「久しぶり」
と、独り言のように囁きながら、目を細めてやんわりと笑う君は、オレが記憶している風貌より随分と草臥れた姿をしていた。
冷たさを感じるほど青白い肌。上辺だけ着飾られた身なりと整えられてない髪。
そして、最期に会ったときと同じ服装。
それはまるで、もう死んだ筈なのにも関わらず、この世を彷徨い続けている──謂わば、幽霊のような存在だった。
後ろを向くと、朽ちかけた造花と砂埃の被った墓。薄汚れたコンクリートの地面には、先刻まで降っていた雨が滲んでいる。
そんな中、オレたちは一年と四ヶ月の時を経て、再会したのだ。
「久しぶり……? って、え? しーちゃん? 何でここにいるの?」
オレは驚きで顔を歪ませてから、あんぐりと口を開けて問う。
「今日、お盆だからさ」
顔色一つ変えず、あたかもこの墓にいるのが当たり前かのように答えた。墓石の表面を撫でながら、寂しそうな声色を魅せた君に、オレは何を言っていいのか分からずに俯いてしまう。
「いや嘘つくなよ。気温十度とかだし、まだまだ外さみーよ」
お盆の季節に咲くことはあり得ないであろう、側に咲き誇る桜を指差す。君が居なくなる前には毎日していた会話と同じように平然とツッコんでみる。
しかし、間には沈黙が流れたままだった。
オレは分かっている。君がこんなにも辛そうな顔をしているワケを。
それでも、久方ぶりに交わした会話はどこか懐かしくて。
──無情にもあの頃を記憶を思い出させた。
※※※
放課後の風は、まだ冬の名残を引きずっている。中庭に残った枯葉が、乾いた音を立てて転がってゆく。
その向こうで、君はひとり、校舎の壁にもたれるように座っていた。薄い陽射しが、ゆるやかに長い髪を照らしている。
「あ、同じクラスの」
君はこちらを見て言った。
声は、かすかに笑っているように聞こえる。けれど、その笑いをかたちづくる感情がなんなのか、オレにはまだわからない。
オレはその隣に腰をおろした。地面の冷たさが、制服越しにじん、と伝わる。
「教室、騒がしかった?」
「まあ。だから、静かな場所を探してここに辿り着いたんだよ」
短いやり取りだけで、どこか胸の奥が軋む。
君は、右耳にかかった髪をそっと指先で払う。幾度なく教室で目にした仕草は、まるで自分を抱きしめるかのように、やさしく、静かだった。
「隣にいてくれたら、助かる」
理由は言わない。説明も、言い訳もなく、ただそれだけ。
オレはうなずく。それ以上の言葉は必要なかった。そうやって二人の日々は始まったのだ。
あるときはブランコで並んで座ったまま、しばらくの間、互いに一言も発さなかった。遠くで子どもが笑う声がして、それがすぐに風にちぎられて消えていく。世界はやさしくもなく、残酷でもなく、ただ淡々としていた。
君は膝の上で両手を握りしめる。強く力を入れているわけじゃない。
ただ、離すと崩れてしまうものを、そっと抱えているような手つきだった。
夕陽が沈みきる手前、光が弱くなるその瞬間に、君の横顔が少し暗くなる。
それだけで、胸の奥がざわついた。
「……ねえ、ゆーゆ」
君は視線を落としたままオレのあだ名を呼ぶ。声は震えてなんかいないのに、ひどく脆く聞こえるのだ。
「今日さ、家帰りたくないな」
誰かが聞けば、ロマンチックで青春を感じる一言のはずなのに。これが下心も色気もない言葉だということを、オレだけが知っていた。
君は、わざわざ言葉に込められた意味を説明しなかった。したくなかったのだと思うけど、オレは理解できてしまう。だって、同じだから。
息を呑んだまま、何も言えない。気休めも慰めも、全部ただの言葉でしかないのだ。
代わりに、君の細い肩がかすかに揺れる。俯いたまま、音もなく涙が落ちた。ぽたり、と土の上にできた暗い染みまでもが、オレたちの会話の一部分だった。
雨が降ったあとの地面は、涙をすぐに吸い込んでしまう。
君は泣いているのに、表情は変わらない。ただ、静かに水があふれているだけ。
その泣き方を目にするのは、初めてじゃなかった。理由を言わない泣き方。もう何も期待してないみたいな泣き方。君はもう、とっくの前に泣くことで何かを求めるのをやめてしまっていた。
「……ごめん」
君はいつもそう言う。謝る必要なんて、どこにもないのに。声は小さくて、かすれていて、でも不思議とまっすぐ届く。
オレは、そっと手を伸ばす。肩に触れたい、と。
触れたら、少しはオレの温もりを渡せるような気がした。だが、その手は空中で止まる。
触れたら壊してしまいそうで。触れたら、君がこぼれていってしまう気がして。
風だけが、二人のあいだを通り抜けていく。涙が落ちきるまで、オレたちは何も言わなかった。
ただ同じ方向を向いて、同じ景色を見つめるのだ。
空はもうほとんど夜で、街灯の灯りがゆっくりと地面に滲む。公園の砂場にある誰かが作りかけて放置した、小さな山。それも、もう形をなくし始めている。
「……帰ろうか」オレがそう言ったわけじゃない。とはいえ、君が言ったわけでもなく。
ただ、二人とも同じタイミングで立ち上がった。 息を吸うみたいに自然に。歩き出すと、足音が二つ並んだ。
砂を踏むざらざらした音が、夜気にまぎれていく。
手は触れなかった。距離も縮まらなかった。でも、離れてもいなかった。
帰り道の信号待ち。赤信号が長い横断歩道の上で、君はふいに髪を耳にかけた。
いつもの癖のはずなのに、その動作はどこか、とても慎重だった。
涙の跡は、もう乾いていた。泣いたことを隠すでもなく、忘れたわけでもない。
ただ、「ここにいた」とだけ刻まれているような表情だった。
信号が青に変わる。誰も急かしていないのに、人は前に進む。その当たり前のことに、妙な安堵があった。
街灯の光が、君の影を長く引き伸ばす。オレの影と重なったり、離れたり、また寄ったりする。 まるで、何度も確かめ合うように。そこには、約束なんてなかった。
「また明日」も「これからも」も言わなかった。
たぶん、君もオレも、この距離のままもう少し生きていたくて。
その夜、風は少し冷たかったけれど、胸の奥は不思議と痛くなかった。
