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 これから己の死地となる場所へ行く。
 そんな悲壮な思いとは裏腹に、輿は軽やかに空を飛んだ。
 屋敷の建っていた町はあっという間に過ぎ、すっと伸びた一本の街道がある。荷駄を運ぶ馬や、旅人のような姿も何人か見えた。その左右には田んぼが広がり、稲穂が徐々に黄金に色付き始めていた。もうしばらくすれば、収穫時期になるのだろう。
 そんなのどかな田園風景をしばらく過ぎると、山の麓にある小さな集落が見えてきた。街道はそこで二手に別れ、一つは山をぐるりと迂回する方へ、もう一つは山を登る方へ伸びている。
 山の方へ向きを変えた輿は、中腹あたりまで進んだところで、街道を外れて森の中へ。小さな泉が見えたところで輿は高度を下げ、ふわりと土埃を少しだけ立てて地面へ降りた。妖との約束の場所へ到着したようだ。
「――瑠衣様。ではご武運を」
 妖狩りの者は周囲を警戒しながら、するすると森の中へ消えていく。
 深い森の中に、瑠衣は一人残された。
 風が吹いて木々が小さく騒めいた。瑠衣が降りた時に飛び立った小鳥達が戻ってきて、瑠衣の様子を木の影から覗いている。
(近くに人の気配はしない……けれど、思ったより近かった)
 もっと人里離れた、秘境のような場所に運ばれるかと思っていた。森も深いが歩けないほどではない。妖が支配しているとは聞いていたが、街道も整備されているように感じた。その気になれば森を抜けて、麓の村まで逃げることもできそうだ。
(……いけない。わたしは生贄なのだから)
 瑠衣は苦笑して弱気になっている自分を戒めた。
 いつしか生き延びる算段を考えていた。命なんて屋敷を出発した時に捨てたはずではないか。何を未練がましく助かろうとしているのか。
(もしかして、怖がっている……?)
 先ほどよりも強い風が吹き、瑠衣は首をすくめた。陽はまだ高いが、この森の中の風はとても冷たい。衣装は肉を喰らいやすいよう薄い作りで、身体が小刻みに震えてくる。急に心細さ……いや、恐怖を感じてしまい、膝の上に乗せた拳を強く握った。
 妖が迎えに来た時が、自分の最期になるのだろう。
 一体どのようにして喰らわれるのだろうか。足からだろうか。手からかもしれない。きっと、生きながらに四肢を引きちぎられる痛みは、想像を絶するものだろう。
 相手の妖は残酷だと聞いた。泣き叫ぶ娘の姿を見て、愉悦に浸るのだろう。その時の自分は、任務を忘れて命乞いをしてしまうかもしれない。
(最期くらいは楽に逝きたい)
 思考がどうしても最悪な方向へ向かってしまう。
 どうしたら一瞬で終わらせてくれるだろうか。その方法を考えようと思考を切り替える。願わくば、首筋を食い破るか、一気に心の臓を抉りだしてもらいたい。そうすれば、恐怖も痛みも感じる暇もなく終わる。
(……って、さすがにじらせすぎでは?)
 ふと空を見上げて、瑠衣は小さく首を傾げた。
 この場から逃げ出したい恐怖と戦っているうちに、いつの間にか陽が傾いていた。とっくの昔に高い位置は過ぎ、山の向こう側へと落ちようとしている。
(もしかして、気付かれた?)
 嫌な予感がする。瑠衣自身が罠と思われてしまったのだろうか。もしそうだとすれば、妖に支配されている村の人々が酷い目に遭わされてしまうかもしれない。このまま、ここで待ち続けていていいものだろうか。
 ――がさり。
 移動すべきか思い悩んでいると、右手から繁みをかき分ける音が聞こえた。やっと迎えに来たのか。そう思って顔を向けたところで、瑠衣はぎくりと顔をこわばらせた。
 ぐるる、と低く唸る声が聞こえる。
(こ、これは……)
 深い繁みをかき分けて姿を現したのは、瑠衣の三倍はあろうかという大きな熊だった。それも、ただの熊ではない。
「妖……」
 全身から放たれる禍々しい妖力。大熊の獣が足を一歩踏み出す度に、地面に生えている草が枯れていく。
 やっと現れた妖の姿ではあったが、瑠衣は逆に焦っていた。
(話と違う!)
