初恋は、レモンの味がするらしい。
 甘酸っぱさは風に揺れて、どこか知らない場所まで飛んでいく。手元に残るのは、それはどんな味なのか。甘いも苦いもわからない、嘘つきなパンドラはずっとオレの中で居座っていた。
「直くん」
 頭上から声が降ってきたそれは、悠真のものだ。
 コンクリートに座り込んだオレを見下ろした悠真はどこか楽しそうで、静かに微笑んでいる。
「直くん、屋上は普段立ち入り禁止のはずだが」
「お前だって入ってるし、そもそも今授業中だろ。立派な共犯だ」
 どこにいるなんて言ってないのに、こいつはいとも容易くオレを見つけた。それすらなんだか嬉しいと思えて、オレも本当にチョロいと思う。
「いいのか? 特進コースの優等生さんがこんな場所でおさぼりして」
「よくないな……悪い事を覚えたのも、全部直くんのせいだ」
「そこはおかげじゃないのかよ」
「あぁ、全部直くんのせいだ」
 その言葉に、悪意がないのは見てわかる。
 だからオレもそれを聞きながらつい頬を緩めて、空いている隣をトン、と手で叩いた。
「なら悪い子の悠真、ここなんて空いてるぞ」
「あぁ、お言葉に甘えよう」
 躊躇う事なく横に座った悠真は、ただそれだけで嬉しそうにしている。オレといるという事が幸せだと嫌になるくらい聞かされたが、よく考えてみればこう言った言動一つ一つで手に取るようにわかる。
 言葉は下手だけど、表情だって乏しいけど。
 それでも、こいつの事を知ればじゅうぶんすぎるくらい考えている事は伝わってくる。
 そんな悠真を見ているとオレも嬉しくて、ふとさっき自販機で買ったものを思い出しそれを差し出した。
「ほら、コーヒー」
「……もし俺がこなかったらどうするつもりだったんだ」
「……オレが飲む」
 今のはちょっと意地を張ったかもしれない、コーヒーは苦くて苦手だから。よくてコーヒーゼリーにでもしただろうそれを悠真は嬉しそうに開けると、そのままぐっと喉に流し込む。
「うん、美味い」
「ならよかった」
 どこかのクラスが体育の授業をしているのか、ボールを蹴る乾いた音が響く。校庭に一瞬目を向けたが、それだけ。すぐに悠真の方へ視線を戻して、必死に言葉を選んだ。
「……悪かった、巻き込んで。悠真にあんな事させたかったわけじゃないのに」
 昨日の、路地裏での話。
 助けて欲しかったわけでも、なにかをして欲しかったわけでもない。ただ純粋に、悠真をこれ以上オレ側にこさせたくなかった。たった、それだけの話。
 悠真がオレに笑っていてほしいというように、オレだって悠真を守りたかった。そのはずなのに、上手く伝える事はできなくて。ただ、自分の中に居座った感情を吐き出す事ができなかった。吐き出す事はとても難しくて、傷つけるなんて最低な方をオレは選んだ。
「もう気にしていない……それより、昨日の人達は」
「こっちでなんとかする……そんな目で見るな、喧嘩で解決なんて考えてねえから」
 不安そうに瞳を揺らすから、つい先に結論を出す。
「完全に避けるのは難しいかもしれないけど、あいつらも相手をしない人間には興味ない……なんとかするよ」
 明確ではなくても、悠真にとってはその言葉が嬉しかったらしい。そうか、と笑うだけでそれ以上言及はしてこなかった。
「……なぁ、悠真」
「なんだ?」
「なんでお前、オレの事知ってたんだ?」
 代わりに投げたのは、ずっと気になっていた事。 
 なんの事だ、と首をかしげる悠真はオレの言いたい事がいまいち理解できないようだった。
「オレでさえ、お前の事は同じ学年の特進にいたなって事しか覚えてなかったのに。お前、オレのクラスまで知ってただろ」
 二年一組と、二年八組。
 これだけクラスが離れているのに、どうしてオレの事を知っていたのか。いくら相手が問題児だからと言っても、クラスまではあまり覚えていないものだとオレは思う。
 オレのその言葉にようやく理解できた悠真本人は、なぜだか懐かしむように目を細めていた。
「……直くんにとって俺は、きっと大勢のうちにいる一人だろうが。直くんはいじめっ子からだけではない、校内で誰かが理不尽に絡まれた時も同じように助けてくれるからな」
 なにを言っているのか、理解できなかった。
