第一志望、もう生きてない予定。
 進路希望調査票に、そんなことを記入したからだろう。俺は高校に入学して一ヶ月も経たないうちに、担任の吉成に呼び出しをくらった。
「椎名夏樹くん、この後話があるから残ること」
 ホームルームの最後にクラスメイトの前で名指しされたら、さすがにすっとぼけるわけにはいかなかった。
 窓から差し込む夕焼けが、放課後の寂しさを色濃く映し出している。絵の具のオレンジと赤をぐちゃぐちゃに混ぜて塗りたくったような鮮烈な色が眩しくて、俺は目を眇めた。窓側から二列目の自分の席でスマホを取り出し、部活用のグループトークに遅れる旨を入力していると、担任の吉成はやけに神妙な顔をして、教卓の前の席に座るよう促してきた。
 まだ名前すら覚えちゃいないクラスメイトの椅子を引く。ガラガラと床が鳴るけたたましい音が、二人きりの教室を埋めつくした。
「なんすか。部活あんだけど」
「知っている。顧問が誰が忘れたか」
 答えたくないので、何も言わずに頬杖をつき、窓の外へ視線を向けた。俺が入部したバスケ部の顧問は他でもない、目の前の吉成である。腕を組み、教卓に置かれたプリントを見る鋭い目つきはヤクザみたいだし、担当教科が体育だとは思えないずんぐり体型。俺を見下ろして、じっとりと苦い表情をしている。
 たかが十年や二十年早く生まれただけなのに、揃いも揃って偉そうにする。自分は人生のお手本だとでも言うように、願ってもいないのに手を引いて道連れにしようとしてくる。俺は不思議で仕方なかった。教師にしろ、親にしろ、出会ってきた大人はそんな人間ばかりだった。
 赤く染まった中庭の芝生が、海みたいで綺麗だ。そう思える感性がかろうじて自分の中に残っていて、密かに安堵する。
「進路調査票についてだが」
「……っす」
 入学して早々配られ、提出させられた紙切れについて。予想どおりの内容に、視線を戻して続きを促す。
「こういうことを書くのは、感心しないが」
 見せられたそれは、間違いなく俺自身が記入したものだ。名前の欄には椎名夏樹。第一志望、もう生きてない予定。教師ならば、そりゃ引っかかる。こいつも例外ではなかったと思わず口角を持ち上げてしまった俺に、吉成の眉間のシワが深くなる。
「将来学びたい分野とか、ないのか」
「ないです」
「将来の夢は」
「夢なんて見たって、虚しくなるだけだろ。どうせ叶わないのに」
 我ながらガキみたいなことを書いた自覚はある。でも、志望もクソもない。未来なんて知らない。夢なんて見たところで、現実との差に打ちのめされるだけだ。恵まれた環境があって初めて、夢へのスタートラインに立てるのだと、痛いくらい思い知らされてきた。
 もし叶うなら、卒業と同時にぽっくり逝きたい。なるべく苦しくない方法がいい。俺が夢見るのを許されているのは、その程度だ。
「親御さんは」
「家にいるかどうかは分かんねっす。いたとしても、絶対来ないし話通じない」
「……そうか」
 体育の授業中や部活の時は耳をふさぎたくなる声量をしているくせに、随分と抑えられたトーンで吉成は問う。ここ数日で分かったのは、吉成という教師はもう見た目からして暑苦しく、声も大きく、できるだけ関わりたくないタイプの人間だってこと。「寄り添ってます」というポーズだけで、自分の教師欲を満たす人間を、大人を、俺は何人も見てきた。きっと、コイツもそうだろう。そのうち離れていく。
「一応連絡してみてもいいか?」
「どうぞ、ご勝手に」
 吉成は分厚いリング式ファイルを取り出し、その中の一ページを確認しながら電話をかけた。放課後の教室はあまりにも静かすぎて、呼出音さえよく聞こえた。
『もしもし?』
「ああ、もしもし。椎名さまのお電話でしょうか」
『そうですが』
 吉成の手の中から、よそ行きの母親の声が聞こえた。
「わたくし、夏樹くんの担任の吉成と申します。本日は夏樹くんの進路調査票の件でご連絡しまして」
『そんなの、就職とでも書かせてください。大学へ行かせる余裕なんて、うちにはありませんから。忙しいので失礼します』
「えっ、あ、もしもし、もしもーし」
