わたしがお母さんたちと仲直りするために、レターセットを用意してくれたのは凪都だ。準備をしているとき、凪都はなにを考えていたのかなって想像してみる。
たとえば、死んだ娘が実家に帰ってきたり、電話をかけてきたり……そんなことがあったら、お母さんたちは仲直りどころじゃなかったはずだ。でも手紙なら、死ぬ前に書いていたってことにすれば、無事にわたしの言葉が伝えられる可能性が高い。
あと、封筒を渡さなかったのは、わたしが変なことを書いていないか――夏休み中のエピソードが書いてあったとしたら、これもお母さんたちを混乱させたはずだし――を確認して、問題なさそうなら投函しようと思ったから、とか。
凪都が話さないから本当のところはわからないけど、きっとわたしが幽霊だってことを考えた上で、手紙って手段を選んでくれたんだと思う。
その日、わたしは凪都と一緒に電車に揺られて、高校から五駅離れた駅で降りた。ふたりとも制服姿だ。
「こっちだよ、凪都」
帰ってくるのは、春休み以来かな。わたしは久しぶりの実家へつづく道を歩き出す。海のすぐそばにあった高校の最寄り駅とはちがって、ここは内陸寄りだ。海の香りは感じない。住宅街が並ぶ道を、凪都と進む。
「結構近かったんだな、柚の家」
「うん。お姉ちゃんのことがあってから、わたしは家にいたくなくて。それで、寮暮らしにしたんだよ。……まさか、お姉ちゃんにつづいて、わたしまで死んじゃうとは思ってなかったけど」
そこまで言って、気づいた。
娘ふたりが死ぬって、お母さんたち、どんな気持ちなんだろう。
照りつける強い陽射しに、目がくらみそうになった。お姉ちゃんが死んだときの家の様子を思い出すと、踏み出そうとする足が重くなる。わたしのせいで、またお母さんたちは傷ついているのかな。
「柚、やめとく? 俺ひとりで行ってこようか」
凪都もとなりで立ち止まって、小さく眉を寄せながらわたしを見た。通行人が、そんな凪都を不思議そうな顔で見て素通りしていった。わたしの姿は、もう凪都や七緒たちにしか見えていない。だから実家に帰っても、わたしはお母さんたちとは話せない。
手紙は凪都に渡してあった。死ぬ前に書いたと思ってもらえるように気をつけたから、不審がられることはないはずだ。凪都の手で、お母さんたちに届けてもらえたら、それで済む。
でも。
「……ううん。行く」
わたしが行ってもどうしようもないけど、消える前に一度は家に帰りたかった。
「柚は、メンタル弱いんだか強いんだか、わからないな」
凪都は呆れたみたいに笑って、暑そうにシャツの胸もとをあおいだ。
「わたしは弱いと思うよ。いつも、みんなに助けてもらってるし」
「でもこういうところでは、逃げないだろ。俺にどれだけかわされたって、絡んでくるのやめないし。しつこいというか我慢強いというか」
「……それ、褒めてる?」
ちょっとむっとして言うと、凪都はなだめるみたいにうなずく。
「褒めてる褒めてる。ほら、道案内して」
「はいはい」
軽い態度の凪都に、ちょっとだけ身体から力が抜けて、わたしはまた歩きはじめた。
凪都はやっぱり、やさしい。夏休みに入ってから、わたしは凪都のことをたくさん知った。本当は知るはずのなかったことだった。去年の冬に出会ってからずっと凪都と話してはいたけど、ここまで打ち解けてはいなかったから。幽霊になった甲斐が、すこしはあったのかもしれない。
そこからは無言で歩いて、なんの変哲もない住宅街の中の一軒家の前で、足を止めた。ここが、わたしの家だ。
春野さんに頼んで、家には事前に連絡をしてもらった。「東坂さんの部屋を掃除していたら、ご両親宛ての手紙が見つかったので、届けに行っていいでしょうか」って。家の中で、お母さんとお父さんが待っているはずだ。
顔がこわばったわたしの頭を、凪都が一度、ぽんとなでた。ちゃんと、その重みを感じた。
「いくよ」
「……うん」
凪都がチャイムを押す。
