暑すぎた夏が終わり、短い秋が終わろうとするそんな頃。
 罰ゲームとして章人と恋人同士になってから、もうすぐ二週間がたとうとしている。相変わらずな俺たちだけど、大きな喧嘩もなく仲良くできていると思う。

 ただ、付き合ってから時間はたったのに、相変わらず手を繋ぐだけで、章人はそれ以上のことはしてこない。
 章人は何かを感じ取っているのだろうか……と不安になることもあるけど、「自分は何も知らない」って平静を装うことしかできなかった。
 それでも俺は、章人に真実を知られてしまうことが怖くて仕方がない。真実を知った章人は、どんな反応をするだろうか。俺に失望して、去って行ってしまうに違いない。
 逆に、全てを打ち明けて楽になりたいと思う自分もいる。もしかしたら、あいつは優しいから、受け入れて許してくれるのではないか……そう淡い期待を抱いてしまう自分がいた。

「あ、飛行機雲だ」
 屋上から空を見上げれば、雲一つない真っ青な空に真っ直ぐ飛行機雲が走っている。今はあんなにはっきり見える飛行機雲なのに、いつかは消えてしまう。
「俺らの関係もいつかは消えちゃうのかな」
 好きになったら負け……もう幾度となく自分に言い聞かせてきた言葉を、確認するように呟く。
 これはただの罰ゲームだから。それに、章人は売り言葉に買い言葉……きっとそう思っているに違いない。
「好きになったら負けだ」
 空に浮かぶ飛行機雲が、段々薄くなっていくのを、俺は呆然と見つめた。

「あ、凪。こんな所にいたんだ。今日は全部の部活が休みの日だから、もう帰ろうと思って探し回ったんだよ」
「あー、悪い。なんか最近イライラしちゃってさ」
「ん? 何かあったのか?」
 お前が「何かあった」の原因なんだよ……そう言い返してやりたかったけど、それはさすがにただの八つ当たりだから口を噤んだ。 それに実際のところ、章人だけが原因じゃない。
「部活の先輩が卒業して、次の部長を決める選考期間が始まったんだけど……そういうのがめっちゃストレス」
「え? 凪が部長になるんじゃないの?」
「そうとも限らないよ。俺は部内では身長があまり高くないし、他にも上手い奴なんて腐るほどいるんだから」
「そっか。バスケ部人数多いもんな」
「章人は部長に決まってるんだろう?」
「そんなわけないよ。転校してきて早々に部長なんてありえないだろう」
 そう笑う章人の笑顔を見ると少しだけ心が軽くなる。悩みの種に癒されるなんて、本当におかしな話だ。
「凪、今めっちゃ怖い顔してるよ」
「は?」
 章人がはにかみながら俺の前で胡座をかく。「よいしょ」と言いながら、俺を抱き抱えると自分の腰に俺の足を巻き付けさせる。俺は自然と、胡座をかいた章人の膝の上に座る体勢になった。
 ちょっと待って、距離が近い。すぐ目の前には章人の整った顔が……一気に心臓が高鳴りだした。

「ほら、凪。リラックスリラックス……」
「え?」
「あんまり険しい顔してると、可愛い顔が台無しだよ? それに眉間に皺が寄っちゃうし」
 章人は俺の頭を優しく撫でてくれる。まるで駄々っ子を宥めるかのような優しい手つきに、自然と目を細めてしまう。心の奥底では「ガキ扱いすんな」と喚き散らす自分もいるけど、完全に心地いいっていう感情のほうが勝ってしまった。
「ふふ、気持ちいい?」
「……別に、気持ちよくなんか……」
「本当に? ほら、凪、リラックスして」
 今度は俺の頬を両手で包むと、緊張をほぐすかのようにマッサージしてくれる。
「凪のほっぺたは赤ちゃんみたいにふわふわしてて、気持ちいいね」
「うるせぇよ」
 憎まれ口を叩いてみるけど、体は完全にリラックスモードだ。躊躇いながらも、章人の肩に顔を埋める。「凪、可愛い」という章人の優しい声が、耳元で聞こえてきた。

「なぁ、章人……」
「ん?」
 章人は俺の背中を擦っている。この男は、どこまで自分を甘やかしてくれるのだろうか。
 その優しさが泣きたいくらい嬉しくて幸せなのに、叫び出したいくらい辛い。心が、バラバラに砕け散ってしまいそうだ。
「なんでキスしてくんねぇの?」
「え?」
「俺たち付き合ってから結構経つんだぜ? いくら俺がキスしたことないって言っても、そろそろしてくれてもいいんじゃない?」
「凪は……凪は俺とキスしたいの?」
「お、俺は章人とキスしてみたい。ファーストキスの相手は章人がいい。でも、お前は俺とキスなんかしたくないよな。だって所詮俺は男だし……それに……ん、んんッ」
 俺は最後まで言葉を紡ぐことはできなかった。なぜなら、章人に唇を奪われてしまったから。マシュマロみたいに柔らかなものが唇に触れて、そっと離れていく。
 俺の反応を窺いながら、もう一度唇が重なって。章人が優しく啄んだ。
 キスってこんなに気持ちがいいんだ……。頭の奥がジンジンと痺れていく感覚に陶酔する。

