどれだけ足掻いても、時は経つ。渡瀬先輩も、朝桐先輩や梅原先輩も、俺より先に引退してしまう。あとどれくらい、この景色を見ていられるのだろう。

「夏樹、帰る前にちょっと話しよ」
 練習着から制服に着替えていると、朝桐先輩が俺を呼び止めた。ここへ座れと、腰掛けていたベンチの右隣を叩く彼の眼差しは真剣そのもので、楽しい雰囲気ではない。練習中にぼんやりして、渡瀬先輩に鼓舞激励された立場である。気づかぬうちに、何かしでかした可能性は大いにあった。
「失礼します、っ」
 おそるおそる隣に座った刹那、温かくて大きな手が俺の両頬を包み込んだ。ぐりんと左を向かされる。鼻先が触れそうなほど近くに、先輩の顔があった。
「ひとつ、聞いてもいいか?」
「どーぞ」
「元気なさそうな顔、してる自覚ある?」
「え」
 自覚なんてなかったので、素直に首を横に振った。離れていった手のひらの温もりを逃がさぬよう、自分で触れて蓋をする。
「もう、熱はないっすよ」
「分かってる。そうじゃなくて、何かあった?」
「何か、は……そうっすね、ありました」
 隠しごとはできないか。この人の前では、虚勢を張ろうとするプライドの高い自分がどこかへ引っ込んでしまう。朝桐先輩は大げさに慌てることも悲壮感を漂わせることもなく、話の続きを視線で促した。
「俺、やっぱり、大学いけねっす」
「え、どうして」
「吉成がくれた奨学金制度のプリント、母親に破かれちまって……いや、元々勝手に俺が期待していただけで、あの人は一言も夢見ていいなんて言ってなかったんですけど」
 言葉にしてみると、心から苦々しい感情が溢れて一粒滴り落ちた。真っ黒な墨汁を透明な水面に落とした時ように、じわりじわりと濁っていく。
「あんな紙切れでも、俺の希望だったのに。まともに話も聞いてもえずに目の前で真っ二つにされて、ここまで育ててやったんだから、さっさと就職して家に金入れろって。もちろん、あの人の言ってることには一理ありますよ。とりあえず、ここまで死なずに育ったわけだし」
 俺の希望を、夢を、少しは聞いてほしかった。隣に立って、同じ方向を見て、俺の描く未来に耳を傾けてほしかった。家族ってなんなのだろう。これじゃ、一人ぼっちだ。孤独な空を器用に飛び続けられるほど、俺は強い人間ではない。
 そよ風で飛んでいってしまいそうな弱い俺が、助けてくれと叫んでいる。聞かないふりができたら、どれだけ楽だろう。
「……朝桐先輩が卒業したら、もう、死んでもいっかな」
「ばか」
 言葉とは裏腹に、柔らかい声とデコピンが降ってきた。調子に乗って話しすぎてしまった。これ以上言葉が出てこないように、キツく口を結ぶ。
「よくないよ。死んでもいいなんて言っちゃダメだ。夏樹が死んだら、俺が悲しいよ」
「すみません」
「でも、話してくれてありがとな。勇気いったろ」
「……っす」
 震えているのがバレないようにキツく握りしめていた手を、熱いくらいの温度を孕んだ大きな手が包む。ハッとして上げた視線の先で、何故か朝桐先輩が涙目になっていた。
「なんで、先輩が泣きそうなんすか」
「うう……ごめん、なんか、なんの力にもなってやれないのが悔しくて」
「何言ってんすか。こうして話聞いてもらえるだけで十分ですよ」
 一人じゃないって、安心できる。
「やっぱり、先輩はいい先生になれますね」
「そうか?」
「俺、吉成じゃなくて朝桐先生がよかったな」
 肩を上げて、おどけた口調で言ってみせると、下まぶたを濡らしたまま笑ってくれて、ホッとした。
 朝桐先輩が、そっと俺を抱き寄せる。今日まで誰かにこうされた経験なんてなかったのに、俺はもう、誰かの心音が安心するものだと覚えていた。
「はぁ……帰りたくねぇな」
「よかったら、俺ん家くるか?」
「え?」
「お前の母ちゃんの悪口は言いたくないけどさ。今、夏樹が自分の家に帰ったら、色々考えちまうと思う。それも、悪いほうにばっかり」
「……そうですね」
「うち、チビ共いるし、賑やかだし、そんなの考える暇ねぇから。嫌いじゃないだろ? そういうの」
「まあ、バスケ部で慣れてます」
 主に朝桐先輩で、と続ければ、先輩は悪かったなぁといつもみたいに俺の頭をわしゃわしゃと撫で回した後、おもむろにスマートフォンを取り出してどこかへ電話をする。
「もしもし、母ちゃん?」
 どうやら、先輩のお母さんに連絡をしているようだ。
「前言ってた後輩、連れて帰ってもいい? え? 泊まり? 夏樹、遅いから泊まってけって、母ちゃんが」
「いいんすか」
 それは俺にとって甘やかな提案だったが、まだ一度も行ったことがない人間が、突然の家族の団欒に割り込んでいいものだろうか。不安が顔に出ていたのかもしれない。朝桐先輩は鷹揚に笑って、左手の親指で俺の輪郭をなぞった。白い歯が眩しい。
「ダメだったら聞かないよ。よし、決まりな」
 俺の代わりに、泊まっていくって、と答えた先輩答える。楽しそうに、目を輝かせながら。

 部室を出て帰路を行く。半年以上通ってすっかり慣れた通学路の、いつもの時差式交差点を曲がらずに、横断歩道を渡りきる。そこから一分ほど歩いた位置で、朝桐先輩が不意に足を止めた。
「あ、やべ」
「え、なんですか」
「夏樹の母ちゃんにさ、帰り遅くなるって連絡したほうがよくね?」
「いや、別にいいっすよ。俺が帰ろうが帰らまいが、気にする人じゃないんで」
「それでも、一応したほうがいいよ。話したくないなら、俺がしてやるから」
「えー……じゃあ、お願いします」
 引き下がってはくれなさそうなので、素直に甘えることにした。親の電話番号を呼び出し、端末を渡す。朝桐先輩は迷いなく通話ボタンをタップして、耳にかざした。
「あ、もしもし。夏樹くんのお母さんっすか」
 微かに聞こえてきた母親は、怪訝そうだがよそ行きの声をしていた。
「自分、稲穂台高校バスケ部の朝桐っていいます。二年生っす。今日、夏樹くんを自分の家に泊めてもいいですか」
 静かな田舎道は、ほんの少しだけ上擦った声をどこまでも飛ばした。風に乗って、夜空を駆けていく。