返事があって、ドアが開いた。とたんに、わたしは、ぎょっとする。
「……柚の、同級生の方?」
「あ、はい。三芝といいます。柚さんの部屋で見つかった手紙を、届けにきました」
応える凪都も、ちょっと驚いたような、居心地が悪そうな声だった。
出迎えてくれたお母さんは、やつれていた。目の下のくまはすごいし、顔色も化粧でごまかせないくらいに悪い。わたしよりも、よっぽど死にそうな顔だった。そこに、無理やり笑顔を張り付ける。
「そうなの。同級生の子が来るって聞いて、てっきり女子寮の子が来ると思っていたから、びっくりしたわ。……どうぞ、入ってください」
お母さんが凪都を招く。凪都はほんのすこしためらったけど、頭を下げてリビングに向かった。お母さん、ひどい顔だ。それにやっぱり、わたしのことは見えていないみたい。
ほんのすこし、期待していた。家族なら、見えるんじゃないかって。わたしはうつむいて、凪都のうしろをついていく。
リビングにはお父さんもいて、ぎこちなく笑って凪都を迎えた。
家の中の様子は、家具の配置もなにもかも、わたしが覚えているものと変わらない。でもどこか、暗かった。
「お姉ちゃんが死んだときも、こんな感じだった」
凪都はすこしだけわたしに視線を向けてから、ダイニングテーブルの椅子に座った。お母さんがお茶とお菓子を用意する。凪都の向かいに、ふたりが座った。
「わざわざ来てくれてありがとう。柚とは、えっと、仲がよかったの?」
「はい。一年生の冬に会って、それからよく話していたので」
「そう……、あ、お茶、遠慮しないでね」
「どうも」
わたしは凪都のとなりで、やり取りを見守る。
もっと早く来ていれば、凪都にこんな面倒なことをさせずに済んだのかな。わたしがお母さんたちにも見えているときだったら、「死んだけど来たよ」って自分で伝えに来れたと思う。でもいま「幽霊の柚がいる」なんて言っても、ふたりとも信じてくれないだろうし。
とはいえ夏休み前半は、わたしの家の事情を、凪都も七緒も知らなかった。どうこうしようなんて、みんな思わなかったはずだ。だから実家に帰るのがこのタイミングになったのも、仕方ないことだった。
「これ、柚の部屋で見つけた手紙です」
三人でわたしの話をすこししたあと、凪都が鞄から手紙を取り出した。お母さんとお父さんが顔を見合わせる。お父さんがこくりとうなずいて、凪都から手紙を受け取った。
「届けてくれて、ありがとう」
じっと手紙を見つめるふたりは、いますぐにでも読みたいんだろうな、ってわかる雰囲気だった。
「俺のことは気にせず、読んでもらって構いませんよ」
凪都が言って、お茶を飲んだ。気づかって声をかけているにしては淡々とした、だけどなんとも思っていないにしてはあたたかい、いつもの凪都の声だった。
お父さんたちはすこし迷ってから、うなずいて、手紙の封を切った。便せんを取り出して、ふたりで覗き込む。どくどくと、わたしの心臓が鳴って、手に汗が浮かんだ。
……ちゃんと、伝えられるかな。わたしの思っていること。
机のかげに隠れるように、さりげなく、凪都がわたしの指をつかまえた。大丈夫、って言うみたいに指をぎゅっとにぎられる。
「……手紙にね、お姉ちゃんのこと、書いたんだよ。ふたりと一緒に受け止めることも悲しむこともしないで、寮に逃げてごめんね、って。お姉ちゃんが死んだのは、ふたりのせいじゃないよって。むしろわたしは、自分のせいだって思ってた。でもちょっとだけ、最近は自分のことを解放してあげられるようになったよって」
凪都のおかげだ。泣いてもいいんだって、思えた。はじめてお姉ちゃんを思って泣けた。わたしはすこし、楽になった。お母さんとお父さんも、そうなってくれたらいいな、って思ったんだ。
ふたりは、じっと便せんの上の文字を見つめていた。だんだん、お母さんが鼻を鳴らしはじめて、お父さんは目もとをこするようになった。そんなふたりを見ていると、わたしまで泣きそうになる。
