◆
屋敷の前の街道に出て、瑠衣はすぅっと大きく息を吸い込んだ。
久しぶりの外の空気が清々しい。街道沿いには秋の名物であるススキがたくさん生え、少し視線を上げれば、紅葉した木々が並んでいる。
屋敷へ来た時の街道を、さらに前に進めば盆地へと下りていく。そこから吹いてきた風には、藁のような香りもした。すでに収穫が始まっているのかもしれない。
(少し見ない間にすっかり秋)
白銀の元を訪れた時とは別の光景に、瑠衣は少しだけ驚く。屋敷に監禁されているわけではなかったが、白銀に自分を喰らわせることに夢中で、他のことに意識が向かなかったのだ。指折り数えると、もう二十日間は経過しようとしていた。
「本当に駕籠はいらねえのか?」
遅れて出て来た白銀が訊ねてくる。瑠衣は紅葉色の小袖の裾をつまんだ。
「屋敷の方に迷惑をかけるわけにはいきません。このように動きやすい小袖を頂けましたし。こう見えてもわたし、健脚なのですよ?」
呪力を無くしたとはいえ、妖狩りの屋敷で育っているのだ。鍛錬だけは毎日欠かすことがなかった。おかげで体力には自信がある。
「そうかい。足を痛めたらいつでも言えよ。おんぶして運んでやる。いや、抱っこのほうが顔が見えていいか……」
「そのときは這って戻るので大丈夫です」
「……昨日から、なんか冷たくねえか?」
眉尻を下げながら白銀がぼやく。瑠衣は、つい、と視線を逸らして街道を盆地に向けて足を踏み出した。
よく整備されていて歩きやすい街道だ。広さも十分にあり、荷車が離合するにも困らないだろう。ただ、それにしてはあまり使われているようには見えない。綺麗すぎる。
(ああ、そうか)
すぐにその理由に思い当たり、瑠衣は小さく呟いた。
「……やっぱり、村の人たち、大変な思いをしているのですね」
「どうしてそう思う?」
心外だと言わんばかりに白銀が唇を曲げる。瑠衣は歩きながら街道を指差した。
「この街道。綺麗に整備されていますが、あまり使われているようには見えないのです。よくよく思い返せば、実際にお屋敷の前を荷車が通った記憶も数えるほどです」
この街道を逆に行った山の麓にも村があったはずなのだが、そちらからの荷車や遊行人は見たことがない。妖である白銀を警戒して、寄り付いていないのだろう。
「物資的には苦労してねえはずだぞ。必要な物は人型に化けられる配下に調達させてるからな。オレが仕事っつってんのは、村の者たちの意見をまとめてやるところだな。最近は瑠衣がよく邪魔をしてくれるんだが」
「……それはすみませんでした」
「いいってことよ。構ってやれないオレが悪い。それにいい気分転換になったぞ。オレは算盤が苦手でよう。数字と睨めっこしてたら頭が痛くなっちまう。これからもじゃんじゃん邪魔しに来てくれ」
本当なのだろうか。おどけた様子の白銀を横目に見ながら考える。瑠衣が仕事の内容に興味を持たなかったのをいいことに、適当なことを喋っている可能性だってある。
(ここで考えていても仕方がなさそうかな)
街道を下りきったあたりで瑠衣は考えるのを止めた。白銀の言葉が嘘か本当か。それを見極めるために、今日は村へ赴いたのだ。
広々とした盆地には、収穫を待つばかりになっている田んぼが広がっていた。稲穂を調べると丸々と太っていて、美味しいご飯が炊けそうだ。ぐるりと見回すと、何人もの村人達が、鎌を持って収穫をしていた。
それらを見ながら、立ち止まって瑠衣は問いかける。
「白銀様。お約束は忘れておりませんよね?」
「当り前だろ」
余裕の表情で白銀は腕を組んだ。
ここへ来る前に約束していたのだ。もしも瑠衣が異変を察知したら、自分の身体を喰らうこと。その対価として、村を人間に返し、正しい状態に戻してもらう。生贄としての役目を果たせば、瑠衣の本当の目的も達成される。
これまでの白銀の様子から、あからさまに村の不利となるようなことはしてないだろうと感じていた。だが、一皮剥けばきっと本性が現れるはず。その些細な不正を見逃さない。万が一見つからなければ、でっちあげたっていい。
「あの……」
あぜ道から初老の男に声を掛けようとすると、別の場所から甲高い声が響いた。
「うっわぁ、綺麗なお姉ちゃん!」
すでに収穫が終わった田んぼを、とてとてと数人の子供達が駆けてくる。
「あっ! 白銀の兄ちゃんもいる!」
これは別の男の子が叫んだ声だ。あっという間に二人は子供達に囲まれていた。