翌週、雨が降った。大ぶりではないのに、細かい粒が絶えず落ちてくる、じわりと服に染みてくる雨。
校舎裏のいつもの場所に行くと、君はもうそこにいた。
「……傘は?」
そう訊ねると、君は少しだけ息を吐いて笑う。くす、とも、ふふ、とも違う、小さな音。
「持ってきたけど、さす気分じゃないだけ」
言われてみれば、それはたしかに君らしい。理由を言葉にする前に、心で先に決まってしまうような生き方。
「じゃあ、行こうぜ」
オレも傘を閉じた。
折り畳み傘についた水滴が、地面に音もなく落ちる。二人で歩き出すと、髪に、肩に、静かに雨が降り積もって。
ぺたり、と布が肌に張り付く。冷たいはずなのに、不思議と嫌じゃなかった。
「こうしてるとさ」
君が急に言った。視線は前のまま、まっすぐに。
「全部、洗い流されてくみたいだよね」
その言葉には、少しの嘘もなかった。でも、全部は流れない。多分、流れないままでいいものもあるからだ。
「ああ。そうだな」
それしか言えなかったけれど、その一言はたぶん正しかった。
道の端を流れる雨水に、落ち葉がゆっくり沈んでいく。コンクリートの匂いが少し濃くなる。
人通りはほとんどない。雨の音は、静けさを隠さない。むしろ、余計なものをひとつずつ消してしまう。
君の長い髪が頬に貼りつき、指先でそれをはがす。その仕草が、やっぱり愛おしい。
でも今日は、いつもより少しだけ弱かった。
「わたしたちは」
ふいに声が聞こえ、オレは顔を向ける。君は笑っても泣いてもいなかった。いつもの眼差しでこちらを見ている。
「一緒にいるときだけ、息ができるのかな」
その言葉は、雨より軽くて、雨より重かった。
オレは返事をしなかった。できなかったんじゃなくて、しなかった。
返事をしてしまったら、きっと何かが形になってしまう。 名前のつかないもののまま、ここにあってほしかった。だから代わりに、少しだけ歩幅を合わせた。
君の歩く速さに、きちんと追いついた。今はそれだけで良いんだ、と思っていた。この時間が一生続くと思っていたから。
雨はまだ降っている。体は冷えていくのに、胸の奥だけは、じんわりとあたたかい。
君もきっと、同じだった。
※※※
余程、自分が居なくなったことに罪悪感を抱いているのだろう。オレがしばらく昔の思い出にふけていた間も、君はどうやら無視を決め込むようだ。
「……」
微塵も優しくない桜まじが二人の間に吹き込み、気まずさをより一層際立たせている。
同時にひらりと舞い落ちる花びらは、これ以上ない程にドラマティックで、マイナスな雰囲気とプラスな雰囲気にどうにか釣り合いが取れていると思えた。
「てか、そういう意味じゃねーし。なんでそもそもお前が来れるのって話。だって、しーちゃんは──」
「ずっとさ」
──本来、しーちゃんはここに居るはずのない人間だったから。
問い詰めようと強い口調で再び話しかけたが、唐突な横槍を入れられたことで遮られてしまう。
オレは当人が言葉の続きを話し始めるまで、口を噤む。
「また会いたいなって思ってたんだよね」
はあ。そんなことか。
何か文句でも言われるのかと思ったものの、実際に、しーちゃんが話したのは然程どうでもいいことだった。
久しぶりなんだから、もっと言うことがある筈だろう。時間は有限で無限ではない。
だって、君がオレに会いたかったという気持ちは、言わなくても分かっている。なぜなら、オレだって約一年半の間、君が恋しくて堪らなかったのだ。
「ん……そう」
この瞬間までオレと会ってくれなかったことに納得がいっていない。子供じみた意地悪がしたくなって、酷くぶっきらぼうな返事をした。
何だかそれにより、自分が良くない顔をしている気がして、おもむろにそっぽを向く。
「ゆーゆさ、私がいないから寂しかったんじゃない?」
しかし、君はオレの悪態を責めず、気にも止めない。
目を細めて咲って、自身の髪を耳にかける仕草をしている。そんな他愛のない仕草も何処か愛おしくて、懐かしくて、涙が出そうになるのをぎゅっと歯を食いしばることで堪えた。大の男が親友の前でわんわん泣くなんて、恥ずかしいと思う。
オレたちが互いを本名で呼ばないワケは、世間体が良くない等の各々の理由から自分の名前を気に入っておらず、本名で呼ばれることが苦手だったというものだ。
それでも相手の名前は気に入っているし、一度も君のことを名前で呼んだことがなくて。今となっては少し後悔している。
「寂しくない。毎日空眺めたり、野良猫と遊んだりさ、意外と退屈しないんだよな〜それが」
答えが見つからなくて暫く間を開けてしまった。
加えて、不謹慎にも墓石の前の小さな段差に腰をかけると、くつろぐように足を組みしーちゃんを嗤う。
「……寂しかったならさ、私がいてほしいならさ、正直に言ってほしかった」
冷淡な怒っていると感じ取れるトーンの低い声。
依然としてごめん、とは言えない。寧ろ「寂しい」と親友に直接伝える方が小恥ずかしいだろう。
何言ってるんだよ、と舌打ちし、勢い良く立ち上がる。
それから、オレが反論しようと胸ぐらをつかむ前に。君は喉をひゅっと鳴らして、口を開く、
「会いたいよ、ゆーゆ」
と。そのまま膝から崩れ落ちていった。
「何言ってるの? オレ、目の前にいるじゃん?」
焦って目線を合わせるために地面に膝をつき、心配から顔を覗き込む。ついさっきまでは自分に冷たい態度を取っていた癖に両手で目から零れ落ちる涙を必死に拭い、鼻水を啜っている。
状況が何一つ理解できない、いや、理解したくなかったのかもしれない。
「なんで、私に何も言わずに自分で死んじゃったの?」
そう呟くのと併せて、しーちゃんの涙を拭ってあげよう、と思い、伸ばした手がスッと身体をすり抜けた。
ふと、先程から桜の花びらがオレの身体を通り抜けて地面へ散っていることに気づく。
「ゆーゆの頼みなら、直ぐにでも駆けつけたのに」
悔しそうに拳に力を込めながら言う君。もう、現実逃避する理由もなく、一旦心を落ち着かせる為に深呼吸をする。
「……まあ、確かにオレ死んでるけどさ。一年、と四ヶ月くらい前に」
これだけが一概に二人を歪めた原因とは言えないが、元々、オレたちは第三者から見て幸せとは言い辛い家庭だった。
