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「きゃぁっ!」
 ポカポカと暖かい太陽の下。瑠衣の悲鳴が屋敷中へと響いた。直後、どすんという人が転んだような地響きに、がっしゃーんというけたたましい音。
「あああ……も、申し訳ございません!」
 長机の向こう側でお茶を頭からかぶり、びしょ濡れとなった白銀の姿に、青褪めた瑠衣はその場に平伏していた。
「お手伝いをさせてくださいと頼みながら、このような失態。どうかわたしを喰らうことでお怒りをお鎮めください!」
 もちろん、これはわざとだ。何とかして白銀を怒らせ、自分の身体を喰らわせる。妖を倒すという任務達成のために必要な行為。
「おいおい、瑠衣こそ大丈夫か? 変な転びかたしたよな。足を見せてみろ」
 長机を飛び越えて白銀が側へ来ると、あっという間に瑠衣の身体はひっくり返された。尻もちをついたような状態で、足首を調べられる。
「よかった。挫いてはいねえようだな」
 ほっと安心したような表情で白銀が叫ぶ。
「おーい、美桜! ちょっと片付けてくれねえか」
「は~い、わかっていますよー!」
 瑠衣の悲鳴を聞いて準備をしていたのだろう。雑巾と箒を持った美桜がすぐに部屋へ到着した。お茶がぶちまけられた部屋を手際よく掃除する。
 完全に予想を裏切られた形になり、おずおずと瑠衣は訊ねた。
「あ、あの……罰は……?」
「この程度で罰とか面白い冗談だな」
「で、ですが、白銀様にお茶を……!」
 湯気の立っている、熱々のお茶だったのだ。事故を装ってそれを白銀にかけた。人間ならば間違いなく大火傷をしている。
「オレは妖だぜ? 眠くてヤバかったから、いい目覚めになって助かったくらいだぜ」
 白銀は他に怪我がなさそうなのを確かめてから、瑠衣を立たせてくれた。
「しっかし、瑠衣はおっちょこちょいさんだなー」
 戸惑う瑠衣の頭を、よしよしと撫でながら、堪え切れないとばかりに白銀が笑う。
「箒は折る、料理は黒焦げにする、壺も割ったし、襖も破った。そして、オレにお茶をぶっかける。何かするたびに失敗してて、オレも飽きなくて楽しいぜ。何でもできるって顔してるのに、何にもできないんだな。可愛いヤツめ」
「そ、それは……」
 白銀の言いように、心の中で瑠衣は憤慨した。
(それは、あなたが早く喰らってくれないからなのですが!)
 実際のところ、洗濯に掃除、裁縫、料理……等々。瑠衣は一人で大抵のことはできた。前妖狩りの長の娘という立場であっても変わらない。それは、妖狩りが遠征先で長期滞在をする場合もあるからだ。
 さらには、妖狩りとしての鍛錬の中には、荷駄の作り方や、必要な物資の調達なども含まれていた。瑠衣は呪力を無くしてからも、それらの勉学に勤しんでいた。この屋敷の采配だって、任せてもらえれば白銀よりも上手くやる自信があった。
「次はどんな失敗してくれんのかな。楽しみだぜ。今度は風呂でも入れてみるか? うっかり屋敷を火事にでもすんのかもしれねえな。うははは!」
(……くっ……!)
 白銀の能天気な台詞が、とても屈辱的に感じてしまう。穴があったら頭から入りたい。さっさとひと思いに喰らってくれないだろうか。
「おっと、すまねえ、笑い過ぎた。瑠衣も一生懸命やってんだもんな」
 俯いて拳を握り締め、ぶるぶると震えている姿を、白銀は落ち込んでいると勘違いしたらしい。背中をぽんぽんと叩いて、回れ右をさせた。
「残りはやっておくから休んどけ。後で甘い菓子でも持っていかせる」
「……はい」
 どちらにしても作戦は失敗だ。素直にとぼとぼと廊下を歩き、自分の部屋へと入る。座布団の上にすとんと腰を下ろし、瑠衣は大きなため息を吐いた。
(……どういうこと?)
