結局は、いつだって同じだ。
 一度足を取られれば抜け出す事なんてできなくて、ただ静かに沈んでいく事しかできない。それが仕方ないとは考えたくなかったが、そうとしか思えないオレはきっともう手遅れなんだ。
 悠真とは、しょせん生きる世界だって違うんだ。
 なにもかも違う、手の中にある感情も、相手に向ける感情も。
 だから、オレは悠真に見合うものを持っていない。
「ずっと、あいつの事考えてる」
 バカみたいだ、なにもかも。
 頭の中もなにもかもあいつばかりで、悠真ならなんて考えている時点で手遅れなんだ。もうきっと、オレは変わってしまった。
 殴るたびに自覚する感情は何度もオレに襲いかかってきて、それが苦しかった。路地裏に響く骨の軋む音は、オレの心臓の軋む音と錯覚してしまう。 
「……痛え」
 なにもかも、ずっと苦しくて痛い。
 心臓を握り潰されるように、ずっと痛い。
 また目の前にいた奴が倒れていくのを見て、苦しさに浅い呼吸を繰り返した。こんな事して、悠真は怒るだろうか。
 揺らいだ思考と、意識。それは隙を作るのにじゅうぶんで、目の前にいた最後の一人もそれを見逃すわけがない。アスファルトの地面を蹴りあげる音と、言葉と思うには荒い叫び声。弾かれるように顔を上げると目の前にあって、身体が強ばる。
 だめだ、と思ったところで判断に遅れる。
 けど、どうするか考える前に突然現れた声に思考は持っていかれる。
「直くん、伏せて!」
 何度も聞いた声、焦がれた声に息を飲んだ。
 なんで、どうしていまあいつの声が。
 脳の理解が追いつかないのに、自然と身体が動いた時だ。
 目の前を、そいつが飛んでいく。
 代わりに現れたのは何度だって見たアイスグレーの瞳を揺らす奴で、慣れない運動をしたように大きく肩で呼吸をしていた。殴ったわけではない、力ゴリ押しでの体当たり。かなり強かったのか、飛ばされた奴からは言葉にならないうめき声が聞こえた。
「直くん!」
「ゆうまっ、なんでお前……!」
 予想外の襲来に声を張ると、対する悠真はなぜだか眉間にしわを寄せる。
「なんで……? 菊池先輩から連絡があった、だからきたんだ」
「シュウの奴、余計な事を……」
「元と言えば直くんが悪いんだ、俺の事を避けていただろ」
 オレの言葉に反応した悠真は、珍しく不機嫌そうな顔を作りオレの方へ近づいてきた。状況が読めず悠真から目を離さずいると、直くん、とオレの名前を呼ぶ。
「喧嘩はきっかけと言っていたのに見えた嘘をまた言って……隠し事はしないと約束をしたから、だから言い訳を聞きにきた」
「いや、クソ真面目か」
 それだけの理由で、よくこんな場所にきたな。
 オレがきっと悠真の立場なら行こうと思わないし、そもそもそこまでの義理はないはずだ。それなのにきたこいつはお人好しなのか、それともオレの事がそんなにも大切なのか。そこまで考えて、つい場違いに頬が緩んだ。
「……そうじゃねえな」
 あぁ違う、それだけの理由だからこいつはきたのかもしれない。
 こいつは、笹川悠真はそういう男だ。どこまでもまっすぐで、自分が信じた道を進む。だからきっと今だって、悠真がそうしたいと思ったからしているんだろう。
「本当にお前、大バカ真面目だよ」
「直くんに限定だ」
 座り込んでしまっていたところに手を差し出されたから、そのまま甘えて引っ張ってもらう。勢いをつけて立ち上がると悠真の視線がいつも通り近くなって、少し場違いにも嬉しく感じた。
 鼻と鼻が触れそうで、呼吸が混じり合う。心臓の音が聞かれそうな距離で笑うと、悠真も同じように笑っていた。
「俺は本当に、直くん相手だとなにもかもだめだ」
「いいんじゃね、どうせオレがいるんだしだめになっちゃえよ」
「いや、さすがにだめになるわけには……え?」
 オレの言葉になにかを感じたのか、悠真が顔を上げた時だ。
「なんだったんだ、今の……」
