紗江は久しぶりに夢を見た。過去の、一場面で、本当に再現されているのかわからなかった。
過去。
誰かのことを好きになるとき、紗江はいつも、この人がどんな家庭で育ったのか、どんなものが好きなのか、どんな人と付き合ったのか、考えてみる。その人が話さない部分を想像してみる。寂しそうな人にはその百倍寂しい過去が、楽しそうな人にはその一千倍楽しい過去が思い浮かぶ。寂しさのなかにあっただろう喜びや、楽しさのなかで転々とついている虚しさのシミを見つけようとやっきになる。いつも暗くて、世界滅べなんていっている高校生にも、好きな漫画があるように、人生最高ってイキっている女にも、誰かと電話したくてしょうがない夜はある。
ぼんやりと布団から起き上がった。
そしてまだ暗い部屋のなかで、さっきの夢を噛み締める。
「つながらない?」
スマホを握りしめている紗江に、姉の清子が声をかけた。
「うん」
「約束の時間からもう四時間もたってるのよ」
その日は、紗江の誕生日だった。夜に、ちょっとしたパーティーを我が家ですることになっていた。
「忙しいんじゃない」
台所から弥生が言った。弥生はいま、四人分の料理を作るのに大忙しだった。四人、といっても兄の隆史はいない。
東京でなにをやっているのやら。
「夜の十時よ、忙しいなんてあるかしら」
清子が言った。
「仕事ってのはいろいろなことがあるでしょ」
とわけ知り顔でやってきて、弥生が言った。
「そんな遅くまで……、ひどい会社に勤めているのかしらねえ」
清子はおっとりとした口調だった。
紗江は思う。わたしは好きな人の全部を知ることができるんだろうか。きっと、無理だろうな。わたしは、その人のことを全部知らないこと、わからないこと、なんだかもやもやしている、人間の背中に張り付いている過去も含めて、なあなあに、手際よく、知らんぷりしながら、目の前に見えるものだけを信じるしかないんだな。
そして、スマホが鳴った。
あんなに待ち焦がれていたというのに、びくりとした。
「森村くん?」
清子が言った。
紗江が画面を見ると、番号だけがあった。
「知らない番号。もしもし?」
あのときの言葉。
いや、言葉ですらなかった。
あれは、報告だった。
そして、決定事項だった。
「はい、はい」
紗江が神妙な顔で頷くのを、清子が心配そうに見ている。
「紗江?」
「はい、行きます」
いけません、なんて言えるわけもなかった。決定事項だ。
そして、成し遂げなくてはならない。
紗江は演劇部に所属していた。
顧問で、学生時代に演劇にかぶれていたという教師が、偉そうに言っていた。
ギリシャ悲劇やシェイクスピアを読めばわかるけれど、すべては舞台上で報告されることで表現している。
戦争に勝った、とか誰々が死んだ、とか。そういうやつだ。言葉で説明されているんだ。それをどう受け取るかが俳優の技量がわかるってもんなんだ。
まさにいまがそうだ。
この家の外で起こったことが、報告された。
自分は俳優なのだろうか。
違う、生身の、本当の、わたしだ。
今自分は、とても淡々としている。
大袈裟に驚いたりする芝居は、きっとうそなんだ。
わたしは、もううそを楽しむことなんてできないかもしれない、と紗江は思った。
「どうしたの」
弥生も心配して訊ねた。
紗江は電話を切り、しばらくぼうっとした。
そして情けない顔をしながら、電話で聞いたことを伝えた。
まるで、悪さをしたことがばれた子供みたいな顔をしていた。とほほ、って。
「よくわかんないんだけど……。事故……森村くん、死んじゃった」
紗江は言った。
目の前の清子と弥生の表情が固まり、まるで時が止まったみたいだった。
「わたし、まだなんにも森村くんのこと知らないのに……」
三人姉妹と森本くんで一緒にご飯を食べるはずだった。
きっといない兄の隆史の悪口を弥生はいう。連絡してこないなんて、なんなのあいつ。
清子は、まあまあ、頼りがないなら元気な証拠、と諌める。
森村くんは、同意するわけにもいかず、困った顔をするだろう。
いつも家に呼ぶたび、姉たちに囲まれて、笑ってはいるけれどずっと緊張している森村くん。
いいのよ、慣れてもらわなくっちゃね。だって、家族になるんだもん。こんな初々しい時期なんて、いずれすぐに忘れちゃって、ただの家族になるんだから。
それを言ったのは清子だったか弥生だったか。
森村くんは、緊張したまま、家族になる前に、いなくなってしまった。
「どこにいるの」
ぼんやりしていたんだろう、弥生が紗江の肩を揺すった。
「病院」
ああ、違う違う、どこの病院か言わなくっちゃ、確か虎ノ門。