 俺より一つ年上で、進路の話やその先の未来の話も色々考えているはずなのに。先輩の背中には、足には、翼が生えていて、どこまでも自由に飛んでいける。朝桐涼介という人間は、俺のような存在が直視するのを躊躇ってしまいそうなくらい、眩しい。
「夏樹、大丈夫だってさ」
「ありがとうございます。本当に」
「どういたしまして。じゃ、行くかぁ」
 予想どおり即外泊の許可が下りたので、知らない道を並んで歩いた。自転車通学なだけあって、思っていたよりも距離がある。俺はふと思い立って、肩から提げていたエナメルバッグを先輩に差し出した。
「俺、走ります。先輩はチャリで先導してください」
「え、俺が走るほうでもいいけど」
「体力つけたいんで。あと、家の場所分かんねぇから、先輩が先に」
 前カゴに遠慮なくバッグを詰め込み、早く乗れと広い背中を押す。そこに翼はなくて、しなやかな筋肉が手のひらを跳ね返そうとするだけだった。
 一人で淡々と走る道よりも、先輩を追いかけて走る知らない道のほうがずっと気持ち良かった。冷たい風が前髪をさらってなびかせる。
 秋が深まり、あと一ヶ月もしないうちにウインターカップの予選が始まる。最後まで勝ち続けたとしても、今のチームで戦えるのは残り二ヶ月もない。時の無情さには逆らえない。決められた未来にも逆らえない。世の中、上手くいかないことばかりだ。
「先輩!」
「なにー?」
「俺、ずっと、先輩の後輩でいたいっす!」
 心拍数が上がって、どん底まで落ちていた感情まで引っ張られた。ふわふわした気持ちで柄にもない言葉を、本心を、俺は腹の底から叫んでいた。
「もちろん! 夏樹はずーっと、俺の可愛い後輩だ!」
 高校を卒業しても、朝桐先生になっても。結婚をして家族ができたとしても変わらない大切なものを、俺は手にしたのかもしれない。


 朝桐先輩の家は、俺が想像していたよりも大きな二階建ての一軒家だった。若干の年季を感じる玄関の引き戸を開け、たくさんの靴が行儀よく並んだ三和土に、先輩と俺のスニーカーが並んだ。
 人の家の匂いがした。廊下を照らす暖色の明かりが、穏やかな雰囲気を作り出している。高い所に並べて飾ってある賞状は、どれも誇らしげな琥珀色をしていた。足を進めながら、すげぇ、と呟く。
「散らかっててごめんな」
「いえ、全く。あの賞状、先輩のですか?」
「一番右のやつはな。小学生の時、読書感想文でもらったやつ。その隣が幸介で、も一つ左が祐介。二人とも、陸上でもらったやつ」
「弟さんっすか」
「そう。靴あったし、もう帰ってきてるはず」
 廊下の突き当たりにある扉を開けると、そこはリビングだった。生活音と夕食のいい香りが、一気に脳へ流れ込んでくる。 パッとこちらを向いた二人が、きっと弟さんだろう。
「おかえりー」
「おう、ただいま」
「おかえりなさい。夏樹くんもいらっしゃい」
「あ、えと、お邪魔します」
 カウンター越しのキッチンから、エプロン姿の、朝桐先輩とよく似た目元をしている女性が出てきた。おそらく先輩のお母さんだろう。慌てて一礼すると、朗らかに微笑んでくれた。
「いつも涼介がお世話になってます。涼介の母です」
「えっ、いや、俺がお世話されてます……」
「あはは、夏樹さんおもしれー」
「こら幸介。おもしれー、じゃなくて挨拶なさい」
「こんちは、幸介っす。ほら祐介も」
「っす。祐介っす。で、今涼介兄ちゃんにしがみついてんのが、妹の琴美っす」
 祐介くんの説明に、はぁ、と曖昧な返答しかできなかった。情報が多すぎて目が回りそうだ。俺と、俺に興味がない母親。家族なんて、それだけで完結するものだと思っていた。
「夏樹、この子がコトちゃん。可愛いだろ?」
 リビングへ入るなり足にまとわりついていた子どもをヒョイッと抱き上げた朝桐先輩は、心底嬉しそうに目尻を下げた。腕の中で兄との再会を喜ぶ幼子は、黒目がちな目で俺を凝視する。似てるな、朝桐先輩と。
「だぁれ?」
「えっと、涼介お兄ちゃんの後輩、です」
「こーはい? こーはいくんって言うの?」
 純真無垢な瞳が、俺を捉えて離さない。子どもと接した経験なんてないから、どう反応していいか分からなかった。俺の困惑と琴美ちゃんの素直な疑問の狭間で、朝桐先輩が楽しげに声を弾ませる。
「はは、違うよ。このお兄さんは夏樹くんって言うの」
「なつきくん?」
「そう」
「なつきくん、コトちゃんって呼んで!」
「う、うん……」
 朝桐先輩の助けもあり、無事に夏樹として認識してもらえたようだ。コトちゃん呼びの許可まで得た。
「さ、夕飯がもうすぐできるから、皆準備して」
「はーい」
「涼介と夏樹くんは、荷物を置いて手を洗ってらっしゃい。ウインターカップ予選が近いから、風邪引かないようにね」
「よし、行こうぜ夏樹ー」
「はい」
 想像を超える賑やかさに圧倒されていた俺を、朝桐先輩が廊下へ連れ出す。一度先輩の部屋へ寄って荷物を置き、すぐに洗面所へ向かった。
 冷たい水に手を浸すと、蓄積された音が指先から抜けていくような気がした。浮き足立った心を鎮めるような流水音に、ふっと息を吐く。
「先輩、家族に俺のこと話してたんすか」
「おう。可愛くて頼りになる奴が入ってきたって。そしたら皆、家連れてこいってうるさくてさ。ごめんな、ちょっと付き合ってやって」
「っす」
 お日様の匂いがするタオルで手を拭って、急ぎ足でリビングへ戻る。食卓には既に、豪華な料理が並んでいた。
「うわ、すげー……」
「なつきくんは、コトちゃんのとなりね」
「あ、うん」
 待ってましたと言わんばかりに手を引かれ、子ども用椅子の隣に座る。満面の笑みも、お兄ちゃんそっくりだ。
「お兄ちゃんも、コトちゃんのとなり!」
「はいはい」
「ごめんなさいね、夏樹くん。琴美の隣で大丈夫?」
「大丈夫っす、全然」
 テーブルの中央に置かれた大皿には、山盛りの肉じゃが。ほこほこと湯気が出ていて、見ただけで腹がきゅうっと鳴る。いい匂いを胸いっぱいに吸い込むと、少しだけ切なくなった。
 コトちゃんがぺち、と手を合わせる。
