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「おはよ、橘」
「……ん」
廊下で橘と声を交わし、教室に入ると、のんたと隆二が俺を迎える。
「叶芽、なんだよさっきの。黒王子におはよう、なんて」
「え、見てたのか?」
「まあ、おたくら目立ちますからねえ。でもあんなに敵視してたのに。ありえない組み合わせすぎてびっくりだよ」
肘で俺を小突くのんた。その横で、隆二が表情ひとつ動かさずに問うてくる。
「いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」
「えーと……それはいろいろと、まあ」
頭をかきながら誤魔化す。
本当のことは口が裂けても言えないけれど、この小さな秘密を大切に抱きしめていこうと思った。
放課後、俺は職員室にいた。
昼間、体育で使ったハードルの片づけをしていたせいで提出しそびれていた課題を提出しに行ったのだ。
「失礼しました」
職員室を出ると、窓の外はいつの間にか土砂降りになっていた。今日の夕方には雨が降るという天気予報は的中したらしい。
橘は雨に濡れずに帰れただろうか。
そんなことを考えながら、教室に残したままのスクールバッグを取りに戻ろうとしたとき。数メートル先を歩く男性の姿を見つけた。男性は大きな段ボールをふたつ積み重ねて持っており、その重さによろけている。
「大丈夫ですか」
背後から駆け寄り、声をかける。
「持ちますよ」
そう言って男性を見て――驚く。奥山先生だ。
「えっ?」
突然声をかけられ驚いたのか荷物が揺れて、危うく崩れそうになった段ボールを、ぎりぎりのところで受け止める。
「あ! ごめんね、助かりました……!」
そう言ってにこにこ笑う奥山先生のフレームのない眼鏡は、斜めになってしまっている。
俺は下から上へと視線をスライドさせ、一瞬で値踏みする。頼りなさそうだし地味で平凡な男だ。橘はなんでこんな男がいいのかわからない。
けれどそんなことはおくびにも出さず、にこやかに笑いかける。
「これ、どこに運ぶんですか」
「えっと、3階の資料室なんだけど……いいんですか?」
「わかりました。大丈夫です」
「ありがとうございます」
奥山先生と並んで廊下を歩く。敵情視察さながら、俺は奥山先生を探ってやろうと試みる。
すると奥山先生が先に口を開く。
「3組の久遠くんですよね」
「はい。同じクラスの橘から先生の話は聞いてます」
「希純が僕のことを話してくれたんですか? 嬉しいなあ」
目がなくなるまできゅーっと細め、ほくほくと笑う奥山先生。
あまりに自然な響きで橘の名前が呼ばれ、胸のあたりがもやっとする。奥山先生に他意はないだろうけど、俺には立ち入ることのできない親しさをまざまざと見せつけられるみたいで。
するとそんなことを知る由もない奥山先生は、慈しむような眼差しで微笑んだ。
「希純は僕の弟みたいな存在なんです。すごく、大切なね」
「弟……」
そのとき、奥山先生の薬指にきらりと光る婚約指輪の存在に気づいた。
恋敵が橘のことを恋愛対象として見ていない。これは俺にとっては追い風以外のなにものでもない。
それなのに橘のことを思うとなぜか胸がきゅっと締めつけられる。
「久遠くんは希純と仲いいんですね。この間の放課後、教室で話す君たちを見かけたんです。僕以外に向かってあんなふうに笑う希純を初めて見ました。すごくいい子なのに、感情を表現するのがちょっとだけ苦手だから」
そして奥山先生は、俺に向き合った。そして真摯な瞳で俺を見つめてくる。
「僕が言うのもなんだけど、これからも希純と仲良くしてやってくれませんか」
認めたくないけど、少しだけほんの少しだけ、橘がこの人を好きになったのもわかる気がした。
たしかに誠実でいい人だ。でもだからこそ負けたくない。
俺は立ち止まった。そして数段先へ進んだ奥山先生の背中に声をぶつける。
「俺、あなたには負けませんから」
俺の声に気づいた奥山先生が振り返り、「えっ」とぽかんとする。
そりゃそうだ。奥山先生にとっては身に覚えのない謎の宣戦布告だ。
「ぼ、僕? 僕が君に勝ててるところなんてないと思うけど……」
一番負けたくないところに負けてるんですよ。……とは口にせず、俺は奥山先生を追い越してすたすたと階段を上る。
早く大人になりたい。どんなに背伸びをしても学生でしかないことに、妙に歯がゆさを覚えた。