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「痛……」
ギターをかき鳴らしていた指先を見れば、まめが潰れていた。
隣で水筒のドリンクを呷っていた鷹野が、俺の手元を覗き込んでくる。
「どうした、叶芽。って、うわ、めちゃくちゃ痛そう」
「触ってないうちに指の皮が薄くなっちゃったんだよな」
手をぐーぱーと閉じて開いてを繰り返し、指の筋肉をほぐす。
すると鷹野が水筒を足元に置き、腰に手を当て、俺に向き合った。
「本気なんだな」
今日は全体練習の日ではない。けれど練習をしていないと落ち着かなくて、ひとりで部室で個人練習をしていると、そこに鷹野もドラムを叩きに来たのだ。
俺を見つけた鷹野には、「お前ってそういう熱血キャラじゃないと思ってた」と驚かれた。
「俺らがお願いしておいてなんだけど、少しくらい手抜いたっていいんだぞ。ステージに立つのは今回きりなんだろ。一回だけのために、そんなに頑張らなくても……」
鷹野が俺に気を遣ってくれているのはわかる。だけど俺は今回のステージで手を抜く気はなかった。
ある人に聴いてほしい、そのために俺は歌うのだ。
サポートメンバーとして手を貸す代わりに、この機会を利用させてもらう。それは事前に鷹野には伝えてあった。
「中学のときなんてそれこそ女の子たちに言われるままって感じで軽音やって、本気になるのなんてダサいと思ってたし、本気でなにかに打ち込む奴らを馬鹿にしてた」
前は歌うことに意味なんて求めてなかった。楽譜通りに歌って、スポットライトを浴びて、きゃーきゃー歓声を浴びて、それだけで満足していた。
けれど明確な意思を持ち、届ける相手がいる行き先の決まった歌が、こんなにも芯の通ったものになるとは知らなかった。俺はずっと空っぽの歌を歌っていたのだと、恥ずかしながらようやく気付いた。
「でも今は、一回きりだとしても、その一瞬のために本気になりたい」
すると鷹野はじいっと俺を見つめ、そして一言。
「……くさいな」
「くさいってなんだよ。そこはかっこいいでいいだろ」
ひとりでぶつぶつ文句を言いながら、校門の前にしゃがみこみ頬杖をついて悪態をつく。
自主練を終えても直帰することなく、校門の前である人を待っていた。
校門の前で待機していると、通りすがりの女の子たちが声をかけていく。
「叶芽、なにしてんの。女の子でも待ってるの?」
「うん、ちょっとね」
「叶芽くん、ばいばーい」
「ばいばい」
顎を上げ、空を見上げる。
日が伸びたとはいえ時刻は19時前。淡い紺色の空に星が瞬いている。
19時で校舎は施錠されるが、ぎりぎりまで頑張っているようだ。
するとそのとき、背後から声が落ちてきた。
「久遠?」
もうすっかり耳に馴染んだ声。
どうやら待ち人が来たようだ。
立ち上がり振り返れば、そこにはやはり橘が立っていた。
「お疲れ、橘」
「こんなところでなにしてるんだ?」
「ん? 橘のこと待ってた」
さらりと、けれど変に誤魔化さずに伝える。
すると橘は眼差しを斜め下に落とし、小さな声で呟いた。
「……俺もなんとなく、お前に会いたいと思ってた」
……え、なにそれ。これは反則級の可愛さでは……?
あまりのストレートパンチをくらい昇天しかけるが、橘が素直すぎることにふと違和感を覚える。
「なんかあった?」
そっと尋ねれば、橘が俺を真っ直ぐに見返してきた。
「大丈夫」
そこにはたしかな意思が宿っている。
橘が大丈夫だと言うのなら、きっと俺が無理に干渉するのは野暮だろう。俺はその話題をそっと置いた。そして代わりに心配していたことを問う。
「あれから体調は大丈夫?」
「うん、もうすっかり。あのときは助けけてくれてありがとう。あんまり覚えてないんだけど、いろいろしてくれたって笑那から聞いた」
「まあ、いろいろとね……」
数日前のあの日のことがありありと思い出され、ばつが悪くて曖昧に濁す。
襲いかけたときのことは覚えていないらしく、正直助かった。あのときは暴走しすぎたと猛烈に内省している。
気まずくてやっぱりこれまた話題を置き、俺はポケットを探った。
「それで本題なんだけど、久遠にこれ渡したくて」
取り出したのは、軽音部ライブのフライヤーだ。
「学校祭で軽音部のサポートメンバーとして曲披露するんだ。それを橘に見ててほしい」
フライヤーを渡すだけなのに、まるで一世一代の告白のような緊張感だった。
硬い表情でフライヤーを差し出せば、橘は柔く笑んでそれを受け取った。
「わかった。見に行く」
橘の答えを聞き、安堵で心が脱力する。
「よかった……興味ないって断られるかと……」
「俺をなんだと思ってるんだよ」
「だよね」
「最近準備してるの、これだったのか」
「うん、結構頑張ってるよ」
言葉や合図はなかったが、自然と同時に足が動いて並んで歩き出す。
他愛ないささやかな会話、穏やかに流れる時間、そのすべてが愛おしかった。