「叶芽、香水変えた?」

 シャツの襟元を広げた俺の首筋に顔を埋め、モモハちゃんがくんくんと匂いを嗅ぐ。

「あ、わかる?」
「わかる! モモハ、前の匂い好きだったから。でも新しいのも好き~」
「同じブランドなんだよね」

 放課後の自習室。俺は同じクラスのモモハちゃんと、お楽しみの時間を過ごしていた。
 古い棟にあるこの自習室がほとんど使われていないことを、モモハちゃんが教えてくれたのだ。

 モモハちゃんに彼氏がいることも、俺に彼女を作る気がないことも、お互い了承済み。こういう割り切った関係は楽だ。

 自習室の机に座ったモモハちゃんにキスをしようとしたとき、不意にポケットの中でスマホの着信音が鳴った。

「出ていい?」
「いいよ」

 スマホに表示された名前を見て、モモハちゃんも電話の相手が女子であることはわかったはずだ。それでも頷いてくれるモモハちゃんはやっぱりいい子で助かる。
 モモハちゃんににこっと笑いかけ、電話に出る。

「もしもし、ユイカちゃん?」
【やっほー。叶芽、なにしてんの?】
「ん? 今は自習中」
【え~? いつからそんな真面目くんになったの?】

 そんな会話を聞いていたモモハちゃんが、悪い顔をしたかと思うと首筋にキスをしてきた。
 くすぐったさに笑いを耐えながら通話を続ける。

「そういえばユイカちゃん、髪切ってたでしょ。今日ちょっと見かけたんだけど、可愛くて……」

 声が途切れた。
 ガラガラッと音をたてて、自習室のドアが開いたからだ。
 スマホを耳に当て、首に腕を絡められながら、そちらを見る。そこには橘希純が驚いた顔で立っていた。

「えっ、黒王子!?」

 モモハちゃんの声ではっと我に返る。

「ごめんね、ユイカちゃん。ちょっと電話切るわ」

 一方的に通話を切り、橘の方を見る。
 橘は俺たちの邪魔をしておきながら、怯みも悪びれもせず、無愛想な顔でそこに立っている。

「自習、したいんだけど」

 モモハちゃんはその声にびくんと肩を揺らすと、この場を目撃されて決まりが悪いのか「じゃあね、叶芽、また!」とだけ残し、逃げるようにそそくさと自習室を出て行った。

 残された俺は自分の肩に手を置き、水を差されたことへの苛立ちを吐き出す。

「はーあ。邪魔しやがって」

 橘のせいですっかり興が醒めた。
 はだけたシャツのボタンを閉めながら、橘の横を通り過ぎようとする。……と、橘の視線がこちらに向けられていることに気づいた。

「なに」

 同じくらいの高さに目があって、視線がぶつかる。俺を見る目には静かな軽蔑の色が滲んでいた。

「そういう恋愛って虚しくないのか。なに不自由なく恋愛できるくせに」
「……は?」

 思いがけない言葉に、俺は目を見張る。

「それ、橘に関係ある? そんな偉そうなこと言えんの?」

 すると橘がふいっと視線を逸らした。

「いや。可哀想な奴だなと思って」
「なっ……」

 ――カチン。抑揚のない声に、ぴくりと頬の筋肉が引き攣る。
 俺が可哀想だって……? なんだよ、それ……。
 人に興味ないってツラしておきながら恋愛を語るなんて、それならお前はさぞ大層な恋愛をしてるんだろうな……っ?

 翌日も、俺の苛立ちは一向に収まらないままだった。

「どーした、叶芽。なんかイライラしてる」
「カルシウム不足か」

 俺のイライラは目に見えてわかりやすいらしく、のんたと隆二に揃って突っ込まれてしまった。

「いや……」

 教室の窓際の席に座り、窓の外を見つめる橘を見やる。
 まったく気取りやがって。やっぱりあいつは鼻につく。

「橘って女いんのかな」

 ぽつりとこぼした声に、のんたが食いついてくる。

「え、黒王子? なんで?」
「いや……なんとなく気になって」
「僕は聞いたことないなあ。隆ちゃんは?」
「俺も特にこれといった話は聞いてない」

 するとのんたが、人差し指と親指をたてた右手を顎に当て、名探偵のように決め顔を作る。

「でもまあ、年上の女教師と付き合ってそうな雰囲気はあるよな。人妻の美人教師」
「アダルトだな」
「夜の授業始めるわよ~、みたいな?」
「はは、なんだよそれ」

 悪ノリをするのんたに、俺は笑う。
 そうやって、あいつの恋愛なんて俺にとっては取るに足らないものだと笑い飛ばした。