凪都と会おうとは思えなかった。だってひとりでいるときにも、こんなに混乱してるんだ。凪都と会ったとき、どうすればいいかなんて、もっとわからなかった。そうやって無駄な数日が過ぎていく。だけど、ずっとこのままでいるわけにはいかないことも、わかっていた。

 わたしはその日、やっと制服に袖を通した。のろのろと支度するわたしを七緒が心配そうに見ている。なにがあったのかも知らないはずなのに、七緒はこの数日ずっとわたしを気づかってくれていた。そろそろ、七緒にも迷惑をかけないように、笑顔をつくらないと。

「柚、今日は髪おろしたままで行きなよ」
「え?」

 わたしは、七緒を見る。

「今日は涼しいからさ、たまにはそのままでもいいと思うよ」
「あ……、うん」
「はい、キャップだけかぶって。うん、ボブにキャップって、なんかいいよね」

 七緒は笑った。わたしもどうにか笑って、いってきますと部屋を出る。女子寮の玄関の扉を開けた瞬間に、蝉の鳴き声に耳を突き刺された。空はまっさらに晴れている。

 ――呆れられたのかな。

 昼間学校に行くときに、七緒がわたしの髪をいじらないのは、はじめてだった。わたしの面倒を見ることに疲れはじめているのかも……、しっかりしなきゃ。

 頬を叩いて、陽ざしの下を歩く。夏はぎらぎらしていて、いろんな場所から「生きている」って気配がする。それはひとだったり、虫だったり、植物だったり。だからなのかな。夏の終わりに、ひとが死ぬのは。生きてるって空気に満ちた季節が終わるのと同時に、自分も消えようとする。

 わたしたちの夏はどんどん終わりに近づいている。凪都は夏を越えてくれるのかな。それとももう、とっくのむかしに終わっていたのかな。

「……お姉ちゃん」

 頭の中で、柚のせいで、ってお姉ちゃんの声が響く。また、わたしは間違えた? また、大切なひとを失った? それはいつ? 死にたがりの凪都と出会って、今度こそって思ったのに。

 いや、まだだ。そうと決まったわけじゃない。わたしは首をふって、図書室を目指した。

 凪都はいつもと同じ窓際の席で、いつもと同じ表情で、本を読んでいた。紙のこすれる静かな音がする。

「……凪都」

 声をかけるけど、ぼんやりとしているのか、凪都は気づかない。もう一度声をかける。凪都がこっちを見た。

「おはよ。悪い、音楽聴いてた」

 その声は、やっぱりいつもと変わらない。耳からワイヤレスのイヤホンを外す凪都に、聞きたいことはたくさんあった。でもこうして顔をつき合わせてみると言葉が喉に引っかかって、結局無言で凪都のとなりに座ってしまう。凪都もまた本を読む作業にもどった。

 いま、ちゃんと会話ができているよね……。

 わたしは、ためらった。迷った。考えた。そうして、おそるおそる凪都に手をのばす。怖くて、指はふるえていたけど確かめたかった。そっと人差し指を凪都の頬に当ててみる。

「なに?」
「……ううん。なんでもない」

 凪都は「なにそれ」と喉を鳴らして、また本を読む。わたしの指は、ちゃんと凪都の頬に触れていた。やっぱり、この前のことは勘違い?

 そう思いたいのに、でも、それもちがう気がして、わたしはどうすればいいのかわからずに、じっと凪都がページをめくる音を聞いていた。すこしして、凪都が本を閉じる。

「海、行こうか」
「……え?」
「ランニングしたとき、柚、言ってたから。また海に行きたいって」

 そういえば、言った気がする。それどころじゃなくて忘れていた。

「いこ」

 凪都は本をリュックにしまうと、図書室を出ていく。わたしもあわててつづいた。前と同じで早い時間だから、海にはひとがそんなにいなかった。ざあああっと波が寄せては、引いていく。裸足になって海に入った。ひやりと冷たい水が足を洗っていく。

「今日は犬、いなさそうだな」
「そのほうがわたしは助かるよ」
「そう? 俺はあのとき面白かったから、来てほしいけど」

 ちょっと歩こうか、って凪都が言って、わたしたちは浅瀬を歩きはじめた。濡れた砂浜は思ったように進めなくて、よたよたと凪都についていくしかない。

「柚はさ、海に行く以外のやりたいこと、ないの?」
「……んー、もう結構、いろいろやったからなあ」
「欲がないな。そんなんじゃ、俺も張り合いがなくて困るんだけど」

 ぴちゃり、と水音を鳴らしてから、凪都が立ち止まる。

「家族と仲直りしたい、とか、そういうことは? 考えてない?」

 わたしも足を止めた。家族――お姉ちゃんがいなくなったあと、かみ合わなくなったわたしたち家族の関係を、どうにかしたいとは思っている。だけど、なかなか勇気が出せずにいた。

