吉成の声は今日もうるさい。小テストがどうのこうの言っているのを右から左へ聞き流しながら、頬杖をついて窓の外の空を眺める。紺碧の空に雲はひとつもなくて、時おり吹き込むやわらかな風は生暖かい空気を運んで頬を撫でる。今ここで昼寝をしたらとても気持ちよさそうだが、ホームルームが終わったらすぐに部活なので、寝ている場合ではない。
二週間後の日曜日には、インターハイ予選が始まる。組み合わせはすでに決まっていて、最近の練習では勝ち上がっていく際に対戦するであろうチームの対策を考えたりもしていた。
俺は多分、高根沢先輩からポジションを奪ってしまった。初めてスタメンで出場した練習試合の後からずっと、吉成は俺をレギュラーチームのポイントガードに据えている。試合に出られるのは嬉しいし楽しい。でも、素直に喜ぶのは気が引けた。
俺にはできませんだなんて、そんな情けないことは言わない。いつか吉成に参りました、夏樹くんのおかげですって言わせてやりたい。頭の中で仮想吉成の謝罪シーンを妄想していると、視界の隅で影が動いた。
「ね、椎名、ちょっと」
前の席の女子が振り返り、俺の机をとんとんと叩いた。吉成がまだ教卓の所で話しているのに、なかなか度胸がある。
「なに?」
「あのさ、バスケ部って、マネージャーの募集とかしてる?」
肩にギリギリつかないくらいの黒髪が、吹き込んできた風になびいてサラサラと揺れる。なんて名前だっけ。たしか、佐倉。佐倉奈子さん。
「マネージャー……今はいないけど、いけんじゃね?」
「へー、ふぅん……」
「入りたいの?」
「うん。二年の梅原先輩ってバスケ部でしょ? カッコイイなって思って」
「下心丸出しかよ」
「きっかけなんて、人それぞれでしょ」
いたずらっぽく笑った佐倉さんは、えくぼが印象的だった。吉成の話はいつの間にか終わっていて、日直の起立の号令にしたがって立ち上がる。
「あー、えっと、佐倉さん」
「佐倉でいいよ。それか奈子で」
「じゃあ、佐倉。言っとくけど、顧問、吉成だぞ?」
形ばかりの会釈をする。日焼けで顔を真っ黒にした野球部の連中が猛ダッシュで教室を出ていくのを横目に見ながら、声をひそめた。佐倉は面白そうに目を細め、俺に倣ってボリュームを落とした声で言う。
「知ってる。でも背に腹はかえられぬ……」
「はは、何それおもしろい」
「おーいお前ら、ホームルームの時からおしゃべりしてるの、見えてたからな」
「ほら、これだぜ?」
「夏樹ぃ。先生の悪口言ってただろ」
のしのしと大きな歩幅で近寄ってきた吉成は、大きな手のひらで俺の頭を撫でてきた。圧が強い。雑。ハゲる。文句を言う俺に、佐倉が声をあげて笑った。
「ちげぇから。佐倉に、バスケ部のマネージャー募集してるか聞かれてただけ」
「そう。そしたら椎名が、顧問が吉成先生だからなぁって」
「ギリギリ悪口だな。覚えとけよ、夏樹ぃ」
「ほら、普通の先生はそんな脅しみたいな感じで言わないって!」
「佐倉、バスケ部はマネージャーも大歓迎だ。見学にきてもいいぞ」
「ほんとですか!」
二人して、俺の訴えは無視か。まあいいけれど。
吉成はこのあと職員会議があるらしく、荷物を抱えてそそくさと教室を出ていった。いつおいでとか、持ち物とか、何も言わずに。不親切だな、おい。
「もし今日くるなら、案内するけど」
「うん、お願いします」
「あ、親に連絡はした?」
「朝言っておいたから大丈夫だと思う。一応、ラインは送っておくけど。最後まで見学してくから、遅くなるって」
「帰り、結構暗い時間になるけど」
「うん、大丈夫。わたしが決めたことだから、きっと応援してくれる」
佐倉はトトト、と端末の画面を操作して、すぐに顔を上げた。荷物を肩にかけたのを確認して俺も歩き出す。先導しながら行く体育館までの道のりに、会話はなかった。
見学の際、お目当てである梅原先輩のやさしさを浴びた佐倉は、すぐにマネージャーとしての入部を決めた。
男十人と華のある一人。そして熱血で暑苦しい顧問。体育館は数日前から、随分と賑やかで活気にあふれている。
光が強ければ強いほど、影は濃くなる。帰り道、田んぼを会場として奏でられるカエルの大合唱を聞きながら進める足が、なんだか重い。喉まで出かけた溜め息は、朝桐先輩の隣だからと飲み込んだ。
「奈子ちゃん、いい子だな。一生懸命動いてくれる」
「そっすね」
最初は梅原先輩狙いという下心丸出しの動機だったくせに、佐倉はよく気が利いた。入部数日とは思えないほど、自分の仕事を探して動き回る。ああいう子は社会へ出ても重宝されるな、と吉成が感心したようにつぶやいたのを、俺だけが聞いていた。
「笑顔が可愛いしな」
「……あいつ、梅原先輩狙いっすよ」
「そうなの? はは、始まる前から終わってるわ。ま、俺には可愛い夏樹がいるからいいんだけどなぁ」
「俺を可愛いって言う変人、朝桐先輩だけですよ」
「この間、梅原も言ってたぞ。なっちゃん可愛いって」
「あー……たしかに言いそう」
少しくらい、先輩らしく威張ってくれてもいいのに。ある程度の上下関係は身につけてきたつもりだし、覚悟の上で入部した。それに、やさしくされたら縋ってしまいたくなる。だって、俺はあの母親の子どもだ。似てしまったのだ。容姿だけではない。どう足掻こうとも逆らえない、奥底の部分が。
「先輩たちが引退したらさ、俺ら二年だけじゃチーム作れないじゃん? 三人しかいないし」
「そうっすね」
「だから、一年生には感謝してるわけ。四人も入ってきてくれた」
その言葉は、俺の心に素直に染み込んだ。
「……俺らも、後輩ができたらそう思うのかな」
「思うよ。思えるように、キャプテンの代が今の二年のことを可愛がってくれたから」
「じゃあ、その上はそうじゃなかったんすか?」
「うん。めちゃくちゃ厳しいというか、ぶっちゃけ理不尽だった」
朝桐先輩は何気なく言ったけれど、見上げた横顔は曇って見えた。存在自体が、真夏の太陽みたいな人が、だ。
「よし、暗い話は終わり! 明るい話しよう」
「例えば?」
「うちのコトちゃんが可愛い話とか?」
「コトちゃん?」
「妹。琴美って言うんだ。まだ幼稚園生で、めちゃくちゃ可愛いの。お兄ちゃんおかえりーって毎日玄関でハグしてくれる」
妹のハグを思い出しているのだろう。顔がニヤけている。
「先輩、兄ちゃんだったんすね」
「おう、弟も二人いる。四人兄弟の長男だ」
カエルの合唱が一瞬だけ止み、青い風が吹き抜けた。
誰かが待っていてくれる家に、この人は帰るのか。朝桐先輩の朗らかな声が響く、明るいリビング。知らないのに、容易に想像できた。
羨ましくはなかった。ただ、この人にはそれがふさわしいと思った。あと、兄ちゃんっぽいなって、やけに納得している自分がいる。
「将来、コトちゃんが結婚するって話になったら、俺号泣する自信ある」
「さすがに気が早くないですか」
「そう? だってもう五歳だぞ? ついこの間生まれたばかりなのに」
「それは知らないっすけど」
部活のある日はいつも一緒に帰るのに、話す内容は尽きないらしい。寂しさを紛らわしてくれる朝桐先輩の明るさには、カエルが何匹集まっても勝てやしなかった。
三和土にある男の靴が変わった。つい一週間ほど前の話だ。よくもまあ、ころころと乗り換えられるものだと、自分の母親ながら呆れてしまう。
息をひそめながら廊下を歩くと、床板が軋んだ。薄い壁の所為で、情事に耽っていた男の耳まで届いてしまったのだろう。動きを止めたのが分かった。シーツが擦れる音の生々しさに、耳をふさいで喚き散らしたくなる。
「んっ、どうしたの……っ」
「音がしなかったか?」
「ああ、いいのよ。あれは気にしないわ。だから、ねぇ、はやく」
舌っ足らずに甘える声に吐き気がした。向こうに音が聞こえるってことは、こっちにも聞こえるってことを理解しているのだろうか。
実の息子を「あれ」呼ばわり。そこまで排除したいなら、なんで俺なんか産んだんだよ。
音が響くのもかまわずに、足早に自室へ向かった。肩にかけていたエナメルバッグを放り投げ、床に靴下を脱ぎ捨ててベッドへ倒れ込む。乾いた笑いが、口の端からこぼれ落ちた。
部活で散々走り回ったのに、空腹は感じなかった。動くのがつらい。泣いたら余計に惨めになるから、腹にギュッと力を込めて堪えた。ボールを持って外へ行く気にもなれなくて、外界から自分を切り離すように頭から毛布をかぶった。
どうして、俺ばかりこんな思いをしなくちゃいけないんだ。うちが「普通」から逸脱しているのは中学の頃から分かっていたのに、今さら目には見えない何かが、ゆっくりと俺の首を絞めようとする。苦しい。今までより、ずっと。いっそこのま消えてしまえれば、どれだけ楽だろうか。
俺には、朝桐先輩の家族みたいに帰りを待っていてくれる人も、佐倉の家族みたいに応援してくれる人もいない。どれだけ歩き続けても、真っ暗闇に光は見えない。
俺はいったい、何の為に生きてるのだろう。
初夏の日差しが、容赦なく網膜を灼こうとする。現代文の教科書を机から引っ張り出し、眩しさに目を細めた俺が机に突っ伏すよりも一瞬早く、佐倉が含み笑いを浮かべて振り返った。
「ね、椎名」
「……なに」
目を開けていられなくて、返事をしながら机に伏せた。前腕に目元を押し付ける。あまり眠れなかったからか、後頭部がずんと重たかった。
「椎名って、レギュラーだったんだね」
「まあ、そうらしいね」
吉成が決めたことだと、他人事のように答える。
「わたし、バスケは素人だからまだ分からないことだらけだけどさ。カッコイイね、あのパス。シュバッて」
最近は、オノマトペで表現するのが流行っているのか。
「朝桐先輩にも、同じようなこと言われた」
「マジ?」
「マジ。エースなのに呑気だよな」
「そういう所が人気なんじゃない? 溌剌としてるし。モテるよね、あの人」
「佐倉的にはどうなの」
「どうって?」
「朝桐先輩、カッコイイと思う?」
「思うけど、わたしは梅原先輩派だから」
そこは変わらないんだ、とホッとした。理由は自分でも分からなかった。でも、と佐倉は続ける。
「一人だけ浮いてるみたいに跳ぶのは本当にすごいと思う。羽根が生えてるみたい」
「ああ、分かる。ジャンプと言うより、フライのほうの飛ぶって感じ」
「そう、それだ!」
この感動を分かち合える人がいたのが嬉しくて、思わず顔を上げる。眩しさでクラクラした。
「……そういや、朝桐先輩が佐倉のこと褒めてたよ。一生懸命動いてくれて、いい子だって」
「えー、ほんと? 素人だから何もできてないよ?」
「そんなことない。仕事早いし、俺も助かってる」
「褒めても何も出ないけど」
「出さなくていいよ。あ、これは極秘情報だけど、吉成も褒めてた。あの人、俺のことは絶対褒めないのに」
俺が憎まれ口ばかり叩くのもあるだろうけど。と続けると、佐倉は不思議そうに首をかしげた。
「え、吉成先生、いつも椎名のこと褒めてるけど」
「は……?」
にわかには信じられず、間抜けな声が出た。
「視野が広いとか、パスの精度は地区で一番だとか、一年生なのにあの冷静なプレーはなかなかできないぞ、とか。試合形式の時、わたしの隣で自慢げに呟いてるけど」
「えー、聞いたことねぇ……」
「うそ、先生、本人に言ってなかったの?」
「ひとっ言も言われたことない」
頭を抱えて呻いた俺の声が、本鈴にかき消された。
現代文担当のヨボヨボおじいちゃん先生が入ってきて、よっこらせと教壇に上がる。膝裏で椅子を押して立ち上がる音が、頭の中でわんわん響いた。
練習着が背中に張り付いて気持ちが悪い。こめかみから頬に流れ落ちてきた汗を拭った腕すら濡れていて嫌になる。夏に片足を突っ込んでいるから汗だくなのか、いつもよりバテるのが早くて汗だくなのか、自分では分からなかった。
夏樹、と渡瀬先輩の檄が飛ぶ。俺が悪いのは分かっている。ツーメンの練習中だ。息が上がって、その分スピードに乗れなくて、先輩たちに迷惑をかけている。
