放課後になり、俺はのんたセッティングのもと、念願のココナちゃんとの初対面を果たしていた。

「私、叶芽先輩とずっと話してみたかったんです」

 そう言って色っぽい仕草で長い髪を耳にかけながら、艶やかな笑みを浮かべるココナちゃん。
 大きな瞳にうるうるの唇。こんな女の子に見つめられて、心を奪われない男はきっといないと思う。

「俺もだよ」

 そうだよ、俺はこういうセクシーな女の子が好きだったんだよ。自分にそう言い聞かせながら、目の前のココナちゃんに微笑みかける。

 そわそわしながらも、これからなにかが始まることを期待するような、初対面ならではの空気感。
 そんな俺たちを見て、のんたが嬉しそうににやにやと笑う。

「おっと? 僕は邪魔者かな~? じゃっ、ふたりでごゆっくり!」

 そして気を利かせている感を存分に出しながら、俺にこっそり耳打ちしてきた。

「あとはうまくやれよなっ」

 のんたが去っていくと、改めてココナちゃんに向き合う。

「学校じゃなんだし、どこか遊びに行く?」
「はい、行きたいです。ふたりで」

 俺を上目遣いで見上げてくるその眼差しから、彼女の気持ちが伝わってきてしまう。幾度となく、こういう類の眼差しを向けられてきたからわかるのだ。この独特の熱のこもった眼差しの意味が。

 ……なんでだろう。ずっと狙っていたココナちゃんと一緒にいるというのに、心が浮かない。どうしてこんなに感情の居所がしっくりこないんだろう。感情が収まるべき場所に収まっていないような、そんな違和感がある。

「あ、そうだ、叶芽先輩。その前に連絡先教えてくれませんか」
「連絡先? ああ、もちろん」

 そう答えてポケットの中を探り、ふと気づく。

「……あれ。スマホ、教室に忘れたかも」
「大変じゃないですか」

 考えるより先に、それは本当に咄嗟に、言葉が口をついて出ていた。

「ごめん。やっぱり遊びに行くの、また今度でいいかな」
「え? は、はい……」
「ごめんね」

 そう断るなり、俺は踵を返して教室に向かう。
 ココナちゃんに悪いことをしたとは思っている。でもなんでかココナちゃんに笑顔を向け続けられる気がしなくて、俺は逃げたのだ。
 女の子といるのに、ずっと心のどこかに橘がいる。どうしても俺の中から橘が消えてくれない。できることなら心を丸ごと洗濯してやりたいくらいだ。

「どうしちゃったんだろ、俺……」

 頭をかきながら教室に向かう。
 多くの生徒が帰宅に部活にと校舎を出て行き、もうほとんど生徒は残っていない。
 そんながらんとした廊下を進むと、空っぽだと思った教室にひとつの人影を見つけた。

「……橘……?」

 頭に手を当てたまま、教室の入り口でぽかんと立ち尽くしてしまう。

「久遠」

 席に座って窓の外を見ていた橘が、俺を見て目を見張る。
 勝手にぎこちなさを感じていたのに、いざ橘を前にすると、心がふわふわと浮き足立つのを感じる。
 俺はずいずいっと距離を縮めると、橘の前の机に腰かけてその顔を覗き込んだ。

「なにしてんの」
「いや、特には……」
「つーか、なんでさっきシカトしたんだよ」

 わざと拗ねた声音で昼間のことを問い詰めると、橘は気まずそうに睫毛を伏せた。

「嫌われただろうなと思って」
「俺が? なんで?」
「……ゲイだって、言ったから」
「え?」

 消え入りそうな声に、目を見張る。

「なんで俺が、橘がゲイだからってだけで嫌うんだよ」

 すると橘は、片方の手でもう一方の手の甲をさする。まるで落ち着かない自分の心をさすってあげるみたいに。
 そして長い吐息を吐き出すようにして、心の奥の柔らかい部分を俺に差し出してくれる。

「自分が異性に興味を持てないことを担任に相談したのがバレて、ゲイだってばい菌扱いされたことがあるんだ。男を好きなんて間違ってる、気持ち悪いって言われてきた」

 幼い橘が受けてきた攻撃の痛みは計り知れない。
 でもなんでそんなに窮屈な考えの型に、橘を嵌めようとをするのだろう。

「なんていうか、みんな難しく考えすぎなんじゃない? 人を好きになるのに正解も不正解もないだろ」

 言いながらふつふつと怒りが湧いてくる。橘を苦しめる奴らが許せない。

「あー、なんかムカついてきた。俺がそいつら殴りに行ってやりたいんだけど」

 苛立ちを抑えきれずに膝を揺すっていていると、ふっと綻ぶような吐息が聞こえてきた。見れば、橘が小さく笑っていて。
 ……笑った。橘が笑うところ、初めて見た。

「久遠って偏見ないよな。昨日だって俺のこと馬鹿にしなかった」

 そして笑みを残したまま俺を見上げてきた。

「いけ好かない奴だと思ってたけど、いい奴だな」
「……っ」

 ずきゅーん。
 まただ。どうしよう、橘が可愛すぎる……!
 とんでもない笑顔の破壊力に、思わずぐっと胸を押さえる。

 なんだ、そうか。心のない無愛想な奴だと決めつけていたけど、多分不器用なだけなんだ。クールな表情の下には、血の通った温かい感情があった。

「なあ、橘」

 その先になにを言おうとか、なにも考えていなかった。けれどどうにか橘の意識を俺の元に引き留めていたかったのだと思う。
 するとそのとき。

「……あ」

 橘が窓の外になにかを見つけたように笑って、小さく手を振った。
 その視線の先を追えば、渡り廊下に立つ男性の姿を認めた。彼も橘に気づいたのか、ぶんぶんと大きく手を振り返してくる。

「あれって奥山先生、だよな?」
「ああ」

 奥山先生は世界史の先生だ。このクラスの授業は受け持っていないけれど、眼鏡の奥の瞳はいつもにこにこと笑っている印象がある。

「仲いいの?」
「うん、まあ。奥山先生……幸ちゃんには、昔家庭教師をしてもらってた」
「へえ」
「こっちが心配になるくらいお人好しで、ちょっとおっちょこちょいなんだ。受験の合格祝いをくれたことがあったんだけど、ピアスとイヤリングを間違えてて。だから幸ちゃんにはバレないようにこっそりピアスの穴開けたんだよね」

 耳に触れながら、くすぐったそうに笑う橘。その耳には透明な石のピアスが輝いている。

 さっきまで俺に向けられていた笑顔が、今は違うだれかに向かって浮かんでいる。そしてその中に愛おしさという名の温もりを見つけてしまった。
 不穏な気配を察していながらも、確認せずにはいられなかった。

「もしかして、奥山先生のこと好きなのか……?」
「え、あ……」

 一瞬にして、橘の白い肌が赤くなる。
 それは言葉以上に、真実だと理解するには充分すぎるくらいの答えだった。

 いつもここから渡り廊下を見ていたのだ。そうして奥山先生の姿を探していた。

「まじ……?」

 すべてがわかったその瞬間、心にぱりんとひびが入ったような音がした。