「みなさん、手を合わせてください!」
 甲高い声に皆が従う。俺も倣って合掌した。コトちゃんは「いただきます係」だそうだ。
 いただきます、だなんて口にしたのは、中学の給食以来だろうか。幸介くんと祐介くんが、我先にと肉じゃがへ箸を伸ばした。
「こら弟たち、お客さんが優先だろー」
「食事は戦いだよ、涼介兄ちゃん」
「今日の部活で何本も走らされて、マジで腹減ってんだって」
「ほんっとにごめんねぇ、夏樹くん。遠慮しないでいいからね。ほら涼介、取ってあげなさい」
「あいよ」
 みんな、醸し出す温度がよく似ていた。バスケ部以上と言っても過言ではない賑やかさ。初めての経験なのに、苦痛じゃない。
「夏樹、肉じゃが」
「あざっす」
「サラダも取ってやる。野菜大丈夫か?」
「何でも食えます」
「おっけ。ちょっと待ってな」
 白米になめこと豆腐の味噌汁。小鉢にはほうれん草の白和え。大皿には肉じゃがと、グリーンサラダ。オリーブオイルのドレッシングは、手作りらしい。全部作りたてで、温かくて、美味しかった。
「なぁ、涼介兄ちゃん」
「どうした?」
「あとで宿題見てくんね? 英語で分からないところあんだよ」
「俺、数学ー」
「分かった。よかったら夏樹も教えてやってよ」
「え、教えられますかね、俺」
「大丈夫だよ。赤点取ったことないだろ?」
「ねぇ、コトちゃんも宿題するー!」
「コトちゃんは宿題ないから、兄ちゃんとお絵かきしよっか」
「うん!」
 ポンポンとテンポよく交わされる会話は、俺の知っている「家族」とは百八十度違うものだった。お母さんも、弟も、妹も、みんなが朝桐先輩を愛していて、朝桐先輩も家族のみんなを愛している。俺が見ていた世界の外側は、こんなにも明るいのか。
「そういえば、朝桐先輩の家族って、試合の時に見かけたことないっすね」
 俺の家とは違い、幸せを絵に描いたような家族だ。大会の会場にきたら、真っ先に目に留まりそうなのだが。ふと零れた疑問に、先輩のお母さんは苦笑した。
「行きたいんだけどねぇ。私はパートだから休みは取れるけど、琴美がいるし……お父さんは仕事が忙しいから難しいの」
「そうなんですね」
「俺たちのこと進学させる為に、頑張ってくれてんの。ありがとな、母ちゃん」
「その分、大人になったら返してもらうから。利子つきで」
「利子つきかよ。でも、全国大会には来てくれよな」
「もちろんよ。その時は琴美も連れていくし、お父さんには何がなんでも休みを取ってもらうから」
 会話には入れなくても、同じ空間にいるだけで心地よかった。まるで夢の中にいるみたいだ。
 やさしい味がする味噌汁をすすりながら、これが理想の家族っていうのだろうな、とぼんやり考える。何も持っていない俺には、得る資格さえない幸せ。

  横になって目を閉じても、なかなか眠気はやってこなかった。耳の奥に、賑やかな笑い声が残っている。寝返りを打つと、布擦れの音がやけに大きく聞こえた。
「……夏樹?」
 名前を呼ばれて、薄く目を開ける。床で寝ると言って聞かなかった朝桐先輩のシルエットが、むくりと起き上がった。
「寝れない?」
「……はい」
 俺は素直に頷いた。まだ父さんが生きている頃、一度だけ連れて行ってもらったテーマパークの帰り道で覚えたそれとよく似た物悲しさと高揚感が、俺の心にさざ波を立てる。
 楽しかった。同時に、悲しかった。俺には決して手の届かない光を、まざまざと見せつけられた気がして。
「そっち、行っていい?」
 もう一度頷く。布団の中に一瞬冷気が入ってきて、先輩の顔がすぐ目の前に現れた。一人用の布団に、そこそこ身長のある男が二人。狭くない訳がない。お互いにもぞもぞ身じろいで妥協点を探し当て、俺は仰向けの状態で止まった。
「ごめんな、うるさかったよな」
「うるさくはなかったっす。賑やかで……楽しかった」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
 遮蔽物のない至近距離で聞く声は、すっと身体に染み込んできた。
「お父さんも、あんな感じなんすか?」
「そうだな。さらに賑やかになるぞ」
「……ふふ、やべぇ」
 今度、全員いる時にきてみたい。喉まで出かけた言葉を、そっと飲み込む。
「コトちゃんさ、すげー夏樹に懐いてたから。またきてよ」
「いいんすか」
「ん。大歓迎」
 とん、とん、と規則正しいリズムで布団を叩かれる。俺が聞くよりも早く教えてくれた。
「チビたち、こうするとすぐに寝るんだ」
 何かに似ている気がする。少し考えて、朝桐先輩の心音だと思い至った。とく、とく、とん、とん。まぶたが、少しずつ重くなってきた。
「あさぎり先輩」
「んー?」
「先輩はいつも、チビたちって言うから、みんな小さいのかと思ってました」
 コトちゃんは言葉のとおり小さいけれど、幸介くんや祐介くんは俺と同じか、それ以上に身長が高かった。
「記憶の中では、ずっと小さいままなんだけどな。だから、チビたち」
「……じゃあ、俺は?」
「俺の、憧れかなぁ」
「後輩っすけど、俺」
 思いもよらない言葉に、押し寄せた睡魔が引いていく。目を凝らしても、暗がりでは表情がよく見えなかった。
「夏樹は入部した時から、俺にはないものを持ってただろ」
「何も、持ってないと思いますけど」
 見当がつかない。持っているのは朝桐先輩のほうで、俺は何もない人間だ。
「自信だよ」
「……自信」
「そう。自意識過剰っていうんじゃなくて、いい意味でな」
「よく、分かんねっす」
「たくさん練習してきたから、自分はこのプレーができますっていう選択肢が、チームの誰よりも多いだろ」
「ポジション的にも、選択肢は多いほうがいいんで」
「そんだけ、当たり前になってるってことだ。俺は弱小チーム出身で、何も持っていなくて、ビビりだったよ。だから夏樹が眩しかった」
 たくさん練習したのは、家にいる時間を短くする為だ。勝手に身についた武器に名前を授けられて、戸惑う。
「俺は、先輩が眩しいですよ。キラキラしてて、太陽みたいで」
 俺とは正反対すぎて、直視するのが時々怖くなるくらい。