「お前らぁ、いい子にしてたか? 最近は遊んでやれなくて悪いな」
どうやら、白銀と子供達はよく遊んでいる仲らしい。尤も、今の子供達の興味は、完全に瑠衣のほうへと向いていた。そのうちの一人が首を傾げながら言う。
「お姉ちゃんって、もしかしてお兄ちゃんのお嫁さま?」
お嫁さまという単語を聞いて、白銀がにやりと笑った。
「おう、当たりだぜ! この綺麗な姉ちゃんは瑠衣って言ってな。オレの嫁になってくれたんだぜ」
「やっぱり! お嫁さまなんだー!」
手を叩いて別の子供が叫ぶ。
「おとんがね。兄ちゃんが姿を見せないのって、お嫁さまでもきたんじゃないかって。それで忙しくなったんじゃないかって。当たってたー!」
あけすけな子供の言葉に、瑠衣は思いっきり赤面してしまった。この子供は意味を理解していないようだが、さすがに瑠衣のほうは理解できないほど初心ではない。
その時には、騒いでいる子供達を気にした大人達も集まってきていた。声をかけようとしていた初老の男が、恭しく白銀へ礼をしてから訊ねた。
「白銀様。先ほどの話は本当のことで?」
「紹介が遅れてすまねえな、源九郎(げんくろう)。本当は収穫が終わったころを考えてたんだが、どうしても村を見たいとせがまれてな」
瑠衣は背中を押されて、輪を作って待っている村人達の中心に出された。
「少し前にオレの元に嫁いできたんだ。仲良くしてやってくれないか? ほれ、瑠衣も挨拶くらいはしてやってくれ」
「え、えっと……」
いきなりの展開に、瑠衣は戸惑うことしかできない。先ほどの動揺からも立ち直れていない。頭の中が真っ白な状態で、何とか頭だけは下げた。
「る、瑠衣です。よろしくお願いします」
おおお、という歓声が盆地一杯に広がった。
「これはこれは、白銀様。おめでたい」
「我々一丸となってお祝いをせねばなりませんな」
「今年の豊作は、瑠衣様のおかげでありましたか」
口々に好き勝手を言い始める村の大人達。喜び過ぎたのか子供達と大して変わらない。
馴れ初めはどこでだとか、いつ嫁いできたのかだとか、あちこちから訊ねられて、瑠衣は目が回る思いだった。村の生活の話を聞こうと思っていたのに、いつの間にか聞かれる立場になってしまっている。
「まあまあ、そのくらいにしておきなされ」
おろおろするばかりの瑠衣を見かけたのか、源九郎と呼ばれた初老の男が、笑いながら村人達を収めた。
「瑠衣様が困っておろうに。これから、何度でもお会いできましょう」
「ああ、瑠衣もこっちの生活に慣れてきたみてえだからな。ちょくちょく連れてこようと思う。瑠衣もそれでいいだろ?」
「は、はい!」
名前を呼ばれて、弾かれたように瑠衣は返事をする。源九郎が瑠衣の手元へ視線を移してから、微笑ましいものでも見たかのように目を細めた。
「白銀様は頼られておられますなあ。我々も、今日は驚かせて申し訳ない。さあさ、皆の者。収穫に戻りますぞ」
へーい、と村人達が作業に戻っていく。まだ興奮がさめていないようで、口々に瑠衣のことを噂している。
それらの声が聞こえなくなったあたりで、白銀が苦笑しながら瑠衣の頭に手を乗せた。
「大丈夫か? 怖かったか?」
「い、いえ……」
と首を横に振りかけて、瑠衣は自分の手が白銀の着物の裾を、皺ができるほどに強く握りしめているのに気が付いた。離そうにも固まってしまったかのように動かない。
「しっかし、こんなに騒ぎになるとは思わなかったからなあ」
頭から下りてきた白銀の大きな手が、そっとそれを包み込む。
「完全に驚かせちまったし、これじゃあ、瑠衣の確かめたい話もできなかったよな。また明日来るか?」
ぶんぶん、と瑠衣はもう一度首を横に振った。その問いには直接こたえず、別の回答をする。
「白銀様も、他に目的があって村へ下りたのですよね? 結界がどうだとか申していた記憶があります。ぜひ、そちらも拝見したいのですが」
「なるほど、オレへの試験はまだ続いてるってか」
白銀は不敵な笑みを浮かべると、瑠衣の手を引いて先へと歩き出す。
「んじゃ、オレの仕事ぶりってやつを、嫁に見せつけてやらねえとな。有能すぎるオレにたっぷり惚れてくれ。あー、そう考えたら、めっちゃやる気出てきたぞー!」
能天気な白銀の背中を見詰めながら、瑠衣は彼の着物の裾を掴んでいた理由を、ずっと考え続けていたのだった。
