そしてもう一人、わたしの先輩に最後の挨拶に向かった。

 雛田先輩は同級生に囲まれていた。
 先輩を妬んで陰口を叩いた人、万年筆を踏みつけた男子生徒、そして川添さんが順番に雛田先輩に何事か告げる。そして深く(こうべ)を垂れた。
 それに対して先輩がどう答えたのか分からない。けれどそのやりとりの後、声を上げて笑った。先輩の笑い声を、初めて聞いた。
 やがて人の波が引いた頃、わたしはその背中に呼びかけた。

「先輩!」

 先輩たちが振り返る。ネクタイとブレザーのボタンが全部ないのが可笑しかった。
 香西先輩が微笑んで、「先に行ってる」とその場を後にした。
 葉っぱが目立つ桃の木の下、雛田先輩と並んで立つ。

「これからどうするんですか?」

 受賞も映像化も白紙になった。先輩いわく、以前から予感があったそうだ。
 企画側から連絡が滞り、問い合わせても返信が来ず、……それで様子が変だったのか、と今更気づいた。

「フツーに大学に通いながら、演劇サークルに参加して、バアさんの知り合いの脚本家の先生に毎週作品を送ることになった。で、よかったら連絡するってよ」

 なかなか厳しい。けど先輩の横顔には隠しきれないワクワク感があった。

「武者修行ですね。それと、香西先輩のこと、よかったですね」
「あいつは俺に気を遣いすぎだ。『一人にした』なんて言ったけど、ガキじゃあるまいし。バカバカしい」

 先輩はそう憎まれ口を叩くけど、声のトーンに喜びが表れてます、と言ってやりたい。
 ふと思った。
 もしかしたら、あの『俺は独りでも問題ない』は香西先輩に心配かけないように選んだ言葉だったんじゃないだろうか。
 だってこの人が香西先輩に不信感なんて抱くわけない。こんなに嬉しそうなのに。

「そっちはどうなんだ。これから」
「……今週末に、また東京に行きます。死ぬほど扱かれてきます」
「そうか」

 ピー、チチチッ、と、どこかで燕のさえずり。
 空には飛行機雲がかかり、のどかだ。

「あと、来週からバイトを始めます。やっぱり上京は必須なので。資金稼ぎと、世間の荒波に揉まれてきます」
「そうか……」

 素っ気ないようで、実はきちんと聞いてくれている。
 最初は畏れた低い声も、今は眠気を誘うくらいに心地よい。

 けれど、全部、今日で最後だ。

「どこまで行けるか分かりません。十年後、自分はどこにいるかも分からない。だけど行けるところまで行って、出来るところまでやってみます」

 表情を引き締めて宣言すると、

「そういうのは、俺じゃなくて両親に言え」

 という返事が返ってきた。ああ、やっぱり雛田先輩は雛田先輩だ。 
 それが嬉しくて、わたしは笑顔で「そうですねっ」と返す。

 改めて先輩に向き直り、その意志の強さを映した瞳を、まっすぐ見上げた。

「ご卒業、おめでとうございます。たくさんお世話になりました!」

 声を張り上げ、頭を下げる。
 本当の本当に、この人と出会えてよかった。
 顔を上げろ、と先輩が短く命じる。言うとおりにすると先輩が右手を差し出す。

「こっちこそ、色々世話になった……」

 先輩が口ごもり、首を傾げた。
 えっ、まさか。

「先輩、もしかしてわたしの名前、知らないんですか……?」

 だいぶショックを受けると、ふいに、否、不意打ちで先輩が破顔した。

「冗談だ」

 先輩が笑って、軽く謝る。満面に広がった無邪気で幼げな笑顔に、わたしは怒ることも失念する。

(このひと、冗談とか言うの……?)

 戸惑っていると、先輩が改めて手を差し出した。

「ありがとう。――小山内羽鶴さん」

 先輩の笑顔を目にしたのも、
 先輩に名前を呼ばれたのも、
 これが初めてだったのだと、後で気づいた。

 握手した先輩の手は少し冷たくて、意外と柔らかくて、胸がいっぱいになった。

 一陣の疾風が吹いて、残り少なかった桃の花が、すべて散った。
 先生に下校するように言われ、場が解散する。別れの瞬間は儚いものだった。
 校門を出た雛田先輩の背中が、どんどん遠くなる。
 軸がしっかりした、ブレが一切ない歩き方。やっぱり憧れずにはいられない。

 ……わたしは先輩の連絡先を知らない。

 だからもう、会うことはできない。何かの縁がない限り。
 わたしが胸を張れるような声優……役者だったら、「いつか先輩の書いた脚本を、もう一度演じたい」と言えたかもしれない。
 けれど今のわたしでは、それを言う資格は無い。
 だから、再会の約束はできない。
 それが悔しくて、でも自業自得で、虚しくて、涙も出なかった。

 ふう、と吐息を落とす。
 今週末は二回目のレッスンがある。
 来月にはドキュメンタリードラマが配信されて、わたしは声優として大勢の前に立つ。

 成実もいない。就也もいない。寧音ちゃんや他の仲間はいても、
 わたしはたった独りで、この(げんじつ)に立ち向かわなければならない。
 油断するとすぐ崩れそうになる足元を、踏み固めるように力を入れた。

 飛び交う燕が、また目に入る。

 わたしは、今までいた世界に、思いを馳せた。
 そこはとてもあたたかい世界だった。
 外敵――あらゆる悪意や敵意から守られ、柔らかい毛布のように包まれ、まどろむように生きてきた。
 わたしは燕のヒナと同じ、〈たまご〉の中にいたのだ。
 あのひび割れたような音は、孵化の音だったのだ。
 外の世界に出る時期が来て、少しずつ殻が割れ、最後は自分のくちばしで突っつき、自ら壊した。

〈たまご〉は跡形もなく壊れ、
 わたしは今、独りとなった。

 卒業式公演で口にした、雛田先輩が書いた台詞を、
 鳥が飛び立つにふさわしい、どこまでも広がる青空に思い描いた。

『最後に心よりの礼を。愛してくれたすべてのものに残そう。そしてそれは――決別の言葉となる』

 ありがとう。そして、さようなら。
 わたしの、たまごだったセカイ。


【了】