宝石箱の中にいた。
 反射するショーケースの中で座っているそれらは、じっとオレの方を見ている。つい足を止めて睨みながら、誰にも聞かれないようにそっと肩を落とす。
「季節限定、レモンブッセ……」
 見るだけで勝ちである事がわかる商品名と、店の前を通るだけで漂ってくるバターの香り。 
 綺麗に並べられた箱の中で、それはじっとオレの方を見ている。
 目深に被ったキャップの中から、オレもそれを見つめ返す。それでも手が伸びないのは、きっと他でもないオレの中にある羞恥が大きいのだろう。
「……やっぱ、らしくねえよ」
 甘いお菓子だって、そもそも似合わない。
 きっといつまでも手に届かないそれを横目に落とした言葉は、情けないくらい弱弱しいものだった。

 ***

「お土産だ」
「……は?」
 ドン、と目の前に置かれたのは、いかにも高い店の紙袋。どこかで見た気がするロゴは、じっとオレの事を見つめている。
「直くんが、好きかもしれないと思ったんだ」
 恩着せがましいわけではない、純粋にオレの事を思って紡がれた言葉。
 確かに、袋の開いた口からはバターの甘い香りが漂ってくる。それこそ昨日と同じ宝石箱の中にいるような、そんな感覚。まさかと思い中を覗き込むと、黄色いリボンで梱包された小さな箱が鎮座していた。間違えるはずもない、昨日ショーケース越しに見たままの箱。
「なんだよ、これ」
 なんで、どうして。
 突然目の前に現れたのは喉から手が出るほど欲しかったもので、自分でもわかるくらい目を丸くした。そんなオレを見た悠真は、なぜか嬉しそうに笑っている。
「直くんに喜んで欲しいと、そう思ったからだ」
 それだけかよ、そんな理由かよ。
 あまりに欲がない言葉だったが、すぐなにかを考えるように視線を下に向けると小さく首を横に振った。
「……あぁいや、これは嘘かもしれない」
 まるで懺悔をするような、そんな言葉だった。
「直くんが俺の持ってきたお菓子で喜んでくれるかと想像した時、俺の方が嬉しく感じたんだ。直くんが笑ってくれるかもしれないと、そう思っただけで俺も笑顔になれた。だから、これは俺のためでもある」
 だから貰ってほしいと、悠真は目を細める。
 自分のためと言ったところで、結局はオレのためだ。
 それがむず痒いと思えて、ふうん、と小さく言葉を零しながら紙袋に視線を戻す。
「この店、誰かに教えてもらったのか?」
 悠真が元々自分から甘いものを進んで食べないという事は、この短い付き合いの中でわかっている。だからこそ目の前にお出しされたそれを悠真が選んだとは思えなくて、ついそんな言葉を投げる。
「クラスの女子生徒から、このお菓子が最近人気だと聞いたんだ。銘菓はよく家にあるが、こういった地下街のお菓子を買うのは勇気がいるものだな」
 勇気なんて、そんな簡単な言葉じゃすまないだろ。
 オレが何万回挑戦したって買えなかったそれを、こいつはオレのためだと言っていとも簡単に買ってきた。それを考えるだけで申し訳なさがあって、それ以上に嬉しさが顔を覗かせている。
「……いいのか、これ」
「あぁ、直くんに食べてほしいと思って買ったんだ」
 だめだっただろうか、なんて聞かれたら断るに断れない。ぐっと喉を鳴らしながらも欲に勝てるはずもなくて、ゆっくりとそれに手を伸ばした。丁寧に取り出したそれのリボンを解くと、バターの香りはより一層強くなる。
「美味そう……」
「やはり、みんな色んなところを知っているな……このお菓子を聞いた時も、アニマルクレープというものや最近ファミレスで人気のパルフェなんかも聞いたんだ」
「え、お前これ盗み聞きじゃなくて自分で聞いたのか?」
「あぁ、当然だ」
 オレだったら絶対無理だ。
 一瞬言葉を失いつつ、手に取ったブッセへ視線を戻す。爽やかなレモンの香りも相まって、つい頬が緩んだ。