もう、最近涙腺がおかしくなってる。あんなに泣くことが嫌だったはずなのに。これも凪都のせい……というか、凪都のおかげだ。
お母さんが、ハンカチで目もとをおさえた。
「ごめんなさいね、お客さまの前で恥ずかしい」
「いえ」
凪都は静かに座っている。こういうとき、凪都はひとの話を受け止める空気をつくるのがうまいと思う。さっきの声もだけど、すごく絶妙な距離感で寄り添ってくれる。だから泣いてる側は、つい言葉がこぼれていくんだ。わたしがそうだったのと同じように、お母さんもうつむいた。
「……もっと、あの子たちと真剣に向き合っていればよかった、って思うの」
ゆっくり話し出したけど、言葉が止まることはなかった。
「病院の先生がね、柚が倒れる前に、予兆があったはずだって、言ってて。頭が痛いとか、そういう話は聞いてなかったのかって……。でも、わたし、あの子と連絡を取ってなかったから。体調のことも、それ以外のことも、なにも知らなかったのよ」
お母さんの瞳から、涙があふれた。冷房の乾いた稼働音が鳴り響く。
「わたしが、ちゃんと話を聞いていたら、倒れる前になんとかできたはずなのに。それを、わたしは、わかってたはずだったのに……。だって、それで、一度失敗をしたんだから。それなのに結局同じことを繰り返して、娘をふたりとも死なせた。わたしの、せい」
となりにいるお父さんも、目を真っ赤にして口をぐっと結んでいた。お父さんはもともと口数がすくなかったけど、感情は表情に出やすいひとだった。わたしは、突きさされたみたいに、胸が痛んだ。お母さんに手をのばす。だけど、触れることはなくて、すり抜けた。
本当に……、死なんて大嫌いだ。心配も迷惑も、みんなにかけるだけかけて、いいことなんてひとつもない。なんで、わたしは死んじゃったんだろう。凪都には死なないでってずっと言いつづけていたくせに。死ぬのはだめだって、わかってたのに。
「ごめんね、ふたりを、悲しませたかったわけじゃないんだよ……」
この声は届かない。ふたりとも、すこしも気づいてくれない。それでも言いたくて、たまらない。
「ちがうんだよ、お母さん。わたしが、弱かったから。みんなに迷惑かけたくなくて、こんな頭痛くらい平気だって軽く見てたから。それがいけなかっただけ」
お母さんのせいじゃないんだよ。
うつむいて、くちびるをかんだ。この声が伝えられるうちに、どうして、会いに来なかったんだろう。どうして。どうして。
「――柚が、言ってました」
ふたりのすすり泣きが響く静かな部屋に、凪都の声がした。はっとする。わたしは凪都を見た。凪都はただ前に座るふたりを見つめていた。
「柚は、まわりに迷惑をかけたくないから無理をすることがあるって、言ってたんです。自分が弱いから、そうなるんだって」
え、とお母さんが顔を上げた。
「頭痛も、実際していたみたいです。だけど柚は、これくらいなんともないって言ってた。そういう無茶をする自分のことを、柚もよくないことだってわかっていたのに、無茶をしつづけて、死んだ。そんな柚だから、自分が死んだことをふたりのせいになんてしませんよ」
そこまできて、やっと気づいた。凪都が、わたしの言葉を伝えてくれているんだ。わたしが届けられない言葉を、凪都が代わりに話してくれている。凪都はさりげなくわたしを見た。ゆず、って口だけを動かして、わたしを励ます。ほかに言いたいことはないのか、って。
わたしは、必死に考えた。言いたいこと、伝えたいことを、必死に。
「……わたし。わたし、もっとお母さんともお父さんとも話しておけばよかったって、思ってる。お姉ちゃんのことも、ほかのことも、いっぱい、いっぱい……。連絡しなくて、ごめん」
声がふるえるわたしの指先を、凪都はしっかりにぎってくれていた。わたしの言葉を違和感がないようにすこしだけ変えて、ふたりに話してくれる。わたしは、つっかえながら、どうにか話しつづける。