 それは白銀の行動に対しての疑問ではない。
「正夢にもほどがあるのですが……」
 白銀は積極的に自分を喰らおうとはしていない。そう感じた瑠衣は、自ら喰らわせにいく作戦に切り替えていた。屋敷のことを無理やり手伝い、あちこちで失敗する。そのうち堪忍袋の緒が切れた白銀が瑠衣を襲う。
 しかし、その計画は見事に失敗続き。それどころか、失敗した時の白銀の対応に既視感を覚えてしまう。最初はそれが何かわからなかったのだが、気が付いた時に愕然とした。
 この屋敷へ来た日。あの宴会の時に見ていた夢ではないか。
「まさか、これも夢の中?」
 細部は違うと思う。瑠衣だって、夢の内容をそのままなぞれているわけではない。それでも、大まかな流れは夢の出来事を辿っていた。
(このままいけば……)
 先のことを考えて憂鬱な気分になる。
 白銀が敵対する妖ではないことを知り、屋敷に戻って報告して殺される。
(隣に白銀がいたから、村の人たちが真実を話してくれなかった可能性……か)
 夢の中での政重の台詞を検討する。無邪気な子供達の姿を考えると、その可能性は低い気もする。それでも、確かめもせずに判断したのはいけなかったかもしれない。政重に報告するのであれば、もっと確固たる情報を突き付けるべきだった。
 そこまで考えて、いやいやいや、と首を横に振る。
 いつしか、白銀が敵ではないと判断してしまっている。宴会の時に可能性を考慮したではないか。ここはすでに白銀の妖力の中で、瑠衣の判断を誤らせるために、幸せな夢を見せられているだけなのかもしれない。
(わからない……)
 これは夢か現実か。白銀はどのような妖なのか。
 思考は同じ場所を永遠に繰り返して、一向に結論が出る様子は無い。瑠衣は意を決すると、部屋の隅に置いていた将棋盤を持って立ち上がった。
(夢の中の通りであれば、これは明日の出来事なのだけど)
 仕事中に将棋の相手をせがみ、仕事の邪魔をして怒らせようとした。それを明日まで待たずに、今日仕掛けてみるのだ。
 途中ですれ違った妖に挨拶をしながら、先ほどお茶をぶちまけた部屋へと向かう。白銀は長机の前に戻っており、眉根に皺を寄せて算盤を弾いていた。
 瑠衣の気配に気が付いた白銀が顔を上げる。
「おう、瑠衣。どうした? また何か手伝いを思いついたか?」
「い、いいえ」
 さりげない先制攻撃に一瞬詰まるも、すぐに瑠衣は将棋盤を掲げた。
「あの……一人遊びは飽きてしまったのです。邪魔をしてばかりですが、どうか今日は将棋の相手をしていただけませんか?」
「あー、なるほどなー」
 白銀は筆を持ったまま、反対側の手で自分の後ろ頭をがしがしと掻いた。
「瑠衣が屋敷のことを手伝ってくれようとしたのはそれが理由か。もっと早くわかればよかったな。オレは算盤が苦手でよう。一生懸命で他のことが見えてなかった。確かに昼間は一人にさせすぎだったよなあ」
 白銀の解釈は全くの見当外れなのだが、瑠衣にとってそこはどうでもいい。
「うぅむ、困ったな」
 長机に広げられた紙片を眺めて白銀の眉が下がった。
「まだまだやることが残ってんだよなー」
「駄目ですか?」
 将棋盤を掲げたまま瑠衣は重ねて頼んだ。その姿を見て白銀の唇が緩んだ。
「嫁の頼みとあっちゃあ、断れるわけねえだろ。それもオレの記憶する限り、初めてのわがままならな。いいぜ。その代わり、算盤弾きながらになるが、それでもいいか?」
「はい! もちろんです!」
 勢い込んで瑠衣は頷いて部屋に入ると、白銀が紙片を片付けて場所を開けてくれた長机の端に将棋盤を置いた。微笑みながら白銀に告げる。
「果たして片手間でわたしに勝てますでしょうか」