そんな人たちに育てられたおかげか、かなり性格が捻くれていて、学校でも浮いた存在で。
「今思えば、お互いに良き理解者だったよな」
皮肉にも家庭環境が悪いという共通点のお陰か。直ぐに一番の親友と呼べるほどに仲良くなったのだ。
「いつか、直接会って久しぶりって笑って話す日が来るって思ってたのに……」
何度も「泣くなよ」と言っても、その場に嗚咽が響き渡るばかり。どれだけ手を差し伸べてあげたくても、差し伸べることのできない現実に、胸がモヤモヤとした。
「……それは。しーちゃんが、オレが思っていた以上に、心の寄り添いどころになってたんだよ」
重ねて、走馬灯のように生きていた頃を思い出す。
オレたちは仲が良かったものの、君は父親の転勤により、いつの間にか転校してしまった。
オレは日に日に悪化する家庭内暴力と同時に精神的に衰弱し、これが続くくらいならと、とうとう自死を選んでしまったわけだ。
そんなに恋しいなら自分たちの足で会いに行けばいいのに、と思うかもしれない。が、引越し先は遥か遠い東京だった。お金や関わる環境全てを母親に縛られている君は、会いに来ることも難しかったんだろう。
「運も悪かったよな、オレたちの」
優しいからこそ、自分自身を責め立てる君を宥めるために、続けて独り言を呟く。
「オレは親からバイトの金もせびられるから食うこともままならなくて、こっちからも会いに行けなかったから」
故に、再会して直ぐは、どうして君がここに来れているのか、という疑問が最初に浮かんできたのだ。
冷静になって考えれば、今日は"特別な日"だからという答えが浮かんで来る。
「わざわざオレのためにこっちの学校の制服、着てくれたんだね」
しーちゃんの纏う服を見ながら、そっと言う。
学校のときは毎日着ていた見慣れた漆黒の制服だ。見ない内に背が伸びたからか。丈が合わなくなっているような気がする。
「"それ"、オレがほしかったなあ、なんて」
未だに身についている"学ラン"の第二ボタンが目に入り、ヘラヘラとしてしまう。
彼は学ランを着ている通り、生物学上も性自認も男性だが、女の子が欲しかった母親により、普段から女の子らしい振る舞いや服装をするように求められていた。
つまり、学校の制服は唯一、彼が自分らしく入れる証だったのだ。
「オマエが母親に無理矢理繕われた服装でいるより、自分らしくいれている制服の姿が好き、とかクサイこと言ったりしてさ」
一つ目はそんなことを言ったオレのお墓参りにいくからという理由。
二つ目は転校先では母親の意向により、女子制服を選んだものの、最後の日くらいは……と反抗して、学ランを着ているのだろう。これはただの推測の域を出ないのだが。
「──ほんとに。あの頃は青かったな。言えなかったけど、しーちゃんの"私"も嫌いじゃなかったんだ」
しーちゃんの一人称が"私"なのも、口調の淑やかさも、母親が理由である。本人は親の元から離れたら矯正したいと思っているらしい。
そして、さらに君の表情は柔らかくなる。
「私、ゆーゆのことが、大好きだったんだよ」
きちんと聞くと、僅かに照れくさい想いを打ち明けられた。オレは目を見開いて顔を紅くさせてしまう。
夕日のせいかと思ったが、空はまだ明るく、ほんのりと雨の匂いが残っているようだ。
次いで、彼は誰かから貰った祝いのものだろうと予測できる程に豪華な花束を惜しげもなく分解し、彼の分とオレの分、二等分に分けてから墓に供えた。
「あ、スイートピーだ」
オレがここに来た翌日から誰も訪れなかったせいで、造花でさえ汚らしくなっていた寝床が、一気にきらびやかになる。
「……ゆーゆの苦しみに気づけなくてごめん。勝手に離れたりしてごめん……独りにさせて、ごめん」
目の前に本人が居るというのに墓にしがみつき、肩を震わせて慟哭する。
砂埃を被ったとても綺麗とは言えない墓なのにも関わらず、自分も汚れてしまうということは微塵も頭にないみたいだ。
それ程までにオレを大事に思っていたという事実。心には死に対する無念と彼を泣かせてしまったという申し訳なさが降り積もっていくばかりだった。
「……一つ、間違えてることがあるよ。オレ、独りじゃなかった。たとえ身体は離れても、この世界のどこかにしーちゃんがいたから、独りじゃなかったんだ。オレが自死を選んだのは、オレが弱かったからだよ、しーちゃんは悪くない」
何も言いたくないのに、次々と口から言葉が溢れていく。
触れられないとは分かっていた。でも、どうしても抱き締めさせて欲しかった。
勢い良く、しーちゃんに飛びつき、決して、触れることを赦されない身体を、半透明なオレの身体で包み込んだ。
「なんで……しーちゃんがいたのに、こんなことしちゃったのかな? 嫌だなあ。死にたくなかったって、死にたくないって、死んだあとに思っちゃうのさ。死ぬことで報われるって思ってたのに、どうして、後悔してるんだろう」
ついにオレの熱かった目頭は、水に溺れていってしまう。
止まれ、と脳で命令しても、本能が泣きたいときは泣いていいと教えてくれた。
二人とも、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、もしお互いが相手のことを見えていたら、変な顔だ、って笑い飛ばして、何もかも無かったことにできるのにと思う。
「やだよ、しーちゃん、消えたくない。消えたくないよ。なんでオレは目の前にいるのに、しーちゃんの視界に映ることができないんだ……」
生きているときも碌な人間ではなかったから、こんなことを祈るのはあまりにも都合が良すぎるかもしれない。
なのに、もう少しだけでいいから、彼と共にいる時間をください、あわよくば死をなかったことにしたい、と強く祈った。
その、彼の人柄を表すような眩い瞳をじっと見つめながら。これ以上叫ばないように、両手で口を押さえる。
しかし残酷にも、泣いている筈なのに、既に涙に触れるという感覚さえも無くなっていることを悟った。
刹那、彼の瞳が燃えるように、逞しく変化したことにも。
「でもね、"幽"」
──え……?