 オレに対してというのはもちろんわかっているが、悠真の言う通り似たような事は何度かしているから心当たりが多すぎる。
「……入学式の日、きっと直くんにすべて持っていかれたんだ」
 けど、最後に付け足された言葉に、肩が揺れた。なんでお前、突然入学式の話してんだ。確かにあの時、シューズボックスの前で特進の女子が話には出していたけど。
「学校最寄りの駅で在校生と肩が当たった事で絡まれていた新入生を助けたの、あれは直くんで合っているだろうか?」
「入学式って、それは」
「あの時から、俺は直くんに夢中なんだ」
 なんでそれを今持ち出された理由がわからずにいると、悠真の話は終わっていなかったらしい。
「同じ入学生に素行の悪い問題児がいるとは聞いていた。けどあの日助けてくれた時、もしかすると噂は独り歩きしているだけではないかと思ったんだ。噂に聞く怖いだけじゃない……きっと優しさもある。それは、調理実習室で会った時確信に変わったんだ」
「いや待て、それって」
 話を聞くたびに悠真はオレを知っているような口ぶりで、つい話を止める。今の話、入学式の事。どれも自分の事のように話す悠真は嘘をついていないようで、記憶を必死に手繰り寄せた。
 あの時、入学式の話。
 悠真の言っている事は、確かにあった。偶然肩が当たったとかで、在校生がオレと同じ新入生に絡んでいるのを偶然見かけて。どう考えても適当なカモを見つけて反応を見ては楽しんでいるような、最低な奴ら。そんな年上のくせに新入生に絡んでバカみたいと思ったのと、絡まれている奴も可哀想だからなんて、それだけの理由で間に入った。だから記憶にだってあるし、間違いでもない。なら、それはつまり。
「おま、あの時の……!」
「もしかすると、甘いものを食べている直くんを見る前から俺の特別は直くんだったのかもしれないな」
「まじ、かよ」
 甘いものを食べている姿をみたいとか色々言っていたくせに、本当はもっと前からなんて。
 人の事嘘つきとか言って笑っていたけど、自分が一番嘘つきだろ。
 ずっと、その時からオレへの感情を隠していた。いつからなのかもわからない、そんな昔から。思い出せば全部点と点が繋がって、こいつのわけがわからない言動も納得ができてしまう。
「だからお前、オレが殴らないとか優しいとかある事ない事言って!」
「ある事ない事なんかではない、全部事実だ。実際、入学式の時も俺は殴られなかった」
 ふふ、と笑う悠真はすべてを笑っていたようで、ネタばらしを楽しんでいる子どものようだ。それを見ると、もうなにも言えなくなる。
「本当に、バカみてえ」
 こいつは、ずっとオレの事が好きだったんだ。
 どこがいいのか聞いた時に出た言葉も全部、この日が浅い時間の中でのものではない。昔から胸の中に燻っていた言葉を、吐き出しただけだったらしい。バカみたいに一途で重たくて、恋と言うには余りにも熱を持ちすぎた奴。
「……なぁ、悠真」
 オレはそんな、そんなにも熱烈な言葉に返すものを持っていない。見合うものだってこの手にない、それでもなにもできないとは言っていない。
「その気持ち、オレが諦めろって言っても捨てないのか?」
「あぁ、悪いがそれは難しい。直くんへの気持ちを捨てるなんて、考えられないからな」
 迷う事なく放たれた言葉にすら熱はあって、聞いているこっちも恥ずかしくなる。けど、それもいいかと思ってしまうのは、相手が笹川悠真だからこそだ。
「――なら、オレも喧嘩はもうしない」
 はっきり、屋上に響いた声は悠真に届く。
「……え、今直くん、なんて」
「だから、喧嘩はもうしない。約束する」
 じっと、目を丸くしてアイスグレーが揺れている。驚きを隠していないそれは、オレをじっと見つめている。
「どうして、突然」
「なんだ、喧嘩しててほしいのか?」
「いや、そういうわけじゃ!」
「ふはっ、必死じゃん」
 勢いよく首を横に振るからそれが面白くて、少しだけからかいたくなるが今はぐっと我慢する。
「やりたくて、喧嘩をしていたわけじゃない……それならお前とバカやって、美味いもの食った方がいいと思っただけだ。お前といた方が、オレはいい」
 他意はない、ただ事実を言葉にしただけ。
 それだけのつもりだったのに、隣から息を飲む音が聞こえた。視線を向けると目を丸くした悠真がオレを見ていて、それって、とうわ言のように繰り返していた。