 事前に政重から聞いた話では、人型に化けるほどの強力な力を持つ妖だったはず。この大熊は妖ではあるが、人型を取るほどの力はない。唸るだけの姿を見るに、知能も獣とほとんど変わらないのだろう。妖としては下級の妖だ。
 逃げるべきだ。この妖は目的の妖ではない。自分の美味しそうな匂いに釣られてしまっただけの妖だ。
「くっ……つぅ……!?」
 立ち上がろうとして瑠衣は、完全に失敗した。長時間同じ姿勢で座っていたおかげで、足の感覚が無くなっていたのだ。
 無様に転んでしまった瑠衣を見て、大熊の妖がニタリと笑った気がした。四肢を躍動させて、動けない瑠衣へ猛烈な勢いで突進してくる。
(舞衣……ごめんなさい……っ!)
 この程度の下級の妖。きっと舞衣ならば簡単に討ち果たせただろう。しかし、呪力が無いに等しい瑠衣には抗う術がない。
 瑠衣は己の運命を悟った。目的の妖に会うことすらできず、名も知れぬこの大熊の餌食となって自分は死ぬ。妹を守るためと言いながら何も守れずに、人知れず骨すら残さず喰らわれる。
「あっ……」
 恐怖に縛られた瑠衣は、目を閉じることすらできない。目の前で大熊が二本の足で立ち、丸太のような腕を振り上げた。あれに当たれば脆弱の人間の体などひとたまりもない。次の瞬間には、瑠衣の身体は肉の塊となり果てるだろう。
「――ちったぁ、抵抗しろ!」
 だが、腕が振り下ろされる瞬間、瑠衣の視界が真っ白に染まった。
「え……?」
 それが吹雪だと気付くのに、数瞬の時を要した。いや、それは吹雪と呼ぶには、あまりにも乱暴な雪の嵐だった。
 落ち行く夕陽の最後の光を受け、キラキラと光る一枚、一枚の雪の花びら。それが激しく大熊を打ち据え、みるみる間に雪の塊へと変えていく。瑠衣が何度か瞬きをした後には、立派な雪熊の彫像が出来上がっていた。
 まるで時が止まったかのように、瑠衣は呆然とそれを見上げる。
「やーっと静かになったと思ったら、オレの花嫁が襲われているときたもんだ」
 何が起きたのか理解できない。固まっている瑠衣の視線の先に、二十歳くらいの青年が姿を現す。
 雪のように真っ白な髪は、緩く波打ち肩の長さ。整った目鼻立ちの中でも、特徴的な紅色の瞳が、ぎょろりと瑠衣を見ている。肌は陶器のように艶やかで、離れ座敷に引き籠っていた瑠衣よりも白い。
 なにより、彼の全身から溢れ出る妖の妖力は美しかった。まるで周囲が白い銀世界に変わってしまったかのような錯覚。その妖力に包み込まれたい。自分も氷漬けにされ、永遠に側に置いてもらいたい。そんなことを思わせるあやしい魅力があった。
「迎えに来るのが遅くなってすまねぇな。オレが白銀(しろがね)だ。お前の周囲に妖狩りが潜んでてよう。奴らが諦めて山を下りるのを確認してたら、まさか他の妖に襲われているとは思わなかった。……って、オイ。大丈夫か?」
 目の前で白銀と名乗った妖にしゃがみ込まれて、心まで惹き込まれていた瑠衣は、はっと我に返った。慌てて姿勢を正し、両手を地面に置くと、額を地面にこすりつけんばかりに頭を下げた。
「も、申し訳ありません!」
 彼こそが瑠衣の相手となる妖だ。見惚れている場合ではなかった。妖狩りがそんなことをしているとは知らなかったが、これはさっそくやってきた機会だ。
「わたしを運んだ者が、白銀様のご機嫌を損ねたようで。どうかわたしを喰らうことでその怒りを収めてくださいませ」