「ふたりを怨んでないし、嫌いでもない。ふたりのせいだって思うことも、ないよ」
お母さんが肩を小刻みに揺らしながら、ハンカチから顔を上げなくなった。お父さんは、涙を拭くことも忘れたみたいに、すこしも動かずにうつむいている。
「わたしの、ことで……、自分を責めないでほしい。わたしはそんなこと、望んでない、から……っ」
胸が痛くてたまらない。視界がにじんで、ぼやけてしまう。声がひっくり返る。それでも精一杯、わたしはふたりに伝えた。わたしが言えることを、全部。だってせっかく、ここに来たんだ。死んだあと、たったひと夏だけ幽霊になることを許された。言えること全部言わなきゃ、わたしはもう、二度とふたりと話すことができなくなる。
これが、最後の機会だ。
だから。
「わたしは、お母さんとお父さんのこと、お姉ちゃんのことも、大好きだった」
必死になって、話していた。話し終わったときには、肩で息をしていた。伝えられたかな。お母さんにもお父さんにも、届いたかな。ぐいっと、目もとを拭う。
「ありがとう、凪都。これで、もう言い残したことはないよ」
凪都も口をつぐんだ。
どうかわたしの言葉で、ふたりの悲しみを減らすことができていますように。
「――おふたりが」
黙ったはずの凪都が、もう一度口を開いた。
「おふたりが、自分を責める必要は、ないですよ」
静かに強く、言い切った。その言葉は、わたしの言葉を通訳したものじゃなかった。凪都自身の感情もこもっている言葉だった。……凪都はやさしいから、心からそう思ってくれたのかもしれない。
お母さんもお父さんも、もうなにかを言う余裕もなくて、ただただ泣いていた。わたしよりもずっと大人のふたりが、こんなに泣いているところを見るのははじめてだった。
わたし、大切にされてたんだなあ。胸がきゅっと締めつけられながら、ちょっとだけ笑う。
大丈夫。泣いたら、気持ちが軽くなるよ。いっぱい泣いて、笑えるようになってね。わたしがいなくなったあとも、ずっと――。
また落ちた涙を、わたしは拭う。
消えるまでにしたいこと、ひとつ、クリアだ。
たとえば、死んだ娘が実家に帰ってきたり、電話をかけてきたり……そんなことがあったら、お母さんたちは仲直りどころじゃなかったはずだ。でも手紙なら、死ぬ前に書いていたってことにすれば、無事にわたしの言葉が伝えられる可能性が高い。
あと、封筒を渡さなかったのは、わたしが変なことを書いていないか――夏休み中のエピソードが書いてあったとしたら、これもお母さんたちを混乱させたはずだし――を確認して、問題なさそうなら投函しようと思ったから、とか。
凪都が話さないから本当のところはわからないけど、きっとわたしが幽霊だってことを考えた上で、手紙って手段を選んでくれたんだと思う。
その日、わたしは凪都と一緒に電車に揺られて、高校から五駅離れた駅で降りた。ふたりとも制服姿だ。
「こっちだよ、凪都」
帰ってくるのは、春休み以来かな。わたしは久しぶりの実家へつづく道を歩き出す。海のすぐそばにあった高校の最寄り駅とはちがって、ここは内陸寄りだ。海の香りは感じない。住宅街が並ぶ道を、凪都と進む。
「結構近かったんだな、柚の家」
「うん。お姉ちゃんのことがあってから、わたしは家にいたくなくて。それで、寮暮らしにしたんだよ。……まさか、お姉ちゃんにつづいて、わたしまで死んじゃうとは思ってなかったけど」
そこまで言って、気づいた。
娘ふたりが死ぬって、お母さんたち、どんな気持ちなんだろう。
照りつける強い陽射しに、目がくらみそうになった。お姉ちゃんが死んだときの家の様子を思い出すと、踏み出そうとする足が重くなる。わたしのせいで、またお母さんたちは傷ついているのかな。
「柚、やめとく? 俺ひとりで行ってこようか」
凪都もとなりで立ち止まって、小さく眉を寄せながらわたしを見た。通行人が、そんな凪都を不思議そうな顔で見て素通りしていった。わたしの姿は、もう凪都や七緒たちにしか見えていない。だから実家に帰っても、わたしはお母さんたちとは話せない。