突如として彼に呼ばれた"オレの名前"に驚愕し、流していた涙が反射的に止まる。
『幽』という名前は教養のない両親が、見た目が格好いいからといった理由で適当につけた名前だ。その漢字が『幽霊』を表すものだと知ってからは、コンプレックスだった。
学校ではオレのことを幽霊だと馬鹿にする人もいたし、名前のせいで苦労をしたのは事実なのだ。
嫌な思い出でしかなかったが、たった今、そんな感情も覆すくらいに君に名前を呼ばれたことが嬉しかった。何だか、オレの全てを受け止めてもらえた気がして。
「私が伝えたいのは、謝罪じゃないっ……」
彼は不器用だから、紡ぐ文言に迷いながらも、秘めていた気持ちをゼロから百まで明かす。
オレは君が言おうとしていることを一文字残さず、受け取ろうと、死に物狂いで耳を傾けた。
「わ、私の……! こころの寄り添いどころになってくれて、ありがとう。好きって感情を経験させてくれて、ありがとう。自分らしさを思い出させてくれて、ほんとうにありがとう……あと、人を失うという痛みを教えてくれてありがとう──そう、今日ここに来たのはね、感謝を伝えたかったんだ」
その言葉で、理解した。
もしかしたら、オレが死んだのは、これからのしーちゃんにオレのぶんの幸せ全部が、巡る為なのかもしれない。
周りに虐げられても、見放されても、理不尽に苦しめられても、どこまでも優しすぎる君。
オレがしーちゃんに出会ったおかげで、たくさんの幸せをもらったから、いつか、彼も幸せをいっぱい受け取れたらいいなって思っていたんだ。
ここまでは持っている物も、辛いことも、全て二等分してきた。今度は幸せも半分こだ。
あまりにもポジティブな思考かもしれない。けれども、そう思うことで、ちょっぴり生きてた頃への後悔が減った気がした。
「卒業、おめでとう」
これからは前を向いて生きるために。
立ち上がったしーちゃんの胸で確かに揺れる、リボンのついた花のコサージュを見て、オレは微笑む。
確かに、正式に卒業はできなかった。けれど、彼が卒業式でもらった花を供えてくれたおかげで、二人で一緒に卒業できた気分になれたんだ。
オレは彼の顔に穴をあけるくらいにじっと見つめて、声に出す。
「今度は一年四ヶ月より長めの別れになっちゃうけど、次こそはちゃんとお互いに顔を見て、"久しぶり"って言えたらいいな」
久しく再会した当初は、君の表情は並外れて暗く、心が崩れてしまうほどにどんよりとしていて、オレの死に堪えていることが、伝わってきた。
学ランの袖から見え隠れする無数の腕の傷で、この墓で自殺を考えていることにも。
けど、今は違う。彼は自身の強さで持ち直し、しっかり、前を向いて生きようとしている。
まだ二度目の『久しぶり』を言うには早すぎるから、君が君の人生を楽しんだ後に、また会いたいって思ったんだ。
「またな、紫苑」
眩しい空には知らぬ間に、美しい虹の橋がかかっている。
無慈悲にもこれから続く二人の長い別れを急かされている気がして、不満の溜め息を漏らした。
オレも君が好きだったよ。
そう言って透き通る身体で抱き締めようとするが、彼の温もりに触れることはできない。
挙げ句の果てに、彼はそれを振り払うように、帰路へと足を向けた。
段々と遠ざかっていく彼の大きな背中。
雨が止んでいなければ、昔みたいにもう少しだけ側にいられたのかな。
オレの視界は外側から濃く滲み始める。
段々と声も出せなくなり、鼻に漂っていた雨の残り香も途絶え、泣いている筈なのに、しょっぱい涙の味もしなくなった。
とうとう目も見えなくなっていく。
……あーあ。
最期まで、君のことを見ていたかった……のに。
………………………。
「──またっ! また逢おうね、幽!」
不意に少し離れたところから、力いっぱい叫ぶ声が聴こえた。
ばか、何でそんなに声、震えてるんだよ。
……言われてみれば、人間は死ぬとき、聴力が一番最後まで残るんだっけ。そう思いながら、再び意味も無く瞼を開ける。
「─────」
最後の力を振り絞って、声にならない想いを伝えるために、一生懸命、口を動かした。
オレは既に見えていない視界の幕を下ろす。
そして、また、君に逢う日まで眠りについた。
Fin
と、独り言のように囁きながら、目を細めてやんわりと笑う君は、オレが記憶している風貌より随分と草臥れた姿をしていた。
冷たさを感じるほど青白い肌。上辺だけ着飾られた身なりと整えられてない髪。
そして、最期に会ったときと同じ服装。
それはまるで、もう死んだ筈なのにも関わらず、この世を彷徨い続けている──謂わば、幽霊のような存在だった。
後ろを向くと、朽ちかけた造花と砂埃の被った墓。薄汚れたコンクリートの地面には、先刻まで降っていた雨が滲んでいる。
そんな中、オレたちは一年と四ヶ月の時を経て、再会したのだ。
「久しぶり……? って、え? しーちゃん? 何でここにいるの?」
オレは驚きで顔を歪ませてから、あんぐりと口を開けて問う。
「今日、お盆だからさ」
顔色一つ変えず、あたかもこの墓にいるのが当たり前かのように答えた。墓石の表面を撫でながら、寂しそうな声色を魅せた君に、オレは何を言っていいのか分からずに俯いてしまう。
「いや嘘つくなよ。気温十度とかだし、まだまだ外さみーよ」
お盆の季節に咲くことはあり得ないであろう、側に咲き誇る桜を指差す。君が居なくなる前には毎日していた会話と同じように平然とツッコんでみる。
しかし、間には沈黙が流れたままだった。
オレは分かっている。君がこんなにも辛そうな顔をしているワケを。
それでも、久方ぶりに交わした会話はどこか懐かしくて。
