「いった……」

 ひりひり痛む左頬を押さえながら、放課後の廊下を歩く。約束していた女の子全員と顔を合わせ終える頃には、すでに17時を過ぎていた。
 それにしても、女の子のか細い腕から放たれたとは思えないほどの強力な威力だった。
 でもまあ、これもすべて身から出た錆。女の子を責める気持ちはまったくない。

「腫れるかなこれ……」

 頬をさすりながら、まだ置き去りにしているスクールバッグを取りに教室に戻る。けれどその足は、教室の入り口で止まっていた。

「え」

 固まった俺の視線の先にいるのは――橘。
 その姿を認めた途端、心臓がどくんっと跳ね上がる。

「あ、久遠……」

 窓際の自分の座っていた席にいた橘が、俺を見るなり耳に挿していたイヤホンを外す。
 その仕草で橘が話そうという意思を持ってくれていることを悟り、自分の席へは向かわずに橘の方へと歩みを進める。

「橘、まだ残ってたんだ」
「そっちこそ」
「なにしてたの?」
「音楽聴いてた。帰ろうとしたら雨降ってきたから」

 この光景にデジャヴを感じるけれど、あのときはまだ自分の気持ちを自覚していなかった。
 あのときも嬉しかったけれど、今ではもう神のお導きではないかとさえ思えてくる。
 突然やってきた幸運につい緩みそうになる頬を引き締め、あくまで平静を装いながら橘の前の席に後ろ向きに座る。
 すると橘がなにかに気づいたように目を見張った。

「って、どうしたんだよ、その傷」

 あ、やばい。自分の顔の有様を忘れていた。

「口の端から血が出てる」
「え、まじ?」

 自分の唇に触れようとすると、それより先に橘が紺色のハンカチをポケットから取り出し、汚れるのも厭わず俺の口元に当ててきた。

「痛む?」

 心配そうな顔で唇の端を拭うその仕草に、愛おしさが込み上げる。

「へーき」
「喧嘩でもしたのか?」
「ん、まあ……。なんというか、女の子たちとの関係を見直そうかと思いまして。ひとりひとりにお別れ言ってきた」

 そうしてもう遊べないと謝罪をしたところで、強烈なビンタを食らわされたというわけだ。
 後腐れないようにあくまで遊びだということを了承してくれた女の子とだけ遊んでいたから大惨事は免れたけど、それでも俺の身勝手さでたくさんの子を傷つけたことを痛感した。
 人との繋がりを軽んじるようなこれまでの振る舞いをやめる、それが自分なりのけじめだった。そうして、生まれたばかりの恋心に真正面から一途に向き合いたかった。

「そっか」

 橘がハンカチを持つ腕を引こうとする。けれその前に手を掴むと、手の甲に自分の手を重ね、じんじん熱をもつ頬に当てた。

「ちょ、久遠……」
「あー、冷たくて気持ちいい」

 自分のものではないその体温に、熱が引いていくようだ。
 橘の視線が揺れながらも俺を捉えている、その感触をたしかに覚えながら、瞼を持ち上げて真っ直ぐに橘を見つめた。

「ねえ、橘。見ててよ、俺が変わっていくところ。どんどんいい男になってやるから目離さないで」
「え……」

 橘が目を見張る。
 二重なのに切れ長な涼やかな目元に、通った直線の鼻筋、形のいい淡い唇、シャープな輪郭に、陶器のような白い肌。
 そして澄んだガラス玉のような瞳は、いつでも俺を掴んで離さない。なにか強い引力があるのではないかとさえ思う。
 いつまでもこのまま橘の意識と眼差しを独占していたくて、けれど橘が戸惑っていることはわかっていたので、橘の手をそっと離すと空気をとりなすように笑った。

「さっき、なに聴いてたの」
「さっき……? ああ、聴く?」
「いいの?」

 返事の代わりにイヤホンの片方を俺に差し出してくる橘。さっきのハンカチといい、もしかしたら橘はパーソナルスペースが狭いのかもしれない。
 有線を使っているのがなんとなくらしいなと思いつつイヤホンを耳に挿すと、橘がスマホを操作するのに合わせて音楽が始まった。

 ひとつのイヤホンを共有し、ひとつの音楽に耳を傾ける。有線イヤホンで繋がっているせいで自ずと距離が近づく。そんなささやかながら満ち足りた幸せを感じていると、サビを迎えたところではっと閃いた。

「あ、この曲知ってる」

 耳に流れ込むその曲は、たしか10年ほど前に恋愛映画の主題歌としてヒットした曲だ。ミディアムバラードでありながら爽やかな疾走感もある。

「曲名なんだっけ。えっと、」
「トロイメライ」
「あ、そうそう。このバンド有名だよな。好きなの?」

 何気なく問うと、身を寄せ合って曲を聴いていた橘が突然体を引いた。ぴんとイヤホンの線が張り詰め、そしてつぽとりと音をたてて机に落ちる。

「や……バンドが好きっていうか、幸ちゃん、が俺におすすめしてくれた曲だから」

 幸ちゃん――その名を呼ぶときに、声音にわずかな躊躇いが生じたのを聞きのがなさかった。それで余計に、橘が意識していることを実感させられてしまう。

 恋情は綺麗なだけじゃない、一種の呪いだ。
 なあ、橘。俺はどうしたら、お前の胸に深く刺さったままの棘を抜いてやれるかな。