手紙は凪都に渡してあった。死ぬ前に書いたと思ってもらえるように気をつけたから、不審がられることはないはずだ。凪都の手で、お母さんたちに届けてもらえたら、それで済む。
でも。
「……ううん。行く」
わたしが行ってもどうしようもないけど、消える前に一度は家に帰りたかった。
「柚は、メンタル弱いんだか強いんだか、わからないな」
凪都は呆れたみたいに笑って、暑そうにシャツの胸もとをあおいだ。
「わたしは弱いと思うよ。いつも、みんなに助けてもらってるし」
「でもこういうところでは、逃げないだろ。俺にどれだけかわされたって、絡んでくるのやめないし。しつこいというか我慢強いというか」
「……それ、褒めてる?」
ちょっとむっとして言うと、凪都はなだめるみたいにうなずく。
「褒めてる褒めてる。ほら、道案内して」
「はいはい」
軽い態度の凪都に、ちょっとだけ身体から力が抜けて、わたしはまた歩きはじめた。
凪都はやっぱり、やさしい。夏休みに入ってから、わたしは凪都のことをたくさん知った。本当は知るはずのなかったことだった。去年の冬に出会ってからずっと凪都と話してはいたけど、ここまで打ち解けてはいなかったから。幽霊になった甲斐が、すこしはあったのかもしれない。
そこからは無言で歩いて、なんの変哲もない住宅街の中の一軒家の前で、足を止めた。ここが、わたしの家だ。
春野さんに頼んで、家には事前に連絡をしてもらった。「東坂さんの部屋を掃除していたら、ご両親宛ての手紙が見つかったので、届けに行っていいでしょうか」って。家の中で、お母さんとお父さんが待っているはずだ。
顔がこわばったわたしの頭を、凪都が一度、ぽんとなでた。ちゃんと、その重みを感じた。
「いくよ」
「……うん」
凪都がチャイムを押す。
返事があって、ドアが開いた。とたんに、わたしは、ぎょっとする。
「……柚の、同級生の方?」
「あ、はい。三芝といいます。柚さんの部屋で見つかった手紙を、届けにきました」
応える凪都も、ちょっと驚いたような、居心地が悪そうな声だった。
出迎えてくれたお母さんは、やつれていた。目の下のくまはすごいし、顔色も化粧でごまかせないくらいに悪い。わたしよりも、よっぽど死にそうな顔だった。そこに、無理やり笑顔を張り付ける。
「そうなの。同級生の子が来るって聞いて、てっきり女子寮の子が来ると思っていたから、びっくりしたわ。……どうぞ、入ってください」
お母さんが凪都を招く。凪都はほんのすこしためらったけど、頭を下げてリビングに向かった。お母さん、ひどい顔だ。それにやっぱり、わたしのことは見えていないみたい。
ほんのすこし、期待していた。家族なら、見えるんじゃないかって。わたしはうつむいて、凪都のうしろをついていく。
リビングにはお父さんもいて、ぎこちなく笑って凪都を迎えた。
家の中の様子は、家具の配置もなにもかも、わたしが覚えているものと変わらない。でもどこか、暗かった。
「お姉ちゃんが死んだときも、こんな感じだった」
凪都はすこしだけわたしに視線を向けてから、ダイニングテーブルの椅子に座った。お母さんがお茶とお菓子を用意する。凪都の向かいに、ふたりが座った。
「わざわざ来てくれてありがとう。柚とは、えっと、仲がよかったの?」
「はい。一年生の冬に会って、それからよく話していたので」
「そう……、あ、お茶、遠慮しないでね」
「どうも」
わたしは凪都のとなりで、やり取りを見守る。
もっと早く来ていれば、凪都にこんな面倒なことをさせずに済んだのかな。わたしがお母さんたちにも見えているときだったら、「死んだけど来たよ」って自分で伝えに来れたと思う。でもいま「幽霊の柚がいる」なんて言っても、ふたりとも信じてくれないだろうし。
とはいえ夏休み前半は、わたしの家の事情を、凪都も七緒も知らなかった。どうこうしようなんて、みんな思わなかったはずだ。だから実家に帰るのがこのタイミングになったのも、仕方ないことだった。