遅れを取り戻そうと強めに弾いたボールは、予想より先で跳ねて転がった。誰の手にも収まることなく、コートの外へと転がっていく。気まずい空気がコートに満ちた。
「っ、すみません、ズレた」
「どうした。体調悪いか?」
「いえ、大丈夫っす」
陸にうちあげられた魚みたいに息を乱す俺に、俺の後に控えていた渡瀬先輩は眉を寄せた。寝不足くらいでこのザマだ。情けない。
立っているのが辛くて膝に手をついた俺の顔を、渡瀬先輩がしゃがんで覗き込んでくる。真面目さをそのまま反映したような眼差しが、俺をほんの少しだけ見上げた。
「顔色が良くないな」
「大丈夫っす。次は遅れないんで」
「少し休んでこい」
「でも」
「外の空気吸って息を整えろ。なんか溺れそうだぞ、お前」
なんか溺れそう。おそらく、渡瀬先輩の精一杯のジョークだったと思う。今の俺は冗談ではなく本気で陸地で溺れそうな気がして、上手く笑い飛ばせなかったけれど。
「え、夏樹どしたんすか」
近づいてくる足音に、自分が全体のプレーを止めてしまっていたことを思い出した。駆け寄ってきた朝桐先輩は、まだまだ涼しい顔をしている。渡瀬先輩だってそうだ。ツーメンでへばっていたら話にならない。悔しい。どうして俺だけ。下唇を噛み締めると、背中に大きな手が触れた。
「バテたっぽいな。涼介、外で一旦休ませてやってくれ」
「心配だから、しばらくついててやっていいですか?」
「ああ。佐倉、二人のドリンクとタオルを」
「はい!」
頭上で交わされる会話を、半分も理解できずに聞いていた。細かいことを考えるだけの酸素が足りず、背中を支えられて誘導されるがまま体育館の外へ出る。日陰に腰を下ろすと、コンクリートがひんやりと冷たくて心地よかった。
心配そうに眉を下げた朝桐先輩と佐倉にタオルでパタパタと風を送ってもらえば、ようやくまともな思考が戻ってくる。息を大きく吸って、吐く。指先がまだ、ピリピリと痺れていた。
「よし、落ち着いたな」
「……あの、マジで、すみませんでした」
「しゃーないよ。最近暑かったし」
「佐倉もごめん」
「ううん、気にしないで。ドリンクここ置いておくからね」
「ありがと、ごめん」
佐倉は踵を返して体育館の中へ戻って行った。足元のスクイズボトルへ手を伸ばし、水分補給をする。ぬるいスポーツドリンクの甘ったるさが、カラカラに乾いた身体の中心にじんわりと染み込んで美味しい。額に浮かんだ汗を、タオルでごしごしと雑に拭った。そしてようやく、空の青さに気がついた。ああ、余裕なかったんだな、俺。
「キャプテンから許可もらったし、しばらく休憩しようぜ」
「いや、大丈夫なんで、俺」
「過呼吸ギリギリだった奴の大丈夫は、信用なりません。俺も疲れたし、少し休も。な?」
ぽん、と大きな手のひらが後頭部に触れた。俺の頭は撫でやすいのだろうか。最近、みんなによくこうされる気がする。嫌ではないからいいのだが。
「大会前なのに、いいんすか」
俺はできるかぎり深刻そうな声で言った。インターハイ予選はもう目の前だ。
「大会前だからこそ、だろ。本番で夏樹に潰れられたら困る。本当に困るから」
俺が潰れたら困るのか。必要とされているのかもしれない。ぼんやりとした頭は都合よく変換してしまう。
しゃがんでいて足が疲れたのだろう。朝桐先輩も、俺の隣に座った。体育座りをやめて足を伸ばせば、先輩も真似をする。目が合うとにかっと笑って、再び頭を撫でてきた。
「あ、俺のほうが足長いな」
「身長が違うんだから、当たり前でしょう」
「まあ、そだな」
まだ少しだけ弾む呼吸をタオルで押さえつけながら、自分の隣に並んだ足を眺めた。高く自由に飛ぶ為の筋肉をまとった、すらりと長い足。例えるならば、末端で堂々と輝く真っ赤なシューズが、翼だろうか。
「夏樹、足のサイズ何センチ?」
「二十七……シューズによってはもうひとつ上です」
「おお、俺もだ。夏樹の足、でっかいな」
「いや、先輩が小さめなんじゃないですか」
「足は俺のほうが長いのにな」
「もう少し伸びる予定なんで。待っててください」
ずっと頭にのせられていた手のひらが離れていく。蒸し暑くなってきた今の時期にはなるべく触れたくないような温かい手をしているのに、今は恋しくて仕方ない。無意識に視線で追いかけると、朝桐先輩は目尻の下がった双眸をきゅうっと細めた。
「俺を追い越さない程度でよろしく」
「どうしてですか。追いつけ追い越せ、です」
「撫でられなくなるじゃん」
「それは、俺のほうがデカくなってもできるでしょう」
そう言い切ってすぐに、頬がぶわっと熱くなった。こんなの、撫でてもいいと認めているようなものじゃないか。先輩はにやにやと肉厚な唇の端を持ち上げるばかりで、何も言わない。悔しいので、どす、と肩に頭突きを食らわせる。先輩に対して失礼な行為かもしれないが、この人なら大丈夫だという確信があった。
「夏樹の頭は丸っこくて撫でやすいんだよ」
「じゃあ、好きなだけ撫でてください」
一度口に出した言葉はキャンセルできない。半ばヤケクソで言い放つ。朝桐先輩は嬉しそうに、俺の頭に手をのせた。ゆったりとしたテンポで滑る手のひらは、やっぱり温かい。
母親はもちろん、父さんにすら撫でられた記憶はないけれど、俺は多分、こうされるのが好きだ。温かな海に浮かんで行くあてもなく漂っているような深い安心感が俺を包み込む。部活中だというのに、くぁ、と、小さなあくびが零れた。
「寝不足?」
「……おそらく」
「寝ちゃえば?」
「それは、さすがに……少しだけ休んだら、先輩たちとバスケしたいんで」
「可愛いこと言ってくれるじゃん」
朝桐先輩の声は穏やかだ。知らぬ間にガチガチに強張っていた肩の力がふっと抜けて、いらないことまで話してしまう。
「先輩たちはやさしいし、部活は楽しいから、家帰ると寂しくなる」
「ご家族は?」
「母親だけっす。でも、もうしばらく話してない。話したくないんで」
家に知らない男を連れ込むような人なんだ。そう言いかけて、思いとどまる。自分も同類だと思われるのが怖かったし、こんなドラマの世界みたいな薄暗い話をしても困らせてしまうに違いない。俺はそれ以上何も言わずに、スポーツドリンクでもう一度口をうるおして、ゆっくりと膝を立てた。そして朝桐先輩の足の先へ目を向ける。赤い翼のようなバッシュは、日陰でも輝いて見えた。
「俺、ずっと思ってたんですけど……その赤いバッシュ、カッコイイっすよね」
「そうか? やる?」
「いや、いいっす。臭そうだし」
「おまっ、それは可愛くねぇなー」
「っはは、いてて、先輩痛いっす」
大して力のこもっていないヘッドロックに、俺は声をあげて笑った。
稲穂台高校バスケットボール部のインターハイ予選は、準決勝で幕を閉じた。今までの最高成績は県大会八強だったそうなので、今回四強に入れたのは創部以来の快挙だ。
電車に揺られながら、俺はこんなものかと納得していた。試合終了のホイッスルが鳴り、自分たちの負けが決まった瞬間は、悔しくて喉を掻き毟りたい衝動に駆られたけれど。閉会式で優勝チームの背中を眺めながら、これが今の自分たちの実力なんだと受け入れられた。
乗客の少ない電車内で、俺たちの周囲だけが葬式みたいに沈んだ空気に包まれていた。ケロッとしているのはたった一人、俺だけかもしれない。
三年生だけではない。いつだってマイペースを崩さない梅原先輩はもちろん、底抜けに明るい朝桐先輩さえ、目を赤くして足元を見ていた。
勝利は目の前だった。手も足も出ないわけではなかった。だから余計に悔しいのだろう。でも、あと二点の差が、どうしようもなく遠かった。
悔しさや悲しさを共有できない俺が、ここにいていいのだろうか。一瞬頭をよぎった考えは、すぐに振り払った。大丈夫。悔しさはちゃんと、自分の中にある。もっと上手くなりたいって気持ちは、みんなと同じだ。
学校へ戻っても、チーム全体の暗い雰囲気は払拭されなかった。でも、吉成は初の準決勝進出を喜んでくれたし、佐倉は感動してみんなとは別の理由で泣いていた。何より、三年生はウインターカップまで残ってくれるらしい。予選の十一月まで……否、予選を勝ち抜けば年末まで、一緒にバスケができる。そんな吉報にも、朝桐先輩の肩は限界まで落とされたままだった。
明日からのスケジュールを確認して、解散する。今日は一試合しかできなかったから、空はまだ明るかった。
予想はしていたが、学校からの帰り道は息をするのも躊躇うような重苦しい空気で満たされていた。きぃこ、きぃこと悲鳴をあげる自転車のチェーンまで悲しそうに見えてくる。青々と生い茂るあぜ道の雑草とは大違いだ。
「先輩」
「……なに」
「四強っすよ」
俺の言葉に、朝桐先輩が足を止めた。俺も立ち止まり、足元の小石を蹴飛ばす。
「……俺があのシュートを外さなければ、優勝か準優勝だった」
「あのワンプレーだけの所為じゃない」
「でもっ」
「その前に、誰かが一本決めていれば済んだ話です」
これは朝桐先輩を励ます為に選んだ言葉じゃない。紛れもない事実だ。
残り十秒で、二点差まで追い上げた。決めれば逆転という局面でエースが放ったスリーポイントシュートは、リングに嫌われた。それがどうした。バスケは団体競技だろう。例えば俺が抜かれた一本。松尾先輩が取り損ねたリバウンド。渡瀬先輩が決め損ねたレイアップシュート。梅原先輩がかわしきれなかった相手のスクリーン。積み重なった上での、チームの敗戦なのに。
最後の場面で、エースへのパスを選択したのは俺だ。マークが厚くなるのは分かった上で、強行突破したのだ。俺にだって、あのプレーへの責任はある。
「……なあ、夏樹」
「はい」
「俺、小学生でバスケ始めてから今までで、最高の成績だったんだ。でも、どうしてだろうな……今までで一番、悔しい」
「……」
「夏樹は、最高でどこまでいけた?」
何も言えずにいた俺に、朝桐先輩が問う。
「俺は、まあ……県準優勝が最高です」
「そっか、やっぱすげーなぁ……俺の小中学校は弱くてさ。県大会で一回でも勝てればいいほうだった」
言葉尻が震えている。おそるおそる横顔を見上げると、さっきまで引っ込んでいたはずの涙が、朝桐先輩の長いまつ毛を濡らしていた。光を集めて、キラキラと輝いて、綺麗だ。俺の知らない、先輩の話だった。
「弱っちかった頃は……負けても、ほとんどダメージなかったんだよなぁ」
「……初めて知りました」
「強豪出身のお前に知られるの、なんか恥ずかしくてさ」
「別に、何とも思わないっすけど」
「変なプライドだよ。俺の」
朝桐先輩はそう言って、少しだけ照れくさそうに頬をかいた。
強くてやさしい朝桐先輩の、弱くて、柔らかくて、脆い場所。目の前にあるのに、手を伸ばして触れる勇気が出ない。でも、先輩を一人ぼっちにはしたくなかった。
「……先輩、知ってますか」
「え?」
「どれだけ悔しかったり、惨めな思いをしても、空って綺麗なんすよ」
例えば、生きてる意味が分からなくて、この世界から消えたくなっても。例えば、自分のミスが原因で、試合に負けても。ほら、と上を指させば、どこまでも広がっている高く青い空。朝桐先輩は、ホントだ、と言って鼻をすすった。
「俺、前に母親としばらく話してないって言ったじゃないですか」
「うん。言ってたな」
「俺が小四の時に父さんが死んで、あの人は家に男を連れ込むようになったんです。毎月のように男は変わるし、母親は俺のこと「あれ」呼ばわりで……なんで俺のこと産んだんだって思いますよね。できるだけ家にいたくなくて、ずっと近くの公園でバスケしてました。だから俺、ボールコントロールは良いほうだって自負があります。母親のおかげなんて思いたくないですけどね」
口の端に自嘲の笑みが浮かんだ。
「……それ、俺が聞いてよかったんか」
「ええ、まあ。気分のいい話じゃないでしょうけど、先輩の秘密を教えてもらったんで……で、何が言いたいかっていうと、どれだけ凹んでも、世界は通常運転、というか」
上手くまとめられなくて、ガシガシと頭をかいた。柄にもないことをするんじゃなかったと後悔しても後の祭り。一度発した言葉は、キャンセルがきかないと分かっている。
