放課後、ドラッグストアでピアッサーを買うと、橘と共に彼の家へ向かう。
 今日開けてしまおうと話をまとめたのは橘で、ピアスホールを開けたいと言ったもののこんな急展開になるとは考えていなかった俺は、橘の家へ向かっている今もなお軽く混乱している。
 だって好きな人の家に初めて行くのだ。冷静でいられるわけがない。

「なあ、本当にこんな急にお邪魔していいの?」

 内心焦りながらそう聞くと、橘はさらりと返してきた。

「うん、俺ひとり暮らしだし」
「えっ?」

 橘がひとり暮らしだったなんて聞いていない。
 家族がいない家に意中の相手とふたりきり……? そんな絶好の機会があっていいのか……?
 ……いやいや、絶対襲わないぞ、と手が早い俺の本能にきつく言いつける。

「でもどうしてひとり暮らしを?」
「生まれはこの町なんだ。でも父親の転勤で中3のときにこの街を出た。で、少しだけそっちに住んでたんだけど、バイトで金が貯まったから俺だけこっちに戻ってきたんだ」

 淡々と言葉を並べる橘の声を聞きながら、ひとり暮らしをするまでに橘を突き動かしたのは多分奥山先生の存在なんだろうなと、根拠のない憶測は俺の中でたしかな輪郭を持った。

 そんなことを考えているうちにマンションに着き、橘が住む3階に上がる。

「あ、そういやなんも差し入れ買ってこなかったな」
「いーよ、そんなの」

 そんな会話を交わしながら橘が鍵を開けようとする。けれどその直前、ガチャリとドアが開いた。そして勢いよく女性が現れる。

「おかえり、希純!」
「えっ?」

 まさか橘の家から女が出てくるとは思わず唖然としてしまう。
 そんな俺の横で、橘が女性を諫める。

笑那(えな)……来るときは連絡くらいしろって」
「ごめんごめん。こっちを通りかかったからあんたの生存確認に来たの」

 長いブロンドの髪を携えた美人だ。しかも名前で呼び合い、橘の家の合鍵を持っているくらいには親しい間柄らしい。

「えっと……」

 突然の美女の乱入に困惑の声をあげると、橘がこちらを向いて説明をしてくれる。

「ごめん、久遠。こいつは姉貴の笑那」
「お姉さん?」

 意志の強そうな涼やかな目元に、すっと通った高い鼻梁。言われてみればたしかに似ている気がする。纏う雰囲気はまるで正反対だけど。

 するとそこで初めて俺の存在に気づいたらしい笑那さんが、いきなり飛びついてきた。

「ちょっと待ってよ、なにこのイケメン! 私の推してるKぽアイドルに超そっくりなんだけど!」
「け、けーぽ……?」

 俺の両手をがっしり掴み、ぶんぶんと上下に振る笑那さん。

「おい、笑那」

 橘が間に割って入ってくれようとするけれど、笑那さんは俺の手を離さない。

「はあ~、ほんとイケメン……! 私と写真撮って!」
「もちろんです」

 こう言うのもなんだけれど、心証のいい笑顔の作り方は熟知している。橘のお姉さまにいい印象を持ってもらいたくて、にこにこと得意な笑みで頷く。
 すると橘が耳打ちしてきた。

「ごめん、久遠。姉貴はイケメンに目がないんだ」
「はは、大丈夫」
「もう……」

 お姉さんの扱いに手を焼いている橘はなんだか新鮮で、これまた可愛かった。



 初めて足を踏み入れた橘の部屋は、余計なものがなく最低限の家具だけで構成されていた。
 ひとり暮らしにも関わらず、洗い物が溜まっているわけでも衣類が散らかっているわけでもない。きっと綺麗好きなのだろう。
 そして部屋中に橘のシトラスの香りが漂っていた。

 そんな部屋の中央に据え置かれたローテーブルの向こうで、頬杖をついた笑那さんがにやにやと笑う。

「それにしても希純に友達がいるとはねえ」

 さっきどんな関係なのかと問われ、俺たちの関係性を的確に表現する言葉が見つからず、けれどただのクラスメイトでは寂しかったので、咄嗟に友達だと答えたのだ。

「まあ、俺が仲良くしてもらってる感じですけど」

 橘がキッチンでお茶を淹れてくれている間に、俺と笑那さんは一対一で顔を突き合わせていた。

「ちっとも可愛くないでしょ、希純。お母さんのお腹の中で、希純の分の陽気さまで私が吸い尽くしちゃったんだよね」
「はは、なるほど。でも……可愛いんですよね、すごく」