「これ、柚の部屋で見つけた手紙です」
三人でわたしの話をすこししたあと、凪都が鞄から手紙を取り出した。お母さんとお父さんが顔を見合わせる。お父さんがこくりとうなずいて、凪都から手紙を受け取った。
「届けてくれて、ありがとう」
じっと手紙を見つめるふたりは、いますぐにでも読みたいんだろうな、ってわかる雰囲気だった。
「俺のことは気にせず、読んでもらって構いませんよ」
凪都が言って、お茶を飲んだ。気づかって声をかけているにしては淡々とした、だけどなんとも思っていないにしてはあたたかい、いつもの凪都の声だった。
お父さんたちはすこし迷ってから、うなずいて、手紙の封を切った。便せんを取り出して、ふたりで覗き込む。どくどくと、わたしの心臓が鳴って、手に汗が浮かんだ。
……ちゃんと、伝えられるかな。わたしの思っていること。
机のかげに隠れるように、さりげなく、凪都がわたしの指をつかまえた。大丈夫、って言うみたいに指をぎゅっとにぎられる。
「……手紙にね、お姉ちゃんのこと、書いたんだよ。ふたりと一緒に受け止めることも悲しむこともしないで、寮に逃げてごめんね、って。お姉ちゃんが死んだのは、ふたりのせいじゃないよって。むしろわたしは、自分のせいだって思ってた。でもちょっとだけ、最近は自分のことを解放してあげられるようになったよって」
凪都のおかげだ。泣いてもいいんだって、思えた。はじめてお姉ちゃんを思って泣けた。わたしはすこし、楽になった。お母さんとお父さんも、そうなってくれたらいいな、って思ったんだ。
ふたりは、じっと便せんの上の文字を見つめていた。だんだん、お母さんが鼻を鳴らしはじめて、お父さんは目もとをこするようになった。そんなふたりを見ていると、わたしまで泣きそうになる。
もう、最近涙腺がおかしくなってる。あんなに泣くことが嫌だったはずなのに。これも凪都のせい……というか、凪都のおかげだ。
お母さんが、ハンカチで目もとをおさえた。
「ごめんなさいね、お客さまの前で恥ずかしい」
「いえ」
凪都は静かに座っている。こういうとき、凪都はひとの話を受け止める空気をつくるのがうまいと思う。さっきの声もだけど、すごく絶妙な距離感で寄り添ってくれる。だから泣いてる側は、つい言葉がこぼれていくんだ。わたしがそうだったのと同じように、お母さんもうつむいた。
「……もっと、あの子たちと真剣に向き合っていればよかった、って思うの」
ゆっくり話し出したけど、言葉が止まることはなかった。
「病院の先生がね、柚が倒れる前に、予兆があったはずだって、言ってて。頭が痛いとか、そういう話は聞いてなかったのかって……。でも、わたし、あの子と連絡を取ってなかったから。体調のことも、それ以外のことも、なにも知らなかったのよ」
お母さんの瞳から、涙があふれた。冷房の乾いた稼働音が鳴り響く。
「わたしが、ちゃんと話を聞いていたら、倒れる前になんとかできたはずなのに。それを、わたしは、わかってたはずだったのに……。だって、それで、一度失敗をしたんだから。それなのに結局同じことを繰り返して、娘をふたりとも死なせた。わたしの、せい」
となりにいるお父さんも、目を真っ赤にして口をぐっと結んでいた。お父さんはもともと口数がすくなかったけど、感情は表情に出やすいひとだった。わたしは、突きさされたみたいに、胸が痛んだ。お母さんに手をのばす。だけど、触れることはなくて、すり抜けた。
本当に……、死なんて大嫌いだ。心配も迷惑も、みんなにかけるだけかけて、いいことなんてひとつもない。なんで、わたしは死んじゃったんだろう。凪都には死なないでってずっと言いつづけていたくせに。死ぬのはだめだって、わかってたのに。
「ごめんね、ふたりを、悲しませたかったわけじゃないんだよ……」
この声は届かない。ふたりとも、すこしも気づいてくれない。それでも言いたくて、たまらない。