「……なぐさめてくれてんの?」
「っす。まあ、先輩がいつまでも泣いてるなら、俺は一人で練習しますけど」
どれだけ悔いても結果は変わらない。
願っても、俺があの母親の子どもであるのと同じように。
「なぐさめんの、下手だなぁ」
「自分でも下手くそさにびっくりしてます。でも、初めてなんで。大目に見てください」
「……やっぱりカッコイイな、夏樹は」
「先輩たちに似たんですよ、きっと」
一日でも長く、このチームでプレーしたい。だから俺は、もっともっと上手くならなくちゃいけない。そんな理想の後輩みたいな、健気で可愛い気持ちが芽生えた事実が、自分でも意外だった。まだ入部して日が浅いひよっこだけど、先輩たちを信頼しているのだと思う。初めて抱いた感情に、まだ少し、戸惑っている。
いつもの交差点で足を止めた。先輩は自転車に跨らず、袖でぐいっと涙を拭って勢いよく顔を上げ、悲しみを吹き飛ばした。空の青や田んぼの新緑がよく似合っていて、目を奪われる。
「あの、朝桐先輩」
「ん?」
「一緒に、練習しませんか」
「夏樹ん家の近くの公園で?」
「っす。悔しさを忘れないうちに。体育館ほどいい環境じゃないですし、ボールもボロボロですけど」
「する! よし、もうクヨクヨすんのは終わりだ! この借りは絶対、ウインターカップで返そうな」
「はい。目指せ優勝っすね」
いつだって薄情なくらい通常運転の世界の中で、挫折しても、しんどくても、俺たちは一歩踏み出さなくちゃいけない。立ち止まっている暇なんて、ないのだ。
差し出されたこぶしに右手をコツンと重ね、俺たちは走り出した。
高校生活は、思ったよりも忙しい。別に嫌ではない。予定がたくさんあったほうが、無駄なことを考えなくて済むからだ。例えば、母親のこととか。
インターハイ予選が終わったら、期末考査がすぐそこまで迫っていた。試験日一週間前から部活は停止。稲穂台高校は巷では進学校と呼ばれているらしいので、仕方のないことではある。
自習室や近くの図書館へ行って勉強をするか、家に帰って勉強をするか。バスケという選択肢を取り上げられると、余計に恋しくなるのが人間の性だ。
ホームルームの直後、俺は担任を呼び止めた。
「吉成、せんせ」
「あ?」
教師としてはマイナス五百点の返答は、クラスメイトの帰り支度にかき消された。椅子を引く音。どこで勉強をするかを話し合ったり、自信がないと憂う声。みんなが自分の希望する進路へ向けて努力している中、俺はシューズを入れてきたエナメルバッグを肩にかけて、教卓の前へ立つ。
「ちょっとだけ、体育館で練習してっていいすか」
「テスト期間だぞ」
「分かってる。でも、鈍るのが怖い」
指先に染み付いたボールの感覚は、数日ボールに触れなかっただけで薄れてしまう。公園で自主練習するのもいいが、できることならコートを使いたい。
バカを言うなと一蹴されるだろうか。学生の本分は勉強だと、鼻で笑われるかもしれない。そんな不安から、我ながらお願いしている立場だとは思えない目つきをしている自覚はあった。だって、吉成の顔はいかついから、負けないように力を込めていたのだ。
吉成は唐突に、目の前にピースサインを突き出してきた。驚いて目を丸くする俺に、ぶっきらぼうな声が続く。
「二時間だ。二時間以上は締め出す」
「え、いいんすか」
「この間の中間で、一つも赤点取らなかったからな。特別に許す」
「やった。あざっす」
言ってみるものだ。部活の時でさえほとんどしないきっちりとした礼をして、教室を飛び出す。ダメ元だった分、驚きと喜びが倍増して胸を躍らせた。
一人ぼっちの体育館は、慣れているはずなのに知らない場所のように思えた。入念にストレッチをして、ボールをカゴから一個取り出す。まずは軽くシュート練習から始めるか。
静かで張り詰めた空気が、スパッとリングを通った音やボールの弾む音をどこまでも響かせた。深呼吸をする。心が落ち着く。もちろん、いつもの喧騒だって嫌いではないけれど。バスケが好きだと、再確認しながら、黙々とシュートを放つ。
思考を研ぎ澄ませ、脳裏に描いた試合映像。インターハイ予選の、準決勝。エースがゴール下で囲まれてどうしようもなくなったら、俺が突破口を切り開いてやる。中に切り込むと見せかけて、スリーポイントラインの外側で急ブレーキをかけてフェイダウェイシュート。指先を離れたボールはリングよりずっと手前で、力を失って落ちた。
「それは、夏樹の筋力じゃあ無理だろ」
突然背後から投げかけられた声に驚いて、俺は思い切り肩を跳ねさせて振り返った。吉成が、入り口のところで腕を組んで渋面を作っている。強面だから、迫力があった。
「……なんすか」
怒られるのかと思った。許可を出したのはそっちだろうと視線を返せば、どすどすと遠慮ない足取りでコートの中へ入ってくる。気圧されて一歩下がると、吉成はゴール下で寂しく転がるボールを拾って、こちらへ投げてきた。
「スリーを打つなら、力を後ろに逃がすな。その技術を使うなら、もっと切り込んでからだ」
「っす」
「ほら、相手がいたほうがイメージしやすいだろう。相手役をしてやるから、切り込んでこい」
ぐっと腰を落とした吉成の目は真剣そのものだった。相手をしてくれるらしい。そういやこの人監督だもんな、なんて、とんでもなく失礼なことを考える。
「……いつもベンチで見てるだけだから、あんたがバスケできるの忘れてた」
「失礼な奴だな。こう見えても、現役の時はすごかったんだぞ?」
「自分で言う?」
「言う。夏樹よりすごかった」
ボールをついた途端に踏み込まれ、伸びてきた左手をギリギリのところでかわす。フェイントを一つ入れ、逆側へ切り込み、シュート。今度はしっかりとゴールまで届いたボールが、リングに当たってガガガッと音を立てながら吸い込まれた。
「なあ、先生」
「なんだ」
「すげー失礼なこと、言っていいすか?」
「ああ」
「おっそい……ははっ、壁かよ」
「今な、自分でもびっくりくるくらい動けなかった。ダメだな、もう」
「でも、いないよりは練習になるから、立っててほしい」
「はいよ」
「でも、いいのかよ」
どむ、どむ、とボールをつきながら、たったのワンプレーで鼻の頭や額に汗を浮かべる吉成の顔を見上げた。
「何がだ」
「俺の練習相手なんかしてる場合じゃないだろ。勉強しろとか、普通言うんじゃねーの」
「言われたいか?」
「いや、ムカつくから言われたくはない」
吉成はバスケ部の監督である以前に教師だ。試験前の大切な休み期間に、将来の役に立たないであろうバスケをする問題児の相手なんか、何の得にもならないだろうに。汗だくになってまで、俺の前に立っている。
「好きなものに向き合う姿勢で、お前がどういう人間か分かるからな」
「は?」
「バスケがしたいから、勉強もそれなりに頑張れるだろう? きっと夏樹なら、今ここで練習していても酷い成績は取らないだろうからな」
「……あんたは、俺のなんなの」
「担任で、監督だが」
「はー……うぜぇ」
心がくすぐったいのが、余計に。
「なっ、先生に向かってうぜぇはないだろ、うぜぇは」
「いいからもう一本お願いします! アキレス腱、切るなよ!」
「善処する」
吉成は、俺が体育館で二時間限りの自主練をするたびに様子を見に来た。手伝ってくれたり、筋肉痛を理由に手伝ってくれなかったり。それでも、見てくれる人がいるといないじゃ大違いだ。
ちなみに、一週間後におこなわれた期末考査では、きっちり平均点以上をもぎ取ってやった。前回の赤点ギリギリよりも伸びたと褒められたけれど、照れくさいので聞こえない振りをした。
俺の所為で、吉成が他の先生から嫌味を言われないように。そんならしくない本音は、心の奥底にぶち込んで厳重に鍵をかけた。
アブラゼミが、七日の命を憂いてじぃじぃと鳴いている。教室は多少クーラーが効いていて涼しいが、外の景色を眺めているだけでも暑い。
四時限目が終わるチャイムが鳴ると、教室がにわかに騒がしくなった。購買部へダッシュを決めるサッカー部。ガタガタと机を動かして向かい合う女子たち。片手でふせんをびっしり貼り付けた参考書を開きながら、もう片方の手で器用に弁当の包みを解くガリ勉。そのどれにも属さずに、俺は佐倉を連れて教室を出る。向かう先は部室棟だ。
昼食はバスケ部の一年で集まって食べることが多い。二年生や三年生が同級生で集まっているという話を聞いて、俺たちも追従する形になった。
部室の中は暑いので、ドアの外側の日陰になっているポーチの部分にレジャーシートを敷いて、仲良く並んで座る。並び順は何となく決まっていて、俺の右隣には一年最長身の辻本、左隣には佐倉。別に昼休みまで部活の奴らと付き合わなくても大丈夫だと伝えたのだが、佐倉いわくバスケ部とつるんでいるほうが楽、だそうだ。
俺の昼飯はおにぎり一択だ。中身は梅。海苔は巻かずに塩味のみ。毎朝自分で握って、アルミホイルで包んで持ってくる。元々食が細いほうなのか、それだけでも全然事足りた。
「椎名、たこさんウィンナー一個あげる」
「え、いいの?」
「だって五個は多いもん。皆も一個ずつあげる、食べて」
「わ、赤いウインナーじゃん。ありがと奈子ちゃん」
「どういたしまして」
こうして佐倉がおかずを分けてくれることもあるけれど、何も返せないのが申し訳ない。だって、おにぎりしかない。
バスケ部だが、バスケの話はあまりしなかった。小テストの話や模試の結果についてだったり、何組の誰が可愛いか、なんて教室じゃなかなかできない話題も出てくる。俺の興味の外の話だから、いつも聞き専だ。
インターハイ予選を終え、季節は夏本番に突入した。途切れることのない蝉の声を聞きながら食べるおにぎりは、胸の辺りでとどまってなかなか上手く飲み込めない。
「……あちぃな」
「椎名、暑いの苦手?」
溜め息混じりのつぶやきに、佐倉が反応した。心配の色を丸っこい目に滲ませて顔を覗き込んでくる。一度部活中にへばって、気を揉ませてしまった前科持ちだ。素直に頷いた。
「好きではないけど、皆そうだろ」
「寒いよりはよくね?」
「俺は花粉症だから、杉のシーズンが地獄……」
「夏も冬も嫌いだ。一年中、一定の温度でいてほしい」
三人が一気に話し出したのでとても賑やかだったが、内容は大体理解した。人それぞれってことだ。
「もうすぐ一年生大会なんだから、ちゃんと食べて体力つけてよね」
「そうだぞ夏樹、お前がいないと終わってしまう」
「俺がいても、何人かは他から借りてくるようになるからしんどいけどな」
一年生は四人しかいない。俺以外に、辻本、長谷部、椿。バスケは最低でも五人必要だから、一人は確実に助っ人に入ってもらうようになる。上位常連の私立は人材が潤沢だろうから、さすがに勝つのは難しい。
「それでも俺らにとっては大切な試合なんだよ。夏樹はいいよな。強い中学出身だから勝ち組じゃん」
「いや、別に……」
「すぐレギュラーになったし。先輩からも信頼されてる。羨ましい」
長谷部のそれは本当に何気ないひと言だったが、俺の心をヤスリのようにざりざり削って傷をつけた。どう返答しても角が立つ気がして、おにぎりを頬張って誤魔化す。塩をつけすぎたのだろう。いつもより塩っぱい。
「それ、勝ち確っていうのは違くない?」
「……佐倉」
「椎名の中学校は強かったかもしれないけど、そこでたくさん練習したんでしょ?」
少し怒ったような、強い口調だった。俺ではなく佐倉が反応したことに、皆が驚いて目を丸くしている。ね、椎名? 話を振られて、全員の意識が俺に集まった。
「……まあ、練習はたくさんした」
バスケが好きだから、全然苦痛じゃなかったけれど。口の中の米を飲み込みながら首肯すれば、佐倉は満足そうに笑みを深めた。長谷部が慌てたように頭を下げる。
「ごめん、椎名。軽率だった」
「えっ、あ、全然気にしてない……いや、佐倉が言ってくれたことは嬉しいんだけどさ、ありがとな」