「直くん、それはつまり」
「勘違いすんな、そんなのじゃない」
 言いたい事がわかってしまって、ついいつも通り虚勢を張る。けどすぐに考え直して、視線を落とした。
 そうかも、しれない。
 悠真の期待通りの感情を、オレは言葉に無意識のうちに乗せているかもしれない。それは他でもない、このうるさいほどに暴れている心臓の音が証明している。
「……やっぱ今の嘘、少しだけ。少しなら勘違いならしていい」
 嘘じゃない、嘘つきじゃない言葉。 
 今のオレにとってはそれを言うので精一杯で、頭の先まで茹だるような感覚だった。今の、変じゃなかったか。わざとらしくなかったか、自然に言えていたか。
 意地っ張りじゃない裸の言葉をちゃんと出せたのかすら曖昧で、ぐるぐると思考が回っている。今の言葉、悠真はどう思ったんだろうか。どんな顔をしているのか、それが気になっておそるおそる前を見る。
 それは、その顔は初心なくらいに赤くなっていた。
「すなおっ、くん」
「……ふは、顔真っ赤」
 どこまでもまっすぐでカッコよくて、可愛い奴。
 オレが、こいつの言葉に一挙手一投足持っていかれているのと同じ。悠真だって、オレの言葉一つでだめになっちまう。それが、今のオレにとっては愛おしいと思えた。全部、悠真の言葉と同じだ。
「ゆーま、こっち見ろ」
「な、なに、んっ……!」
 目を閉じて触れるように、あの時と同じように唇を重ねた。今度は、オレの方から。
 悠真みたいに上手くできている自信はない、これがキスと呼んでいいのかも悩んでしまう。けど、それでもと何度も角度を変えながら暖かさを重ねていく。
 数回、わざとたてたリップ音に悠真の指先が跳ねた。
 今のこいつ、どんな顔をしているのかな。
 そんな興味本位もあり、ふと瞼を持ち上げる。
「っ……」
 また、視線がぶつかった。
 熱い、熱すぎるまでの視線がぶつかる。
 オレだけしか見ていない瞳の中でオレだけを閉じ込めている。もしかしてこいつ、最初から目を開けたまま。
 考えると急にオレの方が恥ずかしくなって、けれどもそんなオレの困惑すら気にしていないくらいオレに夢中で。
 それがひどく愉快で、楽しくて。
 本当にこいつって、オレにゾッコンだなとか。考えたい事は尽きなくて、そっと名残惜しむように唇を離した。
「あの時のお返し」
 ニッとイタズラに笑ってやる。
 オレの方が優位だなんて気分をよくしたのは一瞬で、すぐ口の中を支配したのはコーヒー特有の味。
「苦っ……!」
「それは、今しがた直くんがくれたコーヒーを飲んだからだな」
 楽しそうに笑った悠真の手にはコーヒー缶があり、また煽るように流し込んでいる。
 一回目は、クリームの味。
 二回目は、コーヒーの味。
 にがくて甘くて、それから辛い。
 一度バグった感覚は、きっと悠真も一緒だから。
 キスの味だって、パルフェと一緒なんだ。スプーンで掬った宇宙と同じ、何度したって心臓が痛いくらいにうるさくなる。
 ずっとうるさい心臓と浅い呼吸の中で、悠真は愛おしそうに笑う。夢見たい、なんてそんな言葉を落として。
「なら今の必死で可愛かったキスも纏めて、存分に勘違いさせてもらう」
「ひ、一言余計だ」
「すまない、ただそう思ったからな」
 細くも骨張った手が頬を優しく撫でる。撫でて、顔を近づけた。熱も吐息も、呼吸も視線も。全部溶け合う距離で、アイスグレーの瞳に溺れている。
「ところで直くん」
「なに」
「もう一回、今度からオレからしていいだろうか」
「……勝手にしろ」
 今のは自分でもわかっている、完全な照れ隠しだ。
「勝手は嫌だ、直くんと二人でしたい」
 だめだろうかなんて、答えのわかりきったお伺いを立ててくる。それすら確信犯で、なにも言い返す事はできない。そんなこいつのわがままで欲深い一面も、全部纏めて甘いと感じてしまう。
 返事はしてやらない、代わりに軽く頬にキスを落とす。
 それだけで嬉しそうに笑う悠真が可愛いと思えるオレは、もう手遅れかもしれない。
 三回目は、どんな味なのか。
 わかりきっているはずなのにわくわくして、幸せだと思えた。
 風に揺れた苦いも甘いも、なにもかも。
 今日も静かに、オレを満たしていくようだった。