……はあ、めんどい。
 学校祭実行委員の集会のため、オレ――姫野冬真は昼休みになると小会議室に招集されていた。
 小会議室に集まった各クラスの実行委員は、みんなつまらなそうな顔で集会の開始時間を待っている。

 学校祭なんて一番嫌いな行事かもしれない。
 わいわい騒ぐ奴らは最も苦手な人種で気が知れないし、学校祭特有の浮かれた空気は肌に合わない。
 そんなオレがどうして学校祭委員になったかと言えば、やりたい委員会もなくどこにも立候補せずにいたら、余り物がオレに割り当てられたからというわけだ。こんなことなら適当にでも手を挙げておけばよかった。もっと楽な委員会はほかにもあっただろうに。

 まあ、適当にやり過ごせばいいだろう。オレは着の身着のまま流されるまま。
 頬杖をついてあくびを噛み殺していたとき、静まり返っていた小会議室がわずかにさざ波が立った。
 何気なくみんなの視線に倣ってそちらを見たオレは、小会議室に現れた希純の姿を捉えていた。

「希純……?」
「あ、冬馬。よかった、知り合いがいて」

 希純がわずかに微笑んで、オレの隣に座ってくる。

「もしかして希純も学校祭委員?」
「うん、そうだ。よろしくな、冬馬」

 ……やっぱり、学校祭は最高の行事かもしれない。



「それでは実行委員会を始めます。まずは実行委員の仕事を分担していきたいと思います」

 開始時間ぴったりに3年の実行委員長が現れ、委員会が始まった。
 学校祭委員は各クラスの出し物の準備を取り仕切るだけでなく、学校祭実行委員会にも属し、学校祭全体の運営を任されることになる。

 委員長が仕事をひとつひとつ説明し終えたところで、挙手制による役割分担がおこなわれる。

「じゃあ次、学校祭Tシャツ作成係を希望する人」

 委員長の声に、隣ですっと手が挙がったのに気づく。見れば、橘が手を挙げていた。
 するとそれまで様子を窺っていた女子たちが一斉に手を挙げる。

「お、多いな? じゃあ……」

 委員長が視線を彷徨わせ、人選しようとする寸前、オレは思わず手を挙げて立ち上がっていた。

「あの! オレ、やる気あります! 自信あります!」

 ……って。どうしちゃったんだよ、オレ。



 結果、並々ならぬ熱意を買われ、オレはTシャツ作成係に任命された。希純と共に。
 壮絶な争奪戦を見事勝ち抜き、希純とふたりきりの座を獲得したのだ。

 オレたちは放課後になると、さっそく空き教室でTシャツのデザイン考案に取り掛かっていた。

 とは言え、やる気も自身もあると豪語したオレの美術の成績はC評価。そんなオレにTシャツデザインのセンスがあるわけがなく。
 なんの戦力にもならないオレの横で、希純はコピー用紙にすらすらとデザインを描いていく。

「すごいね、希純」
「そう? でもこういうちまちました作業好きなんだよね」

 希純は美術センスもピカイチらしい。まるで頭の中から次から次にイメージが湧いてくるというようにペンを動かす。
 黙々とデザインを描き進めていく希純の横でオレはと言えば、頬杖をついて、真剣な眼差しの希純の横顔に見惚れていた。希純が集中しているのをいいことに、無遠慮な眼差しをぶつける。
 まるで神様が丁寧にひとつひとつのパーツを形作り、それらが一ミリの寸分もなく配置されているようだ。

 横顔を見つめていると、不意に希純のピアスが前のものと変わっていることに気づいた。前は透明なストーンだったのに、黒いフープピアスになっている。

「希純、ピアス変えたんだ」

 声をかけると、希純が手を止めてオレを向く。

「よく気づいたな」
「まあ、よく見てるもんでね。前のももちろんよかったけれど、今の方が希純に合ってる気がする」

 すると希純がピアスに触れた。

「ピアスホール、久遠が開けてくれたんだ」
「え?」

 久遠って、白王子のことだよな? ピアスホールを開ける仲なのか……?
 心になにかがつっかえて、靄が立ち込めて雲行きがあやしくなる。
 悶々とするその横で、ふと希純が顔を上げた。

「できた。どうだろう?」

 現実に引き戻されたオレは、心に湧く疑念を振り払い、希純のすぐ横に椅子を寄せてコピー用紙を覗き込んだ。
 Tシャツの中心には高校名のイニシャルが描かれ、それを囲むように生き物や植物など細かくて繊細な線画が描き込まれている。

「すご……」

 想像をはるかに超える技巧さに、思わず感嘆の声を漏らす。

「これで提出しようよ。これがいいよ」
「そうか?」
「うん、めっちゃいい」

 すると希純が綻ぶ。「そう言ってもらえると嬉しい」と言って。

「希純ってすごいな」
「急にどうした?」
「なんかオレが持ってないものばっかり持ってるなあって」
「それを言うなら俺の方だよ。俺はあんなふうに飛べないんだから」

 希純はいつもオレを肯定してくれる。それでオレがどれだけ救われているか、君はきっと知らない。

 と、そのとき。間近で見る希純の顔が赤いことに気づいた。心なしか目がぼんやりしている気もする。

「あれ、希純。顔赤くね? 体調悪い?」
「ん……なんとなく怠い気がする」
「まじ?」

 襟から覗く白い首筋に手を当てれば、たしかに熱い。熱があるようだ。

「熱あるじゃん。家族に迎えに来てもらった方がいいよ」
「いや、俺ひとり暮らしだから」
「ひとり暮らしっ? じゃあとりあえず保健室行くよ」
「でも……」
「このまま帰すわけにもいかないし。ほら、早く」