 遠慮なく一口頬張ると、レモンクリームが口いっぱいに広がる。甘すぎないそれはそのまま緩やかに口の中でほぐれていき、静かに消えていく。
「……美味い」
 言葉も、感情もなにもかもが零れ落ちる。
 重すぎないクリームも、泡のように溶けていく生地もなにもかも。あっという間になくなるから、また手が箱へ伸びる。
 何個だって食べられそうだなんて、そう思った時。ふと、悠真の視線がぶつかる。じっとなにをするわけでもなくオレの事を嬉しそうに見ている。
「な、なんだよ」
「いや、喜んでもらえたようでよかったと思っただけだ」
 なにも食べていないはずの悠真は、ずっと幸せそうに笑っている。まるで自分の事のようで、気恥ずかしくなり喉に詰まる。
「……まぁ、美味い。さんきゅ」
 照れ隠しの自覚はあったが、こいつには今のでじゅうぶんだったらしい。そうか、と小さく呟くと満足そうに笑いじっとオレの事を見ている。
「直くんは、いつから甘いものが好きなんだ?」
 世間話のような、そんな言葉。
 考えた事がなかったそれに手を止めると、そうだな、と記憶を手繰り寄せた。
「覚えてる限りだと、幼稚園」
「昔からなんだな、洋菓子が多く見えるが和菓子は食べないのか?」
「いや、和菓子はどっちでもない」
 だからと言って、嫌いではない。むしろ好きな部類。ただそうごまかしたのは、悠真にも伝わったらしい。不思議そうに首をかしげたそいつを見て、言葉を選び直す。
「和菓子は確かに美味いけど、ばあちゃん家の味がする」
「それは……?」
「オレの家、和菓子屋なんだ」
 だから、なによりも親しんだ味。
「嫌いじゃないし美味い、けどいつも近くにあったものだから、特別な時の甘いものではなかったんだ」
 朝起きると漂う、小豆やもち米を仕込む香り。甘いものを好きになるきっかけである事には変わりなくて、甘いは和菓子しか当時のオレにはなかった。それが覆ったのが、だいたい幼稚園の時。
「ばあちゃんと出かけた時に喫茶店でおごってくれた、デラックスパフェ……それがすごく、美味かった」
 粒あんで育ったオレにとって初めてのクリームに近かったそれは、口に入れた時衝撃的だった。見た目から想像していたよりもあっさりしたクリームと、突然現れる冷たいアイス。果物は飾り切りをされていて、幼いオレの顔より大きいはずのそれはすぐに平らげてしまった。
「――甘いは、嘘つきだ」
 想像できない味が、スプーンの上でオレを見ているから。
 思えば、あの時からかもしれない。
 オレにとって、甘いが嘘つきで特別なのは。
 スプーンで掬った宇宙の中に、想像できない味が広がっている。それが、あの時のオレにはどんな宝石よりも輝いているように見えたんだ。
「なるほど……それが、直くんが甘いものを好むきっかけだったんだな」
「まぁ、好むと言っても和菓子は昔から好きだから、それ以上好きになったって言い方のが正しいかもしれねえけど」
 だからオレは、嘘つきな甘いものが好き。
「そういうお前は? 甘いもの得意じゃないとか言ってたけど、そういうのが口に合わなかったのか?」
 オレの身の上話ばかりはなんだか癪だからと、今度はオレの方から話を投げる。
 瞬きをした悠真は考えた事もなかったようで、さっきまでのオレのように少しだけ考える仕草を見せた。けれどもすぐなにかに気づいたように顔を上げて、小さく頷く。
「元々、甘いものを食べる環境になかったのが大きいかも知らない……こういった箱に入ったお菓子は常日頃来客からの土産で貰っていたが、それも手は付けなかった。時折口にするのはもちろんあったが、甘すぎるのは普段食べていないからなのか慣れていないからのか、どうしても甘ったるく感じるんだ」
「いや、こういったお菓子を手土産にする来客って、何者だよ……」 
 薄々思っていたけど、悠真の実家はそれなりに顔の広い家なのかもしれない。