「ちがうんだよ、お母さん。わたしが、弱かったから。みんなに迷惑かけたくなくて、こんな頭痛くらい平気だって軽く見てたから。それがいけなかっただけ」
お母さんのせいじゃないんだよ。
うつむいて、くちびるをかんだ。この声が伝えられるうちに、どうして、会いに来なかったんだろう。どうして。どうして。
「――柚が、言ってました」
ふたりのすすり泣きが響く静かな部屋に、凪都の声がした。はっとする。わたしは凪都を見た。凪都はただ前に座るふたりを見つめていた。
「柚は、まわりに迷惑をかけたくないから無理をすることがあるって、言ってたんです。自分が弱いから、そうなるんだって」
え、とお母さんが顔を上げた。
「頭痛も、実際していたみたいです。だけど柚は、これくらいなんともないって言ってた。そういう無茶をする自分のことを、柚もよくないことだってわかっていたのに、無茶をしつづけて、死んだ。そんな柚だから、自分が死んだことをふたりのせいになんてしませんよ」
そこまできて、やっと気づいた。凪都が、わたしの言葉を伝えてくれているんだ。わたしが届けられない言葉を、凪都が代わりに話してくれている。凪都はさりげなくわたしを見た。ゆず、って口だけを動かして、わたしを励ます。ほかに言いたいことはないのか、って。
わたしは、必死に考えた。言いたいこと、伝えたいことを、必死に。
「……わたし。わたし、もっとお母さんともお父さんとも話しておけばよかったって、思ってる。お姉ちゃんのことも、ほかのことも、いっぱい、いっぱい……。連絡しなくて、ごめん」
声がふるえるわたしの指先を、凪都はしっかりにぎってくれていた。わたしの言葉を違和感がないようにすこしだけ変えて、ふたりに話してくれる。わたしは、つっかえながら、どうにか話しつづける。
「ふたりを怨んでないし、嫌いでもない。ふたりのせいだって思うことも、ないよ」
お母さんが肩を小刻みに揺らしながら、ハンカチから顔を上げなくなった。お父さんは、涙を拭くことも忘れたみたいに、すこしも動かずにうつむいている。
「わたしの、ことで……、自分を責めないでほしい。わたしはそんなこと、望んでない、から……っ」
胸が痛くてたまらない。視界がにじんで、ぼやけてしまう。声がひっくり返る。それでも精一杯、わたしはふたりに伝えた。わたしが言えることを、全部。だってせっかく、ここに来たんだ。死んだあと、たったひと夏だけ幽霊になることを許された。言えること全部言わなきゃ、わたしはもう、二度とふたりと話すことができなくなる。
これが、最後の機会だ。
だから。
「わたしは、お母さんとお父さんのこと、お姉ちゃんのことも、大好きだった」
必死になって、話していた。話し終わったときには、肩で息をしていた。伝えられたかな。お母さんにもお父さんにも、届いたかな。ぐいっと、目もとを拭う。
「ありがとう、凪都。これで、もう言い残したことはないよ」
凪都も口をつぐんだ。
どうかわたしの言葉で、ふたりの悲しみを減らすことができていますように。
「――おふたりが」
黙ったはずの凪都が、もう一度口を開いた。
「おふたりが、自分を責める必要は、ないですよ」
静かに強く、言い切った。その言葉は、わたしの言葉を通訳したものじゃなかった。凪都自身の感情もこもっている言葉だった。……凪都はやさしいから、心からそう思ってくれたのかもしれない。
お母さんもお父さんも、もうなにかを言う余裕もなくて、ただただ泣いていた。わたしよりもずっと大人のふたりが、こんなに泣いているところを見るのははじめてだった。
わたし、大切にされてたんだなあ。胸がきゅっと締めつけられながら、ちょっとだけ笑う。
大丈夫。泣いたら、気持ちが軽くなるよ。いっぱい泣いて、笑えるようになってね。わたしがいなくなったあとも、ずっと――。
また落ちた涙を、わたしは拭う。
消えるまでにしたいこと、ひとつ、クリアだ。