──無情にもあの頃を記憶を思い出させた。
※※※
放課後の風は、まだ冬の名残を引きずっている。中庭に残った枯葉が、乾いた音を立てて転がってゆく。
その向こうで、君はひとり、校舎の壁にもたれるように座っていた。薄い陽射しが、ゆるやかに長い髪を照らしている。
「あ、同じクラスの」
君はこちらを見て言った。
声は、かすかに笑っているように聞こえる。けれど、その笑いをかたちづくる感情がなんなのか、オレにはまだわからない。
オレはその隣に腰をおろした。地面の冷たさが、制服越しにじん、と伝わる。
「教室、騒がしかった?」
「まあ。だから、静かな場所を探してここに辿り着いたんだよ」
短いやり取りだけで、どこか胸の奥が軋む。
君は、右耳にかかった髪をそっと指先で払う。幾度なく教室で目にした仕草は、まるで自分を抱きしめるかのように、やさしく、静かだった。
「隣にいてくれたら、助かる」
理由は言わない。説明も、言い訳もなく、ただそれだけ。
オレはうなずく。それ以上の言葉は必要なかった。そうやって二人の日々は始まったのだ。
あるときはブランコで並んで座ったまま、しばらくの間、互いに一言も発さなかった。遠くで子どもが笑う声がして、それがすぐに風にちぎられて消えていく。世界はやさしくもなく、残酷でもなく、ただ淡々としていた。
君は膝の上で両手を握りしめる。強く力を入れているわけじゃない。
ただ、離すと崩れてしまうものを、そっと抱えているような手つきだった。
夕陽が沈みきる手前、光が弱くなるその瞬間に、君の横顔が少し暗くなる。
それだけで、胸の奥がざわついた。
「……ねえ、ゆーゆ」
君は視線を落としたままオレのあだ名を呼ぶ。声は震えてなんかいないのに、ひどく脆く聞こえるのだ。
「今日さ、家帰りたくないな」
誰かが聞けば、ロマンチックで青春を感じる一言のはずなのに。これが下心も色気もない言葉だということを、オレだけが知っていた。
君は、わざわざ言葉に込められた意味を説明しなかった。したくなかったのだと思うけど、オレは理解できてしまう。だって、同じだから。
息を呑んだまま、何も言えない。気休めも慰めも、全部ただの言葉でしかないのだ。
代わりに、君の細い肩がかすかに揺れる。俯いたまま、音もなく涙が落ちた。ぽたり、と土の上にできた暗い染みまでもが、オレたちの会話の一部分だった。
雨が降ったあとの地面は、涙をすぐに吸い込んでしまう。
君は泣いているのに、表情は変わらない。ただ、静かに水があふれているだけ。
その泣き方を目にするのは、初めてじゃなかった。理由を言わない泣き方。もう何も期待してないみたいな泣き方。君はもう、とっくの前に泣くことで何かを求めるのをやめてしまっていた。
「……ごめん」
君はいつもそう言う。謝る必要なんて、どこにもないのに。声は小さくて、かすれていて、でも不思議とまっすぐ届く。
オレは、そっと手を伸ばす。肩に触れたい、と。
触れたら、少しはオレの温もりを渡せるような気がした。だが、その手は空中で止まる。
触れたら壊してしまいそうで。触れたら、君がこぼれていってしまう気がして。
風だけが、二人のあいだを通り抜けていく。涙が落ちきるまで、オレたちは何も言わなかった。
ただ同じ方向を向いて、同じ景色を見つめるのだ。
空はもうほとんど夜で、街灯の灯りがゆっくりと地面に滲む。公園の砂場にある誰かが作りかけて放置した、小さな山。それも、もう形をなくし始めている。
「……帰ろうか」オレがそう言ったわけじゃない。とはいえ、君が言ったわけでもなく。
ただ、二人とも同じタイミングで立ち上がった。 息を吸うみたいに自然に。歩き出すと、足音が二つ並んだ。
砂を踏むざらざらした音が、夜気にまぎれていく。
手は触れなかった。距離も縮まらなかった。でも、離れてもいなかった。
帰り道の信号待ち。赤信号が長い横断歩道の上で、君はふいに髪を耳にかけた。
いつもの癖のはずなのに、その動作はどこか、とても慎重だった。
涙の跡は、もう乾いていた。泣いたことを隠すでもなく、忘れたわけでもない。
ただ、「ここにいた」とだけ刻まれているような表情だった。
信号が青に変わる。誰も急かしていないのに、人は前に進む。その当たり前のことに、妙な安堵があった。
街灯の光が、君の影を長く引き伸ばす。オレの影と重なったり、離れたり、また寄ったりする。 まるで、何度も確かめ合うように。そこには、約束なんてなかった。
「また明日」も「これからも」も言わなかった。
たぶん、君もオレも、この距離のままもう少し生きていたくて。
その夜、風は少し冷たかったけれど、胸の奥は不思議と痛くなかった。
翌週、雨が降った。大ぶりではないのに、細かい粒が絶えず落ちてくる、じわりと服に染みてくる雨。
校舎裏のいつもの場所に行くと、君はもうそこにいた。
「……傘は?」
そう訊ねると、君は少しだけ息を吐いて笑う。くす、とも、ふふ、とも違う、小さな音。
「持ってきたけど、さす気分じゃないだけ」
言われてみれば、それはたしかに君らしい。理由を言葉にする前に、心で先に決まってしまうような生き方。
「じゃあ、行こうぜ」
オレも傘を閉じた。
折り畳み傘についた水滴が、地面に音もなく落ちる。二人で歩き出すと、髪に、肩に、静かに雨が降り積もって。
ぺたり、と布が肌に張り付く。冷たいはずなのに、不思議と嫌じゃなかった。
「こうしてるとさ」
君が急に言った。視線は前のまま、まっすぐに。
「全部、洗い流されてくみたいだよね」
その言葉には、少しの嘘もなかった。でも、全部は流れない。多分、流れないままでいいものもあるからだ。
「ああ。そうだな」