 憐れを装い、美味しく見えるように懇願する。
 抵抗するつもりはない。あんな力を見せつけられて、逃げることも考えられない。好きなようにこの身を裂き、喰らい尽くせばいい。
 しん、とした沈黙が二人の間に流れた。
「…………何言ってんだ?」
 しばし時間が経過した後、呆れたような声が返ってくる。
「助けた相手をどうして喰わなきゃいけねえんだ? それに、瑠衣はオレの花嫁として来たんじゃねえのか?」
「は、はぁ……花嫁?」
 困惑して顔を上げると、瑠衣と同じような表情で白銀が右手を差し出していた。
「ほれ、さっさと立て。せっかくの衣装が泥で汚れてるだろう」
 予想した展開とは全く異なる白銀の行動に、瑠衣は促されるがままに彼の手の上に自分の手を乗せていた。軽々と引っ張り上げられるも、未だに足が痺れていて、がくりとよろめいてしまった。
「わわっ……!」
「おっと、危ねえな」
 ぐるりと視界が回ったかと思うと、気が付いた時には白銀の腕に横抱きにされていた。雪のような見た目とは異なり、その体温はとても暖かい。
「軽いなー。お前さ、ちゃんとメシ食ってた?」
 思考が追いつかない瑠衣を、くんくん、と嗅いでから白銀は盛大に眉をしかめた。
「しっかし、これは臭い」
「臭い……ですか……」
 少しばかり精神的被害を受けた気がする。これは、妖にとっては美味しそうな匂いではなかったのか。臭いと言われるのは心外だった。
「妖の好む香りだと聞いていたのですが」
「あー、なるほどな。それでこんな強烈な匂いをさせてんのか。まあ、普通の妖はたしかに好む匂いだな」
 白銀の顔がもう一度、瑠衣の首筋へと近づく。噛まれるのかと思い、反射的に瑠衣は身体を固くした。だが、それは違う。鼻をくっつけんばかりにして、瑠衣の身体のあちこちを嗅いだのだ。息がかかってくすぐったい。
「あ、あの……白銀様?」
「あー、悪い悪い。そんなことしなくても、十分にいい匂いなんだがな」
 ぱっと顔を離し、ぺろりと白銀は舌なめずりをする。その姿に瑠衣は確信した。
(やっぱり、わたしを欲している)
 どういう理由かは知らないが、今は喰らう気がないだけ。何かしらの時期を待っているのか、それとも単なる気まぐれか。
「こんな時間まで本当に悪かったな。腹が減ったろう? 屋敷に戻れば今日は宴だ。もう用意はできてるんだぜ? たっぷりメシを食わせてやる」
 瑠衣を抱え直すと、そのまま白銀は走り出した。
 景色が飛ぶように背後へ流れていく。二本の足で走っているというのに、まるで四つ足の獣のように早く、白銀の腕の中は安定感があった。
 さらには、結界でも張っているのか、正面からの風を全く受けない。むしろ、ポカポカと春の陽光のような暖かさだ。今から白銀の住まう屋敷に連れて行かれるのだと緊張していなければ、あっさりと眠りに落ちていたかもしれない。
 瞬く間に森を抜け、山頂へと伸びる街道へと出た。そこから一気に頂上まで走破すると、街道の脇に低い塀に囲まれた広い屋敷が建っていた。茅葺の屋根が、黄金のようにも見えてとても綺麗だ。奥の方からは煙が一筋上っていた。
 瑠衣を抱いたまま、白銀が三間ほどの門をくぐった。
「遅くなったな!」
 屋敷で働いていた者達へ白銀が声をかける。