頭でわかっているのに、声が出ない。
「行くわよ」
弥生が出かける準備を始めた。
清子がかわりに紗江の背中をさする。
「早く」
いつまでも突っ立っている紗江に、弥生が怒ったように言った。一瞬、別に怒ったつもりはない、とばつの悪い顔をした。
やさしいお姉ちゃん。
弥生が紗江を引っ張った。やはり思ったより力が入ったと思ったんだろう。また。
まるで自分が弥生を傷つけているみたいに気持ちに紗江はなった。
「弥生、落ち着きなさい」
清子は言った。
異常事態だ。いつだってのんびりしている清子お姉ちゃんが、シリアスだ。
「紗江、森村くんのところに、行こう」
弥生が紗江を揺すった。
あ、そうか。
自分が呆然としていることに気づいた。時間は流れていく。止まっているように見えて。止まらせたいと願っていても、無情に。
「早く、いこう」
「どうする……」
急かす弥生に、清子が言った。
「なにが」
「だって、赤ちゃんが……」
清子の言葉を聞いて、弥生が黙った。
わたしはよく、わたしの前からいなくなってしまった人のことを数えるくせがある。転校してしまった友達、東京へ出て行ってしまった友達、死んでしまった友達、諦めて逃げるように消えてしまった友達。あんなに悲しかったのに、それに慣れて、思い出になってしまう。思い出になったなと気付いたとき、わたしはわたしのことを軽蔑する。どんどん、わたしはわたしが好きではない人間になっていく。
紗江はあの頃を思い出しながら、おなかをさする。
あのときわたしは、おなかをさすりながら、そんなことを思ったのだ。
この子には、そんな風にならないでほしい。でも、この子はすでに、自分の父親のことが思い出ですらないんだ。
父親だった森村くんは死んでしまった。
高校を卒業したら結婚する、と約束していて、のっぴきならない事情があって、姉たちも許してくれた。
学校には内緒にしていた。
赤ちゃんがおなかにいるまま、紗江は高校を卒業するはずだった。
そして、森村くんと育てるはずだった。
でも、森村くんが死んでしばらくして、紗江のおなかのあかちゃんは、生まれる前に、死んでしまったのだ。
そのことは、紗江と森村の家族だけが知っていた。
そして、その話題をする者はもういない。
あれからどれくらい経ったのか、紗江は暗闇のなかで、数えてみた。
過去。
誰かのことを好きになるとき、紗江はいつも、この人がどんな家庭で育ったのか、どんなものが好きなのか、どんな人と付き合ったのか、考えてみる。その人が話さない部分を想像してみる。寂しそうな人にはその百倍寂しい過去が、楽しそうな人にはその一千倍楽しい過去が思い浮かぶ。寂しさのなかにあっただろう喜びや、楽しさのなかで転々とついている虚しさのシミを見つけようとやっきになる。いつも暗くて、世界滅べなんていっている高校生にも、好きな漫画があるように、人生最高ってイキっている女にも、誰かと電話したくてしょうがない夜はある。
ぼんやりと布団から起き上がった。
そしてまだ暗い部屋のなかで、さっきの夢を噛み締める。
「つながらない?」
スマホを握りしめている紗江に、姉の清子が声をかけた。
「うん」
「約束の時間からもう四時間もたってるのよ」
その日は、紗江の誕生日だった。夜に、ちょっとしたパーティーを我が家ですることになっていた。
「忙しいんじゃない」
台所から弥生が言った。弥生はいま、四人分の料理を作るのに大忙しだった。四人、といっても兄の隆史はいない。
東京でなにをやっているのやら。
「夜の十時よ、忙しいなんてあるかしら」
清子が言った。
「仕事ってのはいろいろなことがあるでしょ」
とわけ知り顔でやってきて、弥生が言った。
「そんな遅くまで……、ひどい会社に勤めているのかしらねえ」
清子はおっとりとした口調だった。
紗江は思う。わたしは好きな人の全部を知ることができるんだろうか。きっと、無理だろうな。わたしは、その人のことを全部知らないこと、わからないこと、なんだかもやもやしている、人間の背中に張り付いている過去も含めて、なあなあに、手際よく、知らんぷりしながら、目の前に見えるものだけを信じるしかないんだな。
そして、スマホが鳴った。
あんなに待ち焦がれていたというのに、びくりとした。
「森村くん?」
清子が言った。
紗江が画面を見ると、番号だけがあった。
「知らない番号。もしもし?」
あのときの言葉。
いや、言葉ですらなかった。
あれは、報告だった。
そして、決定事項だった。
「はい、はい」
紗江が神妙な顔で頷くのを、清子が心配そうに見ている。