それしか言えなかったけれど、その一言はたぶん正しかった。
道の端を流れる雨水に、落ち葉がゆっくり沈んでいく。コンクリートの匂いが少し濃くなる。
人通りはほとんどない。雨の音は、静けさを隠さない。むしろ、余計なものをひとつずつ消してしまう。
君の長い髪が頬に貼りつき、指先でそれをはがす。その仕草が、やっぱり愛おしい。
でも今日は、いつもより少しだけ弱かった。
「わたしたちは」
ふいに声が聞こえ、オレは顔を向ける。君は笑っても泣いてもいなかった。いつもの眼差しでこちらを見ている。
「一緒にいるときだけ、息ができるのかな」
その言葉は、雨より軽くて、雨より重かった。
オレは返事をしなかった。できなかったんじゃなくて、しなかった。
返事をしてしまったら、きっと何かが形になってしまう。 名前のつかないもののまま、ここにあってほしかった。だから代わりに、少しだけ歩幅を合わせた。
君の歩く速さに、きちんと追いついた。今はそれだけで良いんだ、と思っていた。この時間が一生続くと思っていたから。
雨はまだ降っている。体は冷えていくのに、胸の奥だけは、じんわりとあたたかい。
君もきっと、同じだった。
※※※
余程、自分が居なくなったことに罪悪感を抱いているのだろう。オレがしばらく昔の思い出にふけていた間も、君はどうやら無視を決め込むようだ。
「……」
微塵も優しくない桜まじが二人の間に吹き込み、気まずさをより一層際立たせている。
同時にひらりと舞い落ちる花びらは、これ以上ない程にドラマティックで、マイナスな雰囲気とプラスな雰囲気にどうにか釣り合いが取れていると思えた。
「てか、そういう意味じゃねーし。なんでそもそもお前が来れるのって話。だって、しーちゃんは──」
「ずっとさ」
──本来、しーちゃんはここに居るはずのない人間だったから。
問い詰めようと強い口調で再び話しかけたが、唐突な横槍を入れられたことで遮られてしまう。
オレは当人が言葉の続きを話し始めるまで、口を噤む。
「また会いたいなって思ってたんだよね」
はあ。そんなことか。
何か文句でも言われるのかと思ったものの、実際に、しーちゃんが話したのは然程どうでもいいことだった。
久しぶりなんだから、もっと言うことがある筈だろう。時間は有限で無限ではない。
だって、君がオレに会いたかったという気持ちは、言わなくても分かっている。なぜなら、オレだって約一年半の間、君が恋しくて堪らなかったのだ。
「ん……そう」
この瞬間までオレと会ってくれなかったことに納得がいっていない。子供じみた意地悪がしたくなって、酷くぶっきらぼうな返事をした。
何だかそれにより、自分が良くない顔をしている気がして、おもむろにそっぽを向く。
「ゆーゆさ、私がいないから寂しかったんじゃない?」
しかし、君はオレの悪態を責めず、気にも止めない。
目を細めて咲って、自身の髪を耳にかける仕草をしている。そんな他愛のない仕草も何処か愛おしくて、懐かしくて、涙が出そうになるのをぎゅっと歯を食いしばることで堪えた。大の男が親友の前でわんわん泣くなんて、恥ずかしいと思う。
オレたちが互いを本名で呼ばないワケは、世間体が良くない等の各々の理由から自分の名前を気に入っておらず、本名で呼ばれることが苦手だったというものだ。
それでも相手の名前は気に入っているし、一度も君のことを名前で呼んだことがなくて。今となっては少し後悔している。
「寂しくない。毎日空眺めたり、野良猫と遊んだりさ、意外と退屈しないんだよな〜それが」
答えが見つからなくて暫く間を開けてしまった。
加えて、不謹慎にも墓石の前の小さな段差に腰をかけると、くつろぐように足を組みしーちゃんを嗤う。
「……寂しかったならさ、私がいてほしいならさ、正直に言ってほしかった」
冷淡な怒っていると感じ取れるトーンの低い声。
依然としてごめん、とは言えない。寧ろ「寂しい」と親友に直接伝える方が小恥ずかしいだろう。
何言ってるんだよ、と舌打ちし、勢い良く立ち上がる。
それから、オレが反論しようと胸ぐらをつかむ前に。君は喉をひゅっと鳴らして、口を開く、
「会いたいよ、ゆーゆ」
と。そのまま膝から崩れ落ちていった。
「何言ってるの? オレ、目の前にいるじゃん?」
焦って目線を合わせるために地面に膝をつき、心配から顔を覗き込む。ついさっきまでは自分に冷たい態度を取っていた癖に両手で目から零れ落ちる涙を必死に拭い、鼻水を啜っている。
状況が何一つ理解できない、いや、理解したくなかったのかもしれない。
「なんで、私に何も言わずに自分で死んじゃったの?」
そう呟くのと併せて、しーちゃんの涙を拭ってあげよう、と思い、伸ばした手がスッと身体をすり抜けた。
ふと、先程から桜の花びらがオレの身体を通り抜けて地面へ散っていることに気づく。
「ゆーゆの頼みなら、直ぐにでも駆けつけたのに」
悔しそうに拳に力を込めながら言う君。もう、現実逃避する理由もなく、一旦心を落ち着かせる為に深呼吸をする。
「……まあ、確かにオレ死んでるけどさ。一年、と四ヶ月くらい前に」
これだけが一概に二人を歪めた原因とは言えないが、元々、オレたちは第三者から見て幸せとは言い辛い家庭だった。
そんな人たちに育てられたおかげか、かなり性格が捻くれていて、学校でも浮いた存在で。
「今思えば、お互いに良き理解者だったよな」
皮肉にも家庭環境が悪いという共通点のお陰か。直ぐに一番の親友と呼べるほどに仲良くなったのだ。
「いつか、直接会って久しぶりって笑って話す日が来るって思ってたのに……」
