そして学校祭がやってきた。

「いらっしゃーい!」
「焼きそば売ってまーす!」

 クラスの出し物に呼び込む声、吹奏楽部の演奏。
 校舎のあちこちが賑やかで、お祭り独特の空気感で包まれている。
 その場にいるみんなが、そして空気が、浮き足立っていた。

 昨日初めて実際に体育館でリハーサルがおこなされた。
 この体育館が人で埋まるのだと思うと、部室で練習していたときとは比べ物にならないほどの景色に、リハーサルで歌っている最中にもぞわりと背筋に走るものがあった。

 軽音部の出番は7組中4番目。
 1組15分程度の持ち時間が与えられているが、MCの時間は設けず、3曲ノンストップで曲を披露することになっている。

 そしていよいよ軽音部の順番が近づき、体育館横の渡り廊下に楽器を搬入していると、ふと中庭を挟んだ反対側の棟にだれかと話す橘を見つけた。橘の姿に反射的に心が跳ね上がり、直後急落する。橘の向かいには奥山先生が立っていた。
 なにを話しているのかはわからないけれど、橘は屈託のない笑みを浮かべていて、心を開いているのが手に取るようにわかってしまう。

 やめろ、橘。他の男にそんなふうに笑わないで──。

 そのとき、奥山先生が橘の頭をぽんぽんと優しく叩いた。するとその手の下で橘が、照れたように表情を溶けさせて。

 その光景を目の当たりにして渡り廊下の真ん中で立ち尽くし――けれど背後から鷹野に声をかけられる。

「おい、叶芽、どーした?」
「いや……なんでもない」

 心に立ち込めた暗雲をどうすることもできず、けれど鷹野にそれを悟らせるわけにはいかないので、ドラムタムを抱えて再び歩き出す。
 ……だめだ、今はこのあとのライブに集中しなければ。

 そのとき、体育館の中から歓声が聞こえてきた。ダンス部のパフォーマンスで湧き上がっているらしい。
 下へ下へと引っ張られている気持ちを無理やり絶ち、エスクワイヤーを肩にかける。そしてステージ袖にあがった俺は。

「……げ」

 思わず苦虫を噛み潰したような表情になっていた。
 そこには学校祭Tシャツを着て機材のセッティングをする姫野の姿があった。そういえば姫野は学校祭の実行委員だった。
 姫野はこちらを一瞥すると、澄ました顔で視線をふいっと外す。

「マイクの高さを調整するので」

 まるで俺だけが意識しているような振る舞いにカチンとくるが、大人げない態度はとりたくないので、渋々マイクの前に立つ。
 姫野はその場にしゃがみ込み、俺の口元の高さに合わせてマイクスタンドのネジを緩め始めた。

 ヒリつくような無言の時間。
 本番前に気持ちをかき乱されないよう、なるべく意識の外に追いやろうとしていると。

「……オレはぶつかったから」

 顔を上げもせず、姫野がぽつりと呟いた。

「は?」
「まあ、綺麗に散ったけど」

 自嘲的に苦笑する姫野。
 そしてネジを締めきると、姫野が立ち上がった。目線の高さが同じになり、視線がぶつかり合う。この双眸はいつだって対抗心剥き出しで俺を捕らえる。

「だからあんたも本気でぶつかれよ」

 なにに、とは言わなかった。けれど言葉にせずともわかった。
 だから俺は真っ直ぐに姫野の瞳を見返し、言い放つ。 

「望むところだ」

 俺の宣言に返事もなく、姫野は踵を返す。
 まさか敵に塩を送られるとは思ってもみなかった。けれど姫野のおかげで背筋がしゃんと伸びた気がする。

「いよいよだな」

 姫野と入れ替わるようにしてやってきた鷹野が、背後から俺の肩を叩く。

「ああ」

 ステージから漏れてくる熱気は、パフォーマンスが佳境に差し掛かっていることを伝えてくる。
 スポットライトの眩しいステージを見つめていると、鷹野が俺の顔を覗き込み、にやりと口角を上げた。