屋敷の前の街道に出て、瑠衣はすぅっと大きく息を吸い込んだ。
久しぶりの外の空気が清々しい。街道沿いには秋の名物であるススキがたくさん生え、少し視線を上げれば、紅葉した木々が並んでいる。
屋敷へ来た時の街道を、さらに前に進めば盆地へと下りていく。そこから吹いてきた風には、藁のような香りもした。すでに収穫が始まっているのかもしれない。
(少し見ない間にすっかり秋)
白銀の元を訪れた時とは別の光景に、瑠衣は少しだけ驚く。屋敷に監禁されているわけではなかったが、白銀に自分を喰らわせることに夢中で、他のことに意識が向かなかったのだ。指折り数えると、もう二十日間は経過しようとしていた。
「本当に駕籠はいらねえのか?」
遅れて出て来た白銀が訊ねてくる。瑠衣は紅葉色の小袖の裾をつまんだ。
「屋敷の方に迷惑をかけるわけにはいきません。このように動きやすい小袖を頂けましたし。こう見えてもわたし、健脚なのですよ?」
呪力を無くしたとはいえ、妖狩りの屋敷で育っているのだ。鍛錬だけは毎日欠かすことがなかった。おかげで体力には自信がある。
「そうかい。足を痛めたらいつでも言えよ。おんぶして運んでやる。いや、抱っこのほうが顔が見えていいか……」
「そのときは這って戻るので大丈夫です」
「……昨日から、なんか冷たくねえか?」
眉尻を下げながら白銀がぼやく。瑠衣は、つい、と視線を逸らして街道を盆地に向けて足を踏み出した。
よく整備されていて歩きやすい街道だ。広さも十分にあり、荷車が離合するにも困らないだろう。ただ、それにしてはあまり使われているようには見えない。綺麗すぎる。
(ああ、そうか)
すぐにその理由に思い当たり、瑠衣は小さく呟いた。
「……やっぱり、村の人たち、大変な思いをしているのですね」
「どうしてそう思う?」
心外だと言わんばかりに白銀が唇を曲げる。瑠衣は歩きながら街道を指差した。
「この街道。綺麗に整備されていますが、あまり使われているようには見えないのです。よくよく思い返せば、実際にお屋敷の前を荷車が通った記憶も数えるほどです」
この街道を逆に行った山の麓にも村があったはずなのだが、そちらからの荷車や遊行人は見たことがない。妖である白銀を警戒して、寄り付いていないのだろう。
「物資的には苦労してねえはずだぞ。必要な物は人型に化けられる配下に調達させてるからな。オレが仕事っつってんのは、村の者たちの意見をまとめてやるところだな。最近は瑠衣がよく邪魔をしてくれるんだが」
「……それはすみませんでした」
「いいってことよ。構ってやれないオレが悪い。それにいい気分転換になったぞ。オレは算盤が苦手でよう。数字と睨めっこしてたら頭が痛くなっちまう。これからもじゃんじゃん邪魔しに来てくれ」
本当なのだろうか。おどけた様子の白銀を横目に見ながら考える。瑠衣が仕事の内容に興味を持たなかったのをいいことに、適当なことを喋っている可能性だってある。
(ここで考えていても仕方がなさそうかな)
街道を下りきったあたりで瑠衣は考えるのを止めた。白銀の言葉が嘘か本当か。それを見極めるために、今日は村へ赴いたのだ。
広々とした盆地には、収穫を待つばかりになっている田んぼが広がっていた。稲穂を調べると丸々と太っていて、美味しいご飯が炊けそうだ。ぐるりと見回すと、何人もの村人達が、鎌を持って収穫をしていた。
それらを見ながら、立ち止まって瑠衣は問いかける。
「白銀様。お約束は忘れておりませんよね?」
「当り前だろ」
余裕の表情で白銀は腕を組んだ。
ここへ来る前に約束していたのだ。もしも瑠衣が異変を察知したら、自分の身体を喰らうこと。その対価として、村を人間に返し、正しい状態に戻してもらう。生贄としての役目を果たせば、瑠衣の本当の目的も達成される。
これまでの白銀の様子から、あからさまに村の不利となるようなことはしてないだろうと感じていた。だが、一皮剥けばきっと本性が現れるはず。その些細な不正を見逃さない。万が一見つからなければ、でっちあげたっていい。
「あの……」
あぜ道から初老の男に声を掛けようとすると、別の場所から甲高い声が響いた。
「うっわぁ、綺麗なお姉ちゃん!」
すでに収穫が終わった田んぼを、とてとてと数人の子供達が駆けてくる。
「あっ! 白銀の兄ちゃんもいる!」
これは別の男の子が叫んだ声だ。あっという間に二人は子供達に囲まれていた。
