グラウンドからは、最後のひと踏ん張りみたいな運動部のかけ声が聞こえてくる。それを素通りして、わたしは階段をのぼって図書室に向かった。

「凪都」

 凪都はやっぱり、窓際の席にいた。イヤホンをつけていた凪都は一拍遅れて、読んでいた小説から顔をあげた。すこし驚いた顔で首をかしげる。

「柚。なんだ、今日は来ないのかと思った」
「ごめん、七緒と遊びに行ってて」
「べつに謝ることじゃないけど。楽しかった?」
「うん」
「そ。よかったじゃん」

 ぺら、と凪都が本をめくる。その小説の表紙に、見覚えがあった。太宰治の本だ。前に凪都から借りて、結局、ほとんど読まないまま凪都に返してしまった。

「……その本、面白い?」

 今日の凪都は、すこしぼんやりしている。いや、聞こえがいいように言えば、ぼんやり。悪く言えば、憂鬱な死にたがりの雰囲気。胸がざわりと波立った。

「さあ。前にも言ったけど、俺は熱心な読書家じゃないから、面白さはさっぱり」

 凪都の指が、静かにページを送る。

「でも好き、なんだよね?」
「一応ね。――太宰は、すこしうらやましいし」

 外では、だんだんと陽射しが弱まってきている。そのせいか、なんとなく音まで遠のいていくような感覚があった。
「うらやましい?」

 この図書室だけが、世界から切り離されていくみたいな、そんな感覚。凪都は、ぱたんと本を閉じた。夕暮れの図書室で、凪都の黒い瞳に、わたしが映る。

「ねえ、柚」

 本当に静かな呼びかけだった。わたしは、ちょっと嫌な予感を覚えながら、首をかしげる。そうしたら、凪都が言った。

「心中しようよ」

 ひと言。

 たったのそのひと言に、わたしの心臓が動きを止める。言われていることの意味がわからなかった。凪都はわたしをじっと見ている。暗さを増した瞳で。

 太宰治は、心中で死んだんだっけ……。思い出して、いますぐ本を取り上げたくなった。だけどそれより先に、わたしは喉から声をしぼり出した。

「嫌だよ。わたしは生きる」

 死ぬ、なんて嫌いだ。みんなに迷惑をかけて、悲しい思いをさせる。わたしの大嫌いなものだ。

「そういうこと言わないで、凪都」
「……ごめん。冗談」

 ふっと、小さく笑って、凪都は話をごまかそうとする。

 ――うそつき。

 冗談じゃないんでしょう。死にたいんだよね、凪都は。それとも。

 もう、死んでるの?

「死ぬより」

 必死に喉から声を押し出す。

「一緒に死ぬより、わたしは凪都と一緒に生きたい」

 死んで愛情を表現されるより、一緒に生きるほうが、ずっといい。だから、凪都にもそれを望んでほしかった。凪都はわたしを見つめて、かすかな笑みを口もとに浮かべた。

「それは無理」

 一瞬、時が止まった。

 無理……、って、なんなの?

「どういう意味?」
「そのままだけど」
「……わかんないよ、それだけじゃ!」

 自分で思っているよりも、大きな声が出た。凪都もすこしだけ目を丸めている。冷静にならなきゃと思う。だけど、腹の奥からあふれる熱いものが止まらなくて、思考するより先に、言葉が口から飛び出していた。

「わたし、たくさん考えたし、いろいろ思い出してみたけど、この状況がなんなのか、なにもわかんないの。凪都、いつになったら教えてくれるの? このまま待つなんて、無理だよ……!」

 本当は、凪都が話すまで待とうと思っていた。だけどやっぱり、つらいんだ。だって、もしかしたら、凪都はもうこの世にいないかもしれないんでしょ? そんなの……。

「ねえ、凪都はなにを隠してるの? お願いだから、教えて」

 そのとき、図書室にだれかが入ってきた。女子生徒がふたり、しゃべりながらわたしたちのいる奥の席に歩いてくる。凪都はそのふたりを見て、ぼそりと言った。

「柚、図書室では静かにしないと」

 正論だ。だけどわたしは、かっとなる。いまは他人のことより、わたしだけを見ていてほしい。

「そんなこと、わかってるよ! だけど、でも……」

 ぎりぎりのところで、言葉が出てこない。口を開閉させて迷った。だけど、いま言わないと、はぐらかされる気がする。溺れているときに息継ぎをするみたいに、わたしはどうにか呼吸した。

「……凪都は、ここに、いるんだよね」
「うん」
「幽霊なんかじゃ、ないんだよね」
「うん」
「だって、見えてるし、話してるもんね」
「うん。俺はここにいるよ。ちゃんと」
「だったら、なんで……」

 わたしたちの空気を変に思ったのか、女子生徒ふたりは顔を見合わせてこそこそと離れていった。図書室から去っていく音がする。それでもわたしは、気にしている余裕がない。

「凪都は、なにを抱えてるの?」
「……まだ、待って」
「いつまで? いつになったら教えてくれる?」

 今度は、凪都がきゅっと口を引き結んだ。

「できればずっと、柚には知らないままでいてほしい」

 やっと答えた凪都の言葉は、わたしを突き放すものだった。このままなんて……、そんなの、無理だ。瞳の奥が熱くなって、じわりと涙が浮かぶ。生きているのか、死んでいるのか、はっきりさせて。

 凪都が戸惑う気配がしたから、わたしは目もとをこすった。あともうひと押ししたら、凪都の反応は変わるかもしれない。あと、もうすこし――。

「……ちょっと、ジュース買ってくるね。ごめん」

 わたしは、逃げるみたいに図書室を出た。……ああもう、どれだけ臆病なんだろう、わたしは。凪都が「それ以上言うな」って顔をするから、怖気づいて逃げ出すなんて、意気地なし。勢いのままに訊いちゃえばよかったのに。

 涙がこぼれて、また目もとをこすりながら、階段をおりる。わたしはどうしたらいいんだろう。

「ねえ、さっきのひと、やばくない?」

 はっとした。中庭の自販機に向かう途中、外通路の先に、さっき図書室に来ていた女子生徒のふたりがいた。

「わかる。ちょっと怖かったよね」

 彼女たちは声をひそめて話している。……わたしが、騒いでいたからかな。気まずくなって、目を伏せた。嫌なところを見られた。普段あの図書室にはほとんどひとがいないのに、なんであのタイミングで。このまま消えたいくらいに恥ずかしかった。だけど凪都のもとにもどるのには、まだ落ち着きが足りない。引き返すよりは、このまま彼女たちを素通りするほうが、まだましかも。

 彼女たちに近づく。

「ひとりでしゃべってるとか、やばすぎでしょ」

 足が止まった。彼女たちは、わたしに気づかない。固まるわたしの前で、会話がつづく。

「ねえ、ほら。夏休み前にさ、死んだ生徒がいたって噂、あるじゃん?」
「あるある。幽霊が出る、とかっていうのも聞いたよ」
「さっきのひと、幽霊としゃべってたんじゃない? こわっ!」

 にげよにげよ、と彼女たちは去っていく。

 わたしは止まったまま、一歩も動けなかった。心臓が一度冷え切って、そのあとで、どくどくと鼓動を打ち鳴らす。彼女たちの声を頭の中で繰り返す。

 ひとりで、しゃべっていた?

 わたしはちゃんと、凪都と話していた。図書室にはわたしと凪都のふたりがいたのに。それなのに、ひとり? 彼女たちには……、見えていなかったの?

 やっぱり、そういうことなの?