不意に香ったシトラスの香り、唇に感じた熱。
あのときのすべてが、熱に浮かされているときにみた夢のようで、現実味がまったくない。
あのキスはどういう意味だったんだ……?
いくら考えても答えは出ない。
忘れられるわけがない。
俺はあれからずっと、思考がぼんやりとふわふわしていて、夢の中を彷徨っているようだった。
学校祭が終わり、翌日の学校はいつもどおりの顔を取り戻していた。昨日の余韻は跡形もなく、すっかり堅苦しい勤勉モードだ。
それが余計に、昨日の記憶を混濁させた。
夢だったんだな、うん、きっとそうだ。そうに決まっている。
そう自分に言い聞かせ、校舎に足を踏み入れた俺は、思わずそこで固まる。下駄箱の前にいた橘と鉢合わせたからだ。
橘は俺を見て、ぎこちなく視線を逸らす。その顔は一瞬にして耳の縁まで赤くなって。
「お、はよう……」
忘れてって言っておいて、自分が一番なかったことにできていない橘が可愛すぎる……!(重症)
「おはよう、橘」
俺がそう返すのを最後まで聞かないうちに、橘が逃げていく。
ひとり残された俺は、その場に立ち尽くした。
……どうやらやはり、夢ではなかったらしい。
あのキスにどんな意味があったのか。それは多分いくら考えてもわからない。
けれど問題はこの先だ。人一倍シャイな橘が、これを機に俺を避けるようになる気がする。
ここはやはり俺が攻めるべきだ。でもがつがつ一方的に押すだけでは橘はきっと引いてしまうだろうし、どうすれば……。
そんなことを悶々と考えながら廊下を歩いていると、校内掲示板の貼り紙を見つけた。
紺色の空に大きく描かれた水彩のカラフルな花火。その貼り紙は、今週末に市内でおこなわれる花火大会の報せだった。
地元の花火大会といえば、市内外から人が大勢集まり、出店も多く出店され、毎年盛大に催されている。
その貼り紙を見た瞬間にぴんときた。――これしかない。
俺はさっそくメッセージを送り、放課後の空き教室に橘を呼び出す。
そして校内の掃除を早々に切り上げ、指定した空き教室に向かうと、橘はすでにそこで待っていた。
窓際に立っていた橘がこちらを振り返り、窓から差す日の光が橘の輪郭を描き出す。
「ごめん、橘。待たせた?」
「いや……。でもどうしたんだよ、話って」
橘の揺らいだ瞳が俺を見る。俺を探るような眼差し。
俺は声の下に緊張を隠して、橘に一歩踏み出した。
「今週花火大会があるだろ。橘と一緒に行きたいなと思って」
「え?」
「あ、だれかと行く約束してた?」
「してはない、けど……」
わずかに緩んだ。その隙に、俺はすかさず入り込む。
「じゃあ行こうよ、俺と」
一瞬の間。
緊張の眼差しの先で、橘がぎこちなくもこくりと頷く。
「まじ……!?」
「まじってなんだよ、そっちから誘っておいて」
「はは、たしかに。浴衣とかさ、着たりする?」
「着るかよ」
顔を赤くしてそっぽを向く橘。
浴衣姿を拝めそうにはないが、この顔が見られただけでもよしとする。
そして多分俺は、花火大会の約束を取り付けて浮き足立っていたのだと思う。予定にはなかったことが口を滑る。
「そうだ、このあとどっか行かない? ファミレスでもなんでもいいし――」
すると橘は気まずそうに目を伏せた。
「あ、悪い。このあとは予定がある」
「予定?」
「幸ちゃんが世界史を教えてくれることになってるんだ」
「……え?」
思わず声が詰まる。そうしてようやく喉から絞り出した声は乾ききっていた。
「ふたりきりで?」
「ああ、そうだけど……?」
俺の質問の意図がわからないというように、わずかに首を傾げる橘。
そのとき、橘のポケットの中のスマホが音を立てた。スマホに目をやった橘が呟く。
「幸ちゃんからだ。ごめん、そろそろ行かないと。じゃあ、また」
そう言い残して橘が俺の横を通り過ぎようとする。橘が行ってしまう。
考えるより先に体が動いていた。橘の腕を掴み、そして。
「――行くなよ」
掴んだ腕を引き寄せると、その体を強く抱きしめた。
俺の腕の中で、橘の体が驚きに強張る。
「くど、お……」
「行くな」
「なんで……」
「嫌なんだよ、俺が」
自分の声が鼓膜に響く。理性ではままならない衝動があることを、俺は初めて知った。
「橘のこと、もっと知りたい。橘に近づきたい」
「でも俺は男だ。お前は……」
躊躇うような困惑するような、そんな橘の声が耳元で聞こえる。
"俺と違う"――そう続いたであろう声を遮る。
「それなのに、橘のことばっかり考えちゃうんだよ」
そのとき、こちらに近づく足音に気づいた。
俺は慌てて腕を解き、橘の体を離す。
「そういうことだから」
橘の顔は見られなかった。ただそれだけ告げて教室を後にしようとすると、教室に入っていくクラスメイトとすれ違った。
俺の鼓動はといえば、50メートルを全力疾走したかのように爆速で騒いでいた。
心臓が爆発するかと思った。想いを口にすることがこんなに緊張することだったなんて。
でも一歩だけ、橘の内側に近づけた実感があった。それは小さな一歩かもしれないけれど、俺にとって前進であることには違いなかった。
橘は少しでも俺を意識してくれただろうか。
いつか伝えたい、この心の内を満たす欠片をすべてひとつも取りこぼすことなく。