脇腹をさすりながら、隆史が不恰好な歩きかたをしてやってきた。
「なにやってんだよ。俺置いて」
 隆史が不平を漏らすと、
「だってあなた、お墓の前でずーっとお祈りしてたじゃないの」
 と清子、
「お墓は願い事するとこじゃないのよ」
 と弥生、
「なんかぶつぶついってるし」
 そして紗江がいいだし、結局やりこめらえてしまう。かつての感じにすっかり戻っていた。
「俺怪我人だぞ、すこしは優しくしてくれよ」
 哀れっぽく言ってみても、まったく三人は意に介さない
「怪我人の前に、あんたは大西家の長男なんだから」
 清子は言った。
 いつも「私が一番上なんだから」と主張するくせに、隆史にはそういってやりこめる。
「そうそ。大西家は女系家族。男は女たちの召使いになる運命なの」
 紗江は歌うように言った。
「ひでえな」
 と言いつつも、隆史もべつにどうでもいいと思っていた。
「隆史が女の子だったらほんとの『若草物語』だったのにねえ」
 清子が夢見るように言った。
「『細雪』だったらあんた吉永小百合になれたんだよ?」
 弥生が意地悪く笑った。
「なりたかねえし。それガキの頃から言われてきて飽きたんだけど」
「あんたがいなかったら『三人姉妹』なのよ、あ、でもあれか『三人姉妹』にもしょうもない弟、いたか。どうしょうもない女と結婚しちゃうやつ」
「ちょっと、お姉ちゃん」 
 紗江が弥生の袖を引っ張った。「それは言わない約束だって、みんなで決めたでしょ」
「そう、弥生は一言多いんだから」
 清子が頷く。
「あっ!」
 弥生が何かを察して、口に手を当てた。「ごめんなさい」
 清子たちに謝る。隆史には謝らないが。
「まだ俺のゲイ疑惑は晴れてないのか」
 隆史が目を細めた。
 なんだかもう、そういうのどうでもいいかもしれない。勝手に思っとけ。
 正直これから、誰かのことを好きになるとか、そういう展開がまったく想像つかなかった。予定はない。
 しかし、お寺を出た瞬間に、すれ違った人と恋に落ちるかも知れない。
 そう、「なくはない」。
 それがどんな性別かもわからない。
 そのくらいに鷹揚に構えているほうがいい。
「でも、婚式めちゃくちゃにしたようなやつ、うちの家の敷居跨がせてやるもんですか」
 清子が憤った。
「三四郎は、もう跨ぐこともできないだろ」
 隆史は言った。
 三四郎は、紗江の結婚式の日、稔を刺し殺し、主水に発砲した。二人は死んでしまった。
 結婚式どころではなかった。そして隆史が脇腹を刺されているのも発見され、大騒ぎになったのだ。
 数日して、三四郎の遺体が見つかった。
 遺書には犯行は、いじめられた相手への報復、そしていじめを見過ごしていた教師への怒りがそうさせた、ということになっていた。隆史の脇腹を刺したのは、好きな人と一緒に死のうと思ったが、できなかった、と書かれていた。
 三四郎が発砲した拳銃は見つからなかった。
「あれはトラウマになったわ……、二日ご飯食べられなかった」
 清子が言った。
「二日でよかったよ」
 紗江がぼんやりとして言った。
 結婚式がめちゃくちゃになったが、紗江は昭二と暮らしている。
 かなみはどうしているだろう、と思った。
 隆史の見舞いに愛子がやってきたとき、「かなみはショックでずっと家に引きこもっている」と言っていた。
 剛力アラレも気になった。やたらとひんぱんに大西家に出入りしていたらしいが、あれ以来ぷっつりと途絶えた。
「父さんが死んで、ずいぶん時間たったよな」
 隆史が言った。
「あんたと紗江は小学校のころだもんね」
 清子が言った。
「わたし、お父さんの写真みるたんびに、不思議なんだよね。全然お父さんの顔、頭では思い出せないの。写真見て、ああ、そういやこんなだったって」
 紗江が振り返った。
 並んでいる墓のひとつに、家族が眠っているが、さっき立っていた場所がどこか、わからなかった。
「しょうがないわよ」
 弥生が紗江に肩寄せた。
「そうかな……寂しいよ。いろんなことが、ぼんやりしていくんじゃないかなって、不安になる」
「大丈夫だよ。生きてるやつが覚えてさえいれば。楽しかった、とかそういうことだけ覚えていれば、細かいことなんて忘れちゃっていいんだよ」 
 隆史が言った。
 あの美保との一瞬の邂逅、そして高校を卒業してからのさまざま、三四郎にアラレ、いろんな人たちとの出会いと別れが次々とよぎった。
 たくさん時間が過ぎていき、遠くなって、ぼんやりして、わからなくなったとしても、あったことにかわりはない。
 遠くできらきら光っている。
 もしかして、過去からなにかを伝えるために、輝いているのかもしれない。
 人はうまくキャッチできなくて、メッセージがわからなくて、苛立ち、そして懐かしむ。
「お兄ちゃん……」
 しんみりとした顔を紗江が見せた。
「いいこといっちゃったかな」
 隆史が照れて頭をかくと、
「何言ってんの?」
 と紗江が真顔になった。
「え?」
「なにわかりきったこといっているのよ」
 清子が隆史の頭をぽかんとひしゃくで叩いた。
「わたしたちのことバカにしてんの」
 弥生が呆れた顔をした。
「なんかお兄ちゃんてさ、言葉の一つ一つが軽いっていうか、浅いんだよねえ」
 紗江が言った。
「そんなことないだろ」
「なんでこうなっちゃったんだろ……。不安だわ」
 清子が心底悲しそうな顔をした。
「姉ちゃん?」
 隆史が驚いて声をあげると、
「ね、ごはんなにする?」
「うち帰る前におかず買わなきゃ……」
「だったら外食しない? うなぎ食べたい」
 と三人姉妹は口々に好き勝手なことを言った。
「ちょっと。妊婦でしょ、あんた」
 弥生が紗江を嗜めた。
「え? ええええ?」
 そんなの初耳だ。隆史がのけぞって、みなが笑った。
 紗江は一瞬気配に気づいた。
 寺の境内の木の影に、誰かがいた、気がした。
「紗江?」
 じっとあらぬ方向を見つめている紗江に清子が声をかけた。
「なに真面目な顔してんだよ」
 隆史が訊ねた。
 それでも紗江は、ずっと見ていた。
「ううん、なにも。またね」
 紗江は木に向かって微笑んだ。
「なにいってんだお前」
 隆史が不思議そうにして、紗江の見ているほうに目を向けた。
「別れの挨拶だよ、ばいばい」
 紗江は言った。
 森村が、手を振っているような気がしたのだ。
 風が強い。

 サヨナラだけでは人生が、悲しい。
 でも、それだけではない。
 悲しみばかりに気を取られ、いつだって忘れてしまう。
 でも、たしかにある。
 幸福だと気づかずに過ごす時間を、きっと幸福と呼ぶ。
 ばいばい。