「じゃあ、俺と夏樹は、持たないものを補いあっているのかもしれないな」
「先輩は、言葉にするのが上手ですね」
「そうか?」
「読書感想文の賞とかも、取ってますし。今のもすごく、腑に落ちました」
「まあ、将来は国語の先生だな。あ、いいこと思いついた」
「いいこと?」
「俺が無事に先生になったら、バスケ部の顧問になるよ。んで、夏樹をコーチにする」
「なにそれ、最高じゃないすか」
「だろ?」
「打倒吉成っすね。俺たちならできます。ボッコボコにしましょう」
「夏樹は吉成先生のことになると、すげー生き生きすんだよなぁ……ま、俺たちならできるだろ」
「っすね」
 そんな未来なら、怖くないと思えた。

 部活動のコーチになるなら、土日は休みのほうがいい。朝は早くても起きられるから、放課後の時間に合わせて仕事が終わればさらにいい。
 俺は自分で思うより、ずっと単純な奴だったようだ。週一で設けられた部活のない放課後に、向かった先は職員室。朝桐先輩からもらった言葉に浮かれて、就職担当の教師であるの小山内に話を聞いてみることにしたのだ。
 小山内――薄ら笑いを浮かべた小さなおじさん。入学式の記憶を必死に漁って思い出した顔を探す。いた。窓ぎわの真ん中辺り。先生たちの仕事の邪魔にならないよう、忍び足で移動する。
「すみません、就職について聞きたいことがあってきました」
「はぁ、君は?」
「一年の、椎名っす」
「椎名くん……はぁ、就職ねぇ」
 見下ろした先で、頭頂部が薄ら寂しくなった小山内が、気怠そうに片方の口角を持ち上げる。まるでこちらを馬鹿にするような視線に、いい気はしなかった。
「うちはほとんど進学でしょう。募集をかけたところで応募がこないからって、こなくなっちゃったんだよね。まあ、意味ないもんね。みんな頑張って、進学しようとする訳だし」
 就職の人は頑張ってないというのか。思わず睨みつけてしまったが、小山内はどこ吹く風だ。
 吉成の言葉の意味が、今なら分かる。あまり頼りにならないじゃない。すごく頼りにならない。俺が今までに出会ってきた大人と、同じ部類の人間だ。
 もういい。あとで吉成に聞こう。暑苦しくて声が大きくて、体育担当なのにちょっと腹が出ているけれど、信頼しても大丈夫だと思えるただ一人の大人に。
 まともな情報を何一つ得られないまま職員室を出て、部室には寄らずに学校を出た。若干やさぐれながら家に帰ると、知らない靴があって、声がした。光が強いと、影も濃くなる。最悪だ。こんな時にヤッてる声なんて聞きたくない。
 はぁ、と大きな溜め息が溢れた。靴を脱いで、ひんやりとした廊下を歩く。ガタ、とエナメルバッグが扉にぶつかって音を立てた。
「っ、誰だ!」
 扉の向こうから、男の低い声が聞こえた。答えるべきか、否か。迷っていると、母親が息子だなんだと説明をする。男は苛立たしそうに不明瞭な言葉を発すると、乱暴な足音を立てて扉を開けた。
「おい、音立てんじゃねぇよ」
「……すんません」
 自分の家で音を立てて何が悪いのだ。
「あ? 目つき悪ぃな、コラ」
 母親似の目が気に入らなかったようだ。俺よりも背の高い男が、右手を頭の上に振り上げる。刹那、左のまぶたの辺りに走った灼熱と痛みに、たたらを踏んだ。
「っ、……いってぇ」
 こいつ、殴りやがった。痛みに呻く俺を見て満足したのだろう。男は再び寝室へ引っ込んだ。強い力で閉められた扉の音が、慌てる母親の声と重なる。
「ねえちょっとっ、殴るのはなしでしょ。訴えられたらどうすんのよ」
「勝手にコケたとでも言わせればいいだろ」
 今日は本当にツイてない日だ。ズキズキと痛む左目を押さえながら自室へ戻り、ベッドへ倒れ込む。思い出に溢れた朝桐先輩の部屋とは違って、殺風景な部屋は室温まで低い気がした。


 翌朝、洗面所の鏡で確認した自分のまぶたにうげ、と声が出た。左目の上はもったりと腫れ、青だか黒だか分からない色になっている。あの男、どれだけ思いっきり殴ったんだ、これ。
 どうしようもないのでそのまま登校すると、席に着くなり佐倉が化け物を見るような目を向けてきた。
「うわ、痛そう」
「やっぱり?」
「何があったの」
「まあ、色々。多分これっきりだから、見なかったことにして」
「嫌だって言ったら」
「下手すると、ウインターカップ予選どころじゃなくなる。さすがに佐倉を恨むことになるかな」
 我ながら、意地の悪い言い方だ。佐倉は大して気にする様子もなく、手元でフェルト生地を縫い合わせながら続ける。
「恨まれるのなんて慣れっこだし、わたしは別にいいけど……椎名は試合に出たいよね」
「分かってんじゃん」
「バスケ部の皆が頑張ってるの、一番近くで見てきたから。眩しいなぁって」
「佐倉もその中の一人だけどな」
 自宅の冷凍庫からこっそり拝借してきた保冷剤は、まだ十分な冷たさを保っていた。左目の上に押し付けて、息を吐く。佐倉はそんな俺を心配そうに見上げたが、手は止めない。
「それ、お守り?」
「うん。プレーでチームに貢献できないなら、何かできないかなって」
「いつも助かってるけどな。改めてありがと、佐倉」
「うん」
「それ、俺ら下級生の分もあんの?」
「もちろん。全員分、背番号入りで作るつもり」
「いいね、楽しみにしてる」
「それよりもそのまぶた、吉成先生に問い詰められると思うけど」
「だよなぁ……」
 予鈴が学校中に鳴り響く。ちょうどいい言い訳がないだろうかと、候補を頭の中に羅列したが、どれも成功する未来なんて見えなかった。

「その目は、どうした」
 吉成に部活以外のことで呼び出されるのは二度目だが、前回よりもずっと怖い顔をしていた。一日中感じていた視線の中で、ダントツで迫力がある。
 座れ、と言われたが、嫌ですと言って拒否した。長く話し込むつもりはない。
「何のことっすか」
「とぼけるな。痛いだろ」
 残念ながら「見なかった振り」はしてもらえないようだ。第一候補、失敗。
 視界が完全にふさがった訳じゃない。部活はできるから、何の問題もないのだと俺の少ない語彙で説明しても、納得してもらえなさそうだ。