「わたしこそ、強く言ってごめん」
「ところで夏樹さぁ」
「ん?」
「ゲロ吐くほど練習したことあんの?」
「ある。中学ん頃はしょっちゅう」
「マジか、すげぇ!」
「ちょっと、食事中なんだけど!」
男共から向けられた謎の憧憬と、佐倉の嫌そうな視線が入り交じってくすぐったかった。ゲロを吐いたかどうかがステータスになるとか、なんだよそれ。おかしくて笑ってしまう。
「この後、ちょっとシュート練習してこようかな」
椿がいてもたってもいられないといった様子で立ち上がった。俺もやる、とおにぎりを包んでいたアルミホイルを手の中で丸めて小さくし、後で捨てようと制服のピスポケットに入れる。俺たちの熱に呼応するように辻本と長谷部、それから佐倉も立ち上がって、俺たちは五人で体育館への道を急いだ。どうやら今日は、賑やかな昼休みになりそうだ。
部活が終わって帰路についても、辺りはまだ薄明るかった。毎年のように最高記録を更新する気温は、太陽の姿が見えなくなっても余韻を残す。
まるでストーカーのようにまとわりついてくるじめじめした外気に、理不尽な怒りが湧いてきた。ちくしょう、暑いんだよ。叫んだところで、朝桐先輩とその辺を歩いている野良猫を驚かせるだけ。そこまでガキではないので、ぐっと堪えて足を動かす。
「夏樹、おーい、生きてっか?」
「死んでたら歩いてません」
「機嫌わるっ。なあ、コンビニで涼んでから帰らね?」
「俺、財布ん中空っぽですけど。多分、十円玉数枚しか入ってないっす」
「俺も百何十円しか入ってない」
「マジっすか」
「二人合わせれば、アイス一個くらいなら買えるだろ。アイス、食べたくね?」
「……食べたい」
意図せず子どもみたいな返答になってしまった。でも、誘惑には敵わない。朝桐先輩はニヤリと笑って、俺の腕を引いた。
「うわっ」
「よし、アイスデートだ」
「俺は先輩の恋人じゃないっすけど」
と憎まれ口を叩きつつ、されるがまま着いていく。
「つれねーなぁ。あ、そういや夏樹って、彼女いないの?」
自分で導いてしまった会話の方向に頭を抱えたくなった。腕を掴む手が熱い。振り払えないまま、いないですと答えた。
「へぇ、意外。カッコイイからいそうなのに」
「いや、いたことないです。バスケしたいし、恋人どうのこうのって、母親みたいになりたくない」
「そっか」
「そういう朝桐先輩はどうなんですか」
「いないよ。俺モテないし」
「嘘だ」
「嘘じゃないって」
「バスケやってる先輩、すげぇカッコイイのに」
「うわ、夏樹がデレた」
腕を掴んでいた手が離れて、自転車のハンドルに戻された。角を曲がると、場違いに明るいコンビニの明かりが見える。バスケ部のみんなで行った学校近くのとは違う系列の店舗だ。一秒でも早く冷房の効いたオアシスに行きたくて、ストライドが大きくなる。
「先輩、早く」
「ん」
「どうしたんですか?」
いつもは俺の目を見て話すのに、隣に並んだ朝桐先輩はそっぽを向いていた。コンビニの明かりで浮かび上がる耳の先が、じゅわっと赤い。
「俺、夏樹の貴重なデレを真正面から受け止めて、どういう顔していいか分かんない」
「照れてます?」
「おう」
俺は本当のことを言っただけなのに。
建物の横にある空きスペースに自転車をとめ、競うように入店した。先輩は顔を手でパタパタとあおぎながら、鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌さでアイスのショーケースを覗き込む。
「お互い、いくらあるか確認してからのほうがよくないっすか」
「たしかに」
涼しさにホッとしながら財布の中身を確認する。俺は三十円、朝桐先輩は百三十円。思ったより少なくて、顔を見合せて笑った。
ぷち、とアイスの容器を切り離す音が夏の夜に響いた。片方を受け取って、お礼を言う。結局俺は二十円しか渡していない。
「なんかすみません。また奢ってもらったのと変わんないっすね」
「いいよ、気にすんなって。大会頑張れアイスってことにしよう」
「こんなクソ暑い中、大会やろうと思った大人を恨みます。ほんとに」
来週の土日におこなわれる一年生大会を、俺よりも先輩たちのほうが楽しみにしていると思う。サッカー部から一人助っ人を頼まなければ出場すらできなかった状況だというのに、みんな呑気なものだ。
早くも手で押せるほど柔らかくなったアイスを咥えてジュッと吸った。蒸し暑い中で食べるそれは、以前食べたコロッケとメンチカツに負けないくらい美味しい。カラッカラに乾いた砂漠のど真ん中で飲んだ命の水のように、喉を冷たさが降りていく。身体の内側から冷やされて、あー、と変な声が出た。
「美味い?」
「めちゃくちゃ美味いっす」
「そりゃよかった」
「ほんと、暑いの苦手だよな。名前に夏ってついてるのに」
「俺、冬生まれなんで」
「あ、そうなの。いつ?」
「一月二十日です」
「冬真っ盛りだ」
「でも、夏樹です」
名前の由来は、聞いたことがなかった。どうせ特に意味もなく名付けたのだろうし、母親とそんな会話をするなんて労力の無駄だ。
「呼びやすくていいよ、夏樹って」
「まあ、皆に夏樹って名前で呼んでもらうのは好きなんで」
夏樹でも、なっちゃんでも。そこだけは、親に感謝している。
「よし、誕生日は一月二十日な。覚えた」
「え」
「誕プレ、楽しみにしてろよ」
アイスで冷えた指先が俺の肌に触れ、つつ、と頬をなぞった。カサついた指の腹とペンだこがこそばゆくて目を細める。
塞がりきらないピアスホールはあるし、髪は黒染めが抜けて微妙に茶色いし、初見ではチャラいヤンキーのような容姿をしているけれど。おおらかで、太陽みたいに眩しくて、高く自由に飛べる翼を持っている。そんな朝桐先輩がモテないだなんて、絶対に嘘だ。
「……先輩の嘘つき」
「えっ」
慌てたような声に重なったヒグラシの声が、いつまでも止まない。
一年生大会の準々決勝で対戦する相手は、大会で常に上位に名を連ねる強豪私立だった。一年生だけでも、ベンチ入りできない選手がいるほどの大所帯。二人の助っ人メンバーを借りて、それでも控えが一人にしかならない俺たち稲穂台高校とは、雲泥の差だった。
整列し、ホイッスルの合図で礼をする。前の試合よりも観客の数が増えたのか、拍手が大きく感じた。
マッチアップするのは相手のポイントガードだ。視線を向ければ、相手も俺を見てくる。
「よ、久しぶり」
「……ん」
「さすがは大浦中の正ポイントガード様。もうメインチームでもスタメン張ってるみたいじゃん」
「……まあ、どうも」
俺より少し高い位置にある顔が、嫌味っぽくゆがんだ。話しかけられている俺を不思議に思ったのか、長谷部が「知り合い?」とでも言いたげな顔でこちらを見てくる。知り合いもなにも、中学時代のチームメイトで、俺の控えだった選手だ。
仲は悪くなかったが、特段良くもなかった。嫌いだとか苦手だとか、ネガティブな感情が芽生えるほどの関わりがなかったとも言える。
「てっきり、夏樹も私立に行くもんだと思ってたんだけど。一年生、六人しかいないような所に行くなんてな」
正確には四人だけどな、とは言わなかった。辻本のジャンプボールに備え、ぐっと腰を落とす。
「見た感じ素人みたいなのもいるし。もったいないなぁ。お前、上手いのに」
「あのさ、もう始まるけど。集中したほうがいいんじゃね」
審判の手を離れたボールが、最高到達点から落ちてくる。辻本の長い指が触れたボールは、迷わずこちらへ向かってきた。キープして、間を置かずにゴールへ向けて走り出す。チームメイトのポジショニングは……誰かを待つより、自分で切り込んで行くのが早いか。まだまだ経験の浅い一年生だ。大雑把に詰め寄ってくる相手をかわしてレイアップシュートを決めると、応援席から一際大きな拍手が振ってきた。見上げた先の先輩たちが全力で手を振ってくるが、試合中なので軽い会釈だけで応える。
「いいぞ夏樹ぃ! もう一本!」
「なっちゃんカッコイイ~!」
声デカイな。特に二年生。照れるので、名前を叫ぶのはほどほどにしてほしいけれど。人数も戦力も私立には敵わないが、他のどのチームよりも背中を押してくれる声援が大きくて、心強かった。
なかなか落ち着かない呼吸を悟られたくなくて、チームメイトから少し離れた場所に座った。見下ろしたコートでは、準決勝の一試合目が行われている。皆の視線がそっちへ釘付けになっているのが救いだった。
善戦できたと思う。一方的な試合展開にはならなかったし、慣れないコートで走り回って疲れているであろう助っ人メンバーも、最後まで諦めずに頑張ってくれた。俺にもう少しパワーがあれば。スタミナがあれば。スリーポイントを、ミスせずに決められたとしたら――いや、それでもどうしようもなかったけれど、楽しかった。
もしも、さっきの試合で勝てたとして、もう一試合いけただろうか。一試合目と変わらないスピードで展開される準決勝を眺めながら考える。観戦席で繰り広げられている応援合戦も、準々決勝とは比べ物にならないくらいの盛り上がりで、俺の忙しない呼吸音をかき消してくれた。
「なーつき」
「……びっくりした」
酸素が上手く脳みそに届いていなかったのか、隣に座って声をかけられるまで、全然気がつかなかった。まあ、朝桐先輩は絶対にくると思っていたから、心の準備はできていたけれど。
「お疲れさま。ナイスゲームだったな」
「……まあ、負けは負けですけどね」
「でも、カッコよかったぜ?」
「あざす」
「応援きてた女の子たちも、あの十番の子かっこい~って言ってた」
「十番……ああ、俺か」
「そろそろ覚えような。ちなみに俺何番でしょうか!」
「七」
「正解!」
ふわりと風を感じた。さりげなくタオルで風を送ってくれていることに気がついて、気恥ずかしくなって目を伏せる。最初に覚えたのは、朝桐先輩の背番号でしたよ。とは、言わないでおこうと思う。
「応援してたら、俺もやりたくなっちゃったな」
コートを見つめる横顔は、汗ひとつかいちゃいない。当たり前だ。これは一年生大会で、朝桐先輩は二年生なのだから。
「今日はもう、付き合えないっす。多分、走ったら足つる」
「大丈夫か? 汗もひいてねぇし。しんどい?」
「いや、普通に体力不足というか……情けないっすね。明日から欠かさずロードワークしねぇと」
「でも、チームで一番走ってたからな。夏樹は頑張ったよ」
「ありがとう、ございます」
元チームメイトに何て言われようが、誰か一人でも認めてくれて、それが朝桐先輩で、それだけで十分だった。不甲斐なさと嬉しさが一緒くたになって、波のように心に押し寄せてくる。
「……同じ中学の奴らは、二試合目でも余裕で動けてますけどね」
俺が指さした先を、朝桐先輩の視線が追いかける。たった今、準決勝を戦っている選手たちの中にも、同じ中学出身の奴がいた。有利に試合を進めている。きっと決勝へ進出するのだろう。
「え、どの子?」
「緑ユニの、六番と七番」
「マジか。もしかして、インハイ予選も出てた?」
「出てましたね。準優勝、でしたっけ」
「やっぱそうだよな。へー、すげーなぁ」
「っすね。ちなみに、県外行ったのも一人いますよ」
「ほえー。お前、本当に強いチームにいたんだなぁ」
「ええ、まあ……さっき戦ったチームのポイントガードも、チームメイトでしたし」
「マジか、すげーな」
真夏の練習は思い出したくないほどキツかったが、バスケのことしか考えなくていい生活は楽しかった。引退後、強豪からきていた誘い全て断った直後、顧問の態度が急に素っ気なくなる前までの話だが。
足元のバッグへ手を伸ばし、朝作ってきたおにぎりを取り出した。勝敗は関係なく、動いた分だけ腹は減る。塩を多めにまぶしてきたそれは、疲れた身体にちょうどよかった。
もぐもぐと白米を咀嚼する俺の横っ面に、何か言いたげな視線がぶつかった。自信のなさそうな表情は、インターハイ予選で敗退した時の帰り道を思い出させる。
「ごめんな、頼りない先輩で」