 ヤクザ顔の困り顔。面白いのに、内容の所為で笑えない。鋭い眼光の奥に気まずさを浮かべた吉成は、俺とスマホの画面を交互に見た。無機質なビジートーンが、床を寂しく転がって消える。
「夏樹」
「ん」
「何かあったら、相談しろよ」
 いつだって、俺はこうして腫れ物扱いされてきた。



 教室を飛び出し、部室で準備をして大急ぎで体育館へ向かうと、チームメイトはアップを終えてボールを使った練習を始めたところだった。エアーサロンパスの匂いが、俺を落ち着かせてくれる。幾重にも重なったドリブルの振動が床を伝わって、腹の底を揺らした。痺れるようなそれが、俺は好き。
 まだまだ入部したてホヤホヤの一年だ。途中から合流するのはかなりバツが悪く、吉成の所為だと内心文句を垂れながら、入り口で一礼した。失礼します。通りにくい己の声は、喧騒にかき消された。気配を消して、なるべく端っこをすり足で移動する。
「お、夏樹ぃ!」
 ぬるっと合流出来ればいい。そんな計画は、真夏の太陽みたいな声に呼ばれて頓挫した。どうせ怒るような人じゃないと遠慮なく作ったしかめっ面を微塵も気にする様子もなく、駆け寄ってきた朝桐涼介先輩が、俺の肩をバシバシと叩く。豪快なくせに、痛くないのが不思議だった。
「どした、吉成先生につかまったんか?」
「そんなところっす」
 進路調査票に「もう生きてない予定」なんて書いたとは、口が裂けても言えなかった。余計に大ごとにされそうだからだ。
 体育館の明るすぎる照明に、人より赤みの強い髪が反射してキラキラと輝く。染めた形跡のある髪も、部活の時は外しているが存在感のあるピアスホールも、どこからどう見ても陽キャなヤンキーの象徴だ。俺とは正反対。苦手なタイプなのに、朝桐先輩は入部当日からやたらと絡んでくる。俺が中学時代に、バスケでそこそこいい成績を取ったからだろうか。だとしたら、向けれた感情が妬み僻みの類ではなかったのが、不幸中の幸いだった。
「早くアップして混ざれよ、お前のパス待ってんだから」
「っす」
 俺が入部した稲穂台高校バスケットボール部は、地区で準優勝、県大会ではベスト8常連の、特別強くはないがそこまで弱くもないチームだ。
 屈託のない笑顔で俺にまとわりついてくる朝桐先輩のポジションはスモールフォワードで、二年生ながらエースとして活躍している。俺のポジションはポイントガード。入部間もない一年のひよっこだから、レギュラーでもなんでもない。それなのに、何故か俺に構ってきた。
 言いたいことを言って満足したのか、朝桐先輩は軽やかな足取りでチームの輪の中へと戻っていった。
 俺は邪魔にならないように隅の方でストレッチを終え、壁をなぞるように走りながら、先輩たちによるレイアップシュートの練習を眺める。スキール音がそれぞれの癖によって違ったリズムを刻み始めた。
 中学の頃は関東大会に行くようなチームにいたから、今のレベルは正直高くないと思う。まず、週に一度は休みがある。テスト期間中なんて、強制的に休まされるらしい。それでも、先輩後輩関係なく仲がよさそうだし、何より楽しそうだ。
 大会の成績なんてどうでもよかった。上位大会に進んだところで、その分、電車移動の運賃や食事代、数日に渡る大会だったら宿泊費など、余計な金がかかると母親に嫌な顔をされるだけ。バスケが出来ればそれでいい。自分がチームを優勝させるなんて気概もない。家に帰らなくていい理由になってくれて、尚且つ好きなことをして過ごせるのが、俺にとっての幸せだった。
「ヘイ、パス!」
 俺と同じポイントガードでレギュラーの三年生、高根沢先輩のパスを受け、朝桐先輩がシュートモーションに入った。俺の肩を叩く雑な手つきからは想像もできない丁寧なフォーム。ふわっと重力を無効化したような滞空時間の長いジャンプ。朝桐先輩の手を離れたボールは、スパッと心地いい音を立ててリングに吸い込まれた。
 ダンクのような派手さはないのに、まるで空を飛んでいるみたいだった。朝桐先輩が愛用している真っ赤なシューズが空中でピタリと止まって見えるのがカッコよくて、実は密かに憧れている。



