「冬馬!」
「んー?」
オレを呼ぶ声がして、緩慢に振り返る。
姫野冬馬。それがオレの名だ。
みんなはオレを冬馬と呼ぶ。というより、姫野という響きが生まれてこのかた気に食わないので、名字を呼ばせないのだ。
同じような日々を繰り返すだけの退屈な人生に飽き飽きしている、そんな高校2年生。
「もう帰んの?」
「うん、カラオケ飽きたわ」
「え」
友人たちを半ば置き去りにするようにして、放課後立ち寄ったカラオケを出る。
ま、オレひとりいなくなったところでなにが起きるわけでもない。むしろひとりひとりの歌える分量が多くなるんだからよくね?
そんなことを考えながら、賑やかな駅前を離れ、ひとけのない路地を進む。
友人たちはオレのことを冷めた奴と称する。
たしかにそのとおりだ。多分オレはいろいろなことを諦めている。
情熱なんて、オレとは対極に存在する言葉だ。いつも冷静な理性ばかりが顔を出す。
「はーあ、つまんね」
空に向かって投げやりに言葉を放る。
するとそのときだった。
「お、にーちゃん、ひとり?」
背後からガラの悪い声が聞こえてきた。
振り返れば、これまたガラの悪い不良がふたり立っている。
ふたりが着ているのは隣の高校の制服だ。偏差値の低いその高校の生徒は素行が悪く、よく問題を起こしていると聞く。
「なあ、金貸してよ」
「は?」
「持ってんでしょ? 金」
……はあ、カツアゲか。
あまりのツイてなさに、心の内でため息を吐く。
しょうがない。無駄に抗っても面倒なことになるのは目に見えてるし、助けを求められるような状況でもない。ここは素直に従っておくか。それに幸か不幸か、今日の手持ちは少ない。
何事も諦める癖がついているオレは、やっぱり今回も諦めた。
「どうぞ」
「お? ずいぶん聞き分けいいじゃん」
にやにやする不良に財布を渡しかけた、そのときだった。
突然、その不良の体がぼんっと背後から突き飛ばされた。
いつの間にか現れたひとりの男が不良の背中を蹴り飛ばしたのだと、そう気づいたのはすぐのことだった。
「え!? ちょ、おい、大丈夫か!」
不良たちがそれどころじゃなくなっている隙に、乱入者が立ち尽くすオレの腕を掴む。
「逃げるぞ」
「え、」
そして有無を言わさずオレの腕を引き、走り出した。
「……っ」
なにこれ、どうなってるんだよ。
頭ではこの状況を処理しきれていないはずなのに、そのときはただこの手を振り切ったりはせず、目の前の背中を追ってみようと思った。
ミルクティー色の髪を風にそよがせるその後ろ姿が、なぜか鮮烈に瞼に焼きつく。
オレはこの男を知っている。――橘希純だ。
路地を抜け繁華街に出たところで、ようやく橘が立ち止まった。
肩を上下にさせながら橘が振り返ってくる。
あまりに綺麗な顔を突然こちらに向けられ、身構えていなかったオレは、その凄まじい威力に飲まれかける。
顔ちっちゃ……ってか肌めっちゃ綺麗……。
「大丈夫?」
「……あ、はい」
見惚れていると、突然澄んだ声が耳の中に入ってきた。イケメンは声までイケメンらしい。
ってかなんで敬語だよ……。そう自分で自分に突っ込んでいると、橘は自分がヒーローであるにも関わらず淡泊にも踵を返そうとする。
「じゃ」
シトラスの香りが逃げる前に、オレはその腕を掴んでいた。
「ちょっと待って」
振り返った橘がきょとんと驚いた顔をする。
オレは逃がすまいとでもするようにガラにもなく早口で捲し立てていた。
「助けてくれてありがとう。オレ、隣のクラスの――」
その声を遮ったのは、橘だった。
綺麗な笑みと共に、さらりと言い放つ。
「知ってる。姫野だろ」
「……え?」
思わず呆ける。突然のことに、オレの脳は呆気なく処理落ちだ。
「気をつけて帰れよ」
オレを困惑させるだけさせておいて、橘は行ってしまう。そう、それはまるでいくら手を伸ばしても掴むことのできない夏風のように。
夏のある日、交わろうとは思ってもみなかったオレの人生と橘の人生が交差した。