「何言ってんすか。俺は、稲穂台にきてよかったと思ってますよ」
自分の意思で入学して、バスケ部に入ったんだ。何一つ後悔はしていない。
ちゃんと伝わってほしくて、朝桐先輩の目を見て言った。
二週間後の日曜日には、インターハイ予選が始まる。組み合わせはすでに決まっていて、最近の練習では勝ち上がっていく際に対戦するであろうチームの対策を考えたりもしていた。
俺は多分、高根沢先輩からポジションを奪ってしまった。初めてスタメンで出場した練習試合の後からずっと、吉成は俺をレギュラーチームのポイントガードに据えている。試合に出られるのは嬉しいし楽しい。でも、素直に喜ぶのは気が引けた。
俺にはできませんだなんて、そんな情けないことは言わない。いつか吉成に参りました、夏樹くんのおかげですって言わせてやりたい。頭の中で仮想吉成の謝罪シーンを妄想していると、視界の隅で影が動いた。
「ね、椎名、ちょっと」
前の席の女子が振り返り、俺の机をとんとんと叩いた。吉成がまだ教卓の所で話しているのに、なかなか度胸がある。
「なに?」
「あのさ、バスケ部って、マネージャーの募集とかしてる?」
肩にギリギリつかないくらいの黒髪が、吹き込んできた風になびいてサラサラと揺れる。なんて名前だっけ。たしか、佐倉。佐倉奈子さん。
「マネージャー……今はいないけど、いけんじゃね?」
「へー、ふぅん……」
「入りたいの?」
「うん。二年の梅原先輩ってバスケ部でしょ? カッコイイなって思って」
「下心丸出しかよ」
「きっかけなんて、人それぞれでしょ」
いたずらっぽく笑った佐倉さんは、えくぼが印象的だった。吉成の話はいつの間にか終わっていて、日直の起立の号令にしたがって立ち上がる。
「あー、えっと、佐倉さん」
「佐倉でいいよ。それか奈子で」
「じゃあ、佐倉。言っとくけど、顧問、吉成だぞ?」
形ばかりの会釈をする。日焼けで顔を真っ黒にした野球部の連中が猛ダッシュで教室を出ていくのを横目に見ながら、声をひそめた。佐倉は面白そうに目を細め、俺に倣ってボリュームを落とした声で言う。
「知ってる。でも背に腹はかえられぬ……」
「はは、何それおもしろい」
「おーいお前ら、ホームルームの時からおしゃべりしてるの、見えてたからな」
「ほら、これだぜ?」
「夏樹ぃ。先生の悪口言ってただろ」
のしのしと大きな歩幅で近寄ってきた吉成は、大きな手のひらで俺の頭を撫でてきた。圧が強い。雑。ハゲる。文句を言う俺に、佐倉が声をあげて笑った。
「ちげぇから。佐倉に、バスケ部のマネージャー募集してるか聞かれてただけ」
「そう。そしたら椎名が、顧問が吉成先生だからなぁって」
「ギリギリ悪口だな。覚えとけよ、夏樹ぃ」
「ほら、普通の先生はそんな脅しみたいな感じで言わないって!」
「佐倉、バスケ部はマネージャーも大歓迎だ。見学にきてもいいぞ」
「ほんとですか!」
二人して、俺の訴えは無視か。まあいいけれど。
吉成はこのあと職員会議があるらしく、荷物を抱えてそそくさと教室を出ていった。いつおいでとか、持ち物とか、何も言わずに。不親切だな、おい。
「もし今日くるなら、案内するけど」
「うん、お願いします」
「あ、親に連絡はした?」
「朝言っておいたから大丈夫だと思う。一応、ラインは送っておくけど。最後まで見学してくから、遅くなるって」
「帰り、結構暗い時間になるけど」
「うん、大丈夫。わたしが決めたことだから、きっと応援してくれる」
佐倉はトトト、と端末の画面を操作して、すぐに顔を上げた。荷物を肩にかけたのを確認して俺も歩き出す。先導しながら行く体育館までの道のりに、会話はなかった。
見学の際、お目当てである梅原先輩のやさしさを浴びた佐倉は、すぐにマネージャーとしての入部を決めた。
男十人と華のある一人。そして熱血で暑苦しい顧問。体育館は数日前から、随分と賑やかで活気にあふれている。
光が強ければ強いほど、影は濃くなる。帰り道、田んぼを会場として奏でられるカエルの大合唱を聞きながら進める足が、なんだか重い。喉まで出かけた溜め息は、朝桐先輩の隣だからと飲み込んだ。
「奈子ちゃん、いい子だな。一生懸命動いてくれる」
「そっすね」
最初は梅原先輩狙いという下心丸出しの動機だったくせに、佐倉はよく気が利いた。入部数日とは思えないほど、自分の仕事を探して動き回る。ああいう子は社会へ出ても重宝されるな、と吉成が感心したようにつぶやいたのを、俺だけが聞いていた。
「笑顔が可愛いしな」
「……あいつ、梅原先輩狙いっすよ」
「そうなの? はは、始まる前から終わってるわ。ま、俺には可愛い夏樹がいるからいいんだけどなぁ」
「俺を可愛いって言う変人、朝桐先輩だけですよ」
「この間、梅原も言ってたぞ。なっちゃん可愛いって」
「あー……たしかに言いそう」
少しくらい、先輩らしく威張ってくれてもいいのに。ある程度の上下関係は身につけてきたつもりだし、覚悟の上で入部した。それに、やさしくされたら縋ってしまいたくなる。だって、俺はあの母親の子どもだ。似てしまったのだ。容姿だけではない。どう足掻こうとも逆らえない、奥底の部分が。
「先輩たちが引退したらさ、俺ら二年だけじゃチーム作れないじゃん? 三人しかいないし」
「そうっすね」
「だから、一年生には感謝してるわけ。四人も入ってきてくれた」
その言葉は、俺の心に素直に染み込んだ。
「……俺らも、後輩ができたらそう思うのかな」
「思うよ。思えるように、キャプテンの代が今の二年のことを可愛がってくれたから」
「じゃあ、その上はそうじゃなかったんすか?」
「うん。めちゃくちゃ厳しいというか、ぶっちゃけ理不尽だった」
朝桐先輩は何気なく言ったけれど、見上げた横顔は曇って見えた。存在自体が、真夏の太陽みたいな人が、だ。
「よし、暗い話は終わり! 明るい話しよう」
「例えば?」
「うちのコトちゃんが可愛い話とか?」
「コトちゃん?」
「妹。琴美って言うんだ。まだ幼稚園生で、めちゃくちゃ可愛いの。お兄ちゃんおかえりーって毎日玄関でハグしてくれる」
妹のハグを思い出しているのだろう。顔がニヤけている。
「先輩、兄ちゃんだったんすね」
「おう、弟も二人いる。四人兄弟の長男だ」
カエルの合唱が一瞬だけ止み、青い風が吹き抜けた。
誰かが待っていてくれる家に、この人は帰るのか。朝桐先輩の朗らかな声が響く、明るいリビング。知らないのに、容易に想像できた。
羨ましくはなかった。ただ、この人にはそれがふさわしいと思った。あと、兄ちゃんっぽいなって、やけに納得している自分がいる。
「将来、コトちゃんが結婚するって話になったら、俺号泣する自信ある」
「さすがに気が早くないですか」
「そう? だってもう五歳だぞ? ついこの間生まれたばかりなのに」
「それは知らないっすけど」
部活のある日はいつも一緒に帰るのに、話す内容は尽きないらしい。寂しさを紛らわしてくれる朝桐先輩の明るさには、カエルが何匹集まっても勝てやしなかった。
三和土にある男の靴が変わった。つい一週間ほど前の話だ。よくもまあ、ころころと乗り換えられるものだと、自分の母親ながら呆れてしまう。
息をひそめながら廊下を歩くと、床板が軋んだ。薄い壁の所為で、情事に耽っていた男の耳まで届いてしまったのだろう。動きを止めたのが分かった。シーツが擦れる音の生々しさに、耳をふさいで喚き散らしたくなる。
「んっ、どうしたの……っ」
「音がしなかったか?」
「ああ、いいのよ。あれは気にしないわ。だから、ねぇ、はやく」
舌っ足らずに甘える声に吐き気がした。向こうに音が聞こえるってことは、こっちにも聞こえるってことを理解しているのだろうか。
実の息子を「あれ」呼ばわり。そこまで排除したいなら、なんで俺なんか産んだんだよ。
音が響くのもかまわずに、足早に自室へ向かった。肩にかけていたエナメルバッグを放り投げ、床に靴下を脱ぎ捨ててベッドへ倒れ込む。乾いた笑いが、口の端からこぼれ落ちた。
部活で散々走り回ったのに、空腹は感じなかった。動くのがつらい。泣いたら余計に惨めになるから、腹にギュッと力を込めて堪えた。ボールを持って外へ行く気にもなれなくて、外界から自分を切り離すように頭から毛布をかぶった。
どうして、俺ばかりこんな思いをしなくちゃいけないんだ。うちが「普通」から逸脱しているのは中学の頃から分かっていたのに、今さら目には見えない何かが、ゆっくりと俺の首を絞めようとする。苦しい。今までより、ずっと。いっそこのま消えてしまえれば、どれだけ楽だろうか。
俺には、朝桐先輩の家族みたいに帰りを待っていてくれる人も、佐倉の家族みたいに応援してくれる人もいない。どれだけ歩き続けても、真っ暗闇に光は見えない。
俺はいったい、何の為に生きてるのだろう。
初夏の日差しが、容赦なく網膜を灼こうとする。現代文の教科書を机から引っ張り出し、眩しさに目を細めた俺が机に突っ伏すよりも一瞬早く、佐倉が含み笑いを浮かべて振り返った。
「ね、椎名」
「……なに」
目を開けていられなくて、返事をしながら机に伏せた。前腕に目元を押し付ける。あまり眠れなかったからか、後頭部がずんと重たかった。
「椎名って、レギュラーだったんだね」
「まあ、そうらしいね」
吉成が決めたことだと、他人事のように答える。
「わたし、バスケは素人だからまだ分からないことだらけだけどさ。カッコイイね、あのパス。シュバッて」
最近は、オノマトペで表現するのが流行っているのか。
「朝桐先輩にも、同じようなこと言われた」
「マジ?」
「マジ。エースなのに呑気だよな」
「そういう所が人気なんじゃない? 溌剌としてるし。モテるよね、あの人」
「佐倉的にはどうなの」
「どうって?」
「朝桐先輩、カッコイイと思う?」
「思うけど、わたしは梅原先輩派だから」
そこは変わらないんだ、とホッとした。理由は自分でも分からなかった。でも、と佐倉は続ける。
「一人だけ浮いてるみたいに跳ぶのは本当にすごいと思う。羽根が生えてるみたい」
「ああ、分かる。ジャンプと言うより、フライのほうの飛ぶって感じ」
「そう、それだ!」
この感動を分かち合える人がいたのが嬉しくて、思わず顔を上げる。眩しさでクラクラした。
「……そういや、朝桐先輩が佐倉のこと褒めてたよ。一生懸命動いてくれて、いい子だって」
「えー、ほんと? 素人だから何もできてないよ?」
「そんなことない。仕事早いし、俺も助かってる」
「褒めても何も出ないけど」
「出さなくていいよ。あ、これは極秘情報だけど、吉成も褒めてた。あの人、俺のことは絶対褒めないのに」
俺が憎まれ口ばかり叩くのもあるだろうけど。と続けると、佐倉は不思議そうに首をかしげた。
「え、吉成先生、いつも椎名のこと褒めてるけど」
「は……?」
にわかには信じられず、間抜けな声が出た。
「視野が広いとか、パスの精度は地区で一番だとか、一年生なのにあの冷静なプレーはなかなかできないぞ、とか。試合形式の時、わたしの隣で自慢げに呟いてるけど」
「えー、聞いたことねぇ……」
「うそ、先生、本人に言ってなかったの?」
「ひとっ言も言われたことない」
頭を抱えて呻いた俺の声が、本鈴にかき消された。
現代文担当のヨボヨボおじいちゃん先生が入ってきて、よっこらせと教壇に上がる。膝裏で椅子を押して立ち上がる音が、頭の中でわんわん響いた。
練習着が背中に張り付いて気持ちが悪い。こめかみから頬に流れ落ちてきた汗を拭った腕すら濡れていて嫌になる。夏に片足を突っ込んでいるから汗だくなのか、いつもよりバテるのが早くて汗だくなのか、自分では分からなかった。
夏樹、と渡瀬先輩の檄が飛ぶ。俺が悪いのは分かっている。ツーメンの練習中だ。息が上がって、その分スピードに乗れなくて、先輩たちに迷惑をかけている。
遅れを取り戻そうと強めに弾いたボールは、予想より先で跳ねて転がった。誰の手にも収まることなく、コートの外へと転がっていく。気まずい空気がコートに満ちた。
「っ、すみません、ズレた」
「どうした。体調悪いか?」