「凪、キス気持ちいい?」
「気持ちいいけど……どうしたらいいかわかんない。息もできないし、死にそう……」
「ふふ、凪、本当に可愛い。もっとしたい」
「お、俺で遊ぶなぁ……」
 ムキになって反抗してみたけど、こんなの全然迫力なんてない。だから章人に弄ばれてしまうんだ。
 ――でも、でも……。章人の唇、柔らかくて温かい……。
 俺は夢中で、章人の唇を頬張ったのだった。

◇◆◇◆

 章人と初めてキスをしてから数日後、俺たちは図書室で待ち合わせしていた。明日行われる学力テストの勉強を一緒にしようと約束していたのだ。
『神谷には絶対に負けたくない!』
 そう意気込んでいた頃が懐かしく感じる。今はそんなことはどうでもよく感じていた。
そりゃあ誰かに負けることは悔しいけど、章人になら負けてもいい。
 あいつにはどんなに格好悪い姿だって見せられるし、どんな俺でも受け入れてくれる。こんな考えは俺の奢りかもしれないけど……いつの間にか、章人に心を許してしまっている自分がいた。
「好きになったら負け」
 そんなものは、今の自分には、もはや通用なんてしないのだ。 図書室が一瞬ざわめいたと思ったら、誰かが自分に向かって歩いてくる気配がする。
 あ、来た……俺の心が静かに波打った。

「凪、待たせてごめんね」
「遅ぇよ、馬ぁ鹿」
「だからごめんって」
 微笑みながら俺の顔を覗き込む章人を見ると、胸が締め付けられる。
「お詫びに凪が好きなココア買ってきたよ」
「え、マジで? サンキュー」
 たったそれだけで、俺の口角は自然と上がってしまう。
「凪、可愛い」
 そう笑う章人の笑顔が、まるで刃のように俺の胸に突き刺さった。
 図書室で勉強を始めてから、一時間が経っていた。つい先程まで、俺たちをチラチラ盗み見ていた女子生徒たちは、いつの間にか下校してしまったようだ。
 時計を見れば、もうすぐ下校時間が迫っている。今日は金曜日だから、来週まで章人には会えない。と言うより、学校以外で章人に会いたいと言ったこともない。
 今までは嬉しかったはずの金曜日が、今はひどく憂鬱に感じられた。

「あ、凪。また怖い顔してる」
「へ?」
「ほら、リラックスして……」
 そう言いながら、いつものように髪を優しく撫でてくれる。髪を撫でていた手が頬に下りてきたから、くすぐったくて思わず肩を上げた。
「凪、気持ちいい?」
「うん」
 無意識に章人の手をとり、頬擦りをした。温かくて、自分よりも大きなこの手が、俺は大好きだった。
「……ねぇ、凪。ちょっとこっちに来て」
「は? なんだよ?」
 突然腕を掴まれると、図書室の奥へと連れて行かれる。「なんなんだよ」そう言おうとした俺は、本棚に押し付けらてしまう。その衝撃で、一瞬息ができなくなった。
「凪が可愛いのが悪いんだからね」
「は? なんだよ、意味わかんねぇ」「全部、凪が悪いんだ。好きになったら、負けなのに……」
「章人……ん、んッ、はぁ……」
 悲しそうな顔をした章人が目を閉じる。少しずつ二人の距離が近付いてきたから、俺も章人にならって目を閉じた。
 ふにっ……と柔らかく重なり合う唇を堪能し合って、優しく啄んで。息を吸うために薄く口を開けば、章人の舌が口内に侵入してくる。俺たちは、少しだけ大人のキスをした。

 ――好きになったら負け。
 これが罰ゲームのルールだとしたら、俺はきっと負けだ。だって俺は、章人のことが……。
 人が恋に落ちる瞬間っていうのは、もっとドラマチックなものだとずっと思ってた。まるで、雷に打たれたかのように運命を感じるんだって。
 でも実際は全然違う。頭を優しく撫でてもらったり、本当の自分を受け止めてもらえたり……そんなほんの些細なことなんだと思い知る。

 完全にゲームオーバー。敗者は俺。
 だから俺は、どうにかしてこのゲームを終わらさなければならないのに……。臆病者の俺はゲームを終了にして、章人を失うことが怖かった。それなのに、全てのことを見て見ぬフリをして、章人を騙し続ける勇気さえない。
「素直になれなくて、ごめんね」
 俺は章人の胸に顔を埋めたまま、声を押し殺して泣いた。どんなに歯を食いしばっても、涙は次から次へと溢れ出してくる。そんな俺の髪を、章人は優しくすいてくれた。

「凪、泣いてるの?」
「うるせぇ。泣いてなんかない」
「凪、泣かないで」
「だから泣いてないって」
 こんなにも優しい章人を騙した罰が当たったんだ。そう思えば、涙は止まってなどくれない。
 ――素直になれなくて、ごめんね。
 俺は心の中で何度も何度も繰り返し呟いた。