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昼休みになり、のんたと隆二と購買の総菜パンで腹を満たすと、俺はふらりと教室を出た。
昼休み後の5時間目は体育。
9月の空はさんさんと晴れ渡り夏日だ。この炎天下の下グラウンドを走らされるのは怠くて、保健室でサボることにしたのだ。
「きゃあ、叶芽くんだ……!」
「やばい! 白王子と目が合ったんだけど!」
廊下を歩けば、まわりの女子たちの声が刺さる。
俺のことを見て目を輝かせる女の子たちは無条件に可愛い。
にこにこと愛想を振りまき、時に軽い会話をしながら、普通なら数分で着くところをその倍の時間をかけながら保健室に向かう。
保健室のドアは閉まっていた。見れば【出張につき保険医不在】と達筆で書かれたボードが吊るされている。
保険医である御年60歳のミエコちゃんは可愛いけれど、サボりには手厳しい。仮病を使う必要がないのはラッキーだ。
「失礼しまーす」
形だけの挨拶と共に、保健室のドアを開ける。……と、奥のベッドがカーテンに覆われていることに気づいた。
先客がいたか。心の中で舌打ちをし、それでも気にせず手前のベッドに近づいたとき。ぎしぎしと軋むベッドの音と共に、押し殺したような男女の声に気づいた。
「や、待って……」
「なんでよ、橘くん。ちょっとくらいいいじゃない」
「先輩、こういうのは困ります……」
「……ん?」
不意に拾った橘という名前に思わず足を止め、息を止める。声は奥のベッドから聞こえてくる。
なんだ、橘だってこんな昼間から女と遊んでるじゃないかよ。と思いかけ、その会話の不穏な雰囲気に気づく。
もしかして襲われてる……?
よく耳を澄ませば、ベッドの上でふたりの力が拮抗しているようにも聞こえる。
これ、止めに入った方がいいやつか? って、いやいや、俺には関係ないことだし。
頭の中で、ふたりの自分が押し問答を繰り返す。
「恥ずかしがってるの? かわいー」
「そうじゃなくて……やめてください」
……でも。橘は本気で嫌がっている。
見逃せばいいものの、なんでか踵を返そうとする足が動かない。やっぱり見過ごせない。こんなとき、変に顔を出す正義感が憎い。
もうどうにでもなれと半ばやけくそに白い布を掴むと、そのままカーテンを開けた。
「それくらいにした方がいいんじゃないですか」
一面白の視界が開け、ベッドに押し倒された橘と、そこに馬乗りになる先輩が露わになる。
「久遠……」
橘の揺らいだ瞳が刺さる。その眼差しを一身に受けながら、先輩に詰め寄る。
「ほら、橘も嫌がってますし」
すると先輩は、間に割って入った俺の方が悪いとでも言うように、きっと睨んでくる。
「関係ないでしょ……っ」
「でも俺、そいつのクラスメイトなんで」
「なんなのよ……」
先輩は下唇を噛みしめていたけれど、さすがに自分が劣勢であることを悟ったのか、悔しそうにしながらも保健室を出て行った。
ふたりきりになった保健室。沈黙が辺りを包み込む前に口を開いたのは、橘だった。
「……助かった」
「いや? 俺の安眠を妨害されそうだったから」
俺がベッドに腰かけたのと同時に、背後で橘がベッドから立ち上がり、乱れたシャツを直す。
「あんなの力づくで拒めばいいだろ」
「そんなことはできない」
「はいはい」
気取りやがってと肩を竦める。俺が入っていかなきゃどんな目に遭っていたかわからないのに。
俺は髪をいじりながら、何気なく言葉を放る。
「橘ってさ、女子に免疫なかったりする?」
「は?」
橘がこちらを振り返った気配。
性格に難はあれどあんな美人な先輩に迫られて嫌がるなんて、女子の耐性がついてないんじゃないのだろうか。恋愛がどうとか説教垂れておいて、案外つまらない青春時代を過ごしてきたのかもしれない。
すると俺の背に、動揺に染まった声がぶつかった。
「なんで俺がゲイだって知ってるんだよ……」
「え?」
思わず振り返れば、橘が震える瞳をたたえて立っていた。その瞳に真実を知る。
カマかけたつもりが、まさかこんな秘密を聞き出せるなんて。心の中でほくそ笑む俺を前に、橘が睫毛を伏せる。
「……このことは黙っててほしい」
「いーよ」
ベッドから立ち上がり、橘の方へと歩く。
「俺たちだけの秘密ってことね」
「いい、のか?」
「なに、そんなに警戒しないでよ」
おどおどとした瞳を持ち上げ、俺の心を探ろうとしている橘が、視界いっぱいに映る。
透明感のある白い肌、すっと通った鼻筋、深い切れ込みの入った二重の下の濡れた瞳。
まともに観察したことがなかったけれど、たしかに端正な顔立ちだ。中性的というわけではないけれど綺麗だと思う。女子が騒ぐのもわかる気がする。
秘密を守るのと引き換えに、なにかいうことでも聞いてもらおうか。そんな思惑を体の内に隠しながら、
「なあ、橘」
その名を呼んだ時。
「ミエコ先生、いますかー?」
突然、保健室に男子生徒が入ってきた。
悪いことをしていたわけではないのに、咄嗟に橘の体を壁に押しやり、カーテンの影に身を隠す。
「な……」
「しっ」
腕を壁につき、その間に橘を閉じ込めながら、もう一方の手で橘の口を覆う。
「なんだ、先生いないのか」
男子生徒は奥まで踏み込むまでもなく、ひとけがないと判断したようだった。
やがて男子生徒が出て行くと、俺は止めていた息を吐き出し、橘の口を覆っていた手を離す。
「わる、」
そうして橘に視線を投げかけ――ふと息をのむ。
「……っ」
そこには、顔を真っ赤に染め上げ、濡れた瞳で俺を見つめる橘がいた。
「久遠……」
それはまるで稲妻に打たれたかのような、前触れのない体中が痺れるみたいな衝撃で。
ずっっきゅん。胸を射抜かれた明確な音が聞こえた。
あれ。ちょっと待て、なんで、嘘だ。
――可愛い、なんて。