「いえ、大丈夫っす」
陸にうちあげられた魚みたいに息を乱す俺に、俺の後に控えていた渡瀬先輩は眉を寄せた。寝不足くらいでこのザマだ。情けない。
立っているのが辛くて膝に手をついた俺の顔を、渡瀬先輩がしゃがんで覗き込んでくる。真面目さをそのまま反映したような眼差しが、俺をほんの少しだけ見上げた。
「顔色が良くないな」
「大丈夫っす。次は遅れないんで」
「少し休んでこい」
「でも」
「外の空気吸って息を整えろ。なんか溺れそうだぞ、お前」
なんか溺れそう。おそらく、渡瀬先輩の精一杯のジョークだったと思う。今の俺は冗談ではなく本気で陸地で溺れそうな気がして、上手く笑い飛ばせなかったけれど。
「え、夏樹どしたんすか」
近づいてくる足音に、自分が全体のプレーを止めてしまっていたことを思い出した。駆け寄ってきた朝桐先輩は、まだまだ涼しい顔をしている。渡瀬先輩だってそうだ。ツーメンでへばっていたら話にならない。悔しい。どうして俺だけ。下唇を噛み締めると、背中に大きな手が触れた。
「バテたっぽいな。涼介、外で一旦休ませてやってくれ」
「心配だから、しばらくついててやっていいですか?」
「ああ。佐倉、二人のドリンクとタオルを」
「はい!」
頭上で交わされる会話を、半分も理解できずに聞いていた。細かいことを考えるだけの酸素が足りず、背中を支えられて誘導されるがまま体育館の外へ出る。日陰に腰を下ろすと、コンクリートがひんやりと冷たくて心地よかった。
心配そうに眉を下げた朝桐先輩と佐倉にタオルでパタパタと風を送ってもらえば、ようやくまともな思考が戻ってくる。息を大きく吸って、吐く。指先がまだ、ピリピリと痺れていた。
「よし、落ち着いたな」
「……あの、マジで、すみませんでした」
「しゃーないよ。最近暑かったし」
「佐倉もごめん」
「ううん、気にしないで。ドリンクここ置いておくからね」
「ありがと、ごめん」
佐倉は踵を返して体育館の中へ戻って行った。足元のスクイズボトルへ手を伸ばし、水分補給をする。ぬるいスポーツドリンクの甘ったるさが、カラカラに乾いた身体の中心にじんわりと染み込んで美味しい。額に浮かんだ汗を、タオルでごしごしと雑に拭った。そしてようやく、空の青さに気がついた。ああ、余裕なかったんだな、俺。
「キャプテンから許可もらったし、しばらく休憩しようぜ」
「いや、大丈夫なんで、俺」
「過呼吸ギリギリだった奴の大丈夫は、信用なりません。俺も疲れたし、少し休も。な?」
ぽん、と大きな手のひらが後頭部に触れた。俺の頭は撫でやすいのだろうか。最近、みんなによくこうされる気がする。嫌ではないからいいのだが。
「大会前なのに、いいんすか」
俺はできるかぎり深刻そうな声で言った。インターハイ予選はもう目の前だ。
「大会前だからこそ、だろ。本番で夏樹に潰れられたら困る。本当に困るから」
俺が潰れたら困るのか。必要とされているのかもしれない。ぼんやりとした頭は都合よく変換してしまう。
しゃがんでいて足が疲れたのだろう。朝桐先輩も、俺の隣に座った。体育座りをやめて足を伸ばせば、先輩も真似をする。目が合うとにかっと笑って、再び頭を撫でてきた。
「あ、俺のほうが足長いな」
「身長が違うんだから、当たり前でしょう」
「まあ、そだな」
まだ少しだけ弾む呼吸をタオルで押さえつけながら、自分の隣に並んだ足を眺めた。高く自由に飛ぶ為の筋肉をまとった、すらりと長い足。例えるならば、末端で堂々と輝く真っ赤なシューズが、翼だろうか。
「夏樹、足のサイズ何センチ?」
「二十七……シューズによってはもうひとつ上です」
「おお、俺もだ。夏樹の足、でっかいな」
「いや、先輩が小さめなんじゃないですか」
「足は俺のほうが長いのにな」
「もう少し伸びる予定なんで。待っててください」
ずっと頭にのせられていた手のひらが離れていく。蒸し暑くなってきた今の時期にはなるべく触れたくないような温かい手をしているのに、今は恋しくて仕方ない。無意識に視線で追いかけると、朝桐先輩は目尻の下がった双眸をきゅうっと細めた。
「俺を追い越さない程度でよろしく」
「どうしてですか。追いつけ追い越せ、です」
「撫でられなくなるじゃん」
「それは、俺のほうがデカくなってもできるでしょう」
そう言い切ってすぐに、頬がぶわっと熱くなった。こんなの、撫でてもいいと認めているようなものじゃないか。先輩はにやにやと肉厚な唇の端を持ち上げるばかりで、何も言わない。悔しいので、どす、と肩に頭突きを食らわせる。先輩に対して失礼な行為かもしれないが、この人なら大丈夫だという確信があった。
「夏樹の頭は丸っこくて撫でやすいんだよ」
「じゃあ、好きなだけ撫でてください」
一度口に出した言葉はキャンセルできない。半ばヤケクソで言い放つ。朝桐先輩は嬉しそうに、俺の頭に手をのせた。ゆったりとしたテンポで滑る手のひらは、やっぱり温かい。
母親はもちろん、父さんにすら撫でられた記憶はないけれど、俺は多分、こうされるのが好きだ。温かな海に浮かんで行くあてもなく漂っているような深い安心感が俺を包み込む。部活中だというのに、くぁ、と、小さなあくびが零れた。
「寝不足?」
「……おそらく」
「寝ちゃえば?」
「それは、さすがに……少しだけ休んだら、先輩たちとバスケしたいんで」
「可愛いこと言ってくれるじゃん」
朝桐先輩の声は穏やかだ。知らぬ間にガチガチに強張っていた肩の力がふっと抜けて、いらないことまで話してしまう。
「先輩たちはやさしいし、部活は楽しいから、家帰ると寂しくなる」
「ご家族は?」
「母親だけっす。でも、もうしばらく話してない。話したくないんで」
家に知らない男を連れ込むような人なんだ。そう言いかけて、思いとどまる。自分も同類だと思われるのが怖かったし、こんなドラマの世界みたいな薄暗い話をしても困らせてしまうに違いない。俺はそれ以上何も言わずに、スポーツドリンクでもう一度口をうるおして、ゆっくりと膝を立てた。そして朝桐先輩の足の先へ目を向ける。赤い翼のようなバッシュは、日陰でも輝いて見えた。
「俺、ずっと思ってたんですけど……その赤いバッシュ、カッコイイっすよね」
「そうか? やる?」
「いや、いいっす。臭そうだし」
「おまっ、それは可愛くねぇなー」
「っはは、いてて、先輩痛いっす」
大して力のこもっていないヘッドロックに、俺は声をあげて笑った。
稲穂台高校バスケットボール部のインターハイ予選は、準決勝で幕を閉じた。今までの最高成績は県大会八強だったそうなので、今回四強に入れたのは創部以来の快挙だ。
電車に揺られながら、俺はこんなものかと納得していた。試合終了のホイッスルが鳴り、自分たちの負けが決まった瞬間は、悔しくて喉を掻き毟りたい衝動に駆られたけれど。閉会式で優勝チームの背中を眺めながら、これが今の自分たちの実力なんだと受け入れられた。
乗客の少ない電車内で、俺たちの周囲だけが葬式みたいに沈んだ空気に包まれていた。ケロッとしているのはたった一人、俺だけかもしれない。
三年生だけではない。いつだってマイペースを崩さない梅原先輩はもちろん、底抜けに明るい朝桐先輩さえ、目を赤くして足元を見ていた。
勝利は目の前だった。手も足も出ないわけではなかった。だから余計に悔しいのだろう。でも、あと二点の差が、どうしようもなく遠かった。
悔しさや悲しさを共有できない俺が、ここにいていいのだろうか。一瞬頭をよぎった考えは、すぐに振り払った。大丈夫。悔しさはちゃんと、自分の中にある。もっと上手くなりたいって気持ちは、みんなと同じだ。
学校へ戻っても、チーム全体の暗い雰囲気は払拭されなかった。でも、吉成は初の準決勝進出を喜んでくれたし、佐倉は感動してみんなとは別の理由で泣いていた。何より、三年生はウインターカップまで残ってくれるらしい。予選の十一月まで……否、予選を勝ち抜けば年末まで、一緒にバスケができる。そんな吉報にも、朝桐先輩の肩は限界まで落とされたままだった。
明日からのスケジュールを確認して、解散する。今日は一試合しかできなかったから、空はまだ明るかった。
予想はしていたが、学校からの帰り道は息をするのも躊躇うような重苦しい空気で満たされていた。きぃこ、きぃこと悲鳴をあげる自転車のチェーンまで悲しそうに見えてくる。青々と生い茂るあぜ道の雑草とは大違いだ。
「先輩」
「……なに」
「四強っすよ」
俺の言葉に、朝桐先輩が足を止めた。俺も立ち止まり、足元の小石を蹴飛ばす。
「……俺があのシュートを外さなければ、優勝か準優勝だった」
「あのワンプレーだけの所為じゃない」
「でもっ」
「その前に、誰かが一本決めていれば済んだ話です」
これは朝桐先輩を励ます為に選んだ言葉じゃない。紛れもない事実だ。
残り十秒で、二点差まで追い上げた。決めれば逆転という局面でエースが放ったスリーポイントシュートは、リングに嫌われた。それがどうした。バスケは団体競技だろう。例えば俺が抜かれた一本。松尾先輩が取り損ねたリバウンド。渡瀬先輩が決め損ねたレイアップシュート。梅原先輩がかわしきれなかった相手のスクリーン。積み重なった上での、チームの敗戦なのに。
最後の場面で、エースへのパスを選択したのは俺だ。マークが厚くなるのは分かった上で、強行突破したのだ。俺にだって、あのプレーへの責任はある。
「……なあ、夏樹」
「はい」
「俺、小学生でバスケ始めてから今までで、最高の成績だったんだ。でも、どうしてだろうな……今までで一番、悔しい」
「……」
「夏樹は、最高でどこまでいけた?」
何も言えずにいた俺に、朝桐先輩が問う。
「俺は、まあ……県準優勝が最高です」
「そっか、やっぱすげーなぁ……俺の小中学校は弱くてさ。県大会で一回でも勝てればいいほうだった」
言葉尻が震えている。おそるおそる横顔を見上げると、さっきまで引っ込んでいたはずの涙が、朝桐先輩の長いまつ毛を濡らしていた。光を集めて、キラキラと輝いて、綺麗だ。俺の知らない、先輩の話だった。
「弱っちかった頃は……負けても、ほとんどダメージなかったんだよなぁ」
「……初めて知りました」
「強豪出身のお前に知られるの、なんか恥ずかしくてさ」
「別に、何とも思わないっすけど」
「変なプライドだよ。俺の」
朝桐先輩はそう言って、少しだけ照れくさそうに頬をかいた。
強くてやさしい朝桐先輩の、弱くて、柔らかくて、脆い場所。目の前にあるのに、手を伸ばして触れる勇気が出ない。でも、先輩を一人ぼっちにはしたくなかった。
「……先輩、知ってますか」
「え?」
「どれだけ悔しかったり、惨めな思いをしても、空って綺麗なんすよ」
例えば、生きてる意味が分からなくて、この世界から消えたくなっても。例えば、自分のミスが原因で、試合に負けても。ほら、と上を指させば、どこまでも広がっている高く青い空。朝桐先輩は、ホントだ、と言って鼻をすすった。
「俺、前に母親としばらく話してないって言ったじゃないですか」
「うん。言ってたな」
「俺が小四の時に父さんが死んで、あの人は家に男を連れ込むようになったんです。毎月のように男は変わるし、母親は俺のこと「あれ」呼ばわりで……なんで俺のこと産んだんだって思いますよね。できるだけ家にいたくなくて、ずっと近くの公園でバスケしてました。だから俺、ボールコントロールは良いほうだって自負があります。母親のおかげなんて思いたくないですけどね」
口の端に自嘲の笑みが浮かんだ。
「……それ、俺が聞いてよかったんか」
「ええ、まあ。気分のいい話じゃないでしょうけど、先輩の秘密を教えてもらったんで……で、何が言いたいかっていうと、どれだけ凹んでも、世界は通常運転、というか」
上手くまとめられなくて、ガシガシと頭をかいた。柄にもないことをするんじゃなかったと後悔しても後の祭り。一度発した言葉は、キャンセルがきかないと分かっている。
「……なぐさめてくれてんの?」
「っす。まあ、先輩がいつまでも泣いてるなら、俺は一人で練習しますけど」