 愛おしさが込み上げ笑みが深まる。それは体裁を気にしたものではない、本心からの笑みで。

「そっか」

 俺の答えに満足そうに笑うと、笑那さんが「よしっ」と立ち上がる。

「じゃ、私はそろそろ帰るから、久遠くんはゆっくりしていってね」
「え、もう帰るんですか?」
「うん、若い子たちの邪魔するわけにもいかないからね」
「邪魔なんてそんな……」

 そのタイミングで、トレーの上に3つの麦茶を乗せた橘がやってきた。 

「帰るの?」
「うん、またすぐ来るわ! ふたり共、じゃーねー!」

 まるで嵐のようにあっという間に去っていく笑那さん。
 その姿を玄関前でふたりで見送ったところで、橘が壁にもたれかかる。

「なんかどっと疲れたわ……」
「そう? 俺は楽しかったよ」

 まじ?って信じられないものを見るかのような顔で見てくる橘。

「笑那に変なこと言われなかった?」
「大丈夫だよ。お姉さんに会えて嬉しかったし」

 また変なものを見るような目。
 笑那さんのことになると、表情豊かになるから見ていて飽きない。

 くすくす笑っていると、不意に橘が睫毛を伏せた。
 今はもうわかる。橘がこれをするのは、人より少しだけ堅い扉の奥に閉じ込めた生身の感情を俺に差し出してくれる合図だ。

「でも……さっき友達って言ってくれて嬉しかった。俺、友達なんていないから」
「橘……」

 思いがけない橘の本音に、心がとくんと揺れる。

「でもなんで久遠は俺と仲良くしてくれるの。久遠のまわりには人がいっぱいいるのに」

 勿体ないな、橘は。自分のいいところを、だれよりもわかってあげていないなんて。

「どうしてそんなに卑下してるのかわからないけど、俺は橘と一緒にいて楽しいよ」

 すると橘はそれには答えず、気まずそうに視線を上げた。

「そういえば誕生日なのに彼女のこととか考えずに家に呼んでごめん」
「え、彼女? いないけど」

 ぽかんとする。なんでそういう思考回路になっているんだ?
 するとそんな俺の驚き方を見て、橘もまた目を見張る。

「彼女ができたから連絡先整理したんじゃないのか」

 ああ、そういうことか。橘の思考回路を理解する。
 本当はお前のために女の子を切ったんだけどな。

「違うよ。でも超好きな人はいる」

 橘に向かって一歩踏み出す。
 視線に熱を込め、至近距離から橘の瞳を見つめる。色素の薄い瞳は、星屑を散りばめた黎明の空のようだ。

 橘は俺を見つめ、それからはっと我に返ったように視線を外した。

「恥ずかしいこと言ってないで、ピアスホール開けるぞ」
「そうだな」

 なぜか俺から逃げるように、足早にリビングに向かう。
 この気持ちはいつ届くのだろう。
 その背中に好き好きビームを送り、俺も橘のあとを追った。



「これ、どうやって使うんだ?」

 さっきドラッグストアで買ったばかりのピアッサーを、未知のものに触れるようにまじまじと見つめる橘。
 俺はそんな橘のことを、ベッドの前に並んで座り、見つめていた。

「使ったことないの? 前のピアスホールはどうやって開けたの?」
「え、普通に自分で安全ピンだけど」
「だめだよ、そんなの」

 本当は皮膚科で医者に開けてもらえとアドバイスするのが最善なんだろうけど、俺の手で開けたいという欲には逆らえなかった。

「でもどうして俺のピアスホールなんて」

 だって、他の男のために開けたピアスホールなんて面白くないに決まってる。
 お前に痕をつけたい。お前を傷つけたい。――そんな身勝手でどろどろな感情を言葉にできるはずもなくて。