 じゃらら、と木箱から駒を盤の上に広げた。瑠衣は将棋には少し自信があった。夢の中でも、一局が終わるまではこてんぱんにされるとは少しも思っていなかった。
「どちらが先手でまいりますか?」
「んー、瑠衣からでいいぞ」
「ありがとうございます。では――」
 パチリ。小気味よい音を立てて角道をあける。ちらりと白銀がそれを見て、同じように角道をあけた。そのまま手が進んでいき、百手に届こうかというところで、白銀の持った金が瑠衣の玉将の頭に打ち込まれた。
「これで詰みだな。オレの勝ちだぜ」
 勝ち誇ったような白銀の顔が憎らしい。負けるとわかっていた一局だが、腹が立つことには変わりがなかった。
「……もう一つ、お願いします」
 夢の中では、ここから冷静さを欠いてしまい、悪手を連発してしまった。それが一度も勝てなかった原因の一つだ。
(でも、今回は違う)
 深呼吸をしてから、再び角道をあけた。
 白銀はたしかに強い。しかし、瑠衣にはこの手順を知っているという強みがあった。どれが悪手で、どの手が敗着となったか、既に検討は終わっている。
 パチリ、パチリと手が進んでいき、やがて、はたと白銀の手が止まった。
「へえ、瑠衣。やるじゃねえか」
 筆を硯の上に置き、白銀が腕を組んで低く唸った。瑠衣の打った反撃の一手が、白銀の陣地を脅かす。
「今のは悪い手でございましたね」
「いいや、まだこれからだ」
 熟考した後に、白銀が次の手を繰り出す。
(さすがに強い)
 ここから先は夢の中にはなかった展開。形勢は瑠衣に傾いたが、白銀の粘りの一手が非常に重い。攻め合いに来られて、自陣も危なくなる。瑠衣は何度も局面を見直しながら、その一手一手に必死に抗った。
「この金で――どうでしょう?」
「むぐぐ……参った! くっそお、負けるとは思ってなかったぞ!」
 見るからに悔しそうに白銀が頭を掻きむしる。
(やった。勝てた!)
 大きく息を吐きながら、瑠衣は一つ確信を得ていた。
 同じことをしているように思えて、同じではない。自分の行動で結果を変えることができる。白銀が倒すべき敵なのか、現時点で結論は出ていないけれど、この先で政重に殺されるかどうかは、自分の行動次第だ。
 駒を片付けようとすると、それよりも先に白銀が王将を自分の陣地に打ち付けた。
「よーし、瑠衣! 一勝一敗だな。もう一回やるぞ。決着をつけてやる!」
「望むところです。今度もわたしが勝たせていただきますけど」
「そうは簡単にはいかせねえ。ぐうの音も出ないくらい、ぎったんぎったんに……」
 と、そこまで言ったところで、瑠衣の背後に影が立った。驚いて振り返ると、にんまりと笑った美桜が両手に腰を当て、仁王立ちになっていた。
「瑠衣様と盛り上がってるところ、もーしわけありませんがー!」
 びしっ、と白紙のままの半紙を指差して美桜が半眼になる。
「お仕事まだ終わってませんよね、白銀様?」
「い、いや、これが終わった後にだな」
「また同じような熱戦をするのですかねー? お昼はとっくに過ぎてるんですよ? 夜中から仕事を再開したいのですか?」
 美桜の指摘通り、いつの間にか日は頂上から傾いて、かなり低い位置になっていた。集中していてそんなに時間が経過したとは思ってもいなかった。
「瑠衣様のお相手は、わたしがします!」
 白銀を紙と硯の前に押しやって、その空いた場所に美桜が座る。
「ちぇー、しょうがねえな」
 本当に渋々といった感じで白銀が筆を取る。
「勝負はおあずけだな。首を洗って待ってろよ、瑠衣」
「白銀様こそ、油断なさらぬよう」
 瑠衣の言葉に、思いっきり顔をしかめる白銀。本当に負けたのが悔しいようだ。
 その仕草がとても子供っぽくて、瑠衣はつい小さく口元を緩ませた。