どれだけ悔いても結果は変わらない。
願っても、俺があの母親の子どもであるのと同じように。
「なぐさめんの、下手だなぁ」
「自分でも下手くそさにびっくりしてます。でも、初めてなんで。大目に見てください」
「……やっぱりカッコイイな、夏樹は」
「先輩たちに似たんですよ、きっと」
一日でも長く、このチームでプレーしたい。だから俺は、もっともっと上手くならなくちゃいけない。そんな理想の後輩みたいな、健気で可愛い気持ちが芽生えた事実が、自分でも意外だった。まだ入部して日が浅いひよっこだけど、先輩たちを信頼しているのだと思う。初めて抱いた感情に、まだ少し、戸惑っている。
いつもの交差点で足を止めた。先輩は自転車に跨らず、袖でぐいっと涙を拭って勢いよく顔を上げ、悲しみを吹き飛ばした。空の青や田んぼの新緑がよく似合っていて、目を奪われる。
「あの、朝桐先輩」
「ん?」
「一緒に、練習しませんか」
「夏樹ん家の近くの公園で?」
「っす。悔しさを忘れないうちに。体育館ほどいい環境じゃないですし、ボールもボロボロですけど」
「する! よし、もうクヨクヨすんのは終わりだ! この借りは絶対、ウインターカップで返そうな」
「はい。目指せ優勝っすね」
いつだって薄情なくらい通常運転の世界の中で、挫折しても、しんどくても、俺たちは一歩踏み出さなくちゃいけない。立ち止まっている暇なんて、ないのだ。
差し出されたこぶしに右手をコツンと重ね、俺たちは走り出した。
高校生活は、思ったよりも忙しい。別に嫌ではない。予定がたくさんあったほうが、無駄なことを考えなくて済むからだ。例えば、母親のこととか。
インターハイ予選が終わったら、期末考査がすぐそこまで迫っていた。試験日一週間前から部活は停止。稲穂台高校は巷では進学校と呼ばれているらしいので、仕方のないことではある。
自習室や近くの図書館へ行って勉強をするか、家に帰って勉強をするか。バスケという選択肢を取り上げられると、余計に恋しくなるのが人間の性だ。
ホームルームの直後、俺は担任を呼び止めた。
「吉成、せんせ」
「あ?」
教師としてはマイナス五百点の返答は、クラスメイトの帰り支度にかき消された。椅子を引く音。どこで勉強をするかを話し合ったり、自信がないと憂う声。みんなが自分の希望する進路へ向けて努力している中、俺はシューズを入れてきたエナメルバッグを肩にかけて、教卓の前へ立つ。
「ちょっとだけ、体育館で練習してっていいすか」
「テスト期間だぞ」
「分かってる。でも、鈍るのが怖い」
指先に染み付いたボールの感覚は、数日ボールに触れなかっただけで薄れてしまう。公園で自主練習するのもいいが、できることならコートを使いたい。
バカを言うなと一蹴されるだろうか。学生の本分は勉強だと、鼻で笑われるかもしれない。そんな不安から、我ながらお願いしている立場だとは思えない目つきをしている自覚はあった。だって、吉成の顔はいかついから、負けないように力を込めていたのだ。
吉成は唐突に、目の前にピースサインを突き出してきた。驚いて目を丸くする俺に、ぶっきらぼうな声が続く。
「二時間だ。二時間以上は締め出す」
「え、いいんすか」
「この間の中間で、一つも赤点取らなかったからな。特別に許す」
「やった。あざっす」
言ってみるものだ。部活の時でさえほとんどしないきっちりとした礼をして、教室を飛び出す。ダメ元だった分、驚きと喜びが倍増して胸を躍らせた。
一人ぼっちの体育館は、慣れているはずなのに知らない場所のように思えた。入念にストレッチをして、ボールをカゴから一個取り出す。まずは軽くシュート練習から始めるか。
静かで張り詰めた空気が、スパッとリングを通った音やボールの弾む音をどこまでも響かせた。深呼吸をする。心が落ち着く。もちろん、いつもの喧騒だって嫌いではないけれど。バスケが好きだと、再確認しながら、黙々とシュートを放つ。
思考を研ぎ澄ませ、脳裏に描いた試合映像。インターハイ予選の、準決勝。エースがゴール下で囲まれてどうしようもなくなったら、俺が突破口を切り開いてやる。中に切り込むと見せかけて、スリーポイントラインの外側で急ブレーキをかけてフェイダウェイシュート。指先を離れたボールはリングよりずっと手前で、力を失って落ちた。
「それは、夏樹の筋力じゃあ無理だろ」
突然背後から投げかけられた声に驚いて、俺は思い切り肩を跳ねさせて振り返った。吉成が、入り口のところで腕を組んで渋面を作っている。強面だから、迫力があった。
「……なんすか」
怒られるのかと思った。許可を出したのはそっちだろうと視線を返せば、どすどすと遠慮ない足取りでコートの中へ入ってくる。気圧されて一歩下がると、吉成はゴール下で寂しく転がるボールを拾って、こちらへ投げてきた。
「スリーを打つなら、力を後ろに逃がすな。その技術を使うなら、もっと切り込んでからだ」
「っす」
「ほら、相手がいたほうがイメージしやすいだろう。相手役をしてやるから、切り込んでこい」
ぐっと腰を落とした吉成の目は真剣そのものだった。相手をしてくれるらしい。そういやこの人監督だもんな、なんて、とんでもなく失礼なことを考える。
「……いつもベンチで見てるだけだから、あんたがバスケできるの忘れてた」
「失礼な奴だな。こう見えても、現役の時はすごかったんだぞ?」
「自分で言う?」
「言う。夏樹よりすごかった」
ボールをついた途端に踏み込まれ、伸びてきた左手をギリギリのところでかわす。フェイントを一つ入れ、逆側へ切り込み、シュート。今度はしっかりとゴールまで届いたボールが、リングに当たってガガガッと音を立てながら吸い込まれた。
「なあ、先生」
「なんだ」
「すげー失礼なこと、言っていいすか?」
「ああ」
「おっそい……ははっ、壁かよ」
「今な、自分でもびっくりくるくらい動けなかった。ダメだな、もう」
「でも、いないよりは練習になるから、立っててほしい」
「はいよ」
「でも、いいのかよ」
どむ、どむ、とボールをつきながら、たったのワンプレーで鼻の頭や額に汗を浮かべる吉成の顔を見上げた。
「何がだ」
「俺の練習相手なんかしてる場合じゃないだろ。勉強しろとか、普通言うんじゃねーの」
「言われたいか?」
「いや、ムカつくから言われたくはない」
吉成はバスケ部の監督である以前に教師だ。試験前の大切な休み期間に、将来の役に立たないであろうバスケをする問題児の相手なんか、何の得にもならないだろうに。汗だくになってまで、俺の前に立っている。
「好きなものに向き合う姿勢で、お前がどういう人間か分かるからな」
「は?」
「バスケがしたいから、勉強もそれなりに頑張れるだろう? きっと夏樹なら、今ここで練習していても酷い成績は取らないだろうからな」
「……あんたは、俺のなんなの」
「担任で、監督だが」
「はー……うぜぇ」
心がくすぐったいのが、余計に。
「なっ、先生に向かってうぜぇはないだろ、うぜぇは」
「いいからもう一本お願いします! アキレス腱、切るなよ!」
「善処する」
吉成は、俺が体育館で二時間限りの自主練をするたびに様子を見に来た。手伝ってくれたり、筋肉痛を理由に手伝ってくれなかったり。それでも、見てくれる人がいるといないじゃ大違いだ。
ちなみに、一週間後におこなわれた期末考査では、きっちり平均点以上をもぎ取ってやった。前回の赤点ギリギリよりも伸びたと褒められたけれど、照れくさいので聞こえない振りをした。
俺の所為で、吉成が他の先生から嫌味を言われないように。そんならしくない本音は、心の奥底にぶち込んで厳重に鍵をかけた。
アブラゼミが、七日の命を憂いてじぃじぃと鳴いている。教室は多少クーラーが効いていて涼しいが、外の景色を眺めているだけでも暑い。
四時限目が終わるチャイムが鳴ると、教室がにわかに騒がしくなった。購買部へダッシュを決めるサッカー部。ガタガタと机を動かして向かい合う女子たち。片手でふせんをびっしり貼り付けた参考書を開きながら、もう片方の手で器用に弁当の包みを解くガリ勉。そのどれにも属さずに、俺は佐倉を連れて教室を出る。向かう先は部室棟だ。
昼食はバスケ部の一年で集まって食べることが多い。二年生や三年生が同級生で集まっているという話を聞いて、俺たちも追従する形になった。
部室の中は暑いので、ドアの外側の日陰になっているポーチの部分にレジャーシートを敷いて、仲良く並んで座る。並び順は何となく決まっていて、俺の右隣には一年最長身の辻本、左隣には佐倉。別に昼休みまで部活の奴らと付き合わなくても大丈夫だと伝えたのだが、佐倉いわくバスケ部とつるんでいるほうが楽、だそうだ。
俺の昼飯はおにぎり一択だ。中身は梅。海苔は巻かずに塩味のみ。毎朝自分で握って、アルミホイルで包んで持ってくる。元々食が細いほうなのか、それだけでも全然事足りた。
「椎名、たこさんウィンナー一個あげる」
「え、いいの?」
「だって五個は多いもん。皆も一個ずつあげる、食べて」
「わ、赤いウインナーじゃん。ありがと奈子ちゃん」
「どういたしまして」
こうして佐倉がおかずを分けてくれることもあるけれど、何も返せないのが申し訳ない。だって、おにぎりしかない。
バスケ部だが、バスケの話はあまりしなかった。小テストの話や模試の結果についてだったり、何組の誰が可愛いか、なんて教室じゃなかなかできない話題も出てくる。俺の興味の外の話だから、いつも聞き専だ。
インターハイ予選を終え、季節は夏本番に突入した。途切れることのない蝉の声を聞きながら食べるおにぎりは、胸の辺りでとどまってなかなか上手く飲み込めない。
「……あちぃな」
「椎名、暑いの苦手?」
溜め息混じりのつぶやきに、佐倉が反応した。心配の色を丸っこい目に滲ませて顔を覗き込んでくる。一度部活中にへばって、気を揉ませてしまった前科持ちだ。素直に頷いた。
「好きではないけど、皆そうだろ」
「寒いよりはよくね?」
「俺は花粉症だから、杉のシーズンが地獄……」
「夏も冬も嫌いだ。一年中、一定の温度でいてほしい」
三人が一気に話し出したのでとても賑やかだったが、内容は大体理解した。人それぞれってことだ。
「もうすぐ一年生大会なんだから、ちゃんと食べて体力つけてよね」
「そうだぞ夏樹、お前がいないと終わってしまう」
「俺がいても、何人かは他から借りてくるようになるからしんどいけどな」
一年生は四人しかいない。俺以外に、辻本、長谷部、椿。バスケは最低でも五人必要だから、一人は確実に助っ人に入ってもらうようになる。上位常連の私立は人材が潤沢だろうから、さすがに勝つのは難しい。
「それでも俺らにとっては大切な試合なんだよ。夏樹はいいよな。強い中学出身だから勝ち組じゃん」
「いや、別に……」
「すぐレギュラーになったし。先輩からも信頼されてる。羨ましい」
長谷部のそれは本当に何気ないひと言だったが、俺の心をヤスリのようにざりざり削って傷をつけた。どう返答しても角が立つ気がして、おにぎりを頬張って誤魔化す。塩をつけすぎたのだろう。いつもより塩っぱい。
「それ、勝ち確っていうのは違くない?」
「……佐倉」
「椎名の中学校は強かったかもしれないけど、そこでたくさん練習したんでしょ?」
少し怒ったような、強い口調だった。俺ではなく佐倉が反応したことに、皆が驚いて目を丸くしている。ね、椎名? 話を振られて、全員の意識が俺に集まった。
「……まあ、練習はたくさんした」
バスケが好きだから、全然苦痛じゃなかったけれど。口の中の米を飲み込みながら首肯すれば、佐倉は満足そうに笑みを深めた。長谷部が慌てたように頭を下げる。
「ごめん、椎名。軽率だった」
「えっ、あ、全然気にしてない……いや、佐倉が言ってくれたことは嬉しいんだけどさ、ありがとな」
「わたしこそ、強く言ってごめん」
「ところで夏樹さぁ」
「ん?」
「ゲロ吐くほど練習したことあんの?」
「ある。中学ん頃はしょっちゅう」
「マジか、すげぇ!」
