◆

「白銀様。一つお願いがあるのですが」
 翌日の朝餉が終わってから、瑠衣はすぐに行動を起こしていた。湯呑みに茶柱が立ったと喜んでいる白銀の前で、両手を畳に付いて頭を下げる。
「人間の身でおこがましいかもしれませんが、ここへは嫁として参った身。どうか白銀様のことは、白銀、とだけ呼ばせていただきたいのですが」
 昨晩、考え抜いて出した一つの結論。
 もう己の気持ちには正直になろうと思ったのだ。それは、舞衣を見捨てるだとか、妖狩りを裏切るだとか、そういった意味ではない。白銀を倒す対象と無理やり考えて、己の気持ちに蓋をするのは止めるということだ。
 この繰り返しがどうして起きているのか。気にならないといえば嘘になる。しかし、自分にとって一番大切なのはそこではない。白銀の元へ嫁いだということだ。彼を想うこの気持ちは、同じ『時』を繰り返すにつれて大きくなり、今や自分自身では制御できないところまでになっていた。同じ『時』だからといって、同じ『事象』まで繰り返す必要はない。自分の意志で、白銀の側にいることを早々に見せるべきだ。
 もちろん、これが白銀の策略という可能性はまだ残っている。だが、自分が死にゆくときの白銀の表情や、二回目で決定的な隙を晒してしまった時のことを考えると、その可能性は限りなく無いに等しいのではと思っていた。
 それに、白銀になら騙されてもいい。覚悟の上だし、誰をも恨むつもりはない。そのくらい、瑠衣の気持ちは大きくなってしまっていた。
「瑠衣、お前……」
 しばらく返事がなく、平伏した状態のまま瑠衣はこっそりと窺い見た。白銀は何やら考え込むような表情をしている。もう一度、瑠衣は額を畳にこすり付けた。
「白銀様。駄目でしょうか?」
「……んなことたねえよな」
 白銀が近づく気配がしたかと思うと、瑠衣の頭がよしよしと撫でられた。
「そんなもん、許可をとるようなもんでもねえだろ。ほれ、顔を上げろ。オレたちは主従じゃねえんだから」
 促されて顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべた白銀がいた。自分の要求は通ったらしいと、ほっと安堵する。
「白銀でもなんでも、お前の好きなように呼んでくれ。なんだったら白ちゃんとか銀ちゃんとか、それでもいいぜ? あー、オレもお前のこと、瑠衣ちゃん、にしようか」
「いえ、それはちょっと……嫌です」
 まさかの、ちゃん付け発言に瑠衣は盛大に顔をしかめた。そんな可愛らしい呼び名は、自分には向いていない。
「とにかく、ありがとうございます。では、これからは白銀、と呼ばせていただきます」
「おう! そのほうがオレも好きだな。白銀様、とかよそよそしくていけねえ。もっと砕けた口調でもいいんだぞ」
「これはわたしのいつもの調子なので」
 さすがにそこは変えられない部分だ。
「それで、白銀。お願いばかりで申し訳ないのですが、幾つかお願いが……わっ!?」
 少しだけ身を乗り出すと、白銀の両腕が伸びてきて、胡坐をかいた彼の膝の上に乗せられてしまった。背中越しに抱かれながら耳元に囁かれる。
「なんだ? 瑠衣ちゃん」
「……その呼び名はやめてください」
 思いっきり動揺していたのだが、ちゃん呼びで瞬時に頭が冷静になった。首だけ振り向いて、半眼で睨んでから瑠衣は続けた。
「普段はお仕事をしているのですよね? それをわたしにも手伝わせてほしいのです」
「仕事ったって大したことはやってねえけどなあ」
 そんなことはないのを、二回目までに知っている。結界の修繕のために村へよく下りているし、長机の上にたくさんの紙を広げて、眉間に皺を寄せながら算盤を弾いている姿を見ている。結界の手伝いはできないが、せめて算盤のほうだけでも手伝いたい。
「嫁だからといって、わたしには何もさせないつもりでしょうか。それでは籠の中の鳥と同じです。呪力のないただの人間ですが、算盤くらいはできるのですよ? わたしだって白銀のお役に立ちたい……いえ、白銀を楽にしたいのです。それに――」
 微笑みを浮かべながら最後の一押し。
「白銀の時間が空けば、わたしと遊ぶ時間も存分に取れるでしょう」
「こいつは……驚いた」
 心底驚いたような声。白銀の腕に力が入り、痛いほどに強く抱きしめられた。
「オレはこんな嫁をもらって幸せ者だな」
「……大袈裟です。感動し過ぎですよ」
 素っ気ない声になってしまったのは、この状態に照れてしまったからか。
 しばらくそのままにされていたが、満足したのかやっと瑠衣は膝の上から解放された。着物の裾をパンパンと払いながら白銀が立ち上がる。
「瑠衣のやる気を無下にしないためにも、一つ頑張ってもらうかー」
「はい!」
 力強く頷いて、瑠衣は白銀の後を追いかけたのだった。