 下校時も、朝桐先輩は俺にくっついてきた。自宅の方向が一緒なのだという。徒歩の俺に合わせて、先輩は自転車を押しながら歩く。夕焼けの忘れ形見のような薄明るい稜線が、もうすぐ闇に飲み込まれる。
 農耕機に割られたアスファルトの窪みを避けながら、朝桐先輩がぽつりと呟いた。
「俺、好きだなぁ」
「……は?」
「お前のパスだよ。特にノールックパス。シュパッて。カッコイイよ、アレ」
「ああ、そういうことっすか」
 前触れもなく、誰かに対する恋心について聞かされるのかと思った。人の恋バナなんて微塵も興味ない。
「中学の頃からパサーなんで。それくらいは」
「シュート決めたくなんねぇの?」
「パスで意表を突く駆け引きのほうが好きっす。それに、シュートを一切打たない訳でもないし」
「へぇ」
 大して興味もなさそうな返事をした先輩は、くぁ、と大きなあくびを零す。道路を照らす街灯は弱々しく、不規則に点滅して、今にも息絶えてしまいそうだ。
 田んぼと住宅が入り交じった田舎道に、揃わない足音とチェーンの回る音が響く。辺りが暗くて感覚が鋭敏になっているのか、土と草と肥料っぽい匂いをいつもより強く感じた。
 まだ入部して一ヶ月も経たないというのに、朝桐先輩が勝手に喋り続けているイメージが強くて、沈黙が気まずかった。何か話そうと息を吸うのと同時に、先輩が話し出す。
「夏樹はさ、なんで稲穂台きたの?」
「え、あー……家から一番近いところだったから、です」
「大浦中って強いじゃん。声かかんなかったの?」
 どうして俺の出身中を知っているのだろう。ああ、初日の自己紹介で言ったっけ。先輩の代も、その上の代も、大浦中学校のバスケ部は強かった。
「……四校から、きました」
 俺はこの手の質問が苦手だった。というか、嫌いだ。この後に続くのは、大抵「もったいない」だ。俺の選んだ道を否定するような、無責任でやさしくないその言葉に、俺の心は薄皮一枚分くらい傷ついている。どうせ、誰も気づかないだろうけれど。
「え、じゃあ、めちゃくちゃラッキーじゃん」
「え?」
 身に覚えのない言葉にパッと顔を上げる。嘘のない綺麗な目が、まっすぐに俺を見ていた。
「上手い後輩が入部してくれて、嬉しくない奴いる?」
「いるんじゃないっすか」
「そこはいないって言おう?」
「でも、ポジション奪われそうで嫌、的な……」
「あ、そっか。それは困るな」
「そこは奪ってみろ、くらい言ってほしいす」
「うわ、俺の答え全部ハズレじゃんか」
「……ははっ」
 変な人だ。第一印象から苦手成分がかなり薄れて思わず笑ってしまった俺に、朝桐先輩は驚いた顔をした。人懐っこさを演出するタレ目がまん丸になって、頼りない街灯の明かりを全て集めて煌めいた。
「……なんですか」
「夏樹が笑ったの、初めて見た」
「俺だって笑いますよ。失礼な」
「もっと笑えよ、可愛い顔してんだからさぁ」
「楽しくないのに笑えないです。というか、可愛くないですよ」
 百七十五センチもある男にその表現はないだろう。普通に不服だし、より朝桐涼介という人間が分からなくなる。正反対というか、友人になった試しがない類いの人間だけれど、彼の隣はなぜか居心地が悪くなかった。
 田舎道をしばらく進み、時差式信号がある交差点で、自転車に乗って颯爽と走り去っていく朝桐先輩を見送り、自宅への一本道をとぼとぼ歩く。耳の奥にはまだ、ボールの弾む音や賑やかな声が残っている。
 ぽつぽつと並んだ家々の突き当たりにある、ここらで一番地味な平屋が俺の家だ。リビングが薄明るいことに肩を落として玄関を開ける。ただいま、とは言わない。言いたくないから。
 三和土に脱ぎ捨てられたヒールと、きちんと揃えられた男物の革靴。聞きたくないのに聞こえてくる女の甘ったるい声と必死に息を押し殺す獣のような声を振り払い、自室へ急いだ。床を転がるボールを抱え、窓から飛び出す。目指すは朝桐先輩と別れた交差点からすぐのところにある、寂れた公園。遊具らしい遊具はなく、バスケのゴールが一つだけあって、田舎だからどれだけドリブルをして音を立てても怒られない最高の場所だった。