「ちょっと、食事中なんだけど!」
男共から向けられた謎の憧憬と、佐倉の嫌そうな視線が入り交じってくすぐったかった。ゲロを吐いたかどうかがステータスになるとか、なんだよそれ。おかしくて笑ってしまう。
「この後、ちょっとシュート練習してこようかな」
椿がいてもたってもいられないといった様子で立ち上がった。俺もやる、とおにぎりを包んでいたアルミホイルを手の中で丸めて小さくし、後で捨てようと制服のピスポケットに入れる。俺たちの熱に呼応するように辻本と長谷部、それから佐倉も立ち上がって、俺たちは五人で体育館への道を急いだ。どうやら今日は、賑やかな昼休みになりそうだ。
部活が終わって帰路についても、辺りはまだ薄明るかった。毎年のように最高記録を更新する気温は、太陽の姿が見えなくなっても余韻を残す。
まるでストーカーのようにまとわりついてくるじめじめした外気に、理不尽な怒りが湧いてきた。ちくしょう、暑いんだよ。叫んだところで、朝桐先輩とその辺を歩いている野良猫を驚かせるだけ。そこまでガキではないので、ぐっと堪えて足を動かす。
「夏樹、おーい、生きてっか?」
「死んでたら歩いてません」
「機嫌わるっ。なあ、コンビニで涼んでから帰らね?」
「俺、財布ん中空っぽですけど。多分、十円玉数枚しか入ってないっす」
「俺も百何十円しか入ってない」
「マジっすか」
「二人合わせれば、アイス一個くらいなら買えるだろ。アイス、食べたくね?」
「……食べたい」
意図せず子どもみたいな返答になってしまった。でも、誘惑には敵わない。朝桐先輩はニヤリと笑って、俺の腕を引いた。
「うわっ」
「よし、アイスデートだ」
「俺は先輩の恋人じゃないっすけど」
と憎まれ口を叩きつつ、されるがまま着いていく。
「つれねーなぁ。あ、そういや夏樹って、彼女いないの?」
自分で導いてしまった会話の方向に頭を抱えたくなった。腕を掴む手が熱い。振り払えないまま、いないですと答えた。
「へぇ、意外。カッコイイからいそうなのに」
「いや、いたことないです。バスケしたいし、恋人どうのこうのって、母親みたいになりたくない」
「そっか」
「そういう朝桐先輩はどうなんですか」
「いないよ。俺モテないし」
「嘘だ」
「嘘じゃないって」
「バスケやってる先輩、すげぇカッコイイのに」
「うわ、夏樹がデレた」
腕を掴んでいた手が離れて、自転車のハンドルに戻された。角を曲がると、場違いに明るいコンビニの明かりが見える。バスケ部のみんなで行った学校近くのとは違う系列の店舗だ。一秒でも早く冷房の効いたオアシスに行きたくて、ストライドが大きくなる。
「先輩、早く」
「ん」
「どうしたんですか?」
いつもは俺の目を見て話すのに、隣に並んだ朝桐先輩はそっぽを向いていた。コンビニの明かりで浮かび上がる耳の先が、じゅわっと赤い。
「俺、夏樹の貴重なデレを真正面から受け止めて、どういう顔していいか分かんない」
「照れてます?」
「おう」
俺は本当のことを言っただけなのに。
建物の横にある空きスペースに自転車をとめ、競うように入店した。先輩は顔を手でパタパタとあおぎながら、鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌さでアイスのショーケースを覗き込む。
「お互い、いくらあるか確認してからのほうがよくないっすか」
「たしかに」
涼しさにホッとしながら財布の中身を確認する。俺は三十円、朝桐先輩は百三十円。思ったより少なくて、顔を見合せて笑った。
ぷち、とアイスの容器を切り離す音が夏の夜に響いた。片方を受け取って、お礼を言う。結局俺は二十円しか渡していない。
「なんかすみません。また奢ってもらったのと変わんないっすね」
「いいよ、気にすんなって。大会頑張れアイスってことにしよう」
「こんなクソ暑い中、大会やろうと思った大人を恨みます。ほんとに」
来週の土日におこなわれる一年生大会を、俺よりも先輩たちのほうが楽しみにしていると思う。サッカー部から一人助っ人を頼まなければ出場すらできなかった状況だというのに、みんな呑気なものだ。
早くも手で押せるほど柔らかくなったアイスを咥えてジュッと吸った。蒸し暑い中で食べるそれは、以前食べたコロッケとメンチカツに負けないくらい美味しい。カラッカラに乾いた砂漠のど真ん中で飲んだ命の水のように、喉を冷たさが降りていく。身体の内側から冷やされて、あー、と変な声が出た。
「美味い?」
「めちゃくちゃ美味いっす」
「そりゃよかった」
「ほんと、暑いの苦手だよな。名前に夏ってついてるのに」
「俺、冬生まれなんで」
「あ、そうなの。いつ?」
「一月二十日です」
「冬真っ盛りだ」
「でも、夏樹です」
名前の由来は、聞いたことがなかった。どうせ特に意味もなく名付けたのだろうし、母親とそんな会話をするなんて労力の無駄だ。
「呼びやすくていいよ、夏樹って」
「まあ、皆に夏樹って名前で呼んでもらうのは好きなんで」
夏樹でも、なっちゃんでも。そこだけは、親に感謝している。
「よし、誕生日は一月二十日な。覚えた」
「え」
「誕プレ、楽しみにしてろよ」
アイスで冷えた指先が俺の肌に触れ、つつ、と頬をなぞった。カサついた指の腹とペンだこがこそばゆくて目を細める。
塞がりきらないピアスホールはあるし、髪は黒染めが抜けて微妙に茶色いし、初見ではチャラいヤンキーのような容姿をしているけれど。おおらかで、太陽みたいに眩しくて、高く自由に飛べる翼を持っている。そんな朝桐先輩がモテないだなんて、絶対に嘘だ。
「……先輩の嘘つき」
「えっ」
慌てたような声に重なったヒグラシの声が、いつまでも止まない。
一年生大会の準々決勝で対戦する相手は、大会で常に上位に名を連ねる強豪私立だった。一年生だけでも、ベンチ入りできない選手がいるほどの大所帯。二人の助っ人メンバーを借りて、それでも控えが一人にしかならない俺たち稲穂台高校とは、雲泥の差だった。
整列し、ホイッスルの合図で礼をする。前の試合よりも観客の数が増えたのか、拍手が大きく感じた。
マッチアップするのは相手のポイントガードだ。視線を向ければ、相手も俺を見てくる。
「よ、久しぶり」
「……ん」
「さすがは大浦中の正ポイントガード様。もうメインチームでもスタメン張ってるみたいじゃん」
「……まあ、どうも」
俺より少し高い位置にある顔が、嫌味っぽくゆがんだ。話しかけられている俺を不思議に思ったのか、長谷部が「知り合い?」とでも言いたげな顔でこちらを見てくる。知り合いもなにも、中学時代のチームメイトで、俺の控えだった選手だ。
仲は悪くなかったが、特段良くもなかった。嫌いだとか苦手だとか、ネガティブな感情が芽生えるほどの関わりがなかったとも言える。
「てっきり、夏樹も私立に行くもんだと思ってたんだけど。一年生、六人しかいないような所に行くなんてな」
正確には四人だけどな、とは言わなかった。辻本のジャンプボールに備え、ぐっと腰を落とす。
「見た感じ素人みたいなのもいるし。もったいないなぁ。お前、上手いのに」
「あのさ、もう始まるけど。集中したほうがいいんじゃね」
審判の手を離れたボールが、最高到達点から落ちてくる。辻本の長い指が触れたボールは、迷わずこちらへ向かってきた。キープして、間を置かずにゴールへ向けて走り出す。チームメイトのポジショニングは……誰かを待つより、自分で切り込んで行くのが早いか。まだまだ経験の浅い一年生だ。大雑把に詰め寄ってくる相手をかわしてレイアップシュートを決めると、応援席から一際大きな拍手が振ってきた。見上げた先の先輩たちが全力で手を振ってくるが、試合中なので軽い会釈だけで応える。
「いいぞ夏樹ぃ! もう一本!」
「なっちゃんカッコイイ~!」
声デカイな。特に二年生。照れるので、名前を叫ぶのはほどほどにしてほしいけれど。人数も戦力も私立には敵わないが、他のどのチームよりも背中を押してくれる声援が大きくて、心強かった。
なかなか落ち着かない呼吸を悟られたくなくて、チームメイトから少し離れた場所に座った。見下ろしたコートでは、準決勝の一試合目が行われている。皆の視線がそっちへ釘付けになっているのが救いだった。
善戦できたと思う。一方的な試合展開にはならなかったし、慣れないコートで走り回って疲れているであろう助っ人メンバーも、最後まで諦めずに頑張ってくれた。俺にもう少しパワーがあれば。スタミナがあれば。スリーポイントを、ミスせずに決められたとしたら――いや、それでもどうしようもなかったけれど、楽しかった。
もしも、さっきの試合で勝てたとして、もう一試合いけただろうか。一試合目と変わらないスピードで展開される準決勝を眺めながら考える。観戦席で繰り広げられている応援合戦も、準々決勝とは比べ物にならないくらいの盛り上がりで、俺の忙しない呼吸音をかき消してくれた。
「なーつき」
「……びっくりした」
酸素が上手く脳みそに届いていなかったのか、隣に座って声をかけられるまで、全然気がつかなかった。まあ、朝桐先輩は絶対にくると思っていたから、心の準備はできていたけれど。
「お疲れさま。ナイスゲームだったな」
「……まあ、負けは負けですけどね」
「でも、カッコよかったぜ?」
「あざす」
「応援きてた女の子たちも、あの十番の子かっこい~って言ってた」
「十番……ああ、俺か」
「そろそろ覚えような。ちなみに俺何番でしょうか!」
「七」
「正解!」
ふわりと風を感じた。さりげなくタオルで風を送ってくれていることに気がついて、気恥ずかしくなって目を伏せる。最初に覚えたのは、朝桐先輩の背番号でしたよ。とは、言わないでおこうと思う。
「応援してたら、俺もやりたくなっちゃったな」
コートを見つめる横顔は、汗ひとつかいちゃいない。当たり前だ。これは一年生大会で、朝桐先輩は二年生なのだから。
「今日はもう、付き合えないっす。多分、走ったら足つる」
「大丈夫か? 汗もひいてねぇし。しんどい?」
「いや、普通に体力不足というか……情けないっすね。明日から欠かさずロードワークしねぇと」
「でも、チームで一番走ってたからな。夏樹は頑張ったよ」
「ありがとう、ございます」
元チームメイトに何て言われようが、誰か一人でも認めてくれて、それが朝桐先輩で、それだけで十分だった。不甲斐なさと嬉しさが一緒くたになって、波のように心に押し寄せてくる。
「……同じ中学の奴らは、二試合目でも余裕で動けてますけどね」
俺が指さした先を、朝桐先輩の視線が追いかける。たった今、準決勝を戦っている選手たちの中にも、同じ中学出身の奴がいた。有利に試合を進めている。きっと決勝へ進出するのだろう。
「え、どの子?」
「緑ユニの、六番と七番」
「マジか。もしかして、インハイ予選も出てた?」
「出てましたね。準優勝、でしたっけ」
「やっぱそうだよな。へー、すげーなぁ」
「っすね。ちなみに、県外行ったのも一人いますよ」
「ほえー。お前、本当に強いチームにいたんだなぁ」
「ええ、まあ……さっき戦ったチームのポイントガードも、チームメイトでしたし」
「マジか、すげーな」
真夏の練習は思い出したくないほどキツかったが、バスケのことしか考えなくていい生活は楽しかった。引退後、強豪からきていた誘い全て断った直後、顧問の態度が急に素っ気なくなる前までの話だが。
足元のバッグへ手を伸ばし、朝作ってきたおにぎりを取り出した。勝敗は関係なく、動いた分だけ腹は減る。塩を多めにまぶしてきたそれは、疲れた身体にちょうどよかった。
もぐもぐと白米を咀嚼する俺の横っ面に、何か言いたげな視線がぶつかった。自信のなさそうな表情は、インターハイ予選で敗退した時の帰り道を思い出させる。
「ごめんな、頼りない先輩で」
「何言ってんすか。俺は、稲穂台にきてよかったと思ってますよ」
自分の意思で入学して、バスケ部に入ったんだ。何一つ後悔はしていない。
ちゃんと伝わってほしくて、朝桐先輩の目を見て言った。