「緊張してるかと思って声かけたけど、全然大丈夫だったな。今のお前、やってやるって顔してる」

 そのとき暗幕の向こうから割れんばかりの拍手と歓声が響き渡り、ステージ横で膝を突き暗幕に身を隠しながら待機していたスタッフの生徒が俺たちに指示を出す。

「軽音部さん、よろしくお願いします!」

 楽器がセッティングされた無人のステージに向かって歩きながら、鷹野が吠える。

「よっしゃ! かますぞ、お前ら!」

 そしてついに幕が上がる。



 照明の落ちたステージにあがると、さっきまで揺れていた体育館がしんと静まり返った。
 まだ残っている前のバンドの熱気を、俺たちの色に染めてやる。そう心の中で宣言し、スタンドマイクに手をかけ一曲目のタイトルをコールした。

「"0時のアルタイル"」

 俺の声を合図に、一斉に音が走り出した。後ろからみんなの奏でる音が追ってくる。
 それを追い風に、俺は喉を開放して声を乗せた。自分の声を包み込むように幾重にも折り重なる音に、耳から体の芯へびりびりと電流が走る。
 この感覚は久々のようで、けれど中学のときや練習のときとは比べものにならない。体の底から湧き上がるのは、荒々しい興奮だ。こんな凄まじい感情を俺は知らない。

「白王子がボーカルとか聞いてないんだけど!」
「やばい! かっこよすぎる……!」

 ざわめき声が耳に届く。
 この中のどこかに橘はいるだろうか。見てくれているだろうか。

 体育館のボルテージが熱を増していく。
 疾走感溢れるアップテンポな1曲目、そしてゆったりとしながらもダークなロックの2曲目。まったく違う質感の曲を2曲続けて披露し、会場中の心を掴んでいる実感がたしかにあった。

 そして休む間もなく2曲を走り切り、興奮の渦の中、俺はスタンドのマイクを握る。頬を滴る汗がスポットライトを受けて光った。

「次が最後の曲になりました」
「えー!」
「やだーっ」

 惜しむ声が次々と響く中、一筋の声を放った。

「それじゃあ聴いてください、"トロイメライ"」

 息を吸い、そして愛を囁くように音色を吐きだす。

『ねえ、明日目を覚ました君はなにを想うの』

 アカペラに合わせて、楽器たちが再び目を覚ました。

 これはラブソングだ。君という存在に出会って、モノクロだった"僕"の世界が色彩を帯びていく歌。
 そして奥山先生が橘に教えた歌。

『もう君のいない世界の色を思い出せない』

 そのとき、大勢がひしめき合い、電気の落ちた暗いフロアの中に、まるでそこにだけ色がついているみたいに俺の目は橘の姿を捉えた。橘の隣には奥山先生の姿があった。きっと橘が奥山先生を誘ったのだろう。
 けれどもう迷わない。俺はただぶれることなく橘を想い続けるだけだ。

 じっと唇を引き結び、俺を見つめてくる橘。一瞬もそらすことなく、瞬きさえ惜しむような真剣な眼差し。
 俺はその視線を捕らえたまま、愛おしさに表情を緩めた。そしてただひとり、橘に向けて歌う。

『今、君に届けたいんだ 心から愛してる』

 この曲を選んだのは、言うまでもなく橘に届けたかったからだ。
 橘の中で奥山先生の思い出で染まったままのこの曲を、俺が上書きしたかった。この曲を聴いて思い出すのは、俺であってほしい。
 これが俺のラブコールだ。この声を、想いを、君に捧ぐよ。

『永遠の愛を誓うから 君の隣でずっとずっと――』

 鷹野のドラムのかき鳴らしが聴こえてきた。曲の終わりを告げる合図だ。
 無我夢中で歌っていた俺は、頭に酸素が回らずマイクスタンドにやっとのことでしがみついていた。このままステージにぶっ倒れそうだ。
 けれど視線は一瞬たりとも橘から離さなかった。そして橘も、直向きな眼差しで俺だけを見ていた。