 希純の腕を引っ張り、無理やり保健室に連れて行く。
 けれどこんなときに限ってミエコ先生は不在で、オレは心許なさを感じながら、希純をベッドに寝かせる。

「待ってて、今冷やすもの持ってくるから」
「悪い……」 

 病人を看病するなんて初めてのことだ。こういうときどうすればいいかわからないけれど、とりあえず体を冷やすことが先決……のはず。
 失礼しまーすと心の中で一応挨拶をして保健室の棚を漁り、熱冷ましシートを見つけた。

「希純、熱冷ましシートあった……」

 カーテンの向こうの希純に駆け寄り、途中で声を飲み込む。
 ベッドに横たわる希純は、いつの間にか眠っていた。

「寝ちゃったか」

 オレはベッド横の丸椅子に腰を下ろすと、前髪をそっと除け、熱冷ましシートを額に貼る。
 冷たさにぴくりと瞼が揺れたけれど、希純は目を覚まさない。

 耳を澄まさなければ聞こえないほどかすかな寝息をたてて眠る希純を見つめる。
 うなされていないといいけれど……そう思いかけてふと、ほんのり朱がさした唇から目が離せなくなった。

 ……希純に、触れたい。

 まるでオレ自身が熱に浮かされたように、頭の中がぼんやりとして、まともな思考が働かなくなる。
 そして希純の頬をそっと撫で、覆いかぶさるように希純の寝顔に唇を寄せたとき。希純がオレの指の背に頬を摺り寄せ、呟いた。

「久遠……」

 希純の唇から熱い吐息が漏れ、あと数センチで唇が触れ合うというところで固まる。

「え?」

 表情がほどけて甘えるようなその仕草に、心が一気に熱を失い変な形にひしゃげる。

 ねえ、やめてよ。他の男の名前を呼ばないで。
 込み上げる苦い感情に、表情を歪めたとき。

「……橘!」

 突然、一筋の声が静寂を切り裂き、保健室に人が入ってきた。
 振り返れば、なぜかそこには久遠が立っていた。

「橘は、大丈夫なのか……っ?」

 まるで希純の声を聞きつけ飛んできたかのようなそのタイミングに、ははあー……と心の中で嘲笑する。ここで王子さまが登場ってワケ。で、オレは名前すらも与えられないモブってところ?

 いつもムカつくくらいに爽やかを気取っている男が、冷静さを忘れて肩を大きく揺らしている。それがオレにはなんでか滑稽に見えた。
 ……馬鹿らしい。

 ささくれ立った心を隠しもせず、オレは久遠に棘を向ける。

「あんた、急になに」
「保健室に入るふたりの姿を見たって、人に聞いたんだ。でも大事にはなってないみたいで安心した……」

 久遠は前髪をかきあげながら溜め息を吐き出し、そして改めてと言うようにオレを見た。

「ありがとう、橘を連れてきてくれて。もう大丈夫だから」

 ……は? オレは用済みだって?
 呆然と立ち尽くすオレの前を、こちらを見向きもせず久遠が通り過ぎた。

「橘」

 そしてわき目も降らず希純の元に向かうと、首の辺りに触れ、体温を確認している。

 こいつは、こっちに入って来るなとオレの前に明確な線を引いたのだ。
 自分でもわからない黒い感情がこみ上げ渦を巻く。
 ぎりっと拳を握りしめていると。

「……なあ、お前。さっき橘になにしようとしてた?」

 橘の頬をそっと撫でながら、こちらを振り向きもせず、久遠がぼそりと声を落とす。

「え?」
「変な気起こしたわけじゃないよな」

 その声は低く冷え切り、決して声を荒げられているわけではないのに、それがかえって背筋が凍りつかせる。
 けれど、黙ってやられるわけにはいかなかった。希純のことだからこそ尚更だった。名もないモブにだって、譲れないものはある。

「希純ってさ、」

 オレが放ったその名前に、ぴくりと久遠の肩が揺れる。

「鎖骨の下にほくろがふたつ並んでるって知ってる?」

 多くは語らずとも、それは明確な牽制の意だった。
 けれど久遠もまた引く気はないようだった。

「こいつは俺のだから。だれにも渡さない」

 そのとき、不意に橘の瞼が揺れ、色素の薄い瞳が現れた。熱のせいか赤く潤む瞳は、目の前の久遠を映す。

「ん……久遠……?」
「うん、俺だよ。帰ろう、橘」

 別人かと思うほど柔らかい声をかけ、橘の体を起こすと、まだ力の入っていない体を軽々とおぶる久遠。
 そしてすれ違いざま、ちらりとこちらを一瞥し、低い声を吐き出した。

「お前には奪わせねえよ」

 久遠が橘をおぶって保健室を出ていき、ひとり残されたオレは思わず笑った。
 いつも遠目に見てへらへらした久遠の、あんな黒い顔を初めて見た。
 だれだよ、白王子なんて呼び始めた奴。全然白くないじゃん。