「紗江?」
「はい、行きます」
いけません、なんて言えるわけもなかった。決定事項だ。
そして、成し遂げなくてはならない。
紗江は演劇部に所属していた。
顧問で、学生時代に演劇にかぶれていたという教師が、偉そうに言っていた。
ギリシャ悲劇やシェイクスピアを読めばわかるけれど、すべては舞台上で報告されることで表現している。
戦争に勝った、とか誰々が死んだ、とか。そういうやつだ。言葉で説明されているんだ。それをどう受け取るかが俳優の技量がわかるってもんなんだ。
まさにいまがそうだ。
この家の外で起こったことが、報告された。
自分は俳優なのだろうか。
違う、生身の、本当の、わたしだ。
今自分は、とても淡々としている。
大袈裟に驚いたりする芝居は、きっとうそなんだ。
わたしは、もううそを楽しむことなんてできないかもしれない、と紗江は思った。
「どうしたの」
弥生も心配して訊ねた。
紗江は電話を切り、しばらくぼうっとした。
そして情けない顔をしながら、電話で聞いたことを伝えた。
まるで、悪さをしたことがばれた子供みたいな顔をしていた。とほほ、って。
「よくわかんないんだけど……。事故……森村くん、死んじゃった」
紗江は言った。
目の前の清子と弥生の表情が固まり、まるで時が止まったみたいだった。
「わたし、まだなんにも森村くんのこと知らないのに……」
三人姉妹と森本くんで一緒にご飯を食べるはずだった。
きっといない兄の隆史の悪口を弥生はいう。連絡してこないなんて、なんなのあいつ。
清子は、まあまあ、頼りがないなら元気な証拠、と諌める。
森村くんは、同意するわけにもいかず、困った顔をするだろう。
いつも家に呼ぶたび、姉たちに囲まれて、笑ってはいるけれどずっと緊張している森村くん。
いいのよ、慣れてもらわなくっちゃね。だって、家族になるんだもん。こんな初々しい時期なんて、いずれすぐに忘れちゃって、ただの家族になるんだから。
それを言ったのは清子だったか弥生だったか。
森村くんは、緊張したまま、家族になる前に、いなくなってしまった。
「どこにいるの」
ぼんやりしていたんだろう、弥生が紗江の肩を揺すった。
「病院」
ああ、違う違う、どこの病院か言わなくっちゃ、確か虎ノ門。
頭でわかっているのに、声が出ない。
「行くわよ」
弥生が出かける準備を始めた。
清子がかわりに紗江の背中をさする。
「早く」
いつまでも突っ立っている紗江に、弥生が怒ったように言った。一瞬、別に怒ったつもりはない、とばつの悪い顔をした。
やさしいお姉ちゃん。
弥生が紗江を引っ張った。やはり思ったより力が入ったと思ったんだろう。また。
まるで自分が弥生を傷つけているみたいに気持ちに紗江はなった。
「弥生、落ち着きなさい」
清子は言った。
異常事態だ。いつだってのんびりしている清子お姉ちゃんが、シリアスだ。
「紗江、森村くんのところに、行こう」
弥生が紗江を揺すった。
あ、そうか。
自分が呆然としていることに気づいた。時間は流れていく。止まっているように見えて。止まらせたいと願っていても、無情に。
「早く、いこう」
「どうする……」
急かす弥生に、清子が言った。
「なにが」
「だって、赤ちゃんが……」
清子の言葉を聞いて、弥生が黙った。
わたしはよく、わたしの前からいなくなってしまった人のことを数えるくせがある。転校してしまった友達、東京へ出て行ってしまった友達、死んでしまった友達、諦めて逃げるように消えてしまった友達。あんなに悲しかったのに、それに慣れて、思い出になってしまう。思い出になったなと気付いたとき、わたしはわたしのことを軽蔑する。どんどん、わたしはわたしが好きではない人間になっていく。
紗江はあの頃を思い出しながら、おなかをさする。
あのときわたしは、おなかをさすりながら、そんなことを思ったのだ。
この子には、そんな風にならないでほしい。でも、この子はすでに、自分の父親のことが思い出ですらないんだ。
父親だった森村くんは死んでしまった。
高校を卒業したら結婚する、と約束していて、のっぴきならない事情があって、姉たちも許してくれた。
学校には内緒にしていた。
赤ちゃんがおなかにいるまま、紗江は高校を卒業するはずだった。
そして、森村くんと育てるはずだった。
でも、森村くんが死んでしばらくして、紗江のおなかのあかちゃんは、生まれる前に、死んでしまったのだ。
そのことは、紗江と森村の家族だけが知っていた。
そして、その話題をする者はもういない。
あれからどれくらい経ったのか、紗江は暗闇のなかで、数えてみた。