 それが会話の端々から伝わってきて、下町の和菓子屋に育った身としては羨ましい限りだが、オレにはわからない悩みがこいつにもあるんだろう。
「直くん」
 ずいと、顔を近づけてくる。
 吐息と吐息が重なりそうなそれに呼吸を浅くすると、悠真は気にしていないように言葉を続ける。
「もしよければ、またお菓子を持ってきても構わないだろうか? 家にあるお菓子も、食べられず捨てられる場合がある……それなら、俺は直くんに食べて欲しい」
 無理強いするわけでもない、けれども断るのは少し難しい言葉。
「……美味いお菓子に罪はないって、ばあちゃんの口癖だから」
 だから、和菓子も洋菓子も嫌いじゃない。
 甘いは幸せだから、ただそれだけ。
 誰かと一緒にいなくてもいい、喧嘩だって今のままでいい。
 そう思える自分は、ずいぶん幸せな奴だと思う。
「それにしても本当にお前、よく飽きないよな」
 オレが食べている姿を見て嬉しそうにする奴なんて、ただのもの好きだ。
 そんな皮肉を込めたはずなのに、一度ゆっくりと瞬きをした悠真はすぐに頬を緩めてそうだな、と言葉を続ける。
「俺は、幸せそうに食べる直くんを見たいんだ」
 いつもの、目が眩むくらいまっすぐな言葉。それがあまりにも眩しくて、つい呼吸の仕方を忘れてしまう。ろくに噛まず、大きな塊のままブッセが喉を通っていく。ごく、と音を立てたそれの味はわからなくて、まっすぐすぎる悠真の言葉に上手く返せる言葉は持ち合わせていない。
「そ、そーかよ」
 いつもの嘘だって、虚勢だって出てこない。
 ごまかす事もできず黙ったままブッセを口へ運ぶと、また悠真は楽しそうに笑っている。
「……なにがおかしいんだよ」
「いや、口に合ったようでよかったと思っただけだ」
 やっぱり、こいつには嘘がつけない。
 なにもかも見透かされているようで、それなのに居心地が悪いとは思えなかった。
 誰かと一緒にいる必要なんてないと、そう思っていたのに。それなのにこいつを不快に思わない理由が、見つけられなかった。ドロドロに溶けたホイップクリームの中のような、そんな感覚。こいつと一緒にいると、ずっと甘い中に閉じ込められているみたいだ。嫌とは、不思議と思わなかった。
「直くん、今度クレープ屋さんに行かないか?」
「は? なんで?」
 突拍子もない言葉に、目を丸くする。
「さっき話した、アニマルクレープだ。来週どこかで一緒に行かないか?」
「なんでオレなんだよ」
「直くんと、行きたいんだ」
 オレの名前を強調するように言われて、つい言葉を飲み込む。その言葉に嘘はなくて、それでもオレの方が耐えられずわざと目線を逸らした。
「お前、甘いの苦手だろ。行かねえ」
 また言葉は、そうやって嘘をつく。
 それなのに表情まで隠せているのかはわからなくて、自分が自分ではなくなったみたいだ。
「そもそも、なんでオレとなんだよ。お前なら他に行く奴見つけられるだろ」
 なにも、オレに構う必要はない。
 オレと慣れ合ったところでメリットはないし、この前みたいにこいつが周りから距離を置かれるだけだ。それは、オレのせいでこいつが孤立するのはなんだか気に入らない。
「何度でも言うが、俺は直くんとがいいんだ」
「だから、なんでっ」
「俺は、幸せそうに食べる直を見たい」
 そんな熱を孕んだ言い方をされたら、これ以上なにも言い返す事ができない。
「……もの好きな奴」
「そう思ってくれて今は構わない」
 構えよ、今のは罵ったのに。
 まるで今の言葉すら嘘だとみられているようで、どれだけ突き放してもオレに近づいてくる。もしかしたら、この気持ちも全部バレてしまっているかもしれない。
「なら少しだけ、考えておいてほしい」
 オレを第一に考えているような言い方に対してだって、とっくにオレは心を許している。それでも答えを返さないのは、もはや無駄な抵抗なのかもしれない。