 何万回とついた所為で表面の凹凸が削れ、ツルツルになってしまったボールが、俺の指の腹に吸い付いてくる。パスの技術は中学の部活で鍛えられたが、ドリブルの際に必要なボールコントロールは、きっとここで身についた。
 ボォンと鈍い音の中に、金属音のようなキィンと甲高い音が鳴る。幼い頃、父さんと交わした会話の記憶は全部、この音と共にある。
 父さんが死んで、母親は壊れてしまった。俺が小四の時の話だ。仕事中の事故だそうだ。給食の時間に血相を変えて教室へ飛び込んできた先生に連れられて向かった病院で、冷たくなった父と対面し、泣き崩れる母と一晩過ごした。
 元々とても寂しがりで、結婚するまでは恋多き女だったという母親は、父さんが死んだ悲しみに耐えきれなかったのだろう。男を取っかえ引っ変え家に連れ込み、青臭い恋愛をし、セックスをした。毎月のように変わる靴のサイズにも、もう慣れた。いや、感覚が麻痺したと言うほうが正しいかもしれない。
 子守唄が母親の喘ぎ声だなんて、そんなのホラー映画でも出てこない最悪の設定だ。小学生だった俺は情欲にまみれた男女の声が怖くて、家にいる時間がどうしようもなく苦痛だった。近所づきあいなんてない。こんな性格だから、友人と呼べるような相手もいない。だから俺は、父さんが唯一遺してくれたバスケットボールに救いを求めた。
 いつも通りボールの感触を確かめつつ、体感時間で二時間くらい経過してから家に戻ると、醜い声は止んでいた。ようやくほんの少しだけ、呼吸がしやすくなる。
 薄い膜のように広がる静寂を壊さないよう、足音を立てずにキッチンへ向かい、冷えた夕食をかき込んだ。冷えていようが夕食のみだろうが、用意してくれるだけ感謝しなければならないのかもしれない。毎月の小遣いだってもらっている。スマホも持たせてくれた。きっと俺は、世界で一番不幸なわけじゃない。
 薄っぺらい敷布団に横たわり、小学生の頃から使っている毛布にくるまり目を閉じた。静寂が、俺の孤独さを浮き彫りにする。
 高校でもバスケ部に入部しようと決めた時、中学の頃使っていたシューズがキツくなっていた。買い替えたいと話をしたら、その時家に入り浸っていた男が金をくれた。
 一人でスポーツ用品店へ行き、足に合う物を買って帰ると、リビングから母親と男の会話が聞こえてきた。
「そんな、いいのに。お小遣いあげてるからそれで買えばいいのよ」
「アイツが部活入ってくれれば、家にいる時間減るだろ。二人の時間が増える」
「あらぁ、いいわね、それ」
 あの時は、本気で死にたいと思った。俺は邪魔者だったわけだ。嘲笑混じりに見上げた空がムカつくほど綺麗で、元々強くなんてない心がボコボコにぶちのめされた。家がダメなら、俺の居場所ってどこだよ。答えは多分、一生見つからない。
 中学時代のチームメイトは、皆それぞれ強豪校へ行った。俺も行きたかった。誘いはあった。でも、私立には行かせてもらえなかった。片親だから仕方ないって、自分に言い聞かせて無理やり納得した。
 どうやら母親はよっぽど俺に金を費やしたくないらしい。そんなの昔から分かりきっていた。高校を卒業したら、選択肢は就職一本。周囲の人間が、例えばクラスメイトが全員進学しようが、俺には関係のない話だ。学びたいことがあったとしても、将来やりたいことが見つかったとしても、ガキ一人じゃどうしようもない。
 夢なんて、持つ意味も価値もない。

  
 入学してから一ヶ月と少しが経ったある日のことだ。部活が終わり、一年生で片付けを済ませ、帰宅の準備をして部室から出ると、先輩たちが帰らずに門のところでたむろしていた。
 俺だけではなく、一年は皆、自分たちが何かしてしまったかと背すじを伸ばす。意地悪な人も威張っている人もいないけれど、中学で身についた上下関係がそうさせた。
「お前ら、この後時間あるか?」
 キャプテンの渡瀬先輩が問う。まさかこれ、体育館裏にこいとか言われるパターンだろうか。
 あります、と誰かが答えた。途端に破顔したのは、先輩たち一同だった。
「よし。皆でコンビニへ行こう」
