空がすっかり暗くなった頃、一般公開は終了し、グラウンドでは生徒たちによる後夜祭がおこなわれていた。
 グラウンドを囲む木々がライトアップされ、幻想的な空間を作り出している。
 ある場所では音楽に合わせてカラオケ大会が、またある場所では火を囲んでキャンプファイヤーがおこなわれていて、みんな思い思いの時間を過ごしている。

 その様子を、俺は明かりのない教室からひとりで見下ろしていた。生徒や教師はグラウンドに出払っているため、校舎に人影はない。
 これから全校生徒によるフォークダンスの時間がやってくる。我が校では、意中の人と踊ると結ばれるというジンクスが言い伝えられており、後夜祭のメインイベントとなっている。
 去年は大勢の女子に誘われて、グラウンドがプチパニック状態となった。そのため今年は早めに避難していることにしたのだ。

 今年の学校祭は、あっという間で目まぐるしかった。
 軽音部のライブが終わると、押し寄せてきた女子の大群に小一時間は部室に拘束され、そして午後はクラスの中華カフェの店員としてシフトに入った。中華カフェは盛況を見せ、校内売り上げ一位を獲得したと小耳に挟んだ。

 けれど最大の不覚は、橘のチャイナ服を再び見るのが叶わなかったこと。シフトが被らなかったうえに、橘は実行委員としてステージパフォーマンスの整備や受付係としてほとんど駆り出されていたため、ライブで見かけたとき以来顔を合わせていない。
 写真を撮り逃したことは、悔いても悔やみきれない。
 橘があのチャイナ服で接客をしていたのだと思うと、接客された不特定多数に対して嫉妬すら抱く。俺だってあわよくば橘に接客されたかったのに。 

「はあ、疲れた……」

 今日一日走り切った体を大きく伸ばす。
 久々にアクセル全開で突っ走ったせいで体はすっかり披露しきっていた。今夜はゆっくり眠れそうだ。

 そうして体から力を抜きながらふと、橘を思う。
 今日のステージを見て、橘はどう思っただろう。橘の中の奥山先生の痕跡を、少しは上書きすることができただろうか。

 ステージの上で橘と目が合っているとき、まるで世界中の雑音が消えて、橘とふたりきりになったかのような錯覚を覚えた。
 あのとき、俺はたしかに橘と繋がっていた――そう感じるのは思い上がりだろうか。

 そのとき、一筋の声が暗闇を切り裂いた。

「ここにいたのか」

 振り返り、はっとする。そこには制服に着替えた橘がいたからだ。

「橘、なんでここに……」
「さすがにちょっと疲れたから逃げてきた」

 くすりといたずらっぽく苦笑する橘。
 見たことのないような可愛い表情に、心が高鳴る。今日も今日とて橘の笑顔は殺傷能力が高すぎる。

 俺は窓のサッシに後ろ手をつき、改めて橘に向き直った。

「忙しかったのに、ライブ見に来てくれてありがとな」

 遅くなってしまったけれど、ずっと伝えたかったことをようやく言葉にすることができた。
 それからほんの少しだけひとつの答えを期待して――でもそれを正直に聞く勇気はなくて、わざと茶化した口調で問う。

「かっこよかっただろ。少しは見直した?」

 すると橘は眼差しを緩めて笑った。柔い瞳に俺を閉じ込め、そして。

「お前はいい男だよ」

 思いがけないどの言葉に、どくん、と鼓動が脈を打つ。

 ……だめだよ、そんなの。思い上がりそうになる。
 橘にとって、きっとそこに深い意味はないのに。

 それ以上は考えないよう、動揺した思考を振り払って話題を切り替える。

「橘も学校祭委員お疲れさま」

 人見知りでまわりに壁を作っていた橘が、自分から積極的にクラスメイトとコミュニケーションを図り、クラスを仕切っていたことを知っている。
 結果としてクラスの出し物は大成功に終わったのだ。

 俺は橘の頭にぽんと手を置くと、その顔を上目遣いで覗き込んだ。

「学校祭委員として頑張った橘に、ご褒美やろっか」
「え?」
「軽音部の方にかかりっきりで全然力になれなかったし。せめて労わせてよ」

 俺にあげられるご褒美なんてたかが知れているけれど、橘の頑張りに俺なりに報いたかった。

「なんでも言うこと聞いてやるから、言ってみて」

 そのとき、グラウンドの方から放送部の軽快なアナウンスが聞こえてきた。

『それではここで、窓口でおこなわれた校内人気投票の集計結果を発表します。1位はなんと同率! 2年C組の久遠叶芽くん、同じく2年C組の橘希純くんでした! おふたり共、メインステージに登壇してください!』

「じゃあ――」

 アナウンスの声に被さるように、橘の声が聞こえた気がした。
 その直後のことだった。
 突然制服の襟元を掴まれたかと思うと、唇に柔らかい感触が触れた。
 橘が俺にキスをしたのだと、そう気づくより先に唇が離れ、橘は目を伏せて消え入りそうな声で囁く。

「このキスを、忘れて」

『久遠くん、橘くん、いましたらぜひメインステージに――』

 どこか遠くで俺たちを呼ぶアナウンスが聞こえる気がするけれど、もう現実なのかわからない。

 橘が踵を返して逃げるように教室を出て行く。

「……え……?」

 俺は一歩も動けず、そこに立ち尽くしたままでいた。