どさり。
 橘の体をゆっくりベッドに横たえる。

「まったくびっくりしちゃったわよ。急に叶芽が熱出たなんて。たまたま近くにいてよかった。ま、久遠くんから連絡がきたら、どこにでも飛んでいくんだけどね」

 ベッドを挟んで向かい側で、笑那さんが肩を竦める。

「ほんとに助かりました」

 俺は笑那さんに頭を下げた。
 橘のマンションに向かったはいいものの、眠る橘をおぶったままオートロックのマンションに入ることはできないことに気づいた。
 けれどこの間笑那さんと連絡先を交換しており、笑那さんにダメ元で連絡をしてみたところ、近くに住む友達と遊んでいたらしい笑那さんが駆けつけてくれ、鍵を開けてもらえたのだ。

「それはこっちの台詞よ。うちの弟がすっかりお世話になっちゃって」

 笑那さんが姉の貌で笑う。そして眠る橘を見つめる眼差しには慈愛が満ちていた。

「じゃあ私は叶芽の夕飯とか買い出しに行くから、ちょっと出かけるわね。心配だから留守番だけお願いしていいかな」
「もちろんです」

 頷くと、笑那さんが買い出しに出て行く。
 残った俺は、橘が眠るベッドに腰を下ろした。座ったのに合わせてスプリングが沈む。

 学校祭が近づき、学校祭委員の橘は毎日慣れない環境で頑張っているらしい。その疲労も祟ったのかもしれない。
 時計の秒針の音だけが部屋の中に響き渡る。

「橘」

 そっと呼びかけると、橘の睫毛が揺れて目が開く。焦点の定まっていない視線がわずかにあたりを彷徨い、そして俺を見つけた。

「久遠……? あれ、俺どうして……」
「体調を崩したから、家まで連れて帰ってきたんだ。まったく心配したよ」
「そっか……悪かったな」

 一度は目を覚ましたけれどぼんやりしていたし、熱のせいで記憶は曖昧なのだろう。
 俺はベッドに座ったまま、橘を柔く窘める。

「頑張りすぎだよ。毎日居残りで準備してるんだろ」

 すると橘は、ごにょごにょと口ごもる。

「だってお前も頑張ってるし……」

 ――愛おしい。だからこそ、体の芯に詰まるしこりを自分の内で溶かすことができない。

「最近、仲良いの? さっき保健室にいた奴と」

 冷静に努めようとしたのに、心なしか声が尖った。
 けれど多分橘は気づいていない。

「冬馬のこと? うん、いい奴だよ。勝手にだけど友達だと思ってる」

 ──冬馬。名前の下で呼び合うくらいには仲がいいらしい。
 胸の奥でぎりりとなにかが不快な音を立てる。

「体調は?」
「んー……なんかまだ頭がくらくらする」

 額に腕を当てるのに合わせ、襟からちらりと鎖骨が覗いた。
 ――けれど俺はその下を知らない。
 心の奥に蓋を締めて閉じ込めておいたどす黒い感情が自我を持つ。

 後ろ手をついて上体を倒せば、ぎしっとスプリングが軋んだ。橘の顔に、俺の影がかかる。
 そして俺は、状況がわかっていない橘の目を真上から見下ろしたまま囁いた。

「ねえ、橘。じゃあさ、もっと頭おかしくなるやつしよっか」
「え……?」

 額に当てられていた手首を掴み、ベッドに押しつける。

「久遠、いきなりどうしたんだよ」
「いいじゃん、なんでも」

 まるで表面張力でぎりぎりの均衡を保っていた欲望が、なにかをきっかけに決壊し、溢れたようだった。欲望は俺の手を離れて、どんどん俺自身を侵食していく。

 橘の体に覆い被さり、首元に顔を埋め、そこにキスを落とそうとしたとき。

「……すー……」

 柔らかい吐息が耳にかかり、俺は固まった。
 ……え、まさか。うそだろ。
 恐る恐る体を起こせばやはり、橘は眠りに落ちていた。
 この状況で寝るのかよ……。それは残念なような、けれどそれ以上にほっとしたような。

「はぁ……」

 俺は溜め息と共にぼすんと橘の横に倒れ込んだ。
 今、なにしようとしたんだよ俺。病人に手を出そうとするなんて最低すぎる。

 俺の気も知らずすやすやと眠る橘を、鼻先が頬に触れそうなほどの距離で見つめる。
 まったく俺の気も知らないで。

「お前、無防備すぎ。なに他の男に隙見せてんだよ」

 白く柔らかい頬を指でつつきながらぶつけた文句の呟きは橘には届かず、白い壁に吸い込まれていく。

 自分がこんなに嫉妬深いことを知らなかった。
 橘に出会って俺はずいぶん変わったけれど、その実それはきっと本当の自分なのだ。