橘のことばかりが気になって、ついつい目が橘を追いかける。廊下で、体育をやっているグラウンドで、食堂で。橘の姿は探そうとせずとも、なぜか引き寄せられているかのようにすぐに見つけられた。
 けれどそうすればそうするほど、橘とは住む世界が違うのだとまざまざと突きつけられた。
 いつだって女子の視線を集め、謎の魅力とカリスマ性を纏っている。まさに高嶺の存在だ。

 この間のことはほんの神様の気まぐれで、後にも先にもああいうことはもう起こらない。
 こうして橘のことを考えるのも、きっとすぐに飽きる。だって相手は男なのだ。
 ――そう、思っていたはずなのに。

「冬真ぁ、数学教えてよ」
「は? やだ」
「なんでだよ~。ほんと冬真って冷たい」
「野郎の上目遣いなんてちっとも可愛くないから」

 べっと舌を出し、テスト前だからって頼ってこようとするクラスメイトたちを一蹴し、スクールバッグを肩にかけて教室を出る。
 そうなんだよな……男なんて可愛いはずがないんだよな……。ってことはさ、今のオレのこの気持ちはどういうわけよ。
 そんなことをぼんやり考えながら、気怠い足取りで廊下を歩く。
 放課後の校舎には金管楽器の音が響く。半袖の制服から覗く肌を、じんわりと湿った熱気が覆う。
 きっともう二度と戻らない夏。人はこういう時間を青春と呼ぶのだろう。……ああ、なんかそれって虚しい。
 
 するとそのとき。

「冬馬」

 背後から声をかけられた。なんとなくその声の主はわかってしまって、けれど無視することもできずに振り返れば、そこにはやはり陸上部で同級生の高山が立っていた。
 ジャージ姿の高山は、向き合うなり強い眼差しで責めたててくる。

「なあ、もう部活に来る気はないのか」

 ……やっぱりそれか。オレは落胆しながら自嘲気味な笑みを漏らす。

「オレがもう高跳びできないの知ってて、そういうこと言うんだ」
「だってさ……後輩もお前に教えてもらいたいって言ってるし」
「あの頃のオレも記憶も、もう捨てたんだ」

 そう言い放つと、逃げるように高山を振り切る。
 
「待てよ、冬馬!」

 背中に高山の声がぶつかったけれど、オレは立ち止まらなかった。

 最悪の気分だ。あの日々にはもう固く蓋を閉じていたはずだったのに。

 下駄箱から乱暴にスニーカーを出し、地面に投げつける。そしてグラウンドに出て、少し歩いたときだった。
 ぽつり。空から冷たい雫が落ちてきて、頬に垂れた。
 え?と空を見上げた直後、バケツをひっくり返したような大雨が降ってきた。

「うわ、最悪なんだけど」

 夏の天気は変わりやすいとはよく言ったものだ、なんて感心している場合じゃない。
 グラウンドに立ち尽くす無防備なオレの体は、瞬く間に全身びしょ濡れだ。

「はあ~!」

 最高にツイてない。呪ってやる。神様なんて呪ってやる。
 苛立ちで前髪をくしゃくしゃとかきみだした時。

「雨かよ……」

 雨音の中に、透明な声を拾った。
 振り返ると、そこにいたのは――「え、橘?」
 そこにはオレと同じく突然の雨に降られたらしい、頭からびしょ濡れになった橘だった。

「姫野」

 橘が目を見張る。
 するとその背後で、突然保健室の窓が開いた。

「あらまあ、ふたりともびしょ濡れじゃないの! ふたり共、入ってらっしゃい!」

 窓から顔を出したのは、保険医のミエコ先生だ。
 土砂降りの中、オレと橘は顔を見合わせた。



「災難だったわね、あんな大雨に降られて」

 出窓から直接保健室に入ると、ミエコ先生が慌ただしくオレたちにバスタオルを放ってくる。

「今日の夕方雨が降るって天気予報知らなかったの?」
「え、まじすか」
「だから今日はどの部活も室内練習だったのよ」
「あーなるほど。どおりで人がいないわけだ」

 ミエコ先生はオレとそんな会話をしたあとで、腰に手を当てオレたちを交互に見る。

「あなたたち、替えの服は持ってるの?」

 バスタオルで髪を拭いていた橘が答える。

「体操着なら持ってます」
「オレも。今日体育で使ったやつだけど」
「ならよかった!」

 そうと決まれば話が早いと言わんばかりに、ミエコ先生はオレたちをベッドの方に追いやり、カーテンをシャッと閉めた。

「そこで着替えちゃいなさい! 体操着で帰っていいか先生たちに聞いてくるから!」

 テキパキと慌ただしい人だ。
 ミエコ先生が保健室を出て行くのがカーテン越しに映る。

 けれどこちらといえば、カーテンで仕切られた狭い空間に橘とふたりきりで閉じ込められ、否が応でも緊張せずにはいられない。
 なんだか気まずい……。
 この静けさを絶つ言葉を思案していると、不意に横で橘が制服のシャツを脱ぎだした。
 濡れて透けていたシャツの下から、白くきめの細かい肌が現れる。内臓が入っているのかと疑いたくなるほど薄い体だ。
 髪から雫がこぼれ、そして鎖骨を滑り落ちていく。と、鎖骨の下に、ほくろがふたつ並んでいるのを見つけた。

 男の体なんて着替えの時や中学のプール授業で散々目にしてきたはずなのに、なぜか見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて目をそらす。

「姫野?」

 そんなオレの不審な挙動に、橘が気づいたらしい。
 恐る恐るそちらに顔を向ければ、今度はしっかり体操着を着ていたので、オレはほっとしながら答える。

「なんでもない。っていうか、冬馬でいいよ。あんまり名字が好きじゃないから」
「そうか。じゃあ冬馬って呼ぶ」
「オレは希純って呼んでいい?」
「うん、もちろんだ」

 ――希純。自分の中で反芻すると、それは妙に心に馴染む。
 一歩どころか数段飛ばしで希純に近づけた気がして、心臓が高鳴るのを感じながらオレはずっと心に引っかかっていたことを問う。

「希純はさ、なんでオレのこと知ってたの?」

 すると希純は少し躊躇うように目を伏せ、それから静かに唇を開いた。

「ああ……それは、見てたから」
「え?」
「高跳び、やってただろ。俺、よく外を見てて……そのときに、冬馬がグラウンドで高跳びしてるのをよく目にしたんだ」
「まじ? 全然知らなかった……」
「冬馬は羽根が生えてるみたいにふわって飛ぶんだ。人間だって重力に抗えるんだって、あんなに軽やかに重力を捨てられる冬馬を羨ましいと思ってた」
「……っ」

 思わず声が詰まる。ぶわっと心の底から感情が湧き上がり、喉を締めつけたせいだ。これはなんだ、そうか、感動か。
 高跳びは、2か月前の怪我を機に辞めざるを得なくなってしまった。それからは無理やり自分から高跳びを切り離していたし、高跳びをしていた自分のことまで否定していた。
 けれど今、それがすべて報われた気がした。こんな呆気なくって笑われるかもしれないけど、本当にそれは呆気ないことだったのだ。

 希純はオレが今高跳びをしない理由を聞かなかった。でもそれで気を遣われているとは思わなかったし、無理に内側に入ってこようとしないその距離感が心地よかった。

「ありがとう、希純」

 このとき、オレの心にはたしかに羽根が生えた気がした。