西側の非常階段に、その姿はあった。
 手すりに肘をつき、桜の木を眺めるその背中に向かって呼びかける。

「希純」

 イヤホンをつけていたのに、希純は俺の声を拾い上げた。イヤホンを外しつつ振り返る。

「久遠」
「こんなところにいたんだ。そろそろ体育館に移動だって」
「わかった」

 桜を背にそう頷いて淡い笑みを浮かべる希純は、一段と美しく見えた。

 非常階段を後にした俺たちは、歩幅を合わせて廊下を歩きだす。

「なに聴いてたの?」
「"トロイメライ"。お前が歌ってくれた曲」

 季節は巡り、2度目の春が来た。
 今日、俺たちはこの高校を卒業する。



「それではC組も体育館に向かいます」

 担任の声を号令に、生徒たちがぞろぞろと廊下に出て体育館に向かう。
 3年生になって、俺と希純はまた同じクラスになった。のんたと隆二とは見事にばらばらのクラスになってしまったが。

「俺、仰げば尊しで泣くかも」
「なんか卒業の実感ないよね」

 クラスメイトが口々に卒業を惜しむ中、俺はわざとゆっくり教室を出て、クラスの集団の一番後ろを歩く希純に肩を並べる。
 そして体の影に隠して、こっそり希純の小指に小指を絡めた。

「ちょっとだけ」

 希純にだけ聞こえるボリュームで囁けば、返事の代わりに、きゅっと小指を握り返される。
 わずかに繋がった温もりが、桜色のように色づいた。



 体育館に卒業生が集まり、卒業式は粛々と執り行われていった。
 来賓の挨拶が終わると、各クラスの担任にひとりひとりの名前が呼び上げられ、その場で起立していく。その中にはのんたや隆二、それから姫野や鷹野の姿もある。
 みんながそれぞれの夢に向かって、青春を過ごした学び舎を旅立つ。
 それから仰げば尊しの合唱や送辞と答辞がおこなわれ、卒業式は1時間ほどで幕を閉じた。



「みんな、卒業おめでどう……。うう、卒業してもずっと仲間だ……」

 グラウンドで、賞状筒を持ったクラスの委員長が咽び泣いている。

「そんなに泣くなって。ほら、打ち上げ行くぞ」

 そんな委員長の肩に手を回し、副委員長が宥める。
 このあとは近くのカラオケで、担任も交えてクラスの打ち上げがおこなわれることになっている。

 希純も出席するのだろうか。グラウンドにいるはずの希純の姿を目で探していると。

「叶芽先輩、第2ボタンくれませんか……!」

 頬を染めた下級生の女の子が駆け寄ってきた。様子を見ていたのか、ひとりが声をかけたのを皮切りに、大勢の女の子たちが押し寄せてくる。
 我が校の制服は男女ともにブレザーだけれど、好きな人の第2ボタンをもらうという文化は今でも受け継がれている。

「私もほしいです!」
「私にくださいっ!」

 女の子たちが次々と手を挙げるけれど、俺は唇の端を持ち上げて苦笑した。

「ごめんね、渡す人はもう決まってるんだ」
「え!?」
「叶芽先輩に彼女!?」

 騒然とする女の子たちの元を離れ、俺は希純を探しにグラウンドを駆ける。
 すると桜の木の下に人だかりができているのを見つけた。間違いない、あれだ。女の子たちより頭ひとつ分大きい希純は、遠くからでもよくわかる。

「希純先輩、ずっとファンでした!」
「えっと、ありがとう」

 慣れないながらも、ちゃんと受け答えをしている希純。
 よく雰囲気が柔らかくなったと言われているけれど、たしかにそう思う。昔は話しかけられないように、だれにでもわかるようなバリアを張っていたけれど、そのパーソナルスペースの境界線が緩くなったというか。

 けれどそれとこれとは別なわけで。
 俺は背後から近づくと、希純の肩に手を回した。

「悪いけど、希純のこと借りるね」
「え?」
「きゃあ! 叶芽先輩……!」

 ざわつく中、俺はその手を引くと、希純を人だかりから連れだした。

「お前……」
「打ち上げ、抜けちゃおう」

 グラウンドを駆けながら振り返り、いたずらを企てるように笑って見せる。
 すると希純は、「そうだな」と苦笑した。



 俺たちは人目を盗んで、校舎に足を踏み入れる。
 式が終わり下校時間となっているため、生徒たちはみな校舎を出ていて、長い廊下にも人の姿はない。

「最後だし教室行こうよ」
「いいな、それ」

 そんな会話を交わしつつ、さりげなさを装い、希純の腕を掴んでいた手をスライドさせて薄く骨ばった手を握る。
 希純は一瞬驚いたような気配を見せたけれど、すぐにそれを受け入れるように手を握り返してくれた。
 心にくすぐったさを感じながら、手を繋いだまま教室に向かう。

