橘と想いが通じ合い、1か月が経った。
 夏休みの間も何度かお互いの家を行き来し、ふたりの時間を重ねた。

 けれど俺の頭を悩ませていることといえば、付き合っていることを隠しているため、俺のものだと声を大にして言えないことだ。
 最近は橘の空気感が柔らかくなった気がするとかなんとか言って、橘に話しかけに行く女子生徒が増えた。
 それなのに牽制することすらできないのだ。モテすぎる恋人を持つとつらい。

 ベランダの塀に背をつき、窓の向こうの橘の席を見つめる。
 昼休みになってもその席はずっと空っぽだ。午前中最後の授業が体育で、それからまだ教室に戻ってきていないのだ。
 学校では一緒に行動できないから、どこに行ったのかもわからない。
 そうやってぼんやりしていると、扉が開いてのんたと隆二が姿を現した。のんたはベランダに出るなり、俺の肩に手を回す。

「叶芽~! 合コン行こうぜ! 西女の子たちが叶芽をご指名なんだよ」
「行かない。恋人がいるから」

 迷う間もなく即答する。
 のんたと隆二には恋人ができたとだけ伝えてあるが、なぜかのんたにはまったく響いていないようだ。

「え~? そんなの内緒で行けばいいじゃん」
「だめだって。恋人のことしか興味ないし」

 どんな誘いにも俺の意思は揺るぐはずもなく。NOを突きつければ、のんたは摩訶不思議な謎に包まれたような表情を作る。

「まったく、あの叶芽が一途キャラになるなんて、だれが考えた……?」
「でも今の叶芽の方がかっこいいぞ」

 薄い唇で笑みを形作り、隆二が微笑む。
 けれど納得のいっていない様子ののんたは、小柄な体で俺に突っかかってくる。

「あの叶芽をこんなに惚れさせるなんてどこの女の子なんだよ! ボクにも教えろ!」
「内緒」

 頑なな俺に「ちぇー」と唇を突き出し、それからふと名案を思いついたように人差し指をたてるのんた。

「じゃあ黒王子でも誘ってみようかな」
「は!? な、なんでここで橘が出てくるんだよ」
「だって叶芽の穴を埋められる顔面なんて、黒王子しかいないじゃん」

 突然橘が名指しされ、反応してしまったのは言うまでもなく俺の方だ。
 焦りを隠すように、のんたと隆二に背を向けて、グラウンドの方を見る。

「いやあ……でも橘は恋人なんて募集してないだろ……」
「なんで叶芽がそう言い切れんの」
「それは……」
「そういえば黒王子って、どういう子が好きなのかな」

 彼氏がここにいます、なんて言えない。
 うーんと考え込むのんたにひやひやしていると、目線の先の渡り廊下に、ふと橘の姿を見つけた。体育館から出てきた橘は、クラスメイトの女子3人に囲まれている。
 俺はなんでかいても立ってもいられなくなって。

「――ちょっと行ってくる」
「おう、行ってらっしゃ~い」
「気をつけろよ」

 のんたと隆二の声を背中に受けながら、ベランダを駆け出た。



「橘くん、バレー教えてくれてありがとう!」
「いや、大したことしてないし……」
「そんなことない! めっちゃわかりやすかったし、かっこよかった!」

 橘と女子たちが、廊下の先に見える。
 運動神経のいい橘が、女の子たちに居残りでバレーを教えていたらしい。橘を見上げる女の子たちの目はハートで、下心が透けて見える。
 けれどそんなこととはつゆとも思っていない鈍感な橘は、小さく綺麗に微笑む。

「でもまたなにかあったら聞いて。俺でよかったら力になるから」

 突然の笑顔の破壊力に、「きゃあっ!」と黄色い悲鳴がさざめく。

「橘くんがこんなに話しやすいなんて思わなかったよね」
「ほんとほんと。教え方も丁寧で優しかったし!」
「チカ、橘くんに見惚れて顔面にボール当ててたよね」
「やめてよ~!」

 会話を弾ませながら3人が歩いていく。
 女の子たちの視界から橘が外れたその隙に俺はその名を呼び、橘の腕を掴んだ――。



「あれ、橘くんは?」
「っていうかさっき、久遠くんの声も聞こえなかった?」
「まさかふたりでどっか行っちゃったとか?」
「それはないでしょ。あのふたり正反対で馬が合わなそうじゃん」

 廊下の方から聞こえる女の子たちの声が遠ざかっていく。
 俺は橘を近くの空き教室に連れ込み、その体を壁に押しつけていた。

 カーテンが閉まり光が遮られた薄暗い教室の中、突然のことに困惑したような瞳で橘が俺を見つめる。

「なんで久遠がここに……」
「んーとね、橘の姿が見えたから?」

 笑顔で曖昧に誤魔化す。嫉妬したから、とはなんとなく気恥ずかしくて言えなかった。

「橘、あの子たちにバレー教えてたの?」

 細く柔らかい髪に触れながら、潜めた声で問いかける。
 すると橘はつとなにかを言いかけ、けれど口を噤む。飲み込んだようだが、明らかに言いたいことがあったような気配。

「ん? どした?」

 顔を覗き込みそっと促せば、躊躇うような間ののちに橘は顔を赤く染め上げ呟いた。

「……もう呼んでくれないのか、希純って」

 ずっきゅーーん! あまりの可愛さに悶絶する。
 末恐ろしい子……。いつか俺は息の根を止められるんじゃないだろうか……。
 この可愛さが無自覚なのだから余計にたちが悪い。

 ばくばくと不整脈を起こす心臓を抑えながら、黒のフープピアスに触れる。これは俺が開けたピアスホールだ。
 そして縁の赤くなった耳に口を寄せると。

「希純」

 愛おしさをたっぷり含んだ甘ったるい声で、橘――希純の名を呼んだ。その瞬間、肩がびくっと揺れる。
 自分で呼んでと言ったくせに。ほんと可愛くてたまらないな。

「女子にモテてるその顔、俺の手で崩したくなるよね」

 そう囁き、唇を奪う。
 それからじんわり熱を伝えてそっと離せば、睫毛が触れ合うほどの距離にある瞳は潤み、溶けていて。
 あれから何度か触れるだけのキスをしたけれど希純はいっこうに慣れず、うぶな反応をする。それがまたたまらなく愛おしい。

「あの黒王子がキスしただけでこんな顔になるなんて知ったら、女の子たち卒倒するんじゃない?」
「……ぁ、悪趣味」
「事実だろ」

 意地悪く笑った直後、すねに痛烈な膝蹴りが入る。

「痛っ」
「調子に乗るな」

 ご立腹な様子の希純が教室を出て行く。
 だめだとはわかりつつも、ついやりすぎてしまう。だってお前が全然嫌がってくれないから。

「待ってよ希純」

 結局振り回されているのはいつだって俺の方で、そんな自分に苦笑しながら、愛しい背中を追いかけた。