「何があった」
「あー、えと、コケました」
「……誰だ、誰にやられた」
 分厚い手に肩を掴まれる。昨日の男と似たような背丈で迫られて、ビクッと身体が硬直した。
「夏樹」
「本当にコケただけっす。ぼーっとしててさぁ」
「誤魔化すな、こっちは真剣にお前のことを……」
「頼んでねぇって、マジで!」
 怒鳴り返されるとは思っていなかったのだろう。手の力が弱まった隙に、身をよじって吉成の拘束から抜け出す。
 ヤクザみたいな鋭い目付きで睨まれたが、怯んじゃいられない。早く部活へ行かなくちゃ。もう、三年生とプレーできる時間は少ないのだ。一年の俺にできるのは、頑張って、頑張って、一秒でも長くコート立たせてあげることだから。
「夏樹、本当に」
「部活、行くんで」
「お前だけが我慢しなくていいんだ」
「俺、バスケ以外はどんくせぇから、コケても不思議じゃないっすよ」
 絶対に、曲げてやるもんかと思った。これは家にいた男に殴られてできた傷ではない。自分でコケて、どこかの角にぶつけて、自業自得で作った傷だって。
 話は終わりだ。エナメルバッグを肩にかけると、吉成はぎゅっと眉を寄せて下唇を噛んだ。今朝、鏡で見た自分の顔よりも、ずっと痛くて苦しそうな表情だった。
「なんだよ、その顔」
「先生は、お前の力になりたい」
「知ってる。ま、今どき熱血なんて流行らねぇだろ」
「分かっている。それでも、押し付けがましかろうが、本気だ」
「……それも、ちゃんと伝わってますよ。先生」
 暑苦しくて、ウザくて、面と向かって褒めてくれないけれど。俺にとっては数少ない、否、唯一信頼できる大人だから。俺を殴ったのが知らない男で、それが母親の連れ込んだ奴だって、そんなだらしがない家の事情を知られたら、幻滅されるかもしれない。俺を腫れ物扱いする大人にだったら、幻滅されようが軽蔑されようがヘッチャラだが、この人は別だ。
 俺はもう一度転んでぶつけました、と告げ、俺の手足を絡めとろうとする視線から逃れるように教室を出た。まあ、ここで逃げても体育館で会うのだけれど。


 俺の瞼の腫れが引いた頃、佐倉が作っていたお守りが完成した。ユニフォームと同じ模様の刺繍と背番号が入ったそれは、チームメイト全員のバッグに取り付けられ、誇らしく輝いている。
 三年生は、悔いの残らないプレーが出来るように。俺たち後輩は、三年生と一日でも長くコートに立てるように。ウインターカップの予選に向けて、日々の練習にも熱が入った。
 朝練を終えて教室に入ると、同じく朝練終わりの野球部が、俺のエナメルバッグを見て目を丸くした。
「なぁ、椎名」
「何?」
「そのお守り、手作り?」
「そう。佐倉がバスケ部全員の分、作ってくれた」
「マジ? すげぇ、羨ましい」
 自分が作ったわけではないのに、嬉しくなる。俺は少しだけ胸を張って答えた。
「いいだろ。背番号入りだぜ」
「いいなぁ。よく出来てるな」
「だってさ、佐倉」
 席が前後なので、聞こえていないはずがないのだ。話を振った先で、佐倉はスクールバッグの中を漁って何かを探していた。
「佐倉?」
「え、何?」
「お守り、よく出来てるってさ」
「あ、うん。ありがとう」
「どうした? 何か探してる?」
「……いや、なんでもない」
 見つからないなら、俺も一緒に探そうか。そう提案しようとして、チャイムの音に遮られた。ホームルームの時間だ。朝練で俺たちを熱心に指導していた吉成が、額をタオルで拭いながらガラガラと扉を開ければ、佐倉も手を止めて前を向いた。

 授業後のホームルームが終わり、今すぐにでも部活に行きたかったが、俺たちの班は掃除当番だった為叶わなかった。サボるのは簡単だが、吉成には片付けや掃除こそしっかりやれと教えられているし、ルール違反は気持ちよくない。あの親の息子とは思えないくらい、俺って真面目じゃないだろうか。
 教室の机を全て端に移動させ、ホウキで掃いて雑巾をかける同じ班のクラスメイトを横目に、ゴミ捨て役に任命された俺はゴミ袋をゴミ捨て場まで運んだ。道中、重いと文句を垂れてみたが、班の中で俺が一番力があったので仕方ない。
 教室へ戻ると、端に寄せた机を元に戻しているところだった。早く終わらせたいし、俺も手伝おうと中へ入ると、ついさっき綺麗にしたばかりのゴミ箱に、何かを捨てようとしているクラスメイトがいた。クラスの中でも目立つ女子二人。名前はたしか、足立と石塚だっけ。
 早めに言ってくれれば、一緒に捨てたのに。というか、掃除当番ではないのに戻ってきた……? しかも、今にも捨てられそうなそれは、何だか見覚えのあるシルエットだった。黒くて、シャツの形をしたそれ。嫌な予感がする。
「なぁ、ちょっと待って」
「っ、な、なに?」
 声をかけると、二人は弾かれたように振り返った。俺の存在に、今の今まで気がつかなかったのだろう。
「それ、何?」
 足立の手の中にある物を指さす。ゴミ箱に捨てようとしている瞬間を見てしまったのだから、言い逃れはできないと悟ったらしい。渋々差し出してきたそれ――俺たちにも配られたフェルト製のお守りに、驚きで息が詰まった。
 背番号が入っていないのは、佐倉が自らのスクールバッグにつけていた物だ。一緒にプレーすることはできないけれど、気持ちは一つ。そう言ってくれた俺たちのマネージャーの、大切な物。驚きが、腹の底で怒りに変換されていく。
「なに、してんの? それ、佐倉のだよな? 捨てようとしてた?」
 俺が詰め寄ると、二人は気まずそうに、でもどこか他人事のように顔を見合わせる。
「そうだけど。それがどうかした?」
 開き直ったような口調だった。佐倉のだと分かった上で、捨てようとしていたのだ。
「どうかしたじゃないだろ。人の物、勝手に捨てるとかありえない」
「ムカつくんだよね、あの子」
「……は?」
「梅原先輩目当てでバスケ部に入ってさ。そうやってみんなに媚び売ってんでしょ? ちょっと可愛いからって、そういうのないよね」