「希純の制服姿も今日で見納めか」
「なんだよそれ、親父くさい」
「だって、なんか寂しいじゃん」
「そういうもん?」
「あ、あとで俺の第2ボタンあげるから、希純の第2ボタンちょうだい」
「いいけど、それってそんなに大事なのか?」
「つれないなあ」

 数え切れないほどの思い出が刻まれた校舎を歩いていたそのとき、突然角の向こうから人影が現れた。
 慌てて希純の手を離すと、人影は俺たちに気づいてにこやかに近寄ってきた。

「希純! 久遠くんも」
「幸ちゃん……」

 隣で希純が呟く。現れたのは奥山先生だった。

「どうしたんですか? こんなところで」
「えっと、教室に忘れ物しちゃって」

 無断で忍び込んだことを咄嗟に誤魔化せば、人を疑うことを知らないような奥山先生は微笑んだ。

「そうでしたか。それよりふたりとも、卒業おめでとうございます」
「ありがとうございます」

 軽く会釈をした俺の隣で、希純が小さく息を吸った気配。そして希純は奥山先生に向かって一歩踏み出した。

「幸ちゃん、今までお世話になりました。これからは離れた場所から幸ちゃんの幸せを願ってる」

 直向きで芯の通った声。強くてたしかな旅立ちの言葉。希純は淀みのない瞳で奥山先生を見据えていた。
 虚をつかれたのは、奥山先生だけではなく俺もだった。

「希純……」

 多分、希純に心を動かされたのだと思う。俺は咄嗟に宣言していた。

「これからは俺が希純のことを幸せにします」

 すると奥山先生は眦を下げてにっこり笑い、そして俺に向かって深々と頭を下げた。

「よろしくお願いします」



 美術部の女の子が描いたカラフルな黒板アートに、人の気配の消えた空っぽの教室。
 華やかさと空虚さが同居していて、そのアンバランスさが、普段の教室を別の顔へと色づけていた。

 窓の向こうでは、中庭の桜が満開になっている。この教室はどの教室からよりも桜が綺麗に見えると、だれかがいつか話していたのを耳に挟んだことがある。

 俺は教室を見渡せるよう、窓を背にして床に腰を下ろした。
 希純もまた、俺の隣に並んで座る。

「もう同じ校舎で久遠に会うこともないんだな」
「そうだね……」

 俺たちはそれぞれ国立大学に進学することが決まっている。別々の大学で俺は経済学を、希純は心理学を専攻する。
 地元からは離れないが、俺たちを取り巻く環境は大きく変わるだろう。
 希純がどんどん新しい景色を知っていく中で、俺はその隣に居続けられるのだろうか。俺の居場所はそこにあるのだろうか。

 先の見えない恐怖に、ふと足が竦みそうになったとき。意識を遮るように、凛とした声が鼓膜を揺らした。

「でも俺の気持ちは変わらない」
「え?」
「気づいたら心の真ん中にお前がいた。嵐みたいに俺のすべてを搔っ攫っていったんだ」

 風に乗って、窓から桜の花びらが降ってくる。
 桜の雨の中、希純が微笑んだ。

「出会ってくれてありがとう、叶芽」

 その光景を、俺はきっと一生忘れないのだろう。今まで見たどんな美しいものよりも綺麗だったから。
 思いがこぼれ、考えるより先に俺はその体を抱きしめていた。

「やばい、たまらなく好き……」
「俺も。すげー好き」

 笑い声が耳をくすぐる。
 そうしてじんわり希純の温もりに浸ると、俺はその体をそっと床に押し倒した。

「痛い?」
「大丈夫」

 床の上で指を絡め合い、覆いかぶさって唇を奪う。やがて希純はそれに応えるように唇を押し当ててきた。
 唇の熱から、想いが重なる実感。
 名残惜しみながら唇を離した俺は、じわっと目の奥が熱くなるのをこらえながら呟いた。

「俺――希純の最後の男になりたい」
「なんかプロポーズみたいだな、それ」

 そう言ってくすりと笑う希純の額に、額をこつんとぶつける。

「そうだよ」

 すると頬を赤く染めながら、希純もまた潤んだ瞳で俺を見つめてきた。

「こんな俺でよければ」

 その表情がたまらなく可愛くて、俺はまた心を打ち抜かれる。やっぱりお前には敵わない。

 額を重ねて笑い合う。
 春風が笑い声を攫って行った。




▫FIN