 いわゆる買い食いってやつだ。すっかり日が暮れた紺色の空の下、渡瀬先輩を先頭にぞろぞろと学校近くのコンビニへ向かう道すがら、朝桐先輩が俺の隣に並んだ。
「夏樹、何買うんだ?」
「えっと、実は俺、こういうの初めてで」
「え、買い食いが?」
「そうです」
「マジ?」
「マジっす。何買うのが普通か分からないです」
 自分が少数派だという自覚はあった。朝桐先輩も、俺の背後を歩いていた二年生の梅原先輩も、ええっ、と驚きの声をあげた。
「初めてかぁ。え、俺たちなっちゃんの初めてを奪っちゃうの? きゃー、うれしい」
 俺をなっちゃんと呼ぶ梅原先輩はふわふわと笑いながら、下ネタをぶち込んできた。三年生と比べて、二年生は変な人が多い。みんなやさしいけれど。
「定番は、肉まんとかフランクフルトとかアメリカンドッグみたいなホットスナック系か? なぁ、梅原は何買う?」
「俺はおにぎり買うって決めてる。朝桐は?」
「メンチカツ一択。腹減ったし。夏樹、悩んでんならコロッケ買って半分こしようぜ」
「あ、はい」
 コンビニへ到着し、自動ドアをくぐる。らっしゃーせー、とやる気のない挨拶に迎えられた。三年生三人、二年生三人、一年が四人。計十人の大所帯。先客が目を丸くして俺たちを見ている。
 毎月の小遣いは、なるべく使わないようにしていた。シューズはいつ壊れるか分からないし、練習試合や大会で電車移動をする際に必要になる。でも、たまにはいいか。チームメイトとの付き合いも大切だし。
 どう振る舞っていいか分からず、ドアマットに片足をのせた状態で立ち尽くしていると、朝桐先輩は脇目も振らずにレジへ向かった。こっちへこいと手招かれて隣に立つ。こうして並んでみると、結構大きいな。多分、俺より十センチくらい背が高い。
「一緒に頼んじゃうから。コロッケでいい?」
「っす。いくらっすか」
 エナメルバッグの底から薄っぺらい財布を取り出し、チャックを開けた。千円札が一枚入っている。それを取り出すよりも早く、朝桐先輩が俺に顔を寄せた。
「特別に、朝桐先輩が奢ってやるよ」
「えっ」
「お前だけだから、秘密な」
「いいんすか」
「ん。外でたら半分こしような」
「っす」
「すんません、コロッケとメンチカツ、ひとつずつください」
 買い食いはもちろんのこと、先輩から何かを奢ってもらうのも初めてだった。秘密という言葉には魔力があるのだろう。優越感と背徳感に胸を高鳴らせながら店の外に出て、朝桐先輩から紙の包みを受け取った。
 潰さないよう、そっと半分に割る。湯気がほわっと立ちのぼった。朝桐先輩も熱い熱いと言いながら豪快に半分にして、明らかに大きいほうを俺にくれた。俺もわずかに大きなほうを先輩に渡す。
「秋になったら肉まん始まんの。そしたらまたこような」
 次もあるのか、と喜ぶ自分自身から目をそらす。子どもみたいな感情の起伏が、なんだか気恥しかった。
「……じゃあその時は、俺が奢りますね」
「え~、嬉しいけど、先輩にカッコつけさせてよ」
「いやです。絶対に俺が奢るんで。楽しみにしていてください」
 運良く揚げたてだったのだろう。ヤケドしないようにはふはふと息を逃がしながら頬張ったコロッケとメンチカツは、今まで食べたどの料理よりも美味しかった。


 中学の頃とは少し違う、高校独特の生活リズムにようやく慣れ始めた、ある休日の練習試合でのことだ。
 それは俺にとって、青天の霹靂だった。
「今日のスタメンは、渡瀬、松尾、朝桐、梅原……それから、ポイントガードには夏樹が入れ。以上」
 吉成の言葉が一瞬理解できずに立ち尽くす。整列の号令がかかって、誰かの手が背中に触れて、我に返った。俺がスタメン、ということは。
「っ、高根沢先輩……」
「整列だよ。深呼吸して、落ち着いていこう」
 早朝の海のような、おだやかに凪いだ声が俺を包んだ。今日だけかもしれないけれど、練習試合だけれど、一年にポジションを奪われた形なのに。そんな俺の動揺を読み取ったのかもしれない。高根沢先輩は、小さな子どもに言い聞かせるように続けた。
「俺も負けないように頑張るから。コートの中では遠慮しちゃダメだ。思いっきりやっておいで」