「やばい、起き上がった……!」
 悠真が渾身の体当たりでぶっ飛ばした奴の声がする。
 まだ悠真の事には気づいていない、今のうちに目の前のこいつをどうにかしないと。
 悠真を隠すよう前に出たつもりだったが、それはぐいと後ろに手を引かれる事でバランスを崩してしまう。なにが起きたのかわからず視線を後ろへ向けると、呼吸が重なる距離に悠真がいた。
「だめだ、直くん」
「いや、お前この状況見てんのかよ」
「見ているが、直くんが怪我をする瞬間の方が見たくない」
 クソ頑固、こういう時は見逃せよ。
 どう考えてもこっちのが不利なのに、悠真の奴は引き下がろうとしない。むしろ力を込めて、オレの腕を掴んでいた。
「だから直くん、逃げよう」
 それはイタズラをするような、隠し事をするような。
 けれどもまっすぐ、オレの目を見て笑っている。
「逃げるって、そんな情けない事できるか」
 今さら背中を向けて逃げるなんて、そんなダサい事はしたくない。悠真はそんなオレの言葉すら見透かしたように首を横に振り、そうではない、と続けてきた。
「直くん」
 迷いのない、まっすぐな声がオレを突き刺す。
「逃げる事だって、それは強さだ。傷つかないように逃げる選択肢は、情けなくもかっこ悪くもない」
 逃げる強さに、意味があるのか。
 その行為に、意味はあるのか。
「俺は、直くんがこれ以上傷ついてほしくないから、だから逃げる選択肢を取るんだ」
「……悠真」
 感情が、オレの中で揺れている。
 悠真がそう言うならなんて、ついそんな事を考える。
 一瞬だった感情の揺れを、悠真は見逃さない。じっとオレを見つめると、直くん、とオレの名前を優しく呼ぶ。
「だから、走ろう」
 手を引かれて、世界が回る。
 動き始めてしまった足を止める事はできなくて、悠真に体重を預けた。
「悪いが、このまま直くんは貰っていく。もう二度と、直くんが傷つかないように」
 オレにした、クレープ屋での宣言とは比べ物にならない。紛うことなき宣戦布告はその場に落とされて、音を奪っていく。
 静まり返った空間を睨んで、そのまま走り出したら止まる事はできない。後ろから怒号が聞こえた気がしたが、それすらも今のオレには些細な事だった。
 ただ、熱い。
 ただ、心臓がやけにうるさい。
 ただ、呼吸が浅い。
 悠真を考えるとなにもかもめちゃくちゃで、オレがオレではなくなっていくみたいだ。
 それを受け入れているオレも大概で、オレもきっとこいつじゃなきゃだめなんだ。そう思えるのは、絆されたからかもしれない。
 もう全部、なにもかも。
 こいつに溶かされた心は、ずっと元に戻りそうにない。

 ***

 何個角を曲がったか、どれだけ走ったかわからない。
 学校から離れた河川敷に気づくとオレも悠真も自然と足を止めて、ズルズルとその場に座り込んだ。夕焼けが、普段よりもやけに眩しく見える。
「もう、追ってこなさそうだな」
「あぁ……めちゃくちゃ走った、疲れた」
 腰が抜けた、逃げるなんて初めてだった。
 ダサいと思っていたのに、そんな事はない。むしろ安心感は波のように押し寄せて、オレ自身の弱さを肯定された気がする。
 けど、そんな事は些細な話だ。
 それよりもこうして手を握った温もりが、なによりも嬉しかった。絶対言葉にしてやらないそれはそっと飲み込んで、深く息を吐く。
 しばらく呼吸を整えてから横を見ると、アイスグレーの瞳と視線がぶつかる。オレと同じように走った悠真は、運動を普段していないのかオレよりも疲れ切っている。けどその目はずっとオレを見ていて、それがあまりにも力強いものだから場違いだななんて他人事で考えた。
 悠真の瞳と、それからさっきまでの喧騒が嘘のような静けさ。それだけで今手の中にあるのは穏やかな時間だと理解できて、ふつふつと名前の知らない感情が溢れていく。