 媚びを売っている? 佐倉が? アイツが俺たちの為にどれだけ頑張っているか、知りもしないくせに。
「だから、それを捨てて嫌がらせしようと思ったわけ?」
「そう。身の程を知れってね。そう思わない?」
「思うわけないだろ!」
 いつも教室では目立たずにぼんやりしているタイプの俺が、怒鳴ったことに驚いたのだろう。掃除当番で教室に残っていたクラスメイト全員の視線が、身体中に突き刺さった。目立つのは好きじゃない。でも、言わなければ気が済まなかった。
「佐倉がマネージャーとして、どれだけ動いてくれてるか見たことあんの?」
「……それは、先輩に気に入られたいからで」
「見もしないで言うなよ。全員分のドリンクが入った重いカゴ運んで、練習が終わったらボール磨いてくれて、バスケ知らなかったのにルール覚えて、俺らがプレーしやすいように気ぃ遣ってくれてんの、知らないだろ?」
 俺たちしか知らない佐倉の頑張りを、否定する資格なんてない。黙りこくってしまった足立と石塚に、俺は続ける。
「別に知らなくてもいいからさ、俺らの邪魔はしないでよ。それ、返して」
 怒りを抑え、冷静に言えただろうか。差し出した手に、佐倉のお守りがのせられた。ポケットにしまって、振り返る。もう清掃は終わって、机が整然と並んでいた。


 部室棟は閑散としていた。校庭のほうからは野球部やサッカー部の元気な声が聞こえる。
「失礼しまーす」
 もうみんな準備を終えて体育館へ行ってしまっただろう。いつもより間延びした挨拶とともに部室のドアを開けると、佐倉が残っていた。ベンチに置いたスクールバッグをひっくり返さん勢いで、今朝と同じように何かを探していた。
「佐倉、もしかしてお守り探してる?」
「……え、どうして知ってるの?」
「見つけたから。ほら、これ」
 ポケットから取り出したお守りを、小さな手のひらにのせるり背番号のないそれをギュッと握りしめた佐倉はニコリと笑ったが、どこか泣き出しそうにも見えた。
「ありがとう。これ、どこに……?」
「あー……うん。えっと、教室」
 本当のことを伝えたら傷つけてしまう。曖昧に答えた俺に、佐倉は何かを察したらしい。「ごめん」と、悪くもないのに謝ってきた。
「なんで謝るんだよ。佐倉は悪くないのに」
「でも、気を遣わせちゃったから」
「そんなの、誰だって聞きたくないだろ……あっ」
 勢いあまって言ってしまった。慌てて口を押さえたが、後の祭りだ。佐倉が困ったように眉を下げた。
「もしかしなくても、足立さんと石塚さんでしょ?」
「……そう、だけど」
「あの二人、中学校からの知り合いなの。わたしのこと、どうにも好きじゃないみたいで」
 スクールバッグにお守りをつけ直しながら、佐倉は言った。こちらに背中を向けていたから、表情は見えない。
「好きじゃないなら、関わらなければいいのにね。自分たちから近づくなんて、物好きというか」
「……なんで、笑ってられるの」
「え?」
「佐倉が頑張ってるの、俺たちは分かってるのに。何も知らない奴に文句言われる筋合い、ないじゃん」
 悔しかった。すごく。大会で負けた時と同じくらい、悔しかった。
「まあ、今さら謝られても仲良くする気なんてないし。それに、わたしは椎名とか、先輩たちとか、分かってくれる人が分かってくれればそれでいいの。わたしは、認めてくれる人の為に頑張れる」
「……強いな、佐倉は」
「そう? 椎名のほうが強いと思うよ。それに頑張ってるって言ってくれて嬉しかった。ありがとう、椎名」
 佐倉は綺麗に笑って、部室を出ていく。
「ほら、置いてくよ」
「あ、ちょ、待って、俺着替えてない」
「先行くね~」
 無情にもドアは閉まり、部室には俺一人になった。
「えー……置いて行かなくてもいいじゃん」
 もしも俺が佐倉の頑張りを理解できなくたって、痛くも痒くもないのだろうけれど。それでも俺は、ずっと味方でいたいと思った。


 ついこの間までは、暑いだなんだと文句を言っていた気がする。最近はもうすっかり涼しく――いや、むしろ寒いくらいだ。
「夏樹、準備できた?」
「っす」
「よし、帰ろっか」
 エナメルバッグを肩にかけ、部室を出る。日はすっかり落ちて、夜空を埋め尽くす星が綺麗だ。
 今日は部活が休みの日だったが、吉成に許可をもらって自主練習をしていた。俺のドリブル練習と朝桐先輩のシュート練習。集中していたから、あっという間だった。一日一日が、目まぐるしく過ぎていく。
 みんなでコンビニへ行った日も、二人でアイスを分け合った日も、思い出となって俺の中に蓄積されている。
「朝桐先輩」
「なに?」
「コンビニ、行きたいです」
「おっ、いいね。肉まん食おうぜ」
「今回は俺の奢りっすからね」
「えー、後輩に奢ってもらうの、カッコ悪くね?」
「カッコ悪くないです。ここで俺の気持ちを無下にするほうがカッコ悪いですよ」
「じゃあ、ありがたくご馳走になろっかな」
 向かうのは、真夏にアイスを買ってもらったコンビニだ。静かな夜道を並んで歩く。目的の場所は、田舎の景色には場違いなくらいの明るさで、周囲をほの白く浮かび上がらせている。
 自動ドアの向こうは、暖房が効いて暖かかった。他に客はおらず、店員はレジのところでぼんやりと立ち尽くしている。
「夏樹、何か飲む?」
「え」
「あったかいのもあるよ。ほら、好きなの選びな」
 それじゃあまり意味が無い気がするのだけれど。朝桐先輩があまりにいい笑顔をしているので、甘えることにした。ホットドリンクの棚にある紅茶を選んで、手渡す。
「先輩は肉まんでいいですか? ピザまんとかあんまんとかありますけど」
「うん。肉まんがいいな」
「俺はどうしよっかな。ピザまんも美味そうだしなぁ……」
「夏樹はピザまんにして、俺と半分こしない?」
「いいんすか?」
「もちろん。俺、どっちも好きだし」
「すんません。肉まんとピザまん、一つずつください」
 財布を取り出し、小銭をキャッシュトレーに置く。包みに入った肉まんとピザまんを受け取り、朝桐先輩よりひと足先にコンビニを出た。