「お前らぁ、いい子にしてたか? 最近は遊んでやれなくて悪いな」
どうやら、白銀と子供達はよく遊んでいる仲らしい。尤も、今の子供達の興味は、完全に瑠衣のほうへと向いていた。そのうちの一人が首を傾げながら言う。
「お姉ちゃんって、もしかしてお兄ちゃんのお嫁さま?」
お嫁さまという単語を聞いて、白銀がにやりと笑った。
「おう、当たりだぜ! この綺麗な姉ちゃんは瑠衣って言ってな。オレの嫁になってくれたんだぜ」
「やっぱり! お嫁さまなんだー!」
手を叩いて別の子供が叫ぶ。
「おとんがね。兄ちゃんが姿を見せないのって、お嫁さまでもきたんじゃないかって。それで忙しくなったんじゃないかって。当たってたー!」
あけすけな子供の言葉に、瑠衣は思いっきり赤面してしまった。この子供は意味を理解していないようだが、さすがに瑠衣のほうは理解できないほど初心ではない。
その時には、騒いでいる子供達を気にした大人達も集まってきていた。声をかけようとしていた初老の男が、恭しく白銀へ礼をしてから訊ねた。
「白銀様。先ほどの話は本当のことで?」
「紹介が遅れてすまねえな、源九郎(げんくろう)。本当は収穫が終わったころを考えてたんだが、どうしても村を見たいとせがまれてな」
瑠衣は背中を押されて、輪を作って待っている村人達の中心に出された。
「少し前にオレの元に嫁いできたんだ。仲良くしてやってくれないか? ほれ、瑠衣も挨拶くらいはしてやってくれ」
「え、えっと……」
いきなりの展開に、瑠衣は戸惑うことしかできない。先ほどの動揺からも立ち直れていない。頭の中が真っ白な状態で、何とか頭だけは下げた。
「る、瑠衣です。よろしくお願いします」
おおお、という歓声が盆地一杯に広がった。
「これはこれは、白銀様。おめでたい」
「我々一丸となってお祝いをせねばなりませんな」
「今年の豊作は、瑠衣様のおかげでありましたか」
口々に好き勝手を言い始める村の大人達。喜び過ぎたのか子供達と大して変わらない。
馴れ初めはどこでだとか、いつ嫁いできたのかだとか、あちこちから訊ねられて、瑠衣は目が回る思いだった。村の生活の話を聞こうと思っていたのに、いつの間にか聞かれる立場になってしまっている。
「まあまあ、そのくらいにしておきなされ」
おろおろするばかりの瑠衣を見かけたのか、源九郎と呼ばれた初老の男が、笑いながら村人達を収めた。
「瑠衣様が困っておろうに。これから、何度でもお会いできましょう」
「ああ、瑠衣もこっちの生活に慣れてきたみてえだからな。ちょくちょく連れてこようと思う。瑠衣もそれでいいだろ?」
「は、はい!」
名前を呼ばれて、弾かれたように瑠衣は返事をする。源九郎が瑠衣の手元へ視線を移してから、微笑ましいものでも見たかのように目を細めた。
「白銀様は頼られておられますなあ。我々も、今日は驚かせて申し訳ない。さあさ、皆の者。収穫に戻りますぞ」
へーい、と村人達が作業に戻っていく。まだ興奮がさめていないようで、口々に瑠衣のことを噂している。
それらの声が聞こえなくなったあたりで、白銀が苦笑しながら瑠衣の頭に手を乗せた。
「大丈夫か? 怖かったか?」
「い、いえ……」
と首を横に振りかけて、瑠衣は自分の手が白銀の着物の裾を、皺ができるほどに強く握りしめているのに気が付いた。離そうにも固まってしまったかのように動かない。
「しっかし、こんなに騒ぎになるとは思わなかったからなあ」
頭から下りてきた白銀の大きな手が、そっとそれを包み込む。
「完全に驚かせちまったし、これじゃあ、瑠衣の確かめたい話もできなかったよな。また明日来るか?」
ぶんぶん、と瑠衣はもう一度首を横に振った。その問いには直接こたえず、別の回答をする。
「白銀様も、他に目的があって村へ下りたのですよね? 結界がどうだとか申していた記憶があります。ぜひ、そちらも拝見したいのですが」
「なるほど、オレへの試験はまだ続いてるってか」
白銀は不敵な笑みを浮かべると、瑠衣の手を引いて先へと歩き出す。
「んじゃ、オレの仕事ぶりってやつを、嫁に見せつけてやらねえとな。有能すぎるオレにたっぷり惚れてくれ。あー、そう考えたら、めっちゃやる気出てきたぞー!」
能天気な白銀の背中を見詰めながら、瑠衣は彼の着物の裾を掴んでいた理由を、ずっと考え続けていたのだった。