今日も甘いは嘘をつく。
 スプーンで掬った宇宙の中、答えはどこにも用意されていない。
 いつだって楽しく裏切られるそれが、純粋に好きだと思えた。甘いも苦いも、なにもかも。そんな世界には、オレだけしかいないとずっと思っていた。なにに対しても一人でいいと、思っていた。
 けれどもそれは、突然開け放たれたドアにすべて掻っ攫われる事になる。
「は……?」
 時間が、呼吸が止まった気がする。
 なにが起きたのかわからず目を丸くすると、滅多に開かないはずのドアが開けられて一つの影がオレを見ている。
 セットされているわけではない髪も、整った顔立ちでらしく見える。無表情で腹の底はなにを考えているかわからなくても、ほんの少し見開かれた目から驚いているのはなんとなく想像できた。
「お、おまえ、なんでここに……!」
「すまない、先生から隣の用具室にお使いを頼まれてな。誰か電気を消し忘れたのかと思い勝手に入ってしまった」
 調理実習室は、ほとんど半地下構造で用がない時人はほとんど寄り付かない。そのはずなのに目の前にいるのは曖昧だが顔を知ってる特進コースの奴で、オレを見るなり目を丸くしていた。
 いや、正確にはオレの手元を見ているのかもしれない。
 視線の先には、さっきまで食べていたスコップケーキが並んでいる。
「それ、は……」
「わ、笑うな」
 背中の後ろに、それらを咄嗟に隠した。それでも隠しきれないホイップクリームの香りはこいつにもじゅうぶん届いたらしく、なぜか楽しそうに微笑んでいる。
「甘いものが、好きなんだな」
「そういう、わけじゃ」
 咄嗟に言い訳を出したくても、なにも出てこない。
 ぐるぐる回る思考の中で突然現れたこいつに身ぐるみ剥がされたような現状は、圧倒的にオレが不利だった。
 しどろもどろになる言葉を無視して、そいつはぐいと顔を近づけてくる。
「……確か、普通コースの宇津木直、だっただろうか」
「なんだよ、問題児は特進コースでも有名ってか?」
「いや、そういうわけでは……それより、俺の事を知ってくれていたんだな。とても嬉しい、ありがとう」
「……そういう、わけじゃ」
「俺は二年一組の笹川悠真だ、直くんは確か八組、だった……」
 どうやらオレの事を知っているらしいそいつは、なにかに気づいたように突然表情をくしゃくしゃにしてオレを見ている。視線の先は頬で、それに気づいてオレまで顔をしかめた。
「……怪我、しているのか」
「別に、お前には関係ないだろ」
 心配するように伸ばされた手を、無理やり遠ざけた。
「オレの事知ってんなら、怪我だっておかしくないだろ」
 自分でも、悪い意味で名が通っているのは自覚している。他校といつだって喧嘩している、学年の問題児。自分で喧嘩をしようとした事はなかったけど、それでもいつからかついたこのレッテルを剥がすつもりもなかった。それでいいと、みんなどうせ怖がるからと適当にそのままにしていた。
「けど、そのままにしておくのは痛いと思う」
 鬱陶しいと、そう思った。
 だからあえて、声を低くして。唸るように、威嚇するように声を荒らげる。
「なんだよ、さっきから……お前も殴られてえのか!」
 半地下の調理実習室では大きすぎる声が、二人だけの空間に反響した。そのはずなのにこいつは怖がるどころか、不思議そうに首をかしげている。
「なぜ、そんな嘘をつくんだ?」
 指先が跳ねた、息が詰まった。
 こいつ、今なんて言った?
 嘘なんてそんな、どうして初対面のくせにそう思うんだよ。
「直くんは俺を殴らない、だって直くんは優しいから」
 中身のないはずの言葉が、やけに重たい。息と息が混ざり合うくらいの距離で、月の瞳と視線がぶつかる。優しく撫でられた頬が、やけに熱い。
「ほら、こんなに顔を近づけても殴らないだろ?」
 嬉しそうに、幸せそうに笑っている。
 頬はもう触られていないはずなのに、ずっと熱を帯びているような。そう錯覚するのは、きっとこいつのせいだ。
「……本当に、なんだよお前」
 お前、オレのなにを知っているって言うんだ。
 オレのどこまでを、知っているんだ。
 グラグラ揺れる思考の中で、深く息を吐く。正直、悔しいけど図星だった。殴るつもりなんて、そんなのはない。
「じゃあなんだ、学年の問題児が実は甘いもの好きでしたってなるのは。言いふらす?」
「いや、そんな事はない」
 かなり食い気味に言われた言葉に、指先が跳ねる。
 嘘偽りのない言葉はまっすぐオレに向けられていて、つい視線をぶつける。月のような瞳の中、水面にオレの姿が揺れている。
「むしろ、ずっと見ていたいと思えた。とても幸せそうに食べていたから……俺まで、心が暖かくなるようだった」
 こいつ、恥ずかしがる事もなくそんな言葉を。
 耳まで熱くなるような言葉に、つい喉を鳴らす。
 どれだけ遠ざけても、意地を張ってもこいつは近づいてくる。嘘で虚勢を張っても気にしていない悠真って名前の奴は、天然なのかバカなのかわからなかった。
 今までに、関わった事のないタイプ。言葉の端々から漏れ出る暖かさが逆に苦しく感じるほどで、嘘をついたってさっきからなにも通用していない。
「もう少しだけ、一緒にいさせてもらえると嬉しい。俺は直くんの事を、もっと知りたいんだ」
 だめだろうか、なんて言葉を添えてきたそれすらも、どうせ断る選択肢を持ち合わせていない。月のような澄んだ瞳とぶつかって、小さく頷く事しかできなかった。
「……勝手にしろ」
 甘いも苦いもなにもかも混ぜ込んだような、そんな感覚。
 嘘つきで正直な世界に突然現れた存在――笹川悠真は、オレの嘘を丸ごと飲み込んで笑っていた。