放課後だった。教室には二人しかいなかった。
 三四郎が美保の肩をつかんだ。
「さわんないでよ」
 美保が三四郎を睨みつけた。
「僕は空気みたいなもんなんだろ。空気に触れられてキレるのっておかしくない?」
 三四郎が薄笑いを浮かべた。美保は乱暴にふりほどいた。
「気持ち悪い」
「めずらしいね、ほんとの顔だしてるのって、テンションあがってるの?」
 三四郎はにやにやしている。
 不愉快だ。こんな負け犬に蔑められるだなんて。美保は教室から去ろうとした。
「死ぬの?」
 三四郎がはっきりと言った。
 まるで、決まっているみたいに。
 美保は立ち止まった。
「死ぬつもりならさあ、死ぬ瞬間見せてよ。ギャラリーがいなきゃいい芝居できないでしょ」
 三四郎が煽った。
「別に死なないし、意味わかんないこといわないでくれないかな」
 美保は振り返った。余裕のぞ降りを見せた。こいつ、なにを言っているんだ? なにを知っているんだ?
 不愉快な男だった。
 いつもだったら教室でいじめられているやつがいたら、「やめてあげなよ」などと慈悲ぶった態度をとってやるところだったが、こいつは腹が立つほど気持ち悪かった。だから放っておいた。
 こいつはわかっていないのに違いない。
 なぜいじめられるのか?
 キョドってるくせに、どこかみんなを見下しているのだ。いったいどこにそんな気持ちが生まれる余地があるのか。親が甘やかしているのかしれない。さっさと引きこもって学校にくるなよ、外にでてくるんじゃねえよ。そう思っていたが、意外にしぶとい。
 そしていま、。最弱の生き物に噛まれている。
 不愉快だ。
「お前、自分を特別な人間だと思ってるだろ」
 三四郎が言った。「自分を過大評価してんじゃねーよ」
「してない」
 あたしは適切に自分を見ている。
「あんたの中はさ、空っぽな上に、かっさかさなんだよ」
 三四郎は続けた。「乾いてて、だから頭の中で周りの人間をぶっ殺して血を流したところで、砂しかないからいつまでたってもかっさかさだ」
 違う。わたしのなかには、獰猛なけものがいる。湿った息を吐いていて、いつだってぬるぬるとしている。
 闇の奥にいるばけものが。
 そして、お前なんて。
「いま頭の中で俺をひねり潰したな。でも俺はいなくなんないよ、そんなのまったく意味がない。むしろストレスたまるだろ、自分のなにもできなさに」
 三四郎が笑った。
「黙れ」
 美保は吐き捨てた。
 この世で一番すごいのは、自分を正しく認識している人間である。そして、わたしが「いちばんえらい」。お前みたいに現実と内面が一致していないような人間に言われるいわれはあい。
 そう思ったときだ。美保は気づいてしまった。
 違う。
 わたしの生きている世界と、わたしの内面は、完全にずれている。
「死ぬついでに教えてやるよ。俺は見えるんだよ」
 三四郎が片目を手で隠した。「お前の中身も、お前の未来もな」
「くだらない。漫画の読み過ぎじゃないの」
「あんたの思った通りのシナリオにはならない。だからやめときな」
「シナリオ?」
「モンドはただの俗物だし、お前を向上なんかさせない。豊かな人生なんてもんに導いてはくれない。あんたらが隠れてこそこそやってることなんて、そこらへんでくだらねえカップルがいちゃついてることとなんら変わんない」
 こいつ、知っている。
「いじめられっ子でエスパーとかって、漫画の読みすぎでおかしくなってんじゃないの」
「ネタにしてもいいよ。まあできないか」
 三四郎がふっと笑った。
「明日みんなに話してあげるね。漫画が大好きで、超能力を使えるって思い込んでいるって。きっと稔があんたをボコボコにするだろうね。超能力見せてみろよーって、ウケるんだけど。わたし、止めてなんてあげないよ?」
「明日はこないよ。これからモンドのアパートにいったら、多分モンドは半狂乱になってる。あんたとデキてることが職員室にばれて、明日は辞表をもってくるようにいわれているはずだ」
 三四郎にはなにも聞かなかった。
 なぜなら「見えてしまうから」
「嘘」
 目の前のいじめられっ子のクラスメートが断言し、美保は後ずさった。
「モンドはあんたに薄っぺらいことをクドクドいうだろうな。教育だの理想だの、心の底から出てきたわけではない、口先で飴玉みたくしゃぶってたフレーズをさも偉そうに。そして、もう終わりだ、死のう、という。一緒に死んで純愛路線を世間にアピール、って死んでアピールもくそもねえだろ。でもまあわりと本気でいうだろう。そしてあんたは、いいよ、とかなんとかいう。自分は自信があるから。モンドは死んでも自分は生き残れるって」
 その言葉を聞きながら、美保は奇妙に冷静になっていた。
 いつも腹のなかにいるけものも息をひそめていた。
「へえ……、そうなんだ」
 こいつのたわごとなんて信じてたまるか、と思いながらも、どこか自分の奥底で、正しいという直感があった。
「あんたは負けるよ」
「絶対に負けない」
 美保は怒鳴った。
 負けてたまるか。
 そんな現実、自分の力でひねりつぶしてやる。
 わたしは傲慢なのか?
 その通りだ。
 わたしはずっと、そうやってきたし、これからもうまく行く。
 誰からも嫌われず、誰よりも気高い。
「モンドも同じことを考えている。自分は生き残って、悲劇の主人公になれるってね。あんたたちお似合いだよ。世間を騒がせたい、他人によく思われたい、同情されたい」
「あんただってそうでしょ、人間なんてみんなそうでしょ」
「俗物だけだよ、そんなの」
「他人のことを気にしない人間なんて」
「あんたのそばに、一人だけ、いるだろう」
 三四郎が悲しそうに言った。
「誰よ。あんた?」
「バカみたいにあんたのことを好きで、でもなんにもできないでいる。よく思われたいって発想がなさすぎて、ぼんやりしてる。お坊ちゃんだからかな。女だらけの家に育ったからか、女に期待していない、というか」
 三四郎が口籠った。
「それって」
「あんたが死のうが生きようが俺はどうでもいい。でもま、あんたのこと、損得抜きで気にしてくれてるやつがいるってこと、頭の片隅にでも記憶しとけば、多少は生きやすくなるんじゃないの」
「なんなの、説教?」
「先週、稔たちに階段から突き落とされて頭を打ってから、変なんだ」
 三四郎の目に光はなかった。「世の中の仕組みがわかってしまった。変な声が頭の奥から聴こえてくる。そして目を瞑ると未来が見えてくる……」
 もう真実だけでない。このまま先のことまで、見えてしまう。
 意識を失い、そして、世界が全て変わってしまった。
 新たなゾーンに突入してしまった。
 ぼくらは再び出会う。
 そして。
「それ、妄想よ」
 美保は言った。
「かな」
「そういう世界で、そういう自分でいれば、世の中生きやすいって思い込んでるだけよ」
「そうかな」
「つまり、なにいったところで、あんたもわたしと同じ。もっとビョーキかもね」
 美保が教室から出ていった。
「自分のためじゃなくて誰かのために生きてやってもいいのにな」
 一人残されて、三四郎がつぶやいた。