 店内放送があった室内とは違い、外の空気は澄んでいて音がなく、静かだった。背後で自動ドアが開く。
「うわ、結構寒いな」
「まだ十月なのに」
「あと一ヶ月もしたら、ほぼ冬だもんな」
「その頃には、ウインターカップの予選も終わってますね」
「負けたら、三年生は引退かぁ……」
 何気ないひと言に、現実を突きつけられた。そうだ。勝っても負けても、今のチームメイトでバスケができるのはあと少ししかない。
 朝桐先輩に肉まんを渡し、ピザまんを二つに割る。ほわっと立ちのぼった湯気が、もうすでに美味しい。
 コンビニの前に二人並んで、肉まんを頬張った。いつもの部活ほどの強度はないものの、動いたから腹は減る。うま、とこぼれた言葉は、湯気とともに夜空へ消えた。
「……この先もずっと、今のメンバーでバスケができたらいいのに」
「俺もそう思うけど、先輩としてチームを引っ張る夏樹も見てみたいな」
「引っ張るなんて、そんな柄じゃないです」
 いつも先輩たちに引っ張ってもらってばかりだ。来年、再来年と歳をとって、今の朝桐先輩や渡瀬先輩と同い年になるのが想像できない。



 ウインターカップ予選で順調に勝ち上がった俺たちの準決勝の相手は、一年生大会で負けたチームだった。準々決勝が終わって学校へ戻る電車の中で知らされたチーム名に、俺は苦笑するしかなかった。まあ、順当に勝ち上がってくれば戦うことになると分かっていたし、どこまでいっても戦わなければいけない相手は、中学の頃にも存在した。
「一年生大会の時、強かったよなぁ……」
 長谷部がつり革に体重をかけながら、戦々恐々と呟いた。見上げた顔は、一年生大会の準々決勝を思い出しているのだろう。眉を寄せて下唇を突き出している。戦う前から怖気付いてどうするのだ。
「助っ人込みで、よく戦ったほうだと思うけど」
「そうなんだけどさぁ……」
「それに、今回は先輩たちもいるから。大丈夫だろ」
 強豪と呼ばれるチームだ。他人から見れば、向こうに分があると考える人がほとんどだろう。でも、俺たちだって勝つつもりで練習してきた。いい勝負が出来るという予感がした。
「それに、優勝するなら強豪だろうが私立だろうが関係ない。全部倒さなきゃいけないんだ。通過点だと思って、楽しもう」
「やべー、夏樹がカッコいいこと言ってる」
 あとは、私立に行くと思っただのもったいないだの好き勝手言ってきた中学の頃のチームメイトに、絶対負けたくなかったのもある。そんな私情は、心の奥にしまっておいた。

 スキール音が、学校の体育館とは違う響き方をする。天井は高いし、三面とれるフロアは広くて遠近感が掴みにくい。準々決勝まではあまり気にならなかったのに。自分で思っている以上に、緊張しているのかもしれない。
「朝桐先輩」
「ん、どした?」
 アップを終え、ベンチで汗を拭っていた朝桐先輩は、至っていつも通りに見えた。俺が声をかけると、太陽のような笑顔で応えてくれる。
「緊張、してないんすか」
「えー、してるよ。心臓バックバク」
「ウソだ」
「本当だよ。ほら、触ってみ」
 手を取られ、朝桐先輩の胸元に導かれた。温かさが手のひらから伝わり、俺の知っているそれよりも速いテンポで刻まれる心音が、真実を教えてくれる。本当だ、となんだかホッとした。
「夏樹、指先冷たいなぁ。緊張してる?」
「少し、してます」
「じゃあ、一緒だ。おそろいの緊張」
「なんですか、おそろいの緊張って」
 思わず笑うと、朝桐先輩も笑みを深める。
「一緒なら、怖くないだろ。あ、ほら、大丈夫な気がしてきた。夏樹も、大丈夫」
 根拠なんてない「大丈夫」。その言葉が、浮き足立った心にじわりと染み込んだ。指先が、思い出したように血が通わせ始める。大きな手が、俺の指先をやさしく包み込んだ。
「朝桐先輩の手、あったかい」
「手が温かい人って、心が冷たいって言わない?」
「ああ、聞いたことあります。でも、それってウソですよね。だって、朝桐先輩の手は温かいから」
「夏樹の手は冷たいけどな」
「俺は手も心も冷たいです」
「そんなことないだろ。よし、少しずつ温まってきたな」
「っす。ありがとうございます」
 ふと、辺りを見渡してみる。さっきまで気になっていた音が、遠くなっていた。大丈夫。集中できている。
 この試合に勝てば、決勝は来週だ。まだこのチームで、先輩たちとバスケがしたい。その一心だった。
「集合!」
 渡瀬先輩の号令が響いた。監督である吉成の周りに集まれば、俺たちよりよっぽど硬い表情をしている。
「ついに、ここまできたな。稲穂台高校バスケットボール部、創部以来初の快挙だ」
「吉成先生、顔が硬いです」
 渡瀬先輩の言葉に、チームメイトがふっ、と吹き出した。
「仕方ないだろう。緊張してるんだ」
「俺たちより緊張してどうするんすか」
「そういう夏樹はどうなんだ」
「もうしてないっす。先輩たちと一緒なら、大丈夫なんで」
 勝てる、とは言わなかった。未来なんて、誰にも分からない。ならば後悔しないように、全力を尽くすだけだ。
 試合開始が目の前に迫っていた。鋭いホイッスルが体育館を駆け抜ける。挨拶をしてコートに立ち、ティップオフに備えて位置につく。
「一年生大会ぶりじゃん」
「ん。そうだな」
 マッチアップするのは、一年生大会の時と同じ相手だ。中学時代のチームメイト。俺の控えだった選手。インターハイ予選の時はベンチにいた記憶があったが、レギュラーに抜擢されるまでになったようだ。
「準決勝の相手が、他の四強より弱いチームでよかったよ」
 嫌味な言動に嫌味っぽい笑い方は変わらないらしい。そう簡単に変わるものではないだろうけれど。審判が持ったボールを目で追いかけながら、息を吐く。
「やってみなきゃ分からない」
「は? 無名のお前らのほうが、弱いに決まってるだろ」
「……強いよ。うちの先輩たちは」
 審判がボールを投げ上げる。松尾先輩が触れたボールを素早く引き寄せた梅原先輩が、間髪を入れずに俺へボールを回した。
「ま、弱いかどうかは、終わってから考えてくれればいいから」
