時計の針は零時を指している。星夜が朝と一緒に過ごせる最後の夜。
 まあ、夜ふかしを医者に止められている朝はとっくに寝ているのだろうけど。
 何を思ったのか星夜はベッドから立ち上がり、朝が起きないように静かにカーテンを開けた。

 ──布団、朝の香りがする。

 朝が寝ているから当たり前だが、そんな心に染みる香りも、もう香ることができないと思うと胸が切なくてたまらない。
 朝は星夜に気付かず、すやすやと寝息を立てて深い眠りについていた。

 ──でも、本当に甘くていい香りなんだよな。

 不意に時計の針の音が聞こえてくる。側に近づくにつれて段々と大きくなっているはずの音が、星夜には段々と小さくなりやがて聞こえなくなっていく。

 ──……。

 星夜と朝の唇が触れる。
 温かく柔らかい、朝の唇が星夜の唇に。

 ──甘い……。

 プラシーボ効果かもしれないが、もし、チョコレートコスモスを口に含んだらこんな味がするのかもしれない。
 ずっと気付いていなかった、この気持ち。いつから朝のことをこう思っていたのだろう、と星夜は疑問を抱いた。
 そして再び時計の針の音が聞こえてくる。

「すきだ、朝」

 たった一言だけ、伝えて星夜は自分のベッドに潜り込んだ。朝の香りが身体に染み付いて離れない。
 真昼への謝罪とは違い、この気持ちだけは直接伝えてはいけないと、星夜は思ってしまった。

 ──明日で、もう会うことはなくなるんだ。これでこの気持ちとはさようならだ。

 星夜はどうした弾みか、声を堪えて泣くことしかできない。初めて経験した失恋と似た感情に困惑していた。

 これは星夜の“恋の終わり"の物語。忘れられない“恋の思い出"。
 けれど、星夜はこの日のことを決して後悔はしていない。

 次の日。星夜はまだ寝ている朝に何も伝えず、病院を出た。
 星夜はあの晩、この出来事をひと夏の思い出として心に大事にしまっておくことに決めたのだ。もう朝と会うことは一生ないだろう。
 耳に響く程の鬱陶しい蝉時雨。新しく誕生した赤子の産声。  
 そして、星夜は母親の迎えを待ちながら朝がいる病室を外からただ眺めているのだった。