「ふふ、ふは! お前、けっこう走れるじゃねえか!」
「そんな、火事場の馬鹿力だよ」
 ここしばらく一緒にいた中でも初めて見た悠真の一面に、笑いが込上げる。釣られるように悠真も頬を緩めると、自分がかなり走ったと自覚できたようでさっきのオレと同じように深く息を吐いていた。
「それで、直くん。なんで隠し事をしたか教えてくれるだろうか?」
「本当、バカ真面目……」
 今はもうその話、見逃してほしいけどな。
 隠してた自覚はあるけど、これを悪かったとは思っていない。ただあの瞬間の、オレの信念の話だから。
 だんまりを決め込むオレを見てなのか、しばらく静かにオレの答えを待っていた悠真も諦めたようにまた今度必ず、と笑った。
「それにしても、もう体力も限界だな……しばらく走るのは控えよう」
「いや、運動はしろって」
 冗談のつもりで言った言葉だったが、どうやら悠真は本気だったらしい。そんなにも体力がないくせに、火事場の馬鹿力なんかでオレの事を助けにくるなんて。
「本当に、お前は……」
 バカだよ、あんな理由で危ない場所に乗り込んできて。
 その癖、オレのなにもかもを掻っ攫って逃げ出してしまった。本当に、今この瞬間世界一バカな男だ。バカで、けどそんなところも悠真らしいと許してしまいそうになる。
「捨て身のタックルしてたけど、あれなんだった?」
「俺は直くんみたいに殴る事はできないが、それでも直くんを助けたかったから身体がつい」
「オレでもあんなのやろうとはしないけど」
 だって殴るより痛いだろ、タックルは。
「それで、どうだっただろうか直くん。俺のタックルは」
「んー、どうだったって聞かれてもな」
 少しだけ考えて、頬を緩める。
 返答は、最初から決まっていた。
「すげえダサかった」
「ださっ……!」
「すげえダサくて、すげえかっこよかった」
 どんなヒーローよりも、本当に。
 噛み締めて、言葉を落とす。
 まだ出会って日が浅い、ほんの少ししかお互いを知らないはずの関係。それなのにいつだってオレの事を第一に考えて、愛おしそうに触れて。宝物を扱うようなそれはいつだってこそばゆいとも、暖かいとも思えてしまう。
「本当になんで、お前はオレなんかのために」
 悠真ではない、どこかに投げ捨てたはずの言葉。それはきっちり悠真まで届いていたらしくそうだな、と悩む仕草をされる。
「なんで、か……」
 少しだけ戸惑った悠真は、なにかを決意したように小さく頷くとオレの両肩に手を置き直くん、と名前を呼んでくる。アイスグレーの瞳の中に、情けないくらい不安そうな顔をしたオレが映っていた。
「わかっていないならもう一度言う、俺は直くんが、んぐっ」
 咄嗟に悠真の口を塞いで、うー、と自分のにしてはずいぶん弱い唸り声を上げる。
「や、やっぱそれ以上はだめだ」
 いざ言葉を投げたけど、また熱烈な言葉を淀みなく言われると思うと心の準備が間に合ってなかった。多分だけど、今なにか言われたらオレはだめになってしまう気がする。身も心も、悠真に溶かされる気がしてしまう。
 躊躇ったのをどう思ったのか、オレの両手越しに悠真は嬉しそうにしている。手の甲を優しく撫でられて指先が跳ねると、そのまま優しく両手で包み込まれる。自由になった口を塞ぐ事は、もうできない。
「直くん」
 それはどんな悠真の声よりも、優しく鋭い。
「もしよければ、だめな理由を聞いてもいいだろうか?」
 答えなんて聞かなくてもいい癖に、わざわざ伺いをたててくるのはこいつが真面目すぎるのか、それともイジワルなのか。どちらの面も持っている悠真相手だとどうくるかわからなくて、けどだからと言ってごまかす方法は持ち合わせていない。 
 本当に、こいつの前じゃ固めた嘘も意地もなし崩しになってしまう。けど今では、それすら愛おしいと思える時すらある。
 どうせ悠真相手だ、嘘をついたってすぐバレる。
 だから腹を括って、言葉を選んだ。