「……家に帰るのはまだ気まずくて」
「俺には、諒と仲直りしろって迫ったくせに」

 あ。たしかに、そのとおりだ。仲直りしなよって凪都に説教をしたわたしが、家族との関係を放置したままっていうのは、どうなんだろう。

「な、なんか、ごめん」
「べつに責めてるわけじゃないけどさ」

 あわてて言えば、凪都は呆れて肩をすくめた。

「でもまあ、早く仲直りしな」

 ……そうだよね。凪都は頑張ってくれたんだから、わたしだって。

「これ、あげる。お助けアイテム」

 凪都は背負っていたリュックの中身を、おもむろに漁りはじめた。お助け……?

 取り出したのは、マリンカラーのレターセットだった。凪都が持つにしてはかわいらしいデザインで、ちょっと驚く。

「なにこれ」
「手紙、書いたらどうかなって」
「お母さんたちに?」
「実家に帰るのはハードル高いだろうなって思ったし、電話も緊張するだろ。だからってスマホのメッセージじゃ味気ない。なら、手紙がいいかな、と思って買ってきたんだけど……、的外れだった?」

 凪都がちょっとだけ気まずそうに首をかいた。そんな凪都を、わたしはじっと見つめてしまう。

「わざわざ凪都が買ってきたの?」
「レターセットなんて、俺が持ってると思う? しかもこんな女子力高いやつ」
「……わたしのために買ってきたってこと?」
「だから、そうだって」

 いちいち聞くな、って言いたそうに凪都が顔をしかめた。それから、わたしがかぶっていたキャップのつばをぐいと下げる。

「なんか、むかつく顔してる。なんで笑ってんの、柚」
「えええ? 笑ってないよ」
「笑ってる」

 わたしは自分の頬に手を当てる。……たしかに、笑ってるかも。だってこれって凪都が、わたしとお母さんたちの仲直りのために、あれこれ考えてくれた、ってことだよね? こんな可愛いレターセットまで、わざわざ買ってきてくれて。

「ありがとう。凪都が自分からなにかしてくれるのってめずらしいから、びっくりしただけだよ。いままで、わたしがお願いをして聞いてもらうって流ればっかりだったし」
「まあ、諒との仲を取り持ってくれた柚には、礼くらいしないと失礼だからさ」

 凪都がちょっとふてくされたみたいな声で言う。

 お礼、か。

「……凪都は、嬉しかったの? 諒さんと仲直りできたこと」

 だって凪都はあの日、「もう遅いのに」って言っていたから。喜んでいるようには、とても見えなくて。

 指先が、なにもつかまえられなかったときの感覚を、また思い出す。それに気づいたのか、凪都が言った。

「諒と話せたこと自体は、感謝してる。これは本当」
「そうなの? じゃあ、なにが」

 なにが手遅れなの?

 そう言いたいのに、答えを聞くのが怖い思いもあって、言葉は喉で詰まってしまう。

「柚」

 波の音が、耳を満たす。わたしは、そっと顔を上げた。凪都が、困ったように笑ってる。

「もうすこししたら、ちゃんと話すから。あとすこしだけ、なにも知らないふりして、俺につきあって」
「……え?」
「いつか、ちゃんと、話すから」

 鼓膜を揺らす凪都の声は潮騒にまぎれて消えてしまいそうだった。強い朝陽を浴びる凪都の身体も、まぶしさにわたしが目をまたたくうちに、ふっとかき消えてしまいそうで――。

 凪都の話を聞きたい。だけど聞くのが怖い。宙ぶらりんの状態で、わたしは頷くしかなかった。

 そのあとわたしたちは海から出て、学校にもどった。寮の前で、凪都はわたしにレターセットから便せんだけを取り出して渡した。

「書き終わったら、持ってきて。そのときに封筒も渡す」
「え」
「せっかく関わったんだから、ポスト入れるまでつきあうよ」

 わたしはきょとんと目を丸めた。

「律儀だね。というか、おせっかい?」
「それ、柚には言われたくないな」

 凪都はすこし顔をしかめた。でもわざとつくった顔だったみたいで、すぐに表情をゆるめて、じゃあ、と手をあげた。

 わたしは便せんを持って、自分の部屋にもどった。マリンカラーのかわいい便せんに綴ることになるはずの言葉たちを思い描く。それは暗くて重たくて、ペンを持つ指先はなかなか動きそうにないなと思う。だけど、せっかく凪都が手伝ってくれたんだから、お母さんともお父さんとも向き合うべきだ。この機会を逃したら、もうそれができないような気もした。

 机に向かって、ゆっくりとペンを走らせていく。

 だけど、凪都のことが頭から消えることもなかった。