次の日、廊下にいる回診中の看護師の声で目覚めると鼻にふと甘い香りがした。
 星夜は昨日絶食で何も食べていなかったからだ。釣られてお腹の大きな音がなってしまう。

「ふふっ、こっちおいでよ」

 自分を嘲笑うかのような態度にすこしムッとしながらも、立ち上がり今日もまたカーテンを開けた。
 すると、昨日嗅いだばかりのあの香りを更に濃く身に纏わされる。
 第一印象は天使のようだと思ったが、本当は悪魔かもしれないと彼を見て思う。
 なぜならそこには食べ物でも、飲み物でもなく綺麗な花束があったからだ。

「綺麗でしょ。お菓子かと思った?」

 間違いない。けれど最初からそう言ったらいいじゃないかと星夜は呆れている。
 その後、会話が止まってしまったため"この花の名前なんて言うんだ"と聞こうとしたものの言葉が躓く。
 彼の名前を知らないことに気が付いたのだ。もちろん、病室の前にある表札を見れば名前を知ることくらいは容易いだろう。
 しかし、それで名前を知ると何だか負けたような気分に陥るし、会話の話題も無くしてしまう。
 星夜が言葉を脳内で修正する前に彼が先に言葉を発した。

「この花、チョコレートコスモスって言うんだ」

 彼の表情と声は笑っていなかった。
 今にも泣き出しそうな表情で話している。ああ、大方何か事情があるのだろうなと思い、それ以上問い掛けることはしない。
 この雰囲気から抜け出したいかのように彼は次々と話を進める。

「友達がさっき久しぶりのお見舞いで持ってきてくれたんだよ。僕の家の庭に咲いているの」

 愛おしそうに花束を抱く彼はやはり天使だった。あまりにも儚くて麗しくて、溢れ出る慣れない感情にずっと胸がモヤモヤとしている。
 けれども、文脈どおりに受け取れば友達がわざわざ彼の家に行って花を摘んで届けたということだろうか。親でもなく、友達が。少しばかり違和感のある行動に疑問を感じた。

「あれ……コスモスって秋の花なんじゃないのか?」

 にも関わらず、今は初夏である。星夜は眉をひそめた。
 あまり花には詳しくないが、以前に家族とコスモス畑にお花見に行った際、母親からそんな雑学を聞いたことがある。

「よく知ってるね。でも、コスモスには夏咲き品種と秋咲き品種があるんだって。その中でもチョコレートコスモスは、一般的なコスモスと比べて耐暑性があるから春から秋まで、長い間花が咲くんだよ」

 慣れた口調で説明しながら彼は花束の中でも一輪綺麗な花を摘む。
 一度だけ花に顔を近づけて香りを嗜むと、それを星夜の胸ポケットに挿した。
 さり気なく入院着越しに触れた手のひらの温もりと、目を細めた無邪気な破顔。それらにどきっとしたのを誤魔化すように

「へえ、そうなのか」

 と相槌を打つ。
 相手は男なのに。なぜだか、クラスの異性の子の接しているときと同じ気分に陥るのだ。

「なぁ、名前な……」

 『なぁ、名前なんていうんだ』そう言おうとしたときだった。

「むつくん、飲みもの買ってきたよ!」

 聞き覚えのある声が耳に響く。辺りは深夜の浜辺のようにしんと静まり返っていた。
 今まで少しだけ楽しさを感じていた入院生活が、一気に地獄へ叩きつけられた風に感じられる。
 お見舞いに来たのであろう青年は星夜を見て目を丸めると一歩二歩と後退りして行く。

「……(はたけ)(やま)?」

 そう、お見舞いに来た青年とは星夜がかつて学校で嫌がらせをしていた、畠山真昼(はたけやままひる)というクラスメイトだったのである。
 真昼は花束をプレゼントした彼の友達なのだろうか。

 いや、きっとそうだ。

 ──俺が嫌がらせをしていたことを知ったらコイツはもう俺と話してくれないんじゃないか……?

 そう思った星夜は点滴をひっくり返しそうになりながらも病室を走って抜け出した。
 自分に非があり、自業自得なのは分かっている。
 だからこそ、だ。自分は彼らからして紛れもない加害者で、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
 星夜が今までやってきた悪口や馬鹿にするような態度も、人によってはいじめのラインにも及ばず大したことではないかもしれない。だが、被害者からすれば到底許されるものではなかった。
 ドアを開けて駆け出したとき、二人が何か言ったような気がしたが、星夜には何も届いていない。

 それから病室を駆け出したのは良いものの、今後どうしようかと悩んでいた。病室に戻れば彼らがまだ居るだろうし、いつまでもトイレに引き篭もっていては心配した看護師が様子を見に来るに決まっている。
 数分程考えた末、一階の売店に行き暇を潰すことにした。
 何度もいじめていたことを謝罪しようか、戻ろうかという考えが脳裏に浮かんでは消えていく。立ち読みをした雑誌も全く内容が入ってこなかった。

 あっという間に小一時間ほどが経つ。病室へ戻るまでのたった少しの道のりは脚に獣が纏っているかのような重さを感じた。
 病室に近付くにつれて段々と動悸が激しくなっていくのが分かる。
 どうしよう。俺はどうするのが正解なんだ、と。
 辿り着くと看護師が巡回に来ていて、真昼の姿は既にない。真昼が帰ったことを確認すると安堵で呼吸が落ち着いてくる。
 反対に、胸の奥深くではあのとき逃げたことをとても後悔していた。