何度も「泣くなよ」と言っても、その場に嗚咽が響き渡るばかり。どれだけ手を差し伸べてあげたくても、差し伸べることのできない現実に、胸がモヤモヤとした。
「……それは。しーちゃんが、オレが思っていた以上に、心の寄り添いどころになってたんだよ」
重ねて、走馬灯のように生きていた頃を思い出す。
オレたちは仲が良かったものの、君は父親の転勤により、いつの間にか転校してしまった。
オレは日に日に悪化する家庭内暴力と同時に精神的に衰弱し、これが続くくらいならと、とうとう自死を選んでしまったわけだ。
そんなに恋しいなら自分たちの足で会いに行けばいいのに、と思うかもしれない。が、引越し先は遥か遠い東京だった。お金や関わる環境全てを母親に縛られている君は、会いに来ることも難しかったんだろう。
「運も悪かったよな、オレたちの」
優しいからこそ、自分自身を責め立てる君を宥めるために、続けて独り言を呟く。
「オレは親からバイトの金もせびられるから食うこともままならなくて、こっちからも会いに行けなかったから」
故に、再会して直ぐは、どうして君がここに来れているのか、という疑問が最初に浮かんできたのだ。
冷静になって考えれば、今日は"特別な日"だからという答えが浮かんで来る。
「わざわざオレのためにこっちの学校の制服、着てくれたんだね」
しーちゃんの纏う服を見ながら、そっと言う。
学校のときは毎日着ていた見慣れた漆黒の制服だ。見ない内に背が伸びたからか。丈が合わなくなっているような気がする。
「"それ"、オレがほしかったなあ、なんて」
未だに身についている"学ラン"の第二ボタンが目に入り、ヘラヘラとしてしまう。
彼は学ランを着ている通り、生物学上も性自認も男性だが、女の子が欲しかった母親により、普段から女の子らしい振る舞いや服装をするように求められていた。
つまり、学校の制服は唯一、彼が自分らしく入れる証だったのだ。
「オマエが母親に無理矢理繕われた服装でいるより、自分らしくいれている制服の姿が好き、とかクサイこと言ったりしてさ」
一つ目はそんなことを言ったオレのお墓参りにいくからという理由。
二つ目は転校先では母親の意向により、女子制服を選んだものの、最後の日くらいは……と反抗して、学ランを着ているのだろう。これはただの推測の域を出ないのだが。
「──ほんとに。あの頃は青かったな。言えなかったけど、しーちゃんの"私"も嫌いじゃなかったんだ」
しーちゃんの一人称が"私"なのも、口調の淑やかさも、母親が理由である。本人は親の元から離れたら矯正したいと思っているらしい。
そして、さらに君の表情は柔らかくなる。
「私、ゆーゆのことが、大好きだったんだよ」
きちんと聞くと、僅かに照れくさい想いを打ち明けられた。オレは目を見開いて顔を紅くさせてしまう。
夕日のせいかと思ったが、空はまだ明るく、ほんのりと雨の匂いが残っているようだ。
次いで、彼は誰かから貰った祝いのものだろうと予測できる程に豪華な花束を惜しげもなく分解し、彼の分とオレの分、二等分に分けてから墓に供えた。
「あ、スイートピーだ」
オレがここに来た翌日から誰も訪れなかったせいで、造花でさえ汚らしくなっていた寝床が、一気にきらびやかになる。
「……ゆーゆの苦しみに気づけなくてごめん。勝手に離れたりしてごめん……独りにさせて、ごめん」
目の前に本人が居るというのに墓にしがみつき、肩を震わせて慟哭する。
砂埃を被ったとても綺麗とは言えない墓なのにも関わらず、自分も汚れてしまうということは微塵も頭にないみたいだ。
それ程までにオレを大事に思っていたという事実。心には死に対する無念と彼を泣かせてしまったという申し訳なさが降り積もっていくばかりだった。
「……一つ、間違えてることがあるよ。オレ、独りじゃなかった。たとえ身体は離れても、この世界のどこかにしーちゃんがいたから、独りじゃなかったんだ。オレが自死を選んだのは、オレが弱かったからだよ、しーちゃんは悪くない」
何も言いたくないのに、次々と口から言葉が溢れていく。
触れられないとは分かっていた。でも、どうしても抱き締めさせて欲しかった。
勢い良く、しーちゃんに飛びつき、決して、触れることを赦されない身体を、半透明なオレの身体で包み込んだ。
「なんで……しーちゃんがいたのに、こんなことしちゃったのかな? 嫌だなあ。死にたくなかったって、死にたくないって、死んだあとに思っちゃうのさ。死ぬことで報われるって思ってたのに、どうして、後悔してるんだろう」
ついにオレの熱かった目頭は、水に溺れていってしまう。
止まれ、と脳で命令しても、本能が泣きたいときは泣いていいと教えてくれた。
二人とも、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、もしお互いが相手のことを見えていたら、変な顔だ、って笑い飛ばして、何もかも無かったことにできるのにと思う。
「やだよ、しーちゃん、消えたくない。消えたくないよ。なんでオレは目の前にいるのに、しーちゃんの視界に映ることができないんだ……」
生きているときも碌な人間ではなかったから、こんなことを祈るのはあまりにも都合が良すぎるかもしれない。
なのに、もう少しだけでいいから、彼と共にいる時間をください、あわよくば死をなかったことにしたい、と強く祈った。
その、彼の人柄を表すような眩い瞳をじっと見つめながら。これ以上叫ばないように、両手で口を押さえる。
しかし残酷にも、泣いている筈なのに、既に涙に触れるという感覚さえも無くなっていることを悟った。
刹那、彼の瞳が燃えるように、逞しく変化したことにも。
「でもね、"幽"」
──え……?