 もちろん、そこにいたのは妖だ。完全なる人型の者もいれば、尻尾と耳が見えている者、四つ足の犬の形をした下級の妖もいる。きっと白銀の配下なのだろう。それらからの視線を一斉に浴びて、瑠衣は完全に固まってしまった。
「彼女がオレのために来てくれた娘で、瑠衣だ。みんな仲良くやろうぜ」
 それを聞いて、妖達がざわざわと話し始める。
「なんと美味そうな……」
「おお、これはよい香り」
「じゅるり……」
 ほとんんどの妖は、瑠衣の身体に染み込んだ香りにやられたのだろう。瞳を爛々と輝かせて、彼女の全身を舐めるように凝視してきた。下級の妖などは、だらだらと涎を垂らしていたりする。
(こ、これが普通の反応のはず)
 頬を引きつらせながらも、少しだけ瑠衣は安心していた。白銀は獲物を仲間に分けようとしているのかもしれない。自分は血肉どころか骨すら残らないだろうが、この場の妖を一網打尽にできるなら、考えていたよりも大きな成果が期待できそうだ。
「おいおい、お前ら」
 キン、と氷のように冷たい妖力が白銀の身体から放たれ、瑠衣へ美味しそうな視線を送っていた妖達の気配が引き締まった。瑠衣を地面へ降ろし、その肩を抱きながら厳しい叱責が飛ぶ。
「そんな目で見るな。こいつが……瑠衣が怖がってるじゃねえか。間違っても味見してみようとか思うんじゃねぇぞ? 瑠衣の全部はオレのもんなんだからな」
 白銀の子供っぽい独り占め宣言。一網打尽は無理かも、と少しだけ落胆する。
「ま、おこぼれくらいはお前らにもやるさ。おーい! 美桜(みおう)はどこか?」
「はーい! ちょっと待ってくださーい!」
 屋敷の奥の方から声が聞こえた。煙が上がっているあたりだ。食事でも作っていたのだろうか。妖が一人、こちらへパタパタと駆けてくる気配。
「お待たせしました、白銀様!」
 走って二人の前に現れたのは、十代中盤くらいの少女の見た目をした妖だった。
(白銀の一番手の配下……妹かもしれない)
 瑠衣はそのように直感した。彼女の匂いを間近にしても、表情は全く変わらなかったのと、妖力の雰囲気がよく似ていたからだ。
「ちょっと洗ってやってくれ。さすがにこんな目で見られたんじゃ、瑠衣も生きた心地がしねえだろうからな。可哀そうに、さっきから震えて困ってら」
「し、白銀様。そんなことは……!」
 反論しかけて瑠衣は、足がすくんだままの自分に気が付き混乱した。
(どうして……?)
 ここへは喰らわれにきたはずだ。怖いという感情はとっくの昔に捨てたはずだ。美味しい食事と見られるのは本望のはずなのに、なぜこんなにも恐れている。
「あらあら、瑠衣様。ちょっと失礼しますね!」
 考え込んでしまった姿を、美桜は怖がっていると勘違いしたらしい。自分よりも背丈の高い瑠衣を、軽々と横抱きにした。
「ご安心ください。わたしは人間のお肉にも呪力にも興味ないので! このお屋敷の妖も、本当はみんなそうなんですから!」
「は、はぁ……?」
 人間を喰らわない妖など、この世にいるのだろうか。だが、にっこりと微笑む美桜の表情に嘘は見えない。
「んじゃ、美桜。任せたぜ。残ったモンたちは、宴会の最後の準備だ! 瑠衣を怖がらせた分、ちゃかちゃか働けよー!」
 白銀の号令一つで、妖達がそれぞれの役目を果たしに散っていく。
「瑠衣。宴会の席で会おうぜ」
 彼女の頭をぽんぽんと撫でると、白銀は伸びをしながら屋敷へと向かう。その後ろ姿を声もなく眺めていることしかできなかった。