 一気にゴール下へ駆け上がるエースに、ノールックでパスを出す。何百回も練習してきたシチュエーションだ。感覚が指先に染みついていた。
 ボールがゴールネットを揺らし、電光掲示板に「2」が表示される。ナイスパス、と笑顔で讃えてくれたチームメイトに、拳を突き上げて応えた。
 まずは二点。でも、まだまだ二点だ。さあ、楽しもう。




 今日の朝桐先輩は絶好調だった。走りまくり、跳びまくるエースに相手チームの意識はくぎ付け。俺がボールを運んでいるのに、いつ朝桐先輩へのパスが出るかと、そのことにばかり気を取られているらしい。
「っ」
「残念。パスじゃない」
 切り込む一歩はフェイク。身体をぶつけるように寄せてきたタイトなディフェンスを躱すフェイダウェイシュート。リングに当たることなく決まったそれに、ゴール下まで走っていた朝桐先輩も、スリーポイントラインの外でポジショニングをとっていた渡瀬先輩も、スクリーンで邪魔してくれた梅原先輩もリバウンドを取ろうと構えていた松尾先輩も、狐につままれたような顔で俺を見た。
「夏樹お前、そんなのできたのか」
 駆け寄ってきた渡瀬先輩のハイタッチに応えながら、ニヤリと口角を上げる。
「実は、吉成と特訓しました」
 ベンチへ視線を向けてみる。先生の的のほうが、デカくて邪魔だった、と。腕を組んで仁王立ちしている吉成が、満足そうに頷いてくれた。
 残り時間二分。点差は二点のビハインドだ。吉成の隣では、スコアシートの記入をしていた佐倉が祈るように手を合わせている。
 その後、二点を取られ、差は四点に広がった。これ以上は致命的だ。すぐさま渡瀬先輩がスリーポイントシュートを沈めて三点を取り返し、一点差。残り時間、一分。会場が、異様な雰囲気に包まれた。相手チームの監督が、タイムアウトを要求する。
「大丈夫だ。この点差ならひっくり返せる」
「まずは一本。絶対スティールするぞ」
「リバウンドは絶対とるから。任せろ」
 先輩たちが汗を拭いながら声を出す。佐倉がテキパキとドリンクを配ってくれる。ベンチメンバーの高根沢先輩や一年生が、タオルで風を送ってくれている。監督の吉成は、それを黙って見守っていた。チーム全体が、「逆転できる」というポジティブな思考を共有していた。追う側より追われる側のほうがしんどいとはよく聞くが、今の空気がまさにそうだ。気分が高揚している。バスケが、楽しくて仕方ない。
「夏樹、大丈夫か?」
 朝桐先輩が、心配そうに顔を覗き込んできた。違うんです。へばったわけではなくて……いや、疲労がゼロとは言わないけれど。俺は今この瞬間を、思いっきり楽しんでいるだけ。
「もちろんです。俺だけ置いていかれるわけにはいきませんから。まだまだ走れますよ」
「そうか。なら安心だな」
「もうここからは、一つのミスも許されません。俺のパスについてきてくださいね、先輩」
 タイムアウト終了のブザーが鳴った。渡瀬先輩がスリーポイントを決めた直後のタイムアウトだったので、相手ボールから始まる。一本だけでもスティールできれば、勝利の女神は完全にこっちを向く。
 相手のポイントガードにボールが回った。腰を落とし、距離をつめる。集中、と呟いた俺に、いささか余裕の無くなったかんばせが俺を見下ろした。
「っ、うぜぇ」
「粘り強さは大切だろ」
 圧をかけるように踏み込んだ瞬間、ドリブルがわずかに乱れた。今だ、と手を伸ばす。指先が触れたボールは相手の手を離れ、床を跳ねた。
「スティールだ! いけ! 夏樹!」
 ベンチから聞こえた声に背中を押され、ボールをキープして駆け上がる。残り時間は十秒。エースにパスを出したいところだったが、すぐに戻ってきた相手チーム三人に囲まれ、行く手を阻まれた。
 どうする。パスは通らない。試合終了は刻一刻と迫っている。喧騒の中、行け、と声がした。朝桐先輩の声だ。
 刹那、周囲の音がふっと抜け落ちた。自分の心臓の音だけが聞こえる。シュートモーションに入り、ボールを高くうちだした。タイムアップを告げるブザー鳴り響く。
 ボールはリングに当たり、ガガガと音を立て、ネットを揺らした。一点差で稲穂台高校の勝利。ブザービーターなんて、生まれて初めて成功させた。
「なっちゃん! よく決めた!」
「すげぇ、漫画の主人公かよ!」
「うわっ」
 梅原先輩と朝桐先輩が飛びついてきて、俺を腕の中に閉じ込めた。お互い汗だくだし、暑いし、苦しい。三年生も、一年生も、みんながこの勝利を喜んでいた。
 いつまでも勝利の余韻に浸っていたかったが、相手チームへの挨拶が優先だ。整列をし、握手をかわす。中学時代のチームメイトが悔し涙を流していたが、声はかけなかった。
 荷物を抱えてコートから引き上げる。駆け寄ってきた辻本が、俺の手から荷物を取り上げた。
「え、なに」
「今日のヒーローに荷物持たせるわけにはいかないから」
「いや、そんな」
「ずっと走って、パスして、シュートも決めて。カッコよかった。だから俺にも手伝わせてよ」
「……ありがとう、辻本」
「夏樹ぃ。一年生大会のリベンジしてくれて、本当にありがとうな」
 肩を組んできたのは長谷部だ。その向こうで、椿も嬉しそうに目を細めている。
「最後のワンプレー、お前らの声聞こえて、背中押してもらった。こっちこそありがとう。リベンジ出来てよかった」
 改めてハイタッチをすれば、嬉しさが身体の底でじわじわと再燃した。多分、今の俺は生きてきた中で一番緩んだ顔をしているだろう。
 扉を抜けてロビーへ向かうと、試合を見ていた一般客が惜しみない拍手をくれた。不思議な気分だ。今までの人生の中で、こんなに肯定されたことなんてなかったから。
「夏樹」
「っす」
「最後まで、よく走ったな。今まで見てきた中で、最高のゲームだった」
「……うわ、すげぇ褒められてる」
「嬉しくないのか」
「槍でも降るんじゃないかなって」
「失礼な。素直に受け取れ」
 ガシガシと頭を撫でられて、笑みがこぼれてしまう。だって、頑張った。楽しかった。そして、何よりも。
「吉成、先生」
「どうした」
「俺、稲穂台に入学してよかったっす」
 心から、そう思えた。