「はい!」
 相手は地区大会優勝校。コートの中で遠慮なんてしたら、即足でまといになって詰む。さすがの吉成だって、嫌がらせで俺を抜擢するわけがない。でも担任なんだし、予告してくれたっていいのに。抗議の意をたっぷり込めて睨みつけると、挑発的なムカつく笑顔が返ってきた。人の気も知らないで。
「夏樹、ビビんなよ」
「誰がビビるか」
 審判の手からボールが離れる。ジャンプボール担当、長身の松尾先輩が弾いたボールは、吸い込まれるように俺の真正面へ飛んできた。迷わず切り込み、パスを出す。よし、ゴール下ドンピシャ。
「っし、ナイスパス!」
 エースはトップスピードを保ったまま俺のパスを受け取り、地面を蹴る。真っ赤なシューズが、ふわりと空を飛んだ。

 試合終了を告げるホイッスルが鳴るまで、無我夢中でコートを駆け回った。練習試合とはいえ、本格的な試合形式は中学総体以来。感覚が確実に鈍っていた上にスタミナも全然足りなかったが、後半はもう意地のようなものだった。
 高根沢先輩には遠慮しなくていいと言ってもらえたし、吉成にはビビるなと発破をかけられた。信頼は、時に悪意より重たくなる。でも、気持ちで負けたくなかった。
 足を止めてスコアボードを確認し、自チームの得点が上回っているのを確認して初めて、肩の力が抜けた。ああ、勝ったのか。
「夏樹ぃ!」
「おわっ」
「超ナイスパスだった!」
「えっと、あざっす……」
 汗だくだから抱きつかないでほしかったが、朝桐先輩も汗だくなのでどうでもよくなってしまった。力強く熱い腕に身を委ねれば、すぐに梅原先輩や渡瀬先輩、松尾先輩も駆け寄ってきてもみくちゃにされる。みんな、ただの練習試合なのに喜びすぎ。でも、達成感は俺にもあった。みんなにバレないように、小さなガッツポーズをしたのは、自分だけの秘密だ。
 試合には出場したが、俺はまだ一年。体育館に残って片付けをしていると、端っこの扉の向こうにある教官室へ引っ込んでいたはずの吉成が出てきて、俺を呼んだ。
「失礼します。なんすか」
「片付け中に悪いな」
「いえ、別に……」
 室内にはまだ相手チームのおじいちゃん監督もいて、入室した俺を下から上へ舐めるように見てくる。
 視線の意味が分からず、居心地が悪かった。沈黙がキツくて、シューズの先をもじもじと擦り合わせる。呼び出された理由がこれっぽっちも分からない。気づかないうちに、失礼な振る舞いをしていただろうか。不安に駆られていると、不意におじいちゃん監督が切り出した。
「君は、大学へ行ってもバスケを続けるかい?」
「……え?」
「稲穂台なら進学だろう?」
 のんびりとした声でさも当たり前のように言われ、返す言葉がすぐには見つからなかった。後ろで手を組み、借りてきた猫みたいに大人しくしている俺に、吉成が補足する。
「村越さんは、バスケ協会の中でもかなり顔が広くてな。今日の夏樹のプレーを見て、お前にその気があるなら、大学側に話をしてくれると言ってくださったんだ」
「そ、すか……」
 プレーが認められた純粋な喜びと同時に、卑屈な自分が出てきて正面衝突を起こした。俺にその気があろうがなかろうが、どうせ進学はできない。大学に入学し、卒業までにどれだけの金がかかるかなんて想像もつかないが、母親が背中を押してくれるとは思えなかった。
「まあ、まだ一年だ。選択肢の一つとして、ゆっくり考えるといい」
 返答に困る俺を、吉成は急かさなかった。家の事情を知っているくせに。母親と電話で話した時、「触れちゃいけない案件」みたいな反応だったのは、今でも鮮明に覚えている。
 話はそれだけだったらしい。一礼して、俺は逃げるように退室した。担任で顧問とはいえ、吉成は所詮赤の他人だ。期待するなと自分に言い聞かせて、浮ついてしまいそうな心を押さえつける。
 フロアの片付けはもう終わっていた。誰かが気をつかって教官室の扉の外に置いてくれたシューズとタオルを手に体育館を出る。
「……そんな、簡単に言うなよ」
 こぼれ落ちた溜め息が、砂利道を虚しく転がっていく。春と夏のあわいで、生ぬるい風が頬を撫でた。