橘の手を引き、俺は近くにある自宅に駆け込んだ。
 すっかり全身びしょ濡れになってしまった俺たちは、玄関に並んで乱れた息を整える。

「急に雨とか最悪……」

 濡れた髪をかきあげながら独りごちる。
 両親はディナーデートに行っているらしく不在だ。真っ暗な家の電気を点け、家にあがる。

「橘もあがって」
「でも床が濡れるし」
「あとで拭くから気にしないで。そこじゃ寒いだろ」
「じゃあ、おじゃまします……」

 おずおずと靴を脱いで、家にあがる橘。
 振り返った俺は、濡れた髪が橘の目にかかっていることに気づいた。髪の先から水滴がこぼれ、頬を伝っている。

「あ、髪が」

 手を伸ばして髪を除けてやろうとしたとき、橘の体がびくっと揺れた。
 それに気づいた俺は、橘に触れる寸前で手を引く。
 橘は怯えている。俺が突然あんなことを言ってしまったから。

「そんなに警戒しなくていいよ。無理に襲ったりしないから」

 苦笑と共に、自嘲的な色が声に滲む。
 自宅にふたりきり、このシチュエーションでこれ以上近づいたら、橘を怖がらせるだけ。そう判断した俺は踵を返す。

「待ってて。今タオル持ってくるから」

 そう言って洗面所に向かおうとしたとき、突然一筋の声が空気を切り裂いた。

「――ふざけんな」
「え?」

 突然の声に立ち止まり、橘を振り返る。そこには体の横でぎゅうっと拳を握りしめ、悔しそうに俯く橘の姿があった。

「勝手に俺の気持ち決めつけるな……」

 震える声が絞り出される。そして。

「俺も、久遠のことが好きなのに」

 じわりと橘の目が潤み、それはどんなに小さな衝撃にも耐えられなくなったというように、ぽろぽろとこぼれた。

「え?」

 思わず呆けた声が出る。
 信じられず立ち尽くす俺を、橘がほんのり赤く濡れた双眸を持ち上げて見つめる。

「俺はもう久遠のことしか見えてないよ」

 息をのむ。心という器にキャパオーバーの感情が満ち溢れ、頭は思考が混線しておかしくなりそうだ。
 本当に……? そう訊きたいのに、それは声にならない。
 宙を歩くような足取りで橘に歩み寄ると、壊れものに触れるみたいにそうっと橘の頬に触れる。雨に打たれたその白い頬は、氷のように冷え切っていた。
 橘は俺の手を振り払わない。ただ俺に触れられるまま、じっとしている。

「それは、一番柔らかいところまで俺に差し出すってことだよ。いいの?」

 掠れた声でそう問えば、橘は濡れた瞳に強い意志を宿して真っ直ぐに見返してきた。

「そうじゃなきゃあのときキスしてない」

 もう我慢できなかった。俺は、橘の体を強く抱きすくめていた。

「意地でも離さない」
「うん……」

 橘の体が俺の腕の中にある。そう思うとたまらなくなって、その存在をたしかめるように腕に力を込める。
 すると橘もまた、俺の背に手を回してくれた。

 びしょ濡れになった中に潜むお互いの熱を分かち合い、それからゆっくりと体を離す。
 そして俺は橘にそっと囁いた。

「……目、つぶって」

 その言葉に、橘はその先を察したのだろう。睫毛が惑いに揺れ、けれど俺に身を預けるようにその目を閉じる。
 俺は橘の目にかかる髪を親指でそっと除け、

「あのときのキス、本当は全然忘れられなかった……」

 囁き、そして唇を重ねた。
 触れた唇から熱が溶け合っていく。

 胸をじんわりさせるこの温もりを、きっと愛と呼ぶのだろう。
 愛おしいという感情は、橘が教えてくれた。

 そっと唇を離せば、そこには顔を真っ赤にする橘がいて。

「はは、まったく。可愛いなあ」

 この可愛さを前に、俺はいつだって完敗なのだ。