突如として彼に呼ばれた"オレの名前"に驚愕し、流していた涙が反射的に止まる。
『幽』という名前は教養のない両親が、見た目が格好いいからといった理由で適当につけた名前だ。その漢字が『幽霊』を表すものだと知ってからは、コンプレックスだった。
学校ではオレのことを幽霊だと馬鹿にする人もいたし、名前のせいで苦労をしたのは事実なのだ。
嫌な思い出でしかなかったが、たった今、そんな感情も覆すくらいに君に名前を呼ばれたことが嬉しかった。何だか、オレの全てを受け止めてもらえた気がして。
「私が伝えたいのは、謝罪じゃないっ……」
彼は不器用だから、紡ぐ文言に迷いながらも、秘めていた気持ちをゼロから百まで明かす。
オレは君が言おうとしていることを一文字残さず、受け取ろうと、死に物狂いで耳を傾けた。
「わ、私の……! こころの寄り添いどころになってくれて、ありがとう。好きって感情を経験させてくれて、ありがとう。自分らしさを思い出させてくれて、ほんとうにありがとう……あと、人を失うという痛みを教えてくれてありがとう──そう、今日ここに来たのはね、感謝を伝えたかったんだ」
その言葉で、理解した。
もしかしたら、オレが死んだのは、これからのしーちゃんにオレのぶんの幸せ全部が、巡る為なのかもしれない。
周りに虐げられても、見放されても、理不尽に苦しめられても、どこまでも優しすぎる君。
オレがしーちゃんに出会ったおかげで、たくさんの幸せをもらったから、いつか、彼も幸せをいっぱい受け取れたらいいなって思っていたんだ。
ここまでは持っている物も、辛いことも、全て二等分してきた。今度は幸せも半分こだ。
あまりにもポジティブな思考かもしれない。けれども、そう思うことで、ちょっぴり生きてた頃への後悔が減った気がした。
「卒業、おめでとう」
これからは前を向いて生きるために。
立ち上がったしーちゃんの胸で確かに揺れる、リボンのついた花のコサージュを見て、オレは微笑む。
確かに、正式に卒業はできなかった。けれど、彼が卒業式でもらった花を供えてくれたおかげで、二人で一緒に卒業できた気分になれたんだ。
オレは彼の顔に穴をあけるくらいにじっと見つめて、声に出す。
「今度は一年四ヶ月より長めの別れになっちゃうけど、次こそはちゃんとお互いに顔を見て、"久しぶり"って言えたらいいな」
久しく再会した当初は、君の表情は並外れて暗く、心が崩れてしまうほどにどんよりとしていて、オレの死に堪えていることが、伝わってきた。
学ランの袖から見え隠れする無数の腕の傷で、この墓で自殺を考えていることにも。
けど、今は違う。彼は自身の強さで持ち直し、しっかり、前を向いて生きようとしている。
まだ二度目の『久しぶり』を言うには早すぎるから、君が君の人生を楽しんだ後に、また会いたいって思ったんだ。
「またな、紫苑」
眩しい空には知らぬ間に、美しい虹の橋がかかっている。
無慈悲にもこれから続く二人の長い別れを急かされている気がして、不満の溜め息を漏らした。
オレも君が好きだったよ。
そう言って透き通る身体で抱き締めようとするが、彼の温もりに触れることはできない。
挙げ句の果てに、彼はそれを振り払うように、帰路へと足を向けた。
段々と遠ざかっていく彼の大きな背中。
雨が止んでいなければ、昔みたいにもう少しだけ側にいられたのかな。
オレの視界は外側から濃く滲み始める。
段々と声も出せなくなり、鼻に漂っていた雨の残り香も途絶え、泣いている筈なのに、しょっぱい涙の味もしなくなった。
とうとう目も見えなくなっていく。
……あーあ。
最期まで、君のことを見ていたかった……のに。
………………………。
「──またっ! また逢おうね、幽!」
不意に少し離れたところから、力いっぱい叫ぶ声が聴こえた。
ばか、何でそんなに声、震えてるんだよ。
……言われてみれば、人間は死ぬとき、聴力が一番最後まで残るんだっけ。そう思いながら、再び意味も無く瞼を開ける。
「─────」
最後の力を振り絞って、声にならない想いを伝えるために、一生懸命、口を動かした。
オレは既に見えていない視界の幕を下ろす。
そして、また、君に逢う日まで眠りについた。
Fin