「…………勘違い、しそうになる」
 やっとの思いで絞り出した言葉は、自分のものとは思えないくらいに情けなく震えて小さかった。
「勘違い?」
「そう、勘違い」
 二回も言わせんな。
「……ずっと、そうだった」
 それは、どんな懺悔の言葉よりも重く苦しい。
「お前の言葉を聞くたびに、優しくされるたびに勘違いしそうになるんだ。オレがお前のものになるような、悠真になにもかも上書きされるような気がするんだ」
 ずっと、心臓がうるさいくらいに暴れている。
 あの日から、あの時からずっと。今だってずっと、絶え間なく暴れ続けている。
 全部、悠真のせいだ。
「だから、これ以上お前になにかを言われたら、本当に勘違いしちまう」
 情けないくらい、縋るような声だった。
「悠真と出会って、ずっとオレは勘違いしてんだ。お前の優しい言葉も、熱すぎる感情も全部。オレだけに向けられているって、オレのためだけに並べた言葉かもしれないなんて思ったら、勘違いしちまう……オレも、お前がほしいと思っているかもなんて、そう勘違いしてるんだ」
 それは懺悔だった、告白にはほど遠い暴露だった。
 露見した感情は溢れたまま止まらず、言葉にするたびオレの方に戻ってくる。なにもかも、オレを突き刺して殴りつけてくる。
 吐き出すのすら怖いと思った感情がその先で待っているのは、間違いなく拒絶だ。
 悠真には、そんなオレがどう見えたのだろう。最初こそ驚いた様子だったが、すぐその裏には隠しきれない喜びが見える。目を細めて、頬を緩めて。緊張が抜けたように笑った悠真は、そっとオレの頬を優しく撫でる。
「なんだ、そんな事か」
 暖かかった、けれども同時に心が冷たくなる。言葉にどんな意味があるのか、わからなかったから。
「それならば、もっと勘違いしてくれ」
 優しく、両手で頬を包み込まれた。
 温もりに顔を上げると、視線がぶつかる。呼吸もなにもかも重なって、全部溶け合っていく。
「たくさん、何度だって勘違いしてくれ……俺はそのたびに、それが勘違いではないと言うから」
「勘違い、ではないって」
「あぁ、俺がそう思ってほしいと願っていたんだ。なにもかも、勘違いなんかじゃない」
 手の中にあったカードが、次々抜かれて行く。先回りするように選択肢を奪われて、呼吸が浅くなる。
 退路は塞がれた、前を見る事しかできない。
 それでも、まだ心はぐらついたままだ。
「オレは、お前に返せるものがない。お前の言葉に見合うようなものだって、持っていない」
「じゅうぶんなくらい、俺は直くんからもらっている。直くんの隣という特等席があるんだ、それだけで俺は満足だ」
 聞いた言葉を、愛についてを思い出す。
 こんなの、きっと愛ではない。愛なんかより重たくて、比較できないなにか。それが悠真からオレに向けられていて、それを受け入れようとしているオレもいる。あぁだめだ、負けだよ。オレはもう、お前に絆されきっているんだ。
「……なぁ、悠真」
「なんだ?」
「オレのどこに、お前はそんなにも夢中になってんだ?」
 ちょっとだけイタズラのつもりで聞くのは、許されると思った。そんな何気ない感覚で投げた話にも真剣な顔をした悠真をそうだな、と言葉を淀ませる。
「全部言ったらキリはないのだが」
「いや、全部は言わなくていい」
 本当にこいつなら言いかねないから、止めておく。
「いつも言っているが、直くんが幸せそうにしている顔が好きなんだ」
 いつもと変わらない殺し文句、そのはずなのに悠真は言い足りないらしい。それから、なんてもったいぶった様子は、どこまでも幸せそうだと思えてしまう。
「……笑っている顔も不機嫌な顔も、意地っ張りで嘘つきな直くんもすべて俺にとっては愛おしいんだ」
 その視線は、その言葉は。
 この世界のなによりも甘いものを見るような、そんな愛おしいものに向けるような視線でしかない。