「いつか開けてみたかったんだよな」 

 背後のベッドに肘をつき、得意の笑顔でにっこり笑って無難に受け流す。
 すると「ふーん」と橘もあまり気には留めなかったようだ。

「久遠はいくつ開いてるの?」
「俺は軟骨も合わせて左に3つ、右にふたつかな」
「結構開いてるんだな」
「まー学生のノリってやつでね」

 そんな会話を交わしながら、橘の耳を消毒していく。

「場所はどうする?」
「それは久遠に任せる」
「了解。じゃあ、いくよ」
「うん、よろしく」

 軽く顎をくいと持ち上げながら目を閉じる橘に、俺に身のすべてを委ねているのだという実感が湧く。

 ピアッサーを持つのと反対の手を伸ばし、橘の右頬に手のひらをそっと添える。こんな柔らかい場所に触れることはなかったからか、ピアッサーを掴む手に変に力が入ってしまう。
 そしてピアッサーを白い耳たぶにセットし、余計な痛みを与えないよう一気に押し込んだ。

「……ん」

 小さくもれた橘の声が、静かな部屋に響く。
 ピアッサーを外せば、小さな穴が橘の薄い耳たぶに開いていた。

「できた。痛かった?」
「や、一瞬だったから全然」
「見せて」

 耳にかかる髪を指先で除け、顔を寄せて橘の耳の穴をじっと確認する。

「ん、我ながら上出来かも」

 すると橘の肩がびくっと揺れる。

「み……耳の近くで息やめろ……」

 そう言って俺の手を振り払おうとして、なぜか力が入り切っていない橘の体がぐらついた。

「あっ、たち――」

 橘の体を抱き留めようとするも間に合わず、腕を伸ばした俺共々、カーペットの上に倒れ込んだ。

 橘に覆い被さってしまった俺は、慌てて手をついて体を起こし、

「橘、大丈――」

 はっとして声が途切れた。

 まるで橘を押し倒したような体勢だ。
 俺の下にいる橘の顔は真っ赤に染まっていて。

 くっと喉の奥が詰まるような感覚。体の内側で心臓が暴れている。
 俺は橘の体を押し倒したまま、顔の横に投げ出された橘の手に自分の手を絡めた。

「く、くどお……」

 ごつごつの骨ばった手。女の子の柔らかい手とは全然違う。
 ちゃんと男だ、男の橘が好きだ。

 ――だめだ、襲わないって決めたのに。
 まるで頭と体が離れ離れになってしまったかのように、勝手に体が動き、橘の頬に手を伸ばしかけたときだった。

「ごっめーん! 忘れ物しちゃった~!」

 明るい声と共に、突然家のドアが開いた。
 急に現実に引き戻された俺たちは、弾かれたように慌てて飛び起き、離れる。

「ん? どういう状況?」

 リビングに登場した笑那さんは、微妙な距離感で不自然に方々を見る俺たちを見て、きょとんと首を傾げた。

「あはは」

 俺は頭をかいて笑ってごまかす。
 危ない、勢い余って手を出すところだった。俺の理性は結構というかだいぶ脆いかもしれない。





「かーなめ!」

 下駄箱で靴を替えていると、突然後ろから肩に手を回された。振り返れば、俺より小さいのんたが、背伸びをして肩を組んでいる。

「おう、おはよ、のんた」
「今日の試験、勉強した?」
「ん? あんましてない」
「そうだよ、そうだよ、叶芽に聞いた僕が馬鹿だった。こいつ天才だった……」
「はは、ごめんな、天才で」
「くっ、くそ~!」

 そんなくだらない会話を交わしていると、不意に背中に声がぶつかった。

「お、おはよう、久遠」
「えっ」

 その声の主を、すぐに悟ってしまった。
 だから、振り返った俺の顔は多分我ながら間抜けなものだったと思う。

 そこにはやはり橘が立っていた。
 橘は俺と目が合うと、くるりと踵を返してすたすたと歩いて行ってしまう。それが照れ隠しなことに気づかないほど俺は鈍感ではない。

 初めて橘から挨拶してくれた……。

「わ! 黒王子に話しかけられるとか超レアじゃん」

 のんたが俺の腕を揺さぶってくるけれど、俺は橘の後ろ姿から目を離すことができない。

 颯爽と歩いていく後ろ